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【第一部:三途の川の狂想曲】(冥界編:宿命の邂逅) --- 第3章:忘却の雫、拒絶の味

冥府の空気は、常に停滞している。それは重く、湿り気を帯び、死者の溜息を吸い込んで飽和した粘膜のような沈黙だ。しかし、この瞬間の三途の川は、数万年もの静寂をかなぐり捨て、まるで熱湯のように激しく沸騰していた。


大鍋の中でボコボコと不気味な音を立てる翡翠色の液体——『忘却の雫』。 それは、数えきれないほどの亡者たちが最期に流した未練の涙、愛する者の名を呼ぶ掠れた声、そして捨て去りたかったはずの汚辱に満ちた記憶を煮詰めた、地獄で最も甘美で、最も残酷な劇薬である。私はその大鍋のふちに立ち、手に持った銀の杓子で、沸き立つ水面に映る自分の顔を見つめていた。かつて高天原で「旋律の女神」と呼ばれていた頃の面影は、今や冷徹な冥府の番人としての仮面に塗り潰されている。


「さあ、飲み干しなさい。そうすれば、その体を引き裂く千の矢の痛みも、三千年の呪いも、すべては泡となって消えるわ。お前の魂は軽くなり、ただの『記号』として輪廻の環へと吸い込まれていく。それが唯一、地獄が与えてくれる救済なのよ」


私は震える手で、最後の一杯を朔夜に差し出した。 私の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして剥き出しの悲しみを含んで響いた。これを彼が飲めば、私の仕事は終わる。三千年の監視という名の罰も、彼を待ち続けるという名のない苦痛も、すべてが解決するはずだった。


朔夜は、血に濡れた手でその青銅の椀を受け取った。彼の指先が私の肌に触れた瞬間、氷のように凍りついていた私の心臓に、焼けるような、あるいは雷に打たれたような熱が走った。それは、生者が持つ体温とは違う、魂そのものが燃焼している者の熱量だった。


「……紅薬。お前は本当に、俺がこれを飲むと信じているのか?」


「信じるとか信じないとか、そんな青臭い次元の話をしているんじゃないわよ。これは理なの。死者は忘れ、生者は進む。それがこの世界の歯車。お前一人がどれだけ踏ん張ったところで、運命の重力からは逃げられない」


私は精一杯の毒を吐いた。そうしなければ、目の前でボロボロになりながら立っているこの男を、抱きしめてしまいそうだったからだ。


「拒絶の味を、教えてやろう」


朔夜は不敵に、そしてあまりにも優しく私に微笑むと、一気にその液体を喉へと流し込んだ。


その瞬間だった。 冥界の空が、あり得ないほどの黄金色の閃光に塗り潰された。 通常、このスープを飲めば亡者の瞳は即座に濁り、自我は砂の城が崩れるように霧散する。しかし、朔夜の瞳は、スープを飲み干したことで、むしろより一層鋭く、より一層深い、命の輝きを宿し始めたのだ。


「馬鹿な……!? 魂が、スープを拒絶しているというの?」


私は息を呑み、思わず一歩後退した。 彼の内側で、三万の戦魂たちの意志が、スクラムを組むようにして『忘却』の浸食を食い止めているのが見えた。彼が受けたのは、単なる一杯の薬ではない。それは、三千年の間、冷たい大地の底で暖め続けてきた執念と、彼に命を預けて果てた部下たちの、血の滲むような忠義が結晶化した「拒絶」そのものだった。


スープは彼の胃に届く前に、魂の熱量によって蒸発し、彼の傷口から黄金の霧となって噴き出していく。


「紅薬……。お前のスープは、確かに美味だ。亡者たちが縋るのも無理はない。だが……俺が背負ったこの痛みは、この背中に刺さった数千の同胞たちの無念は、スープ一杯で消せるほど、安っぽいものではないッ!」


朔夜の咆哮とともに、彼の背中から巨大な翼のような闘気が噴き出した。 その衝撃波は、私が三千年間磨き続け、一度の傷もつかなかった青銅の大鍋を、紙細工のように真っ二つに叩き割った。翡翠色の液体が地面に溢れ出し、そこから数万人の亡者の記憶が「声」となって立ち昇る。愛の誓い、断末魔の叫び、子を呼ぶ親の嘆き……それらの思念が、冥界の霧をさらに濃く、狂おしく変えていく。


「そこまでだ、不浄の者め! 秩序を乱す反逆者には、永遠の沈黙を!」


上空から、陸之道の冷徹極まりない声が降り注いだ。 彼は漆黒の空間に静止し、無数の光の剣を朔夜へと向けていた。陸之道の背後には、天界の威光を背負った神官たちが整列し、一斉に呪文を唱え始める。その旋律は、かつて私が愛した「天上の音楽」などではなく、異分子を排除するためだけの、冷酷な演算の響きだった。


「孟紅薬、貴様もだ! スープを飲ませてもなお自我を保つなど、天界の法に対する明らかな侮辱。その亡者もろとも、虚無の果てへ消し去ってくれる!」


陸之道の指先から、魂を分子レベルで分解する禁忌の光——『九天応元雷霆』が放たれた。それは、存在した事実さえも歴史から抹消する、絶対的な断罪。その光が三途の川を照らし出したとき、水中に潜む怨霊たちが一斉に悲鳴を上げ、蒸発していった。


(……やらせない。この男を、二度とあんな奴らの勝手にはさせない!)


私の脳裏に、三千年前の光景が走馬灯のように駆け巡った。 黄金色に輝く高天原の宮殿。そこで私は舞を舞い、彼は私の奏でる琵琶の音に合わせて剣を振るった。陸之道の嫉妬に満ちた視線に気づいていながら、私たちは互いの愛がすべてを凌駕すると信じていた。その傲慢さが、彼を「永遠に死に続ける戦鬼」に変え、私を「記憶を奪う毒婦」に変えたのだ。


もう、後悔はしない。 私は、足元に落ちていた銀の杓子を力強く踏みつけ、自らの胸に右手を突き立てた。 私の中に眠る、かつての神格——『旋律の女神』の核。それは、白銀の光を放つ小さな心臓のような結晶だ。それを今、私は自らの意志で、握りつぶした。


「パリン」という、世界で最も美しく、そして残酷な音が、私の魂の奥底で響き渡った。


「紅薬!? 何をするつもりだ! 止めるんだ!」


朔夜が叫ぶ。だが、その声はすでに遠い。 私は彼に背を向け、上空から迫る陸之道の雷霆に向かって、両手を広げた。 神格を砕く。それは、神としての永遠の命を自ら返上し、一人の「女」として、あるいはただの「名もなき亡者」として、消滅を受け入れるということ。それは神にとって、死よりも重い選択だ。


私の体から、純白の旋律が溢れ出した。 それは歌であり、祈りであり、そして世界を構築する「理」への、たった一人の反逆だった。


「陸之道! あなたが守りたいのは『秩序』じゃない。ただの『自分のプライド』でしょ! そんな古臭い天界のルールなんて、私がこの歌で書き換えてあげるわ! 私の歌が響く場所、そこが新しい世界の中心よ!」


私の旋律は、陸之道の放った雷霆と空中で衝突し、凄まじい光の渦を形成した。 冥界の空が、まるでガラスのようにひび割れ、三途の川が重力を無視して逆流する。 私の神魂は、一秒ごとに、火花を散らしながら削り取られていく。指先が、足先が、粒子となって消えていく。激痛。全身を万力で締め付けられ、同時に沸騰した油を流し込まれるような痛み。だが、心は不思議なほどに凪いでいた。三千年間、死者の記憶を奪い続けてきたこの忌まわしい手が、初めて「誰かを守るために」輝いている。


「朔夜! 今よ! 輪廻の門へ跳びなさい! 振り返らずに、ただ前だけを見て!」


「……行かせん! 貴様ら二人とも、この手で八裂きにしてくれる! 輪廻などさせぬ、塵一つ残さず消滅させてやる!」


陸之道が狂気に染まった顔で、さらに出力を上げる。彼の背負う輪光が黒く染まり、冥界全体のエネルギーを吸い上げて、さらに巨大な光柱へと成長していく。


だが、私の旋律は止まらない。 私は、振り返らずに、最後の一滴の力を込めて叫んだ。


「勘違いしないで! 私はただ、お前がいつまでもここに居座っているのが邪魔なだけよ! さっさと人間界へ行って、泥にまみれて、汗をかいて、死ぬほど苦労してきなさい! 美味しいものを食べて、時々私のことを思い出して……。そうすれば、私のスープのありがたみが、死ぬほど身に染みるでしょうからね!」


私は笑った。頬を伝うのは、三千年ぶりに流す「本物の涙」だった。 その涙が、砕け散った神格の欠片と混ざり合い、輪廻の門へと続く、まばゆい「白銀の道」を作り出した。それは、いかなる神罰も通さない、絶対的な聖域の道。


朔夜は一瞬、ためらった。 だが、彼は私の決意を、その瞳に宿る、言葉を超えた覚悟を読み取った。 彼は一歩前へ踏み出し、消えかかっている私の肩を、引きちぎれんばかりの力で抱きしめた。


「……約束だ。紅薬。たとえ俺が俺を忘れても、魂に刻まれたこの『拒絶の味』だけは、俺をお前の元へと導くだろう。……待っていろ、必ず、お前を連れ出しに来る」


彼は私の耳元でそう囁くと、三万の戦魂を引き連れ、光の渦へと飛び込んだ。 黄金の彗星が、冥界の紫の空を切り裂き、彼方へと消えていく。その光景は、地獄で見た中で、最も美しいものだった。


その直後、私の意識を、天地を覆い尽くすほどの巨大な衝撃が襲った。 朔夜を逃がしたことで防護を失った私の体を、陸之道の全力の攻撃が貫いたのだ。


「逃がしたか……。だが、紅薬、お前もタダでは済まさん。呪いを受けろ! お前たちが再会する地は、愛を育む場所ではなく、互いの刃を交える修羅の場となるだろう! 彼がお前を憎み、お前が彼を殺す……そんな因果の鎖に縛られ、永遠に絶望するがいい!」


呪いの黒い霧が、毒蛇のように私の全身を這い回り、魂の奥深くまで侵食していく。 だが、私は遠ざかる意識の中で、ただ静かに微笑んだ。


(呪い? 望むところよ……。その刃が私を貫く時、彼の耳元で、世界で一番毒のある言葉を囁いてあげるわ。……『おかえりなさい、馬鹿な人』ってね)


私の体は瓦礫とともに、崩壊する輪廻の隙間へと墜ちていった。 三途の川の畔には、冷え切った大鍋の破片と、一本の銀の杓子だけが、誰にも気づかれずに残された。


こうして、地獄の番人は消えた。 三千年の任務を放棄し、一人の亡者へと成り下がった女神。 しかし、その表情は、天界のどの神よりも清々しく、輝いていた。


そして、数十年後。 桜が狂ったように舞い散る人間界の片隅で、新しい物語の幕が上がる。 それは、記憶を抱え続ける毒舌な店主が営む、一軒の奇妙な客栈——『龍門客栈』から始まる、血と愛の狂詩曲である。

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