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【第一部:三途の川の狂想曲】(冥界編:宿命の邂逅) --- 第4章:高天原の断罪と女神の叛逆

三途の川の畔に、かつてないほどの不穏な光が満ちていた。それは、死者の魂を静かに導く慈悲の光ではない。異分子を、不浄を、そして神々の理に背く者を根絶やしにするための、無機質で凍てつくような「断罪」の輝きだった。


上空に浮かぶ高天原の神官団は、漆黒の夜空に穿たれた白銀の瞳のように、冷徹に地上――いや、この奈落の底を見下ろしている。その中心に立つ陸之道りく・しどうの顔には、もはやかつての同僚としての情愛など微塵も存在しなかった。あるのは、自分の支配下から逃れようとする獲物に対する、歪んだ独占欲と、底冷えするような憎悪だけだ。


「孟紅薬。これが最後通牒だ。その罪深き亡者と、三万の戦魂を今すぐ忘却の奈落へと突き落とせ。さもなくば、貴様も同罪として、神格を永久に剥奪し、存在そのものを虚無へと処す」


陸之道の声が、冥界の岩壁に反響し、行き場を失った亡者たちの悲鳴を暴力的にかき消していく。その声に含まれるのは、絶対的な正義という名の暴力。私は、足元で今なお黄金の闘気を細く放ち続ける朔夜の背中を見つめた。彼の鎧はもはやボロボロになり、その隙間から漏れ出す魂の光は、天界の圧力によって少しずつ、だが確実に削り取られている。私の差し出した『忘却の雫』を飲み干してなお、彼は自らの意志で立ち続けていた。それは、神々が定めた「忘却」という名の救済に対する、これ以上ない激烈な反逆であった。


「ふん……。相変わらず、高いところから指図するのが好きなのね、陸之道。その純白の狩衣を汚さないように必死な姿、滑稽ですらあるわ」


私は、三千年間片時も離さなかった銀の杓子を、わざとらしく大鍋のふちに叩きつけた。カラン、という硬質な乾いた音が、緊迫した空気の中に鋭く響き渡る。その音は、私の中で鳴り響く「終わりの合図」のようでもあった。


「最後通牒? 笑わせないで。この三千年間、私はこのドブ川のような場所で、あんたたちの代わりに汚れ仕事を一手に引き受けてきたのよ。未練を断ち切り、魂を記号に変える。そんな無味乾燥な作業を強いておいて、今さら『正義』の面を被って降りてくるなんて、反吐が出るわ」


「貴様……! 追放者の分際で、あくまで反逆を貫くつもりか!」


「反逆? 違うわ。私はただ、あんたのその整いすぎた不愉快な顔が、三千年前から気に入らなかっただけよ。それから――この男の不器用な執念が、あんたの用意した退屈な秩序よりも、ずっとスープの出汁だしになりそうだと思っただけ」


私は冷笑を浮かべ、一歩前へ踏み出した。私の背後では、三万の戦魂たちが重厚な盾を鳴らし、主君である朔夜を守るために円陣を組んでいる。彼らもまた、天界の威圧に屈することなく、その虚ろな瞳の奥底に、消えることのない決意の炎を宿していた。その視線は、もはや死者のものではなく、神に牙を剥く「生きた意志」そのものだった。


「神官団、陣を組め! 天罰の法陣、起動せよ!」


陸之道の号令とともに、上空の巨大な幾何学模様の魔法陣が急速に回転を始めた。 そこから放たれたのは、熱も質量も持たない、純粋なエネルギーとしての「光の杭」だ。それは物理的な盾を容易く透過し、魂の根源、霊核そのものに直接突き刺さる。一本、また一本と、戦魂たちの列に光の杭が降り注ぎ、彼らの霊体が青白い煙のように掻き消えていく。


「やめろ……ッ! 狙うなら、俺一人にしろ!」


朔夜が叫び、折れた剣を天にかざした。だが、体力を使い果たし、さらに忘却の雫を無理やり神魂で燃焼させた彼の体からは、もはや神官団を押し戻すほどの力は残っていない。彼の黄金色の輝きが、天からの白銀の光に飲み込まれていく。


それを見た私の胸の奥で、何かがぷつりと音を立てて切れた。 それは三千年の間、私をこの忌まわしい橋の上に繋ぎ止めていた「諦め」という名の鎖だった。あるいは、高天原という偽りの故郷への、最後の未練だったのかもしれない。


「……ねえ、陸之道。あんた、さっき『神格を剥奪する』って言ったわよね?」


私の声が、戦場の喧騒を沈黙させるほどの静かな、それでいて絶対的な怒りを帯びて響いた。 私の周りの空気が、不気味な翡翠色から、鮮烈で攻撃的な「紅」へと染まっていく。それは地獄を埋め尽くす彼岸花の色であり、私がかつて女神として歌っていた頃の、激情を宿した魂の色でもあった。


「剥奪されるのを待つなんて、私の趣味じゃないわ。……そんなもの、こっちから捨ててやる。あんたに返してあげるわよ、このクソ忌々しい肩書きなんて!」


私は、三千年の間、一度も絶やすことなくかき混ぜ続けてきた「忘却の大鍋」を、冷徹に見据えた。 この鍋の中には、無数の魂が捨て去った記憶が溶け込んでいる。悲しみ、喜び、絶望、そして最期の愛。それらすべてを「無」に変えるための、冥界の心臓とも呼べる装置。


「壊れなさい、こんな忌まわしい因果と一緒に!」


私は、渾身の力を込めて、青銅の大鍋の側面を蹴り飛ばした。 神としての、そして一人の女としてのすべての法力を一点に集中させたその一撃は、冥界の絶対的な理を象徴する大鍋を、内側から爆発させるように粉砕した。


ガァァァァァァン……!


金属が引き裂かれる凄まじい轟音が響き渡り、大鍋は真っ二つに割れた。 中から溢れ出したのは、翡翠色の奔流。だが、それはもはや『忘却の雫』としての機能を失っていた。大鍋という「型」を失い、私の破壊的な法力によって解放された「数万年分の濃縮された記憶の奔流」が、荒れ狂う津波となって、神官団に向かって逆流し始めたのだ。


「何だと!? 忘却の理を自ら破壊したというのか! 狂ったか、紅薬! それが何を意味するか、分かっているのか!」


陸之道の驚愕の声。 しかし、現象は止まらない。溢れ出した記憶の光が、三途の川の冷気と混ざり合い、冥界全体を包み込む巨大な情報の嵐、精神の竜巻となった。 亡者たちの失われたはずの「想い」が、物理的な圧力となって、天界の光の陣を次々と打ち砕いていく。神官たちが守る「秩序」という名の防壁が、亡者たちの「生への未練」という名の濁流に飲み込まれていく。


「朔夜! 何を呆けているの! さっさとその重たい腰を上げなさい!」


私は呆然と立ち尽くす朔夜の腕を掴み、無理やり自分の方へと引き寄せた。 彼の黄金色の瞳が、信じられないものを見るかのように、私を、そして崩壊する冥界を映している。


「紅薬……お前、これは……。もう、後戻りはできんぞ。神界にも、冥界にも、お前の居場所はなくなる」


「後戻り? ふん、誰がそんな退屈な場所に戻るって言った? 私はね、あんたのその暑苦しい執念に免じて、少しだけ『賭け』に乗ってあげることにしたのよ。三千年もこの橋の番人をやってきたんだもの、辞職の挨拶としては、これくらいド派手な方がお似合いでしょ?」


私は、自らの背後に展開されていた「天界との霊的接続」を、精神の力で完全に断ち切った。 私の額にあった女神の紋章が、ガラスが粉々に砕けるような音を立てて消滅していく。神としての地位、永遠を保障された生命力、高天原への帰還という唯一の希望。そのすべてを、私は今、この汚れた三途の川の底へ、ゴミのように投げ捨てた。


「孟紅薬……! 貴様だけは許さぬ! その魂、塵一つ残さず、永劫の闇に消滅させてくれる!」


陸之道が激昂し、自ら白銀の法仗を手に取って、流星のごとき速さで降りてくる。 彼の周りには、天界の禁忌とされる破壊の雷鳴が渦巻き、周囲の岩壁を粉砕していた。


「行かせなさい、彼を! あなたが相手にするのは、私よ!」


私は、砕け散った大鍋の巨大な破片を空中に浮かせ、陸之道の行く手を阻む巨大な防壁を作り上げた。 その防壁は、私の魂そのものを燃料として燃やし、作り出したものだ。一秒ごとに、私の視界が白く霞み、存在の輪郭が薄れていくのがわかる。魂が裂け、肉体の感覚が千切れていくような感覚。だが、不思議と心は凪いでいた。


「紅薬! お前も一緒に来るんだ! まだ、諦めるな!」


朔夜が、消えゆく私の手を強く握りしめた。その掌の熱さが、魂の末端まで伝わり、消えかかっている私の存在に、最後の一瞬だけの輪郭を与えてくれた。


「馬鹿ね。二人が同時に逃げたら、この変態神官を誰が食い止めるのよ。……いいから行きなさい。お前にはまだ、やり残したことがあるんでしょ? 三千年前の、あの馬鹿げた『約束』とかいうやつを果たす義務が」


私は精一杯の虚勢を張り、最高の毒舌を込めて笑ってみせた。そして、彼を背後の、激しく渦巻く輪廻の裂け目へと突き飛ばした。 彼の姿が、白銀の光の中に吸い込まれていく。最期に見えたのは、彼が泣きそうな顔で、必死に私の名を叫ぶ唇の動きだった。


「……待ってなさい。すぐに追いついて、その情けない泣きっ面を、たらふく笑ってあげるから」


私は独り言のように呟き、目の前に迫る陸之道の、殺意に満ちた絶望的な一撃を、正面から受け止めた。


まばゆい白銀の閃光。 私の神格が完全に剥離し、魂が千々に引き裂かれる音が、冥界の果てまで響き渡った。 だが、その絶叫をあげるほどの痛みさえも、三千年の退屈な静寂に比べれば、驚くほど鮮やかで、愛おしい熱として感じられた。


私は、地獄の底で初めて、心からの自由を抱きしめながら、深い深い、輪廻の闇へと墜ちていった。

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