虚構9 過去の実験
王都の外れ、森に囲まれた小さな小屋。
ここは、誰も訪れない隠れ里のような場所だ。
七十五歳の老人、クロムは古い木製の椅子に腰掛け、窓から差し込む午後の陽光を浴びていた。
白髪が乱れ、頰はこけ、目は遠くを眺めている。
彼の膝の上には、古びたノート。
黄ばんだページに、細かな字で記された過去の記憶。
クロムは元報道局のディレクターだった。
あの「特別制作スタジオ」の責任者。
今は、ただの隠居老人。
だが、心の中では、あの日の出来事が、毎日のように蘇る。
それは、三十年前のことだった。
クロムは当時、四十五歳。
放送局のエリートで、魔王軍脅威のニュースを毎日制作していた。
スタジオで俳優を動かし、再現映像を撮り、国民のテレビに流す。
それが仕事だった。
ある日、上層部から極秘の指令が下った。
「実験だ。『魔王討伐成功』のニュースを流せ。勇者は架空の人物でいい。その後の経済変動を観測する」
クロムは会議室で、局長の言葉を聞いた。
周りには、選ばれたスタッフ数人。
皆、顔を青ざめていた。
「本気ですか? 魔王が倒されたニュースを流したら……国民は喜ぶでしょうが、軍需産業は止まる。予算は減る。失業者が爆発する」
局長は冷たく笑った。
「それが目的だ。 上層部のグローバリストたちが、『魔王不在の世界』をシミュレートしたいんだ。どれだけ経済が疲弊するか。どれだけ民衆が混乱するか。そして、どれだけ我々が儲かるか……をな」
クロムは指令に従った。
スタジオをフル稼働させた。
勇者役の俳優を雇い、白銀の鎧を着せ、魔王の玉座セットを組んだ。
魔王役は、いつもの老魔族。
クライマックスのシーンでは、勇者が剣を振り下ろし、魔王の影が崩れ落ちる。
特殊効果で、光の爆発を加え、血と炎を飛び散らせる。
完璧な「勝利」の再現。
ニュースは、夕方のプライムタイムに流れた。
「速報! 勇者イズナが魔王を討ち倒しました! 長きにわたる脅威がついに終わりを告げます!」
画面には、スタジオで撮った映像が繰り返し流れる。
国民の歓声が、王都の街を埋め尽くした。
花火が上がり、酒が振る舞われ、パレードが始まった。
誰もが、平和の到来を信じた。
だが、一週間後、異変が起きた。
軍需工場の注文が激減した。
武器の需要がなくなり、ラインが止まった。
失業者が街に溢れ、食料価格が急騰した。
二ヶ月後、暴動が勃発した。
王都の広場で、元兵士たちが叫ぶ。
「魔王がいないなら、俺たちの仕事はどうなる!」
クロムは局のモニター室で、それを見ていた。
暴動の映像は、本物だった。
火炎瓶が飛び、衛兵が鎮圧する。
死者が出た。
経済は疲弊し、GDPは前年比マイナス二十パーセント。
交易市場は閑散とし、魔族側との闇取引さえ止まった。
上層部は満足げだった。
会議で、局長が報告した。
「実験成功だ。魔王不在で経済が崩壊することを証明した。しかも、我々は莫大な利益を得た。……クロム、君は株価の動きを見たか?
我々の上層部は、ニュースを流す直前に軍需株をすべて売り抜け、反対に『食料』と『民営警備会社』の株を買い占めていた。暴動が起きれば食料は高騰し、街を警備する兵士の需要が爆発する。
さらに、倒産した地元の工場や土地を、ゴミのような価格で買い叩いた。……魔王が復活すれば、またその土地に工場を建てて政府に高く貸し付ける。『破壊』と『再生』、その両方でマージンを取るのが彼らのやり方だ。」
クロムは震えた。
上層部にとって、魔王が生きているか死んでいるかは重要ではない。
重要なのは、「いつ魔王を殺し、いつ魔王を復活させるか」というタイミングの決定権を自分たちが握っていることそのものだった。
あの実験で得られた膨大なデータ――民衆が何日でパニックになり、どのタイミングで株価が底を打ち、どれほどの死者が出れば暴動が収まるか――。そのデータこそが、現在の「管理された局地戦」の完璧な台本を作るための基礎資料になったのだ。
彼自身、家族を養うために従った。
だが、ノートに記したのは、後悔の言葉だった。
「私は、嘘を作った。偽の勝利で、本物の不幸を生んだ」
実験は三ヶ月で終了した。
上層部が「魔王復活」のニュースを流させた。
またスタジオで、魔王の影を蘇らせる。
工場は再稼働し、雇用が生まれた。
国民は安堵し、経済は回復した。
誰も、偽の勝利を疑わなかった。
ただ、一部の失業者は、永遠に路頭に迷った。
クロムはノートを閉じ、窓の外を見た。
遠くの空に、今日も黒い煙が上がっている。
本物の戦場だろうか。
それとも、局のスタジオで撮られた映像の残像か。
老人は立ち上がり、棚から古い写真を取り出した。
そこには、若い頃の自分と、局のスタッフたち。
皆、笑っている。
だが、今は誰もいない。
「魔王がいない世界は、誰も望まない……
あの時、学んだよ」
クロムは写真を胸に押し当て、目を閉じた。
過去の闇は、決して消えない。
それは、歴史の奥底に沈み、時折、勇者たちの前に浮かび上がる。
警告として。
絶望として。
誰もが、同じ過去を背負っている。
誰もが、同じ嘘の犠牲者だ。
そして、
世界は、
その嘘を必要としている。




