ルカの鍛錬
静まり返った一室に、チョークの乾いた音だけが響いていた。
白い粉が黒板を走るたび、きい、と耳を刺す音。
ルカは視線を落としたまま、小さく息をつく。
(まだ慣れないな)
静かで、整っていて、どこか冷たい。
村の学校で受けていた授業とは、あまりにも違う。
和気あいあいとした賑やかな教室。隣にはいつもユウがいて、前の席にはハルが座っていた。
ノーイで暮らし初めて1ヶ月。
それでもルカには、それが遠い昔のことのように思える。
物思いに沈んでいたせいで、教師が話し始めたことに気づかなかった。
教壇から鋭い声が飛ぶ。
「聞いとるのか、ルカ・レアルド」
「うぇ、はい」
厳かな男声に名を呼ばれ、ルカの肩がびくりと跳ねた。
慌てて身体ごと教壇へ向き直る。
「よし、ならば今話したところを読んでみろ」
しまった、と胸が縮む。
咄嗟の返事が、理解した合図だと受け取られたらしい。
どこを読めばいいのかわからないまま、教本のそれらしい箇所を開いく。
「理術工学は、産業・工業の中心、この世界の文明そのものといえる。また――」
「そんな所は話していない」
低い声が遮る。
「す、すいません」
教師は小さくため息をついた。
「仕方ない。もう一度言う。よく聞いておけ」
再び始まる説明。
「理術工学を用いて、日々新たなものが作られている。だからこそ――」
一通り解説を終えると、教師は床に置いてあった木箱を持ち上げた。
中から、教本に載っていた実物を取り出す。
精巧な風景が写された紙。
そして、手のひらに収まる小さな箱型の器具。
それらを手に、教室をゆっくり一周する。
「これは写真と写真機といって、一瞬の光景を紙に残す道具だ」
生徒の反応はさまざまだ。
見慣れている者もいれば、初めて目にして瞳を輝かせる者もいる。
やがて教師は、写真機から透き通った黄緑色の小さな鉱石を取り外した。
「そしてこれがリジク石だ。この石がなければ写真機は使えない」
理術工学に必要不可欠な鉱石。
ルカは、小さな石のもつ底知れない力を感じていた。
「家の照明や街のインフラなど、さまざまな場所で理術工学は用いられている。
今日の授業はここまでだ」
終業の鐘が鳴る。
授業を終えた学校は、いつも同じ光景だ。
友達と帰る者、残って遊ぶ者。
はつらつとした声が、あちこちで弾む。
だがルカは、その輪に入れない。
ユウとハルが目の前で殺された、あの日。
友達を失う恐怖を知ってしまった。
あんな思いは二度としたくない。
そう思うほど、新たに友達を作ることが怖くなる。
(僕には、もう……)
そこまで考えて、首を振った。
帰らなきゃ。
夕暮れのノーイ。
街灯に灯りがともり始める。
朱を含んだ紫陽花色の夕空が群衆を照らしていた。
「号外! 号外!」
人波を縫う声。
それは、人々の波に負けない程よく通っている。
夕刊を売る販売員。
「新導官にカヤト・バイエルン就任!」
内容の一部が読み挙げられた。
その名に、ルカははっとする。
「一つください」
「まいどあり」
小遣いを差し出すして、新聞を受け取る。
一面を飾った主題。
記事には確かにカヤトの名があった。
オーダーリロジア・ラード共和国支部の新たな導官に、カヤト・バイエルンが就任。
役職について詳しいことはわからない。
それでも、カヤトが昇進したことが自分のことのように嬉しかった。
胸が熱く、誇らしい。
さきほどまでの憂鬱が吹き飛び、足取りが軽くなる。
「ただいまー」
「おう、お帰り」
ルカは、既に帰宅していたカヤトに一目散に駆け寄った。
「おめでとう、父さん!」
カヤトは、目を丸くする。
「……もう知ってたのか」
「新聞で!」
無邪気な笑顔で記事を見せるルカ。
カヤトは、少し照れたように笑った。
「お前のおかげだ、ルカ」
「え、僕は何も」
ルカが、不思議そうに首を傾げる。
「いや、お前のおかげだ」
そう言って、カヤトがルカの頭を撫でた。
優しい声。温かな手のひら。
胸に浮かんだ疑問は、いつの間にか消えていく。
一呼吸置き、ルカは言った。
「父さん、僕、強くなりたい」
大切なものを二度と失わないために。
守れる力を持つために。
そして、助けてくれたカヤトのようになるために。
覚悟のこもった言葉だった。
その意志を、カヤトは確かに受け取る。
「よし、わかった。俺が鍛えてやる」
ノーイから少し離れた緑豊かな広場。
二人以外、人の気配はない。
爽やかな風が髪を揺らす。
「それじゃ、さっそく始めるぞ」
「理術の使い方を教えてよ。どうやって使うの」
ルカは、期待に胸を躍らせる。
「まてまて。別に理術を教えるわけじゃない」
「な、なんで」
「お前、理術がどういうものか知らないのか」
「それぐらい知ってるよ。理術には属性があって、炎に水、それから鋼と邪、あとはえっと……」
うろ覚えの知識を並べる。
そんなルカをカヤトは物言いたげな眼で見つめた。
「学校で習っているはずだが」
「それは、その……」
カヤトはルカに近寄って軽く額を小突く。
「いてっ……」
「大切なことだ、それくらい覚えとけ」
「うぅ、ごめんなさい」
額を押さえ、ルカは反省する。
「まったく、仕方ないやつだな。理術について説明してやる」
柔らかな笑みを浮かべながら、カヤトは語り始めた。
「理術ってのはな、身体に宿るリジアを使って発動させる術だ。扱える理術は人によって異なる。それを属性と呼ぶ」
ルカは、一言一句、真剣に聞き入る。
カヤトは口を止め、ルカの様子を見た。数秒置いて続ける。
「属性は炎・水・風・土・雷・植・鋼・音・光・影・邪の全部で十一」
「父さんは、何属性なの」
ルカは、素朴な疑問を尋ねた。
「俺は、邪属性だ」
「僕と同じ」
嬉しさに身を震わせる。
「理術は、同じ属性の奴からしか教われない」
「父さんと僕は同じなんじゃないの」
「分類上はな。他の十属性に当てはまらない特異な理術を邪属性と呼んでいるだけだ。だから、俺とお前の理術はまったく違う。邪属性は人から教わることはできない」
ルカはがっかりと肩を落とす。
「じゃあ僕は、どうすれば……」
「自分で見つけていくしかないな」
理術を教われないなら、何を教わればいいのか。
ルカにはわからなかった。
「俺がお前に教えてやれんのは体術だけだ」
そう言って、カヤトは拳と蹴りを空へ放ち、一通りの型を見せる。
一切無駄のない流麗な動きに、ルカは息をのんだ。
「他にもあるぞ」
「まだあるの」
「ああ。一番大事なことだ。まずは俺についてこい」
カヤトが駆け出す。
幼いルカが追いつけるぎりぎりの速度。
平地、川沿い、森、二人はあらゆる地形を走った。
数刻の間、ルカは息を切らしながら必死に背を追う。
(父さん、全然息が切れてない……すごいや)
やがてカヤトが止まる。
ルカは足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
くらつく頭を落ち着かせ、辺りを見回す。
いつのまにか、出発した広場に戻っていた。
「初めてにしては上出来だ」
そう言いながら、カヤトは続ける
「今後はもっと速くするからな」
にっこりと笑う。
(……え)
ルカはわずかに寒気を覚えた。
「いいか。理術も体術も、土台となる身体が貧弱では話にならない。身体を鍛えることが大切なんだ」
「はい」
力のこもった返事が響く。
それから、ルカの鍛錬の日々が幕を開ける。
「おいおい、もう終わりなのか。始めたばかりだろ」
腕立て伏せをしていたルカは、疲れ果てて腕に力が入らなくなっていた。
それでもカヤトは容赦しない。
ある日には、受け身の特訓。
「遅い。どんな体勢になっても素早く起き上がれ」
またある日には、カヤトが投げる石を躱す訓練。
「目で追うな。身体で感じ取れ」
さらに体術の基礎を徹底的に叩き込まれる。
拳の突き、蹴りの型。
「こう。それともこう」
「違う、違う、全然違う」
そして組み手。
何度も、何度も繰り返す
ルカはまともに一撃入れることすらできなかった。
何度投げ飛ばされたか、もう覚えていない。
「今日は、もうやめとくか」
「いいや、まだまだ」
幾度も打ちのめされそうになる。
それでもルカは、決して泣き言一つ言わなかった。
そんな、ある日のこと。
ルカが渾身の蹴りを放つ。
ほんの一瞬の出来事だった。反射的に、カヤトの拳が動く。
鈍い衝撃。
ルカは拳を受け、吹き飛ばされる。
「す、すまん」
駆け寄るカヤト。
「えへへ、大丈夫」
ルカは頬を押さえながら、にこりと笑った
「本当に大丈夫か」
「平気だって。気づいてないの? 父さんが僕に反撃したの、初めてなんだよ」
カヤトは驚き目を見張る。
「確かに……今のはヒヤリとしたぞ」
「そっか。やった」
わずかだが、確かな手応え。
強くなれたという実感。
それがルカには、たまらなく嬉しかった。
疲れ切って動けなくなったルカを、カヤトは背負う。
木漏れ日が赤く染まり始めている。
そのとき、ぐう、とルカの腹が鳴った。
「ふっ……何か旨いものでも食べに行くか」
「うん」
照れくさそうにうなずく。
まぶたが重くなり、ルカはそっと目を閉じる。
そして、月日は巡り、八年の時が過ぎた。




