理術②
部屋の照明が、白く天井を塗り続けていた。
リジク石を動力とした灯りは均一で、揺れることもなく、感情を映さない。ルカはそれを仰いだまま、椅子の背もたれに体重を預けていた。考えを整理しようとするたびに、記憶の断片がぐるりと巡り戻ってくる。あの言葉。あの場にいた全員の、息を呑む気配。
「……聞いちゃまずいかな」
誰もいない部屋に向けて、独り言が落ちた。答えは返らない。言葉は空気に溶けて、そのまま消えた。
ガチャリ。
廊下の静寂を断ち切る、金属錠の音。扉が内側へ開く。
エンジが入ってくる。
ルカは反射的に口を開きかけた。――いつもなら「おかえり」と言える。今夜は、それが喉の手前で止まった。視線が床の隙間へと沈む。指先が膝の上で、落ち着きなく動く。
エンジは何も言わず、部屋備え付けの机に腰を下ろした。机が軋む。それきり、沈黙が満ちる。
リジク灯の均一な光の中で、ふたつの影が静止していた。
「……聞こえてたんだろ、あれ」
先に口を割ったのはエンジだった。壁を向いたまま、乾いた声で。感情の起伏を意図的に削ぎ落としたような、平坦な発声だった。
「知りたいなら話してやるよ」
ルカは顔を上げた。
「じゃあ、やっぱり。サダリの奴が言ってたのって――」
ユベン家の出来損ない。
その言葉は、あの場に居合わせた者すべての耳腔に届いていた。嘲笑と哀れみ、まごうことなき事実として投げ捨てられた蔑称。
「俺の生まれた家――ユベン家は、代々“英傑”を輩出してきた名門なんだ」
エンジの声に、熱はない。暗誦するように、淡々と。しかし脳裏には、記憶の残滓が掠めていた。幼い頃から幾度も浴びせられた視線――蔑みと失望と嘲笑が綯い交ぜになった、あの眼差し。血族の顔をした他人の目。
あるのは、乾ききった諦観だけだった。
「親父は本部の導官。そして双子の兄は、その後継として期待されてる。」
「……導官」
ルカの口から、その言葉が静かに零れた。
驚きではない。正確には、驚きだけではなかった。その二文字には、ルカ自身の記憶が縫い付けられている。白銀の隊服をまとった人影が瞳に写ったときのこと。
カヤト。
今のルカの養父であり、ラード共和国支部に駐在する導官。あの夜、鉄格子の中から救い出してくれた人。
導官という存在が何であるかを、ルカは理屈ではなく身体で知っている。圧倒的な力ではなく――圧倒的な責任を背負った人間の姿として。
だから、その言葉は軽く通り過ぎない。
エンジはルカの沈黙を気にする様子もなく、前を向いたままだった。
「見ての通り、俺の理術は邪属性――煙理操術。煙を生み出し、操る」
言いながら、掌をわずかに傾ける。指の隙間から白煙が滲み出て、室内の光を薄く濁らせた。糸のように細く立ち上り、天井へと霧散する。
「ユベン家は、雷属性を極めた家系。雷属性を受け継いでいなかった俺は、この世に生まれ落ちた瞬間から、出来損ない扱いだった。おかげで、肩身がせまいったらありゃしねえ。」
唇の端に浮かぶのは自嘲だ。苦さだけを纏って、すぐに消える。
沈黙。
「でも」
ルカの声が、静かな部屋を通った。
「君はそいつらを見返したくて、ここにいるんでしょ」
エンジがわずかに顔を向ける。
「……なぜそう思った」
「見てれば分かるよ」
ルカは迷わなかった。
「君は、いい性格してるしね。素直に不当な扱いを受けてやるつもりもないんでしょ。それに僕は知ってるから、君が凄いやつだって」
沈黙が落ちた。
エンジはしばらく、その言葉を咀嚼するように黙っていた。
反論も否定もする気になれない。
「……買いかぶりだ」
「そうかな」
ルカはパンと両手を打ち、勢いよく立ち上がった。
「善は急げだ。今すぐ、特訓しよう」
「は。もうすぐ消灯だぞ」
「大丈夫。君が上手い言い訳を考えるから」
「……丸投げかよ」
エンジは、笑っていた。
それが自分でも意外だったらしく、笑みを浮かべたまま少し黙る。胸の奥に、見慣れない感覚がある。温かく、どこかむず痒い。誰かに値踏みされるのでも、同情されるのでもなく――ただ、真っ直ぐに見られた。それだけのことが、こんなにも重かった。
生まれてから今日まで、そんな目で見られたことは一度もなかった。
「……そういえば」
ルカが話を変えるように口を開く。
「お父さんが本部の導官ってことは、君ヴァルクライア帝国出身なの」
「そうだが、急にどうしたんだ」
「育成校は五大国に一校ずつ。原則、出身国かその近隣の者が集う。帝国出身なら帝国の育成校へ行くのが自然でしょ。何でラード共和国の育成校に来たの」
「家から離れたかった。それだけだ」
ルカは静かに答えた。
「帝国出身だからといって他国の育成校に入れない規定はない。それに――」
そこで言葉を切り、少し微笑む。
「遠くへ来なきゃ、見えないものもあるだろ」
エンジはその答えをしばらく見つめて、それから前を向いた。それ以上は聞かなかった。聞く必要がないと判断したのか、あるいは同じ匂いを嗅ぎ取ったのか。
リジク灯が、変わらず白く室内を照らし続けていた。
戦闘訓練は、毎日行われる。
ルカは、訓練場の石床に静かに立っていた。
足裏に伝わる冷たい硬度、張り詰めた空気が肌を刺す。ラード共和国の八月は温暖だが、石造りの訓練場は夜の冷気を蓄えたまま朝を迎える。
対面に立つのはレーシェ。両手に握るのは刃を布で封じた双剣――無刃刀だ。
しかし構えに気安さはない。重心の低さ、視線の鋭さ、呼吸の間合い。すべてが実戦と等価だった。
開始の合図はない。
沈黙そのものが、開戦の引き金だった。
「行くわよ、ルカ君――影属性・初等理術、黒泳」
地を蹴る音を殺して、レーシェが踏み込む。
一瞬で間合いを詰めたかと思えば、その輪郭が掻き消えた。
(来たな)
ルカの視線は既に足元へ落ちていた。
影属性・黒泳。自身の影を媒介とした潜行と高速移動。
壁も天井も関係ないどこへでも移動できる術だ。
遮蔽物の多い複雑な地形では絶大な機動力を発揮する。
しかしこの訓練場は障害物のない円形の石床。影は地を這うだけ、逃げ場のない平面を移動するのみ。
その優位は大きく殺がれる。
ルカは自らへ向かって滑り寄る黒い揺らぎを、目で静かに追った。
「邪属性・超越体技――硬化」
皮膚の表層が石英の如く固化する感覚。迎撃準備、完了。
影から飛び出る瞬間を捉えるカウンターの構え。
影がルカの真横へ到達した。石床がわずかに盛り上がる。
「そこだ」
拳を打ち込む。
しかし、拳は空を切った。
刹那遅れて、レーシェが影から跳び出る。振るわれた双剣の片刃がルカの前腕を撫で、鈍い衝撃が走った。体勢を立て直すために距離を取る。
「やっぱりね。思った通りだわ」
レーシェが僅かに息を整えながら言った。
「あなたが硬化できる範囲は――拳ひとつ分」
ルカは奥歯を噛む。
レーシェの狙いは最初からそこだった。硬化の強度を測るのではない。
硬化範囲を測ることが目的だった。
フェイントで誘い、カウンターを空振りさせ、その一打に要した硬化の範囲を確認する。
一連の動きは、そのための精密な観測実験だったのだ。
再び影へと潜る。今度は一直線に、ためらいなく迫ってくる。
迎撃の構え。次は外さない。
この瞬間、ルカの思考が一段、深く沈んだ。
(さっき攻撃を外したのは、僕がタイミングを誤ったんじゃない――意図的に外させられたんだ。)
ならば、こちらも遅れて攻撃すればいい。
影から現れるレーシェ。今回は、出現するタイミングをずらすことはなかった。
がら空きの喉元へ、剣先が伸びてくる。
ルカは咄嗟に身をひねった。筋肉が反射で動いた結果であり、計算ではない。刃が空気を裂く感触。かすりもしなかった。
「今ので決まったと思ったんだけど。そう上手くはいかないか」
「躱せたのは偶然だよ。いつでもできることじゃない」
ルカの頬に、汗が一筋伝った。
レーシェが再び影へと消える。
遮蔽物のないこの訓練場において、黒泳の優位は薄い。
レーシェ自身もそれを承知の上で、その制約を逆手に取っていた。
影から出現するタイミングを自在に調節し――相手に二択を迫り続ける。
単純な構造だからこそ、対処に迷いが生じる。
(時間差をつけた攻撃。さっき僕の硬化の弱点を見破った事を喜々として説明したのは、時間差攻撃に意識を向けさせないため)
ルカは同じように構えを作り、影が近づくのを待った。
黒い揺らぎが足元に迫る。
ルカは――跳んだ。 地を蹴り、真上へ。二択の外側へ。
影から出たレーシェは、眼前の異変に気づく。あるべき場所にルカの姿がない。視線が上へ向いた瞬間、それはもう遅かった。
ルカの踵が、頭上から落ちてくる。
レーシェは双剣を重ねて頭上に翳し、受け止めた。
轟音。
双剣が、根元から砕け散った。
拳ではなく踵への硬化。推察された射程の外から来る一撃は、レーシェの読みの外でもあった。
「……降参。あたしの負けよ」
柄だけになった双剣を腰に収め、レーシェは肩を竦めてルカを見上げた。その顔には、屈託のない笑みが咲いていた。
「やられたわね。拳じゃなく踵、か――なるほど、一本取られたよ」
闘技場の入口付近で、ルカはすれ違いざまに声をかけた。
「次の対戦者、エンジだったんだね。相手は」
薙刀を肩に乗せたまま、エンジは足を止めずに答える。
「アインだ」
それだけ言って、歩いていく。
その背中から、ルカは目を離せなかった。
張り詰めた肩。収束する気配。
全身の神経が今この瞬間へ向けて研ぎ澄まされているのが、言葉なく伝わる。
ルカはそれ以上、声をかけなかった。
代わりに、その背中へ向けて拳を握る。言葉にならない激励。
それが今のルカにできる、最大のものだった。
円形の闘技場、その中心。
向かい合うのは、刀身を布で包んだ薙刀と、一本の木刀。
エンジは意識のすべてを、対面の少女へと注ぎ込んだ。
銀の髪が、わずかな気流に揺れる。紅の瞳は静謐で、感情の色を映さない。木刀を下段に構えた姿勢には無駄がなく、それ自体が完成された彫刻のようだった。
エンジは相手の呼吸を、気配を、重心の微細な揺れを読もうとした。しかし読めない。感情のない相手の内側には、読む糸口となる波紋が立たない。静水の如く、何も映さない。
「強者の余裕ってやつか。それとも――」
牽制のつもりで口を開く。場の空気を揺らし、反応を引き出すための言葉だ。
「余計な問答に付き合う気はないわ」
アインが、静かに遮った。
抑揚のない声。侮りも怒りも、一切が剥ぎ取られた言葉。そこには感情の残骸すらなかった。返ってきたのは壁だ。硬く、冷たく、何も通さない壁。
かえって、それが重かった。
エンジの額に、汗が滲む。得物を握る手に、自然と力が入る。
「――開始」
教官の声が落ちた。
エンジが踏み込む。薙刀の長い間合いを最大限に活かし、大きく踏み込みながら横薙ぎに払う。アインの胴を狙った一閃。しかしアインは後方へ半歩、紙一重で退いた。最小限の動作で最大限の余白を作る。理に適った、無駄のない回避だ。
間髪を容れず、エンジは薙刀を手首で回転させ、今度は袈裟懸けに振り下ろす。布に包まれた刃が石床を叩き、鈍い轟音が散った。
「っ」
躱された。いなされた。
焦りが、胸の底で小さく燻る。薙刀を引き戻そうとした瞬間、動かなかった。
アインが木刀で長柄を石床に叩きつけ、縫い止めたのだ。
反撃が始まる。
木刀を長柄に沿わせるように滑らせ、柄を握るエンジの手首を狙ってくる。
刀身が届く寸前、エンジは後方へ跳んだ。
「邪属性・煙理操術――朧煙界」
掌から白煙が溢れ出し、たちまち闘技場の視界を塗り潰した。
(目くらまし。何か企んでいるわね)
アインは視覚を捨て、音と気配だけで戦場を再構成する。足音が、自身を中心に弧を描いている。接近するのでも離脱するのでもない。包囲ではなく――誘導だ。
右前方から、何かが飛んでくる。
木刀で弾いた。
しかし、一度では終わらない。前方、後方、斜め――複数の方向から連続して投擲が来る。
アインは木刀一本でそれらすべてを捌いた。
薙刀が煙を裂いて現れる。
アインは受け止めるが、奇妙な違和感を感じた。
あまりにも軽い。人が振り下ろしたとは思えないほど。
薙刀が地に落ちる。
エンジは自らの得物そのものを、投擲に使ったのだ。
煙の中、エンジの足音が背後に回る。
「――俺の勝ちだ」
拳が振り下ろされる、直前。
アインの木刀が、エンジの腹を突いていた。
逆手に持ち替え、前方を向いたまま、後方の敵を仕留める。躰を向けることなく、腕の角度だけで完結させた一撃。理術も膂力も関係ない。
純粋な剣技。
「なっ――」
エンジの動きが止まる。
アインはそのまま振り向き、木刀がエンジの額を打つ。
どさり、と重い音を立てて、エンジが石床に崩れ落ちた。
刹那の静寂。
「アイン・ルサロナの勝利」
教官の声が、無感動に響く。
アインはすでに木刀を収め、出口へと歩き始めていた。その足取りに勝利の色はなく、感慨もなく、ただ終わったから次へ向かう。それだけの歩みだった。
石床に仰向けのまま、エンジは天井を見た。
開けた天井から見える太陽。
エンジは拳を握ぎり、石床に打ち付けた。




