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【第一部:三途の川の狂想曲】(冥界編:宿命の邂逅) --- 第5章:三千年の約束、輪回の闇へ

視界のすべてが、白銀の閃光に塗り潰されていく。 陸之道の放った断罪の雷鳴——『九天応元雷霆』が、私の細い肩を貫き、胸の奥底で爆発した。それは単なる物理的な破壊ではない。私の存在の根源であり、数万年という悠久の時をかけて練り上げられた神の位階そのものを、強引に、そして無慈悲に引き剥がすための、魂の解体作業であった。


「……あ、……ぁぁあああああッ!」


声にならない叫びが、私の喉を灼く。 指先から少しずつ、私の存在が光の粒子となって溶けていくのがわかる。三千年前、私が「旋律の女神」として高天原の雲の上で舞っていた頃の記憶、神々の称賛、そして理の番人として冷徹にスープをかき混ぜていた日々。それらすべての「私」が、剥がれ落ちる鱗のように剥落し、虚空へと消えていく。


「孟紅薬! 貴様、そこまでしてその亡者を助けたいか! 自らの永遠を捨て、ただの泥にまみれた凡夫に成り下がってまで、一体何を得ようというのだ! 愚か者が、神の座を汚すとはこのことだ!」


瓦礫の山を砕きながら、陸之道が這い上がってくる。 彼の純白だった狩衣は、大鍋から溢れ出した無数の記憶の奔流によって無残に引き裂かれ、その端正だった顔は、計画を挫かれた屈辱と、私への病的な執着によって、もはや鬼のような形相へと歪んでいた。彼の背負う円光は黒く染まり、その歪んだ殺意は冥界の冷気をさらに凍りつかせる。


「永遠……? そんなもの、私にとってはただの、果てしのない退屈でしかなかったわよ、陸之道」


私は口の端から黄金色の血を流しながら、地面に膝をつき、力なく笑った。 背後では、朔夜を飲み込んだ輪廻の渦が、激しく咆哮を上げている。彼を送り出すために作った光の道は、私の生命力の減退とともに、今にも消え入りそうに細くなっていた。私の魂の破片が、その道にまきとして投じられ、かろうじて彼を守る防壁となっているのだ。


「私はね、あんたたちが軽蔑するあの『人間』たちが流す、不器用で、泥臭くて、でも熱い涙の方が、ずっと綺麗だと思っていたの。三千年もスープをかき混ぜていれば、嫌でも気づくわ。あんたたちの住む高天原は、美しすぎて、味もしない。……だから、私もそっちへ行くことにしただけよ。あんたのような冷たい神様には、一生理解できないでしょうけどね」


「貴様ぁ……! ならば望み通りにしてやる! 輪廻の果て、お前がその男に再会する頃には、お前の魂は呪いで真っ黒に染まっているだろう。再会こそが絶望の始まりとなるのだ!」


陸之道が残された法力を振り絞り、最期の呪呪を唱え始めた。 彼の指先から放たれたのは、漆黒の蛇のような呪いの鎖。それは輪廻の渦へと飛び込もうとする私の背中を狙い、大蛇のように鎌首をもたげた。それは因果を歪め、未来を絶望に塗り替える『天罰の枷』。


「この呪いを受けろ! お前たちが再び相まみえるとき、一方は愛を忘れ、一方は他方を殺める運命となる! 二人が重なるたびに、血と涙が流れる、永遠に救いのない螺旋を彷徨い続けるがいい! その男の剣が、お前の胸を貫くとき、私はお前の絶叫を聞きに来よう!」


呪いの鎖が、私の背中に深く食い込み、霊核を直接縛り上げる。 灼熱の痛みが魂を焼き、私の意識に「絶望」の刻印を押し付けていく。 だが、私はそれさえも、心地よい重みとして受け入れた。


「……殺し合う、運命? いいじゃない。上等よ」


私は意識が遠のく中、無理やり体を反転させ、陸之道を見据えた。 「彼に殺されるなら、それはそれで本望よ。……でもね、その前に一回くらいは、私の作った最高に不味いスープを、無理やり飲ませてやるんだから。……覚悟しておきなさいよ、運命なんていう退屈な神様。私の毒舌は、呪いよりもずっと執念深いのよ!」


私は、崩壊していく三途の川の畔を力強く蹴り、真っ逆さまに輪廻の闇へと身を投げ出した。


重力という概念が消え、空間と時間の境界が曖昧になる。 落下していく感覚の中で、私の魂は激しい因果の摩擦にさらされ、神格の欠片が一つ、また一つと剥がれ落ちていく。それは、自分という存在を構成するパーツを、自分自身で一つずつ捨てていくような、究極の「忘却」の過程だった。


(ああ、三千年前……。あなたは言ったわね。どんな姿になっても、私を見つけると。……私は、そんなあなたの言葉を、心のどこかでずっと信じていた。だからこそ、この三千年の孤独に耐えられたのね)


暗闇の中に、過去の残像がフラッシュバックする。 かつて共に奏でた旋律、風に揺れる黄金の稲穂、そして戦場へと向かうあなたの背中。 それらの記憶が、呪いの黒い霧に侵食され、少しずつ色褪せていく。私は必死に、その記憶の断片を抱きしめた。


「(……紅薬……! 紅薬、どこだ!)」


その時、虚無の底から、私の名を呼ぶ声が聞こえた。 幻聴ではない。 先に輪廻の渦へと飛び込んだ、朔夜の声だ。 彼の魂もまた、転生の荒波に揉まれ、その輪郭を失いかけていた。黄金色の闘気は消えかけ、彼はただの剥き出しの「意志」となって、この混沌とした虚無の中を彷徨っている。


私は必死に、感覚の消えかかっている光の手を伸ばした。 「(朔夜!……ここに……いるわ! 私の手を……放さないで!)」


暗闇の中で、二つの光の粒子が、一瞬だけ触れ合った。 それは、数千年の孤独を埋めるにはあまりにも短く、だが永遠に刻み込むには十分すぎるほどの、魂を焼き尽くす熱。


「(忘れるな……俺は、必ず……お前を、見つける……。たとえ俺の心が、この記憶を失っても、俺の魂がお前を求めて叫び続けるだろう。必ずだ……!)」


彼の意志が、私の魂に直接流れ込んでくる。その瞬間、陸之道の呪いが激しく脈動し、私たちの魂を強引に引き剥がそうとする。 「(……ええ、分かってるわよ。……だから、あんまり遅れないで。……次に出会う場所では、もう……スープなんて……作らないんだから。……一番高い酒を、奢らせてあげるわ……)」


二人の魂は、そこで完全に分断された。 神の定めた絶対的な法則、陸之道の病的な呪い、そして三千年の因果。 あらゆる巨大な力によって私たちは引き裂かれ、それぞれ異なる「人間」としての器へと、激流に流されるように放り込まれていく。


私の意識は、そこで漆黒の深淵へと沈んでいった。


……。 ……。


どれほどの時間が経ったのだろうか。 永遠のようでもあり、一瞬のようでもあった。 私の存在は、一度バラバラに解体され、そして「人間」という不完全で脆い型の中で、再構築されていく。


冷たい水の底に沈んでいるような感覚から、私の意識はゆっくりと、泥の中から這い上がるように浮上していった。 耳に届いたのは、冥界の不気味な川音ではなく、風に揺れる木の葉のざわめきと、小鳥のさえずり。 鼻を突いたのは、亡者の汗臭さや腐敗の匂いではなく、清涼な水の匂いと、春の訪れを告げる花の香りだった。


「……う、……あ……」


私は重い瞼を、震える力で押し上げた。 視界に飛び込んできたのは、燃えるような紅い夕陽に染まった空と、風に舞い、狂ったように降り注ぐ薄紅色の花びら——桜だった。


私は、自分の手を見た。 かつての透き通るような神の肌ではなく、温かく、血の通った、柔らかな人間の肌。 だが、その左手首には、陸之道の呪いの名残か、あるいは彼への執念が形を成したものか、一輪の彼岸花を思わせる禍々しくも美しい、紅い痣が刻まれていた。


私はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。 そこは、三途の川でも、高天原でもない。 喧騒と、活気と、欲望と、そして少しの切ない寂寥が入り混じる、人間たちの都の入り口。


「……ここが、……下界。……最悪ね、……本当に空気が……美味しすぎて、吐き気がするわ……」


私は立ち上がり、汚れた服を払った。 神の力は失われ、手元に残されたのは、冥界から無意識に握りしめてきた、古びた一本の銀の杓子だけ。 だが、私の心には、三千年の退屈の中で一度も感じたことのない、烈火のような「目的」が、消えることのない業火として燃え盛っていた。


私は、桜の舞い散る街道の先を見据え、不敵な笑みを浮かべた。 「さあ、始めましょうか。……三千年待たせた男に、世界で一番甘くて、世界で一番毒のある『お返し』をしてあげるための、最高の舞台作りをね」


こうして、冥府の番人・孟紅薬は、歴史の闇へと消えた。 そして、二十年の月日が流れ——。 都の片隅、運命が交差する「龍の門」と呼ばれる場所に、その店は建つことになる。 不味いスープの代わりに、極上の酒と、そして毒舌を振るう一人の女主人の物語が、今、ここから始まるのだ。

第一部【冥界編】完

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