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【第一部:三途の川の狂想曲】(冥界編:宿命の邂逅) --- 第1章:紅き花と毒舌の女神

三途の川の空気は、生者の世界とは根本的に異なる重力を持っている。 それは、何万年分もの後悔と、出口のない悲哀が煮詰められたような、粘り気のある沈黙だ。空は常に、腐敗した葡萄のような深い紫色に淀み、そこには太陽も月も、ましてや希望を象徴する星など一つも存在しない。


その不毛な大地の果てまでを埋め尽くしているのは、鮮烈な「紅」だ。 彼岸花――曼珠沙華。 一本一本が血を吸ったように赤く、風もないのにゆらゆらと揺れている。それは死者たちの最後の執念が、土から噴き出したかのような、救いようのないほどに美しい地獄の絶景だった。


「ほら、そこ。死んでもまだ、自分の脚で歩くことすら忘れたの?」


私の声は、その重苦しい沈黙を切り裂く、研ぎ澄まされた刃のように響いた。 三途の川の入り口、忘却の橋。 そこには、巨大な青銅の大鍋が置かれ、中では不気味な翡翠色の液体が、絶えずボコボコと不気味な泡を立てて煮えたぎっている。


私は大鍋のふちに腰掛け、銀の杓子を弄びながら、目の前の亡者を見下ろした。 私の名は孟紅薬もう・こうやく。 天界から追放され、この奈落の境界で死者の記憶を奪い続ける、地獄で最も呪われた女神だ。


「……ああ、ああ……。私は、私はまだ……。娘の、娘の結婚式を見るまでは……」


足元で這いつくばっているのは、生前は立派な身なりをしていたであろう初老の男だ。彼は、自分の喉を掻き毟りながら、実りのない涙を流している。冥界に落ちた魂が流す涙は、地面に落ちる前に蒸発し、私の鍋を温める霧へと変わる。


「結婚式? はっ、笑わせないで」


私は冷ややかな視線を投げ、わざとらしく溜息をついた。


「お前が死んでから、地上ではもう三ヶ月が経っているのよ。お前の娘さんはね、お前の残した遺産で、新しい男と豪華な海外旅行に出かけているわ。お前の遺影の前で泣いているのは、世間体を取り繕うための、たった数分間のパフォーマンスに過ぎない。そんな汚らわしい記憶を、いつまで大事に抱えているつもり?」


「嘘だ……! 私を、私をあんなに慕ってくれていたのに……!」


「愛なんてものは、心臓が止まった瞬間に賞味期限が切れるのよ。この三途の川を渡るまでに、お前という存在は地上から消え、ただの『相続税の発生源』に成り下がった。さあ、さっさとこれを飲みなさい」


私は翡翠色のスープを椀に注ぎ、男の口元に突きつけた。 『忘却の雫』。 これ一杯で、男の三ヶ月の悲しみも、六十年の人生の重みも、すべてが泡となって消える。


「これは毒じゃないわ。私がお前に与える、最初で最後の慈悲よ。忘れてしまえば、裏切りも、孤独も、愛していたという錯覚さえも、お前を苦しめることはなくなる」


男は絶望に顔を歪めながらも、私の瞳に宿る絶対的な否定に抗えず、震える手で椀を煽った。 液体が喉を通った瞬間、男の目に宿っていた熱が、ぷつりと糸が切れるように消えた。彼は空っぽの殻となり、重力に従うだけの自動人形のように、霧の向こうへと消えていった。


「ふん。どいつもこいつも、中身は空っぽ。未練なんて、単なる『執着という名の病』だわ」


私は銀の杓子を大鍋に投げ入れ、背後の玉座――岩を削り出しただけの無骨な椅子――に深く体を沈めた。


ここで、冥界の退屈な日常が顔を出す。 「孟婆様、本日の『材料』が届きました」 背後から、猫背の小鬼が、気味の悪い木箱を抱えてやってきた。箱の中には、生者の世界から「収穫」されたばかりの、形のない記憶の断片が詰まっている。


「今回は、裏切られた商人の憤怒が三斤、それから……行き遅れた令嬢の嫉妬が少々、といったところです」 「嫉妬? 味が濃くなりすぎるから嫌いよ。適当に捨てておきなさい」 「へ、へい……相変わらず厳しいお方だ」


私は、その小鬼が持ってきた木箱から、青白く光る「約束」の破片を一つ掴み、沸騰する鍋の中に放り込んだ。 じゅう、と不快な音がして、スープの色が一層深い緑へと変わる。 三千年。 私はこの橋の袂で、数えきれないほどの人生を「無」へと変換してきた。 王、奴隷、英雄、裏切り者。誰もが死ねばただの亡者であり、私のスープの前では平等にその価値を失う。


私は、自分の細い指先を眺めた。 この手は、かつて高天原たかまがはらで、神々の奏でる音楽に合わせて舞を舞っていた。今では、亡者の未練をかき混ぜる、ただの「地獄の給仕」だ。 かつての栄光も、誇りも、すべてはこのスープの中に溶けて消えた。……はずだった。


「……退屈ね」


そう呟いた、その時だった。


――ズシン。


大気が震えた。 物理的な振動ではない。冥界そのものの「秩序」が、巨大なハンマーで叩きつけられたかのような、霊的な衝撃。 三途の川の水面が、まるで熱湯のように激しく沸騰し、彼岸花が一斉に悲鳴を上げるようにその首を垂れた。


「……何? 閻魔のじじいの心臓が止まったのかしら」


私は立ち上がり、川の上流を見据えた。 霧の向こうから、今まで聞いたこともないような「音」が聞こえてくる。 それは、数万の軍勢が一糸乱れぬ足取りで行進する、重厚な鉄の靴音だった。


「おい、紅薬! 異常事態だ!」


背後から、慌てふためいた声がした。 冥界の役人である鬼卒たちが、顔を青くして駆け寄ってくる。彼らは腰の武器を鳴らし、震える指で霧の向こうを指差した。


「亡者の列が乱れている! 上流から、地獄の法を無視して進軍してくる魂の群れがある。あれは……あれはただの死者ではない! 戦魂いくさだましいだ!」


「分かっているわ。黙りなさい」


私は鬼卒を追い払い、目を細めた。 霧が裂ける。 そこに現れたのは、この世の終わりのような、凄まじい光景だった。


先頭を歩くのは、一人の男。 その全身には、数えきれないほどの矢が突き刺さっていた。胸、肩、太腿、形成を保てぬほど砕けた鎧。その隙間から覗く肌は、魂の欠片が零れ落ちるように黄金色に発光している。 彼は、一歩歩くたびに、地面に突き刺さった自分の「死」を引きずり出しているかのようだった。


そして、その背後。 三万を超える、武装した兵士たちの霊。 彼らはもはや言葉を持たない。だが、その一糸乱れぬ進軍そのものが、沈黙の叫びとなって冥府を揺らしている。破れた軍旗には、今は亡き王朝の紋章が刻まれ、彼らの手にする折れた槍からは、今なお戦場の硝煙の香りが漂っていた。


「……これは驚いたわ」


私は思わず、手に持った杓子を握りしめた。 三千年の間、あらゆる英雄を見てきた。だが、これほどの「殺気」と「尊厳」を保ったまま地獄に降りてきた男は、一人もいなかった。


男は、私の橋の袂で足を止めた。 彼から放たれる熱気が、三途の川の冷気を焼き切り、周囲の彼岸花が黒く焼け焦げる。 ギシッ、と彼の鎧が鳴る。その一音が、冥界の静寂を暴力的に支配した。


「貴様が、孟婆か」


低く、地鳴りのような声。その響きだけで、隣にいた鬼卒たちが恐怖で膝をついた。


「ええ、そうよ。ここは天界の役所でも、戦場の前線でもないわ。ただの『ゴミ処理場』よ。そんなに矢をたくさん着飾って、何のデモンストレーションかしら?」


私は精一杯の虚勢を張り、いつものように毒を吐いた。だが、心臓が――神格を失い、冷え切っていたはずの胸の奥が、ゾクッとするような予感に震えている。


「……飲まぬ」


男――朔夜は、私の言葉を遮るように言い放った。


「俺は、忘れるわけにはいかぬ。三千年前、俺がこの地に落ちる前に誓った約束を。たとえ神々が俺の魂を千々に引き裂こうとも、この記憶だけは俺の血肉であり、俺そのものだ」


「三千年……?」


その数字を聞いた瞬間、私の脳裏に、激しい閃光のような痛みが走った。 視界が歪む。 目の前にいる血まみれの戦神の姿が、一瞬だけ、黄金の光に包まれた「誰か」の姿と重なった。 それは、私が孟婆になる前……音楽と愛を司る女神として、高天原の最果てにいた頃の情景。


(「……待っていてくれ。たとえ輪廻の果てまで堕ちようとも、必ず君を見つけ出す」)


誰の声? 私は、自分のこめかみを強く押さえた。爪が食い込み、わずかな痛みが走る。 忘却を司るこの私が、忘れていたはずの「何か」が、魂の底から這い上がってこようとしている。


「冗談じゃないわ……」


私は、震える手で大鍋のスープを掬い上げた。 そのスープの表面には、私の顔ではなく、絶望に満ちた数万の兵たちの顔が映っている。


「ここは冥界。私のルールがすべてなのよ。その『約束』とやらがどれほど重いか知らないけれど、私のスープ一杯で、それはただの無意味な幻に変わるわ。さあ、大人しくこれを飲んで、楽になりなさい、戦神様」


「ならば試すがいい、女神」


朔夜は一歩前へ踏み出した。 彼が身に纏う三万の戦魂の意志が、一つの巨大な槍となって私を貫く。 だが、彼は手を伸ばし、私の持つ翡翠の椀を奪い取るように掴んだ。


指と指が触れ合う。 その瞬間、凍てつくような冥界の空気が爆発し、周囲の霧が吹き飛んだ。 氷のように冷たい私の肌に、朔夜の体温が――死者とは思えないほどの灼熱が伝わってくる。


「俺が忘れるか、お前が思い出すか。——賭けをしよう、紅薬」


朔夜は、血に濡れた唇を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべると、一気に『忘却の雫』を飲み干した。


その瞬間、冥界の紫の空が真っ二つに裂け、神をも恐れぬ黄金の雷鳴が轟いた。 彼岸花が狂ったように舞い、三途の川が激しく逆流する。 私と、この戦神。 失われた記憶を巡る、地獄で最も残酷で、最も美しい狂想曲の幕が上がったのだ。


「忘れない……絶対に……」 飲み干した後の朔夜の瞳は、スープの魔力に抗い、血の涙を流しながらも、なお私を凝視し続けていた。


それを見た私は、无意識に自分の胸元に手を当てた。 三千年間、一度も鳴ったことのない私の鼓動が、トクン、と大きな音を立てて跳ねた。

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