【第一部:三途の川の狂想曲】(冥界編:宿命の邂逅) --- 第2章:千箭を背負う戦神・朔夜
「馬鹿な……。忘却の雫を飲み干して、なぜ自我を保っていられるのだ!」
静寂を切り裂いたのは、橋の袂で立ち尽くす鬼卒の、悲鳴にも似た叫びだった。 目の前の男――朔夜は、空になった翡翠の椀を無造作に放り捨てた。椀は乾いた音を立てて岩に当たり、砕け散る。その破片が飛び散る様は、まるで冥界の理が崩壊していく予兆のようでもあった。
彼の瞳は、記憶を失った亡者特有の虚無に染まるどころか、むしろ地獄の深淵を焼き尽くすほどの烈火を宿していた。
「……言ったはずだ。俺は、忘れないと」
朔夜の体から、黄金色の蒸気が立ち昇る。それは彼に突き刺さった千の矢が、彼の魂を内側から削り取っている証左だった。一歩歩くたびに、彼の足跡には黄金の血が滴り、そこから新しい彼岸花が狂ったように芽吹いては、あまりの熱量に一瞬で黒く焼け焦げていく。死と再生が、彼の歩みと共に高速で繰り返されていた。
私は、自分の指先が微かに震えているのを、袖の中に隠した。 「……大した強情さね。私のスープをタダ飲みして、よくもまあそんな減らず口が叩けるものだわ」
毒を吐きながらも、私の視線は彼の背後に控える三万の戦魂へと向かった。 その軍勢の中に、一人の老兵の霊がいた。片腕を失い、腹部に致命的な創傷を負ったその老兵は、震える手で折れた槍を握りしめている。彼は朔夜の背中を見つめ、掠れた声で呟いた。
「ああ……あのお方は、あの時と同じだ。数千の敵に囲まれ、我らを見捨てて逃げろと叫んだあの日と。……将軍、貴方が地獄へ行くならば、我らもまた、この魂が尽きるまでお供しましょう」
その一言が導火線となった。三万の戦魂が一斉に、折れた剣を抜き、盾を叩いた。 ドォォン、ドォォン。 その音は冥界の理を揺るがし、三途の川の対岸にある「審判の門」の重い鎖を震わせた。それはもはや死者の行進ではなく、神々に牙を剥く反逆の軍勢の咆哮だった。
「そこまでだ、不浄なる亡者共!」
その時、紫の雲を割り、冷徹な光の柱が降り注いだ。 現れたのは、高天原から派遣された「冥府監視官」——神官団である。彼らは汚れ一つない純白の狩衣を纏い、背中には光り輝く円輪を背負っている。手にしているのは、魂を裁くための法器「天の鎖」だ。
「孟紅薬! 貴様、何を遊んでいる。その亡者は明らかに天の法を乱す異端だ。さっさと忘却の奈落へ突き落とさぬか!」
神官たちの先頭に立つ男——陸之道が私を睨みつけた。 彼はかつて、高天原で私の隣に座っていた男だ。私が「旋律の女神」として称えられていた頃、彼はその影で、私の光を誰よりも激しく憎み、そして歪んだ執着を抱いていた。私が追放されるよう仕向けた黒幕の一人が、今、目の前で正義の面を被っている。
「あら、陸之道。相変わらずお綺麗な服を着て、こんな死臭のする場所まで何のご用? あなたのその自慢の鼻が、亡者の汗臭さで曲がってしまわないか心配だわ」
私はわざとらしく銀の杓子で口元を隠し、鼻で笑った。
「口を慎め、追放者め! 貴様がスープを飲ませ損ねたせいで、輪廻のバランスが崩れようとしているのだ。この戦神とやらは、生前にあまりにも多くの命を奪いすぎた。本来ならば千年の地獄行きが定められているものを、なぜ橋の上で足止めさせている! それとも何か……貴様、この男に古き情愛でも抱いたか?」
陸之道の手が怒りに震え、法仗から不気味な光が漏れる。
「情愛? 冗談。私はただ、この男が私のスープにどんな『味付け』をしてくれるか見届けていただけよ。あなたの話はいつも退屈で、スープの出汁にもならないわね」
私は椅子から立ち上がり、朔夜の前に立ちはだかった。 背中で、彼の荒い呼吸が伝わってくる。血と硝煙、そして魂が焦げる匂い。その匂いは、不思議と三千年前の記憶を呼び覚ます鍵となっていた。
「問答無用! 記憶を捨てぬ魂は、存在そのものを消し去るのみ。神官団、陣を組め! 三万の戦魂ごと、虚無へ還せ!」
神官たちが一斉に呪文を唱え始める。 上空に巨大な光の魔法陣が展開され、そこから無数の「光の矢」が降り注ごうとしていた。それは朔夜を貫いている泥臭い矢とは違う、魂の根源を消去し、存在した事実さえも抹消する無機質な断罪の光だ。
冥界の役人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、三途の川の畔は一瞬にして神と死者の戦場と化した。
「……どけ、紅薬。これは俺の戦いだ」
朔夜が、私の肩を押し除けるようにして前へ出た。 彼の巨大な手が、私の肌に触れる。その一瞬、脳裏に再び強烈なフラッシュバックが起きた。 鳴り響く軍喇叭。燃え落ちる神殿。そして、私を抱きしめながら「行け、君だけは生き延びろ!」と叫ぶ、黄金の鎧を纏った男。その横顔には、今の朔夜と同じ、悲しいほどに強い決意が宿っていた。
「朔夜、あなた……まさか……」
「三千年前、俺はお前を守れなかった。だが、今は違う。たとえこの魂が炭になろうとも、お前を二度と地獄の番人などにはさせぬ」
朔夜が叫び、天に向かって拳を突き上げた。 「全軍、突撃ッ! 天の虚偽を砕け!」
その号令とともに、三万の亡霊たちが咆哮を上げた。 死者には出せないはずの声が、地鳴りとなって冥界を震撼させる。 神官たちが放つ光の矢と、戦魂たちが放つ怨念の黒い霧が空中であらゆる色彩をかき消しながら衝突した。空間が悲鳴を上げ、三途の川の水面が衝撃で真っ二つに割れる。
「馬鹿な……死者の分際で、天の兵に抗うというのか! 孟紅薬、貴様もだ! なぜその男を庇う!」
陸之道の叫びは、もはや法の執行者のそれではなく、ただの嫉妬に狂った男の絶叫だった。
私はその中心で、確信していた。 毒を吐き、冷徹を装い、三千年間心を殺してきた私。その氷の仮面に、今、修復不能な亀裂が入ったことを。
三千年前、私が音楽の女神として高天原で舞っていた頃、陸之道は常に影から私を見ていた。私がこの男――かつて天界の将軍であった彼と愛し合っていることを知り、彼は権謀術数を用いて私たちを堕とした。私は記憶を奪う孟婆として、彼は記憶を守ろうとして死に続ける戦士として。
(この男を、ここで終わらせてはいけない。たとえ私がどうなろうとも)
理性が「止めろ」と叫ぶ。神としての義務が「服従しろ」と命じる。 しかし、私の魂はそれ以上に強く、彼と共に運命に逆らうことを選んでいた。
「……陸之道、あなたのその歪んだ顔、最高にスープの味を落とすわ」
私は銀の杓子を地面に投げ捨てた。 私の指先から、黒い冥界の霧ではなく、純白の神光が漏れ出した。 それは、孟婆として封印されていたはずの、かつての私の神格——「旋律の女神」の真の力。
「あああああ——っ!」
私は天に向かって歌を放った。 それは言葉を持たない旋律。だが、その響きは冥界の澱んだ空気を一瞬で浄化し、毒々しい赤い彼岸花を、透明な琉璃色の花へと変えていく。 歌声は三途の川を逆流させ、死者たちの未練を勇気に変え、神官たちの法力を無機質なノイズへと変貌させた。
「孟紅薬……貴様、ついに本性を現したな! 神への反逆、万死に値するぞ!」
「万死? 結構ね。三千年もこの退屈な橋の上で死んでいたようなものよ。今更、一回や二回増えたところで何が変わるっていうの!」
私の歌声は、戦魂たちの傷を癒し、彼らに失われた「命の辉き」を一時的に与えた。逆に、神官たちの法力はその旋律に打ち消され、光の矢は空中で四散していく。 三万の兵たちは、かつて戦場で見た夕陽のような温かい光を身に纏い、神官団の陣へと肉薄する。
「朔夜! 行きなさい! 橋の向こうへ! 輪廻の渦がお前を待っている!」
「紅薬……貴様、何を……」
「勘違いしないで。お前がここで消えたら、私のスープの評判が下がるじゃない。……三千年後の再会が、こんな泥臭い場所だなんて、最高に最悪な気分よ! だから——次はもっとマシな場所で会いなさい!」
私は笑った。目元に熱いものが込み上げるのを感じながら、精一杯の毒を込めて。 朔夜は一瞬、目を見開いた。その瞳に、初めて一滴の涙が浮かんだのを私は見逃さなかった。 彼は血にまみれた手で、私の頬をかすめるように触れた。
「……ああ、借りは必ず返す。来世で、必ずお前を見つけ出す。たとえ神々が俺を千の姿に変えようとも、俺はお前を見逃さない」
彼は三万の兵を率い、光の壁を突き破って輪廻の渦へと飛び込んだ。 三万の光が、彗星の尾のように冥界の空を駆け抜けていく。
その直後、巨大な神罰の雷が、私の頭上に降り注いだ。 陸之道が狂気に満ちた顔で、自らの命を削るような禁忌の呪法を放ったのだ。
「逃がさぬ……貴様だけは、私の手元で永遠に苦しませてやる!」
視界が白く染まる。 激痛の中で、私は最後に、彼がかつて私に贈ったはずの、本当の名前を思い出した。 それはスープの味でも、女神の称号でもない。ただ一人の男が、愛する女を呼ぶための、ただ一つの響き。
「さよなら、私の……愛しい戦士」
冥界の橋が轟音と共に崩落し、琉璃色の花びらだけが、主を失った大鍋の中に静かに落ちていった。 私は重力に身を任せ、朔夜の消えた輪廻の闇へと、自ら身を投げ出した。
地獄の果てで、三千年の静寂が終わり、新しい「狂想曲」が始まろうとしていた。




