第0.6話:録、いつか、この瞬間が
歩く。ただ、歩く。
雄大に広がる、灰白色の石灰岩のような凹凸のある地面が、地平線の向こう側まで続いている。人や植物、動物を始めとした生物も、建物やその残骸を始めたとした無機物も、見える限りのその世界には何も無い。
ただ、地面を踏みしめる。クッション性の高い丸まった足が、何度も何度もゴツゴツとした岩肌の上を通っていくことで、まるでギターの弦を押さえる指がそうなっていくように、進むにつれて足先が段々と硬化しているのが分かった。
だからと言って、歩きやすくなったとかそういう事はないのだが、もう歩きだしてからそれほどの決して少なくはない時間が経っていることを示すには、十分なエビデンスだった。
九華は、歩きながら後ろを振り返る。自分を先頭に、想汰、睡方、由依の縦一列で並び、隊列を崩さず行進を続けるその姿。奇しくもあの日、預言者の家に取材に行った時と同じ隊列のまま、新聞部の四人はいくら進んでも変わらない景色の中をただ直進するのみ。
時計なんてものはもちろんないし、なんなら現実では当たり前のように空に浮かんでいた太陽も、月も、未だ目にしていない。それでも、世界全体はまるで蛍光灯の電気をつけた部屋のような一定の明るさを保っており、まさに不変を体現したかのよう。
それゆえ、自分達が歩き出してからどれくらい経ったかを測る指標なんてなく、変わらない景色を視界に継続して映しているからか、そもそも自分達が動いているのかすらも危うくなるほどだった。
一端の希望となったのは足跡だった。足が硬化するにつれて、徐々に地面に沈み込むようになり、四人の足跡が綺麗に自分達の歩いた場所を示している。だから時々後ろを振り返り、それを確認して自分の心の安息を回復させるのが、早くも九華のルーティーンと課していた。
「しっかし……あまりにも何も無いわね……」
先ほどから周囲を注視しながら歩いているのだが、驚くほど何も現れない。人影や別の生物の気配すらも無く、元人間が四人揃って見ているのに、対価に見合わない収穫さえも獲得出来ず、段々と集中力も切れ始めていた。
「ねー、しりとりしなーい?」
言い出したのは、最後尾で頭の後ろで腕を組んでいる由依だった。普段だったら、すぐさま撤回させていた提案だったが、流石に何も進展のないこの状況においては九華も、それを許さざるを得なかった。睡方も想汰も、疲れからか、無言で了承した。
「……はぁ、良いわよ。その代わり、ちゃんと周囲の確認、忘れないようにね」
「やったー!じゃあ私、睡っち、想っち、九っちの順番ね」
「御託はいい。早くこの暇を埋めてくれ」
想太に急かされ、由依は頭に手を置く。
「おけおけ。うーん、じゃあしりとりの『り』から、りんご!はい、睡っち」
「ご、ご……。ゴリラ」
「ランゲルハンス島」
後ろから聞こえてきて、九華は思わず肩を落とす。困惑する睡方の声もかすかに背中に受けながら。
「はぁ……。なんか腹立つわ。はい、宇宙」
「海!」
「み、み……店」
「生活困窮者自立支援法」
「……運動会」
「苺のショートケーキ!」
あまりにも元気よく聞こえてきたものだからスルーしそうになるが、九華は即座に返す。
「ダメよ。それならなんでもよくなっちゃうじゃない」
「ちぇー。あ、じゃあ!いちごシェイク!」
「く、く、靴……」
「……。追求」
「ちょっと」
足を止めないまま、振り返る。何か、と言いたげなその顔を見上げて。
「あんた、わざとやってるでしょ。さっきから『う』攻めばっかりしてるじゃない!」
「もちろんだ、効率的に勝つにはこの方法が一番良いからな」
「なんでしりとりを勝ち負けで捉えてるのよ!で、あと睡方!」
「え!?」
呼ばれると思ってなかったのか、面食らった顔をしたようにその頭のかさを揺らす。
「何よ、『店』、とか、『靴』とか、小学生じゃないんだから!」
「べ、別に、簡単な言葉言っちゃいけないなんてルール、どこにもないだろ!?思いついたから言ったんだよ!」
「そうは言っても、遊びが無いのよ遊びが!はぁ、もうしりとりはやめよやめ!周囲の観察を再開!」
前に向き戻り、また何もない世界への注視を九華は再開する。列の後ろの方で、騒々しい掛け合いが聞こえ。
「えー!ウチ、まだまだ出したりないよー!う、だから、ウール!ほら、睡っち!」
「え?ウールって、何?」
「うぇ?あー、よく分かんないけど、なんかモコモコしたやつ!確か制服のタグに書いてあった気がする!」
「ああ、じゃあ、る、る……。る……、ん?ちょっと待てよ。る……る……」
それから、しばらくしても自分の番が回ってくることは無かった。おろか、想太に回ることもなく、飽きてしまった由依も自然と周囲の観察に意識を移していた。睡方が「る、る」と呟き続ける中。
足は、前へ前へと動いている。動いているはず、なのに彼方に見える地平線が嘲るようにずっと居座っている。
そんな中、九華はふと思い立つ。いつも取材に行く時、何かを見つけるために使っていたあの能力のことを。
「そういえば、想太」
「今度は何だよ」
「前はあんた、眼鏡を外すと遠くが見えるっていうのがあったじゃない?今はそれ使えないの?」
想太はそれを聞くと、顎に手を当てて少し俯いた。いくらかの沈黙の後、進みながら彼は前を向く。
「今のところ、そういうのは感じられないな。あれは眼鏡を外すという、一種のスイッチによって裸眼に切り替わり、それによって近くのものは見えなくなるが、反して遠くのものはよく見えるようになるといういわば体質のようなものだ。それが継承されているかどうかは怪しいが、そもそも今は見ての通り外す眼鏡すらつけていない。ゆえに、スイッチがないから能力を発揮することは出来ない」
「うーん……回りくどいけど、言いたいことは分かるわ。じゃあ、由依さんはどう?」
「やってないから分かんないけど、多分行けると思う!想っちと違って、とりあえずウチは意識を集中しようって思ったら出来るから」
「分かった。それじゃあとりあえずやってみて。睡方は、倒れないように由依さんの手を引いてて」
睡方の簡単な返事が聞こえてきてすぐ。由依は、唸り声を上げる。こちらからは確認出来ないが恐らくいつものように目を瞑り、同じく見えないがこれもいつものように口に力を入れているだろう。
四人は足を進める。三人は変わらず周囲を注視しながら、由依の次の言葉を待ったままで。
しばらく歩いた後、彼女は息を思い切り吐いた。今度は今の自分達の本来の位置にある口が、上半身で縦に大きく割れて呼吸のような動きをする。息切れの状態で、彼女は絞り出すようにして。
「はぁ……!はぁ……!九っち……!」
「どうだった?」
「……音、聞こえたよ。それも、声も!」
「ほんと!?」
九華が体を後ろにした状態で歩く。つられて、想太も飢えていた新情報に興味を見せる。由依は睡方の手を支えにして、しばし一気に使いすぎた体力のせいで乱れた息を落ち着かせる。
「……ここから、左斜めにずーっと行ったところ。どんだけ遠いかは分かんないけど。音はねー、なんか砂がぶつかり合うというか擦れ合うみたいな音!声は何言ってるかは分かんなかったけど、なんか『うわうわうわ』みたいな低めのうめき声?みたいなのが聞こえてきた!」
「了解!分かったわ、ありがとう。そうしたらみんな、進路変えるよ!」
「ああ」
「ふぁーい」
全く足の揃える気のない真っ直ぐに伸びた雑多な足跡が、それを行進だというのかと自分達に問うてきているような気がする。
その足跡を残す方向を、少し斜めに変えるだけの簡単な仕事。それだけで新しい情報が手に入るのなら安く、もちろん比喩だが、少なくとも九華はこの世界で初めて微かな陽光を浴びた気がした。
足が気づいたら、鉄になっていた。これは比喩ではない。登山などをした際に足の疲労が限界に達した時、よく、歩きすぎて足が棒になった、なんていう表現が使われることがある。だが、言ってしまえば実際に足が棒になることは無い。腿、膝、脛と伸びる棒の先端には足首や指、足裏といった棒と呼ぶには邪魔なパーツがつき散らかしているからだ。
今の自分達には、それすらない。ただ、細く伸ばした粘土のような一本の足がくっつき、その足の先端は箸みたいに丸まっている。
その先端がもう歩くにつれて、硬化に硬化を繰り返して、遂には足を進める度にあれほど頑丈に見えた地面を掘ってしまうほどだった。それだけ、歩いたのだ。なのに景色は、綺麗すぎる更地の無限迷宮。
段々と肩が前に出てくる。不思議と前傾姿勢になってしまい、腕も前に出る。外から触るとクッション性で柔らかい肌も、その内部では、変に人間時代の名残か、重くなった腰が悲鳴を上げていた。
四人はあれから、あまり会話をしていなかった。唯一の希望を見出して歩き始めたはいいものの、それがいつゴールを迎えるのか、そもそもそこにゴールはあるのか、というような懐疑的な自問自答を繰り返す時間だけをただ与えられるだけだったからだ。
そしてそんな邪推をしてもなお、誰も止まろうとしないのは、恐らくそれは前向きな姿勢などでは無く、誰も自分達が歩いてきたこの軌跡を否定したくないという、ただそれだけの理由でしか無かった。
九華は必死に前を向く。お腹の口が勝手に少し開いて、浅い吐息を漏らす。その状態でも、ただ少しでも前に進む。自分が止まったら、みんなも止まってしまう。ならば、倒れるまで歩くしかない、そう思っていた。
矢先だった。
「……あ、あ!聞こえてきた!さっきの砂の音とうめき声!」
由依の声が、列の一番後ろから聞こえてくる。九華はゆっくりと頭を振り向かせ、肩を揺らしながら聞き返す。
「由依さん……あなた、集中して聞くのって数時間に一回しか出来なかったんじゃなかったっけ……?」
「それをしなくても聞こえてきたんだよ!多分……!近い……!」
「時原さん……、それ本当にほんと……?俺、結構もう限界なんだけど……」
睡方が訝しげに由依に詰める。今までのことがあるからか、信頼半分、疑念半分といったような表情。
だが、九華はそれを信じられた。彼女の耳は常時、人より聞こえる範囲が広く、それに意識を集中させることでその範囲を大幅に拡大出来る。その集中なくとも聞こえるのだから、その音主は、もうすぐ近くに……。
────ザザッ……ザッ……ザザッ
「あ、聞こえた!」
────……ぁう……ぁ……うぁ
「うわあああ!俺も聞こえた!しかもなんか、声気持ち悪!」
「みんな、あれ……」
想汰が腕を前に向ける。その方向に見えたのは、人の影。蜃気楼に揺らめくようにしてはっきりとは見えないが、確かに、人型の。
「き、きた……!やっと自分達以外の……見つけた……」
九華は後ろの三人を手で制するようにして、足を止める。これは、またとない機会だ。もしかしたら、早々に預言者の風句二に会えた可能性だってある。もしそうで無かったとしても、対話は出来るか分からないが何かこの世界に関する情報を得れるはずだ。というか、そうでないと困る、とこの足が言っている。
「良い?みんな、これは絶好のチャンスよ。分からないことだらけのこの世界を解明する機会であり、うまくいけば現実世界に帰れる鍵となる情報を見つけられるかもしれないわ。慎重に近づいて、何でもいいから引き出すように、」
「ちょっと待って、九っち!」
「どうしたの?」
「……足音、してる。音がどんどん、近くなってる。多分……あっちから歩いてきてる!」
由依にそう言われて、思わず振り返る。彼女の言う通り、その姿は自分達からもう数十メートル先まで迫っており、今もその距離を詰めつつあった。そして、遂に見えた全身を見て、九華は震えた。
確かに、人型だった。でも、なぜ姿が霧も無いこの景色で揺らめいていたのか。それは、近づいてくるそれが、舞い上がった砂塵が渦巻くように人の形を構成し、時折吹く風により、全身が飛散しそうになっていたからであった。
身長は平均の成人男性ぐらいで、中学生の自分達よりはよっぽど高い。顔の目と口の部分には、それらがぽっかりと空いたように黒い渦が巻いており、正直言って恐怖を感じざるを得ない見た目だった。その部分から聞こえてくるうめき声も意味を聞き取ることは出来ず、ただただ不安感を煽る材料にしかなっていない。そんな竜巻に巻き上げられて人型になったような砂の粒が、こちらへとゆっくり近づいてきており。
「うわ何あれ!?キモ!」
「ちょっと……!あいつに聞こえたらどうするのよ……!」
思わず大声を上げてしまった睡方に内心同感しながらも、それを説き伏せる。あんな見た目でも一応この世界での第一発見住民?なのだ。いくら異形でも失礼と思われてしまったら、こちらの話を聞いてもらうことは出来ないだろう。
────……うぅあ…ぁうあ……うぁ……うぁあ……
「くっ……!」
距離が縮まることで、更に呻き声が頭の中で大きく響く。眼下のその異形に狼狽えてしまった九華は思わず後退りをすると、苦笑いで睡方に話しかける。
「ねえ……約束したわよね?こういう時はあんたが先行くって……」
睡方は無い目を見開いたように、全身を反射的に反応させ。
「はぁ!?お前まじかよ!?いや無理、無理だって!というか、そもそもお前が勝手に言っただけだろ!他のみんなは、どうなんだよ!?」
「……え、えー……ウチは、遠くの音が聞こえるっていう、能力があるからー……。あんまり、失ったら困っちゃうと思うしー……」
「……このチームは、僕のような聡明な頭脳を失うわけにはいかない。ああ、そうだ。……そうに違いない」
由依はその両腕の先端同士を何度もくっつけるようにして、目を逸らしながら。想汰は俯くようにして、無い眼鏡を上げるように手を動かしながら。
「……ほんとに言ってんのかよ……!?というか、なんで死ぬ前提なんだよ!」
「ああ、分かった分かった!あんたも行ったら、私達も行くから!とりあえず、」
九華は睡方の後ろへと回り、背中を強く押していった。そのまま、その異形がもう十メートル先まで近づいているのを捉え、動線上に彼を誘導し、その背中を思いっきり押して。
「行ってきなさい!」
「うぁあ!」
睡方は吹っ飛ばされ、その体を前に出した。彼に近づいてくる異形。視力は無いのか、ただその黒い空洞を真っ直ぐ見るようにして、歩みを進めている。
「あぁ!お前ら!死なずに帰ってきたら褒めろよな!」
睡方は思い切り頭を掻くと、もう仕方ない、といった様子で足を進めた。そして、そのまま彼は喋りかけ。
「……あのー、すいません」
向かってくる異形に、自信なさげに声をかけている彼の姿を少し遠くから見守る九華含む三人。だが、声をかけられてもその異形は止まる気配は愚か、微かな反応すらも見せずに、棒立ちになっている睡方に近づいてくる。眼前に接近したぐらいのところで、彼はもう一度声を上げた。
「あの!すいません!俺達この変な世界に迷い込んじゃって!現実世界に帰りたいんですけど!」
その張り上げた声に、やっと異形は反応を見せた。その場所にだけ吹き上げられた風が砂塵を巻き上げており、それで構成された不気味極まりない顔が睡方の顔を覗き込む。真っ黒に塗りつぶされたような大きな目と口を模した渦。その迫力に睡方は体を強張らせて固まっていると。
異形は再び顔を上げ、何も無かったかのように歩き出した。そのまま歩いたにも関わらず、砂塵ゆえか異形は彼の体を通過し、今度はこちらに向かってくる。彼は驚きと恐怖のあまり、その場にへたり込んだ。向かってくる異形に、今度は九華が小走りで詰め寄る。異形の歩くスピードに合わせながら、隣を共に歩くようにして彼女は質問を繰り出した。
「あのすいません、私、瀬尾九華って言うんですけど、あの失礼ですが、あなたは一体何者なんでしょうか?元々、私達と同じ人間だったりするんですか?」
異形は反応を見せず、前を向いたままゆっくりと足を進める。それでも、九華は続ける。
「この世界って、一体なんなんですか?どこなんですか?」
「……」
「現実世界は滅亡してしまったのでしょうか?それともここ自体が現実世界なんでしょうか?」
「……」
「この世界には、あなた以外にもまだ生命体のような存在がいるんでしょうか?」
「……」
「……預言者の、雨宮風句二という人を知っていますか?またはこの世界で、そのような人を見ませんでしたか?あの、四十代くらいの男性で、丸刈りで、白装束のようなものを着ていて、首からしめ縄を下げていて、」
その瞬間、異形の顔が初めてこちらを向いた。一瞬狼狽えるが、九華はチャンスだと思い、声を上擦らせる。
「知ってるんですか!?」
彼女が返答をした後。異形はおもむろに虚空に手を伸ばすと、突然小さく砂塵を発生させ、それを長細い筒状にしてそのぽっかりと開いた口へと当てた。そして困惑する暇もなく、異形が恐らく息を勢いよく吐いた音がして。
────ヒュン
「いった!」
風を切ったような音。遅れて、筒から自分の足に何かが刺さった感覚が伝わってきて、九華は反射的に足を手で持ち上げ、悶絶するようにその場で跳ねる。
刺さったのは、一本の細い矢だった。不思議にも、その矢は刺さるとすぐに全体が砂になって地面に溢れ落ち、跡形も無くなっていた。
「……うぁあ……あぁ……うぁ」
「ちょっと……待ちなさいよ……!」
気づいたら、異形は彼女を追い越していた。後を追おうと自分の足を押さえながら、その巻き上がった砂塵の背中を見るが。想汰と由依の二人が並んでいる横を通る直前、その異形の体は無数に散っていき、空気中に浮かぶ塵となって姿を消した。
「……。……あぁ!もう!」
すぐさま固めた拳で、九華は地面を思い切り殴る。音の響かない、感情の発散。凛とした顔をした由依が小さく呟くと、彼女は勢いのまま言葉をかける。
「……聞こえた。声」
「あいつの!?」
「……う、うん」
「なんて言ってた!?」
由依は、少し俯いて。
「フキヤ……って」
フキヤ。吹き矢。九華は静かに足を撫でる。
「そんなの……、分かってるわよ!!!!」
慟哭と共に、彼女は地面に背中をつけた。
決して座り心地の良くない地面。見た目通りの硬さがクッション性の肌で緩和されてギリギリ休めるといった感じ。
長旅の末に、得たものは矢を一つ受けたのみ。そんな事実に四人は打ちひしがれたまま、お互いに向き合って座り、話し合っていた。
「はぁ……。本当に最悪よ、あいつ。なんでしかもあんたは喰らってないのよ!」
九華は未だ無意識に足を撫でる。流石にもう痛みは引いたが、それでもあの瞬間の衝撃が忘れられなかった。睡方はあぐらに頬杖をつき、手で支えるようにして。
「知らねえよ。俺を囮にしようとした罰でも当たったんじゃないか?」
「囮じゃないわ。成長の機会を与えてあげたのよ」
「お前なぁ……」
九華と睡方のそれぞれの応酬を縫って、由依が呟く。
「……ごめんね。ウチのせいで」
正座のまま俯く彼女を見て、九華は口喧嘩の手を止め、微かに笑う。
「別に、由依さんのせいじゃないわ。逆にあなたが音を聞いてくれなかったら、私達は今も何も無いところをずっと彷徨ってしまってたかもしれないんだから」
彼女を励ましながらも、九華は自分の心の奥底にある不安を頭に上らせる。体内時計の感覚からして、今までで歩いてきた時間は恐らく数十時間以上。その果てに得られた情報獲得のチャンスを無駄にしてしまったのだ。
もちろんここで止まってはいられない。だが今の段階では、探索に頼れるのは由依の聴覚のみ。それも一度使うだけで彼女の体力を大幅に消耗してしまう。そうなると余りにも彼女に負担がいきすぎるし、何より足が保たない。
やはり、もう一つ頼りたいものがある。
「ねえ」
九華は想太の方を向く。ほんの少し隆起した地面の突起に腰掛ける彼は、腕を組んだままぶっきらぼうに答える。
「なんだ」
「やっぱりあんたの目、どうにかなんないの?これからのことを考えると、流石に由依さんだけに頼りっきりだとまずいと思うんだけど」
何度見ただろう、というポーズで彼は沈黙する。だが、今回は初めから出ていた結論を再確認するだけのような、短い時間だった。
「そう言われても、僕にはどうすることも出来ない」
「何かのスイッチを探せばいいんでしょ?その、眼鏡を外して裸眼になる、みたいなそういう切り替えの」
「それはそうだ。だが、どうする?このだだっ広い広場をまた歩いて、フレームでも探しに行くのか?」
「そこまで言ってないわよ。うーん、じゃあ眼鏡を外すフリでもいいんじゃないの?実際、気持ちの問題なのかもしれないわよ」
「君は本当に勝手なことを言うな……」
言いながらも、彼は自分の顔付近に手を持っていく。三人が彼の顔に注視する中、その手を文字通り眼鏡を外すように振り下ろした。
……。ただ彼の顔を見る時間だった。
「やって損した。こんなので上手くいってたまるか」
腕をだらんと重力に任せた後、お腹の口を尖らせる。それでも九華は間髪入れずに、次の言葉を発して。
「……じゃ、じゃあ!次はもう代わりのスイッチを探すわよ!」
「代わり?」
「そう、眼鏡をかけるという行動に代わる、新しく能力を発揮させるスイッチよ」
訝しげに彼は九華の顔を覗き込む。
「……はぁ。例えば?」
九華はしばらく首を捻って、思考を巡らす。大気を流れる白のオーブや塵が、頭のかさの溝に溜まっていく。そして彼女は突如立ち上がったと思うと、その動きでそれが全部落ちて。
「うーん……、顔の中心を引っ張って伸ばすとかはどうかしら?」
耐えきれなくなった想太は、釣られて立ち上がり。両手を広げ、それを胴の前でぶんぶんと振り回すように力強く訴えかける。
「いい加減にしろ!君は僕をおもちゃかなんかだと思っているのか!?それとも本気でそれでいけるとでも思ったのか!?」
「だって!その方が一番現実的で想像しやすいことだわ!さあ!ほら、顔を差し出して!」
「差し出すわけないだろ!君には人の心が無いのか!?」
お互い激しく言葉をぶつけ合う。その下で、座っている二人は苦笑いをした状態で一瞬目を合わせていた。
あまりにも動きをつけて討論するものだから、まるでミュージカルのような迫力があり、睡方は止めようと思いつつも、彼らの姿を交互に見ることにしばし夢中になっていた。
その時、彼は何かに気づいたような顔がして、突然声を上げる。
「ちょ、ちょっと待って!儘波君!」
「今度は何だ!?」
勢いづく想太が返す。睡方は何か想太の腰の後ろ側を丸まった手で指すようにして、九華と由依を彼の後ろに誘導した。そこには、勿論のこと、何の変哲もない彼の体の滑らかな後ろ側の肌がある。だが睡方が指している腰の部分を見ると、前言を撤回することとなった。
「これ、何?この、ちょっとだけ沈んでいる部分」
想太の腰の後ろ側、もっと詳細に言うと尾骨。その部分にある肌が他と触り心地も模様も変わらないのだが、唯一周辺の肌よりも少し体の内側に沈んでいるのだ。
睡方がそこを人差し指で触ると、想太は順当にくすぐったそうにしている。呆れながらもその様子を見て、九華は一つの可能性を感じた。
「……もしかして。そこ、押せたりするんじゃない?」
「え?ここ?」
言いながら、睡方は指を奥に押し込んだ。そうすると、予想通りその一部分の肌が指の力に押され中に入っていき、カチッという軽い音がして止まった。
その瞬間、軽い音と共に彼の顔の中心が勢いよく伸び、まるで顔から望遠鏡が出てきたようになった。さながらキツツキ。さながらピノキオ。
「うわぁあああ!顔が伸びてるよ!儘波君!」
飛び出した勢いで、一瞬全身が前に倒れそうになったが、想太は即座に反応し、なんとか踏ん張った。足元に出来た、ほんの少し削られた地面が証拠で。
彼は困惑の声を漏らす前よりも先に、思わず周囲を見渡す。振り向く度に顔の伸びた部分が風を切るような音をさせており、そのまま昔を回顧するような口ぶりで呟いた。
「……見える。遠くまではっきりと見える」
九華は分かりやすく声のトーンを上げると、体全身を動かし、想太に訴えかけた。
「まさか本当にスイッチがあるなんて……。で!どう!?なんか見えた!?」
「いや、この近くには何も無い。けど、」
落胆しそうな肩を思わず引き戻す。彼は言葉を紡ぐ余裕を残したまま、その伸びた顔の部分の下側を片手で撫でるように触る。
昔扱った覚えがある道具の、使い方を思い出すような素振り。目隠しされた状態で箱の中に手だけを入れ、何が入っているか当てるゲームをしているみたいな、そんな慎重さと逡巡が混ざり合う動きだった。
悩んでいる想太を見て、由依が一つ気づく。今度指されたのは、頭の方。
「あれ?想っちの頭の上ってあんな飛び出てたっけ?」
言われて確認しようとするが、九華はいくら顎を天に向けてもそれを分からない。それでも由依が指すので、彼女は必死にその場で何回かジャンプをして、やっとその存在を視界の端に捉えられた。再び腕を組み直し。
「あー、なんかボタンみたいなのがあるわね。確かにさっきまでは無かったかも……」
「ボタン?僕の頭の上にボタンがあるのか?」
「ん〜多分だけど、そだと思う!」
由依の問いかけに、彼は思い立ったような口ぶりで。
「……そうか。やはり、そうだ!」
徐に想太はその顔の伸びた部分を、自身の開いた両手で包み込む。そのまま左手は添えるように、右手を時計回りにするようにしてその伸びた部分の中腹をくるくると回し始めた。
すると、その顔の伸びた部分の先端が動きに応じて更に伸びていく。伸びて、伸びて、しばらくしたら止まったが、その長さはスイッチを押したばかりの頃と比べると、実に約一・五倍にもなっていた。
「更に遠くまで見える……!そして捉えた!」
そう言うと、彼はその伸びた部分から片手を離し、その手を自分の頭の上へと持っていった。そして頭のかさから上に飛び出ている突起に触れると、それが力のまま手によって押し込まれ。
────カシャッ
紙を丸めたような、軽い音がした。それがシャッター音だと分かったのは、彼の全身からやけに機械的な駆動音が聞こえた後、彼のおでこの辺りに開いた溝から、だらんと垂れるように写真が飛び出してからだった。
前髪のように彼の顔を覗き込むその写真を、想汰は片手で勢いよく取る。それを三人に見せる際に振り返ろうとして、伸びた顔の先端が由依にぶつかりそうになったのがあり、彼は自分の背中を這うように腰のスイッチを探って押すことで、その伸縮を自分で制御出来るようになった。
見せてもらった写真には、今までと違って建物が写っていた。幾らかズームをしたのか全体的な画質は良いものは言えなかったため、細かい部分に関しては拾いきれなかったが、それでも大まかな外観を理解するには十分すぎるほどの情報量だった。
「周辺で目星しいものは、とりあえずこれしか無かった。視界に映る目盛りから推定して、この建物はここから約三五〇〇メートル、南に離れた場所にある。三・五キロとなると、そこまで遠くないから行ってみる価値は大いにあると思う」
写真へと意識を集中させていた九華は、想汰の余りの冷静な口ぶりに驚き、視線を思わず彼に移すと、両手を前に差し出して突っかかる。
「ちょちょちょちょっと待って!?あり得ないことが今起きたんだけど!なんであんたのおでこから写真が出るのよ!それに視界に目盛りがあるって……!?」
「僕に全てが分かるわけないだろ。ただ、あの伸びた顔を触っている時に感じた既視感。僕はそれに賭けた。それが連想ゲーム的に成功したというわけだ」
九華の腕を組む強さが、彼の話を聞く度にますます指数関数的に増えていく。遂には目すら無いその顔にも、眉を顰めているということだけは分かるような皺が出ていて。
「……つまり、どういうことよ」
「頭の上にボタンがあると聞いて、合点がいった。そう、僕のあの長く伸びた顔はレンズだ。既視感の正体は、いつも取材の時に首からぶら下げていたカメラを持っている感覚だったんだ」
「要するに……。儘波君はカメラとくっついちゃったってことか?」
「恐らく、そうだ」
いや、なぜくっついてしまったのかを知りたいのだが、と心の中で浮かんだ疑問を九華は何とか抑え込んだ。
正直、想太の目が使えるようになっただけでもう状況は非常に好転したからだ。次に行くべき目的地も、もう示された。彼女を覆っていた不安が無くなった時、細かいことはどうでもよくなった。
「はぁ……、もういいわ。とりあえずじゃあここでしばらく休んで、また良い頃合いになったらその場所に向かうわよ」
三人が全員了承の意味で頷き、頭のかさをわずかに揺らす。それを言い終わってから、九華は自分が放った言葉にほんの少し驚きを感じた。
いつもの自分なら、三人を連れ出してまで今すぐ歩き出し、強引にも次の目的地へと向かったはずだ。
実際、三・五キロなんて推定で今の今まで歩いてきた距離の十分の一ぐらいだろう、別に苦しい距離じゃない、そのはずなのに。
彼女は自分の足を、手で撫でる。振り返り、自分達が歩いてきたその足跡の伸びる先へと視線を移し。
もう、軌跡の始まりは見えなくなっていた。地平線が足跡を飲み込み、灰白色の世界へと溶けさせている。それでも、足へとのしかかるその重みが事実を忘れるなと烙印を押してきていて。
彼女は、今日初めて限界というものを知った。そんな気がした、だけかもしれないが実際今の状態では足を動かすことはあまり気分が乗らない。心では今すぐ、という極めて能動的な存在が促している、だがそこに体が追いついてこない。だから。
少しばかり、止まりたいと思ってしまった。
各々が不安から解放され、足を崩して休んでいる。そんな中、未だに正座をしたまま、膝に置いた握り拳を震わせ、顔を少し俯かせているのは、由依だった。
彼女は立ち上がると、あぐらをかいて大きく伸びをしている睡方の方へと近づく。彼の肩を叩くと、口元で手を隠すようにして何やら耳打ちをしてるようだった。
話し終わったのか、睡方が立ち上がる。彼は無い癖っ毛を押さえるようにして頭を撫でながら、今度は足を伸ばしている九華へと近づいてきた。
「あ、あのさ。由依さんからの伝言なんだけど……」
「何よ」
「どうしても休む前に、みんなで集合写真が撮りたいんだって」
視界の端で、立ったままの由依がこちらに両手を合わせ、頼み込むように頭を下げている。内心、九華は拍子抜けして二つ返事で。
「ああ、別にいいじゃない。想太!ちょっと!」
地面に腰掛けていた想太を呼んで立ち上がらせると、自分もその重い腰を上げる。睡方が振り返ってOKサインを出すと、由依は万歳をしたままその場で跳ね、嬉しそうにしていた。
想太の腰にあるスイッチを押し、そのレンズを飛び出させる。二回目でも驚くが、まあじきに慣れるだろうと九華は心にムチを打つ。
だが、この場合四人で映るにはカメラを自分達とは離れた場所に置かなければならなかった。そのため強行手段として、三人の力を合わせて彼の顔先のレンズを綱引きで引き剥がすことにした。
もちろん彼は酷く呻き声を上げたが、その甲斐あってなんとかレンズと彼を分離することが出来た。分離したレンズはまるで取られたことを理解していないかのように、彼の顔と同じ高さでぷかぷかと浮いており、それが非常に都合が良かった。
レンズを設置し、まっさらで何も無い世界を背景に四人が立ち並ぶ。身長の差が激しく、光景としては山脈のようだったが、それを言及して九華が得することはないため、わざと口に出さなかった。
彼女は、隣に並んだ由依に疑問を投げかける。
「ねえ、なんでわざわざ睡方を通したのよ。真向かいにいたんだから、直接私に言えば良いじゃない」
由依は、面食らったような顔をした後、片手を頭の後ろにやってどこか苦笑いで。
「いや〜、なんかあんまりみんなの役に立てなかったから……さ。それなのに、ウチが急にそんなこと言い出したらやばいかな〜って。でも、せっかくカメラがあるなら、撮った方がいいかな〜って思って、それで……睡っちに……」
目線を故意的に合わせないように、言葉をしどろもどろに紡いでいる姿。その細身の長身をもじもじと横に震わせている様を見て、九華は内心驚いた。一つは、彼女のこんな明確に動揺した姿をあまり見たことがなかったから。もう一つは、そんな小さなことを引きずって、悩んでいたのかということで。
「……なんか、らしくないわね」
「……え?」
「いや、あんたっていつもハツラツとしてて、すごい楽観的に物事を考える人っていう、そういうイメージがあったから」
由依は一瞬、動きを止める。その時の九華の目には、彼女のお腹で縦に割れた口の端がほんの少し震えたような気がした。何気ない素振りで、またいつものふわふわとした口調に戻り。
「……へぇ〜。ウチって九っちからもそう見られてたんだ〜。なんか、光栄かも!」
四肢をバタつかせるようにして、大きめのジェスチャーで話を進める。九華は両手を腰に当てると、彼女の目を見る。だが、少し照れくさい気持ちがあり、すぐに視線を虚空に移し、まるで独り言のような口ぶりのまま喋り出す。
「別に、私も多分彼らもそんな気にしてないわよ。なんなら、ここまで連れてくれた感謝の気持ちの方が大きいはずだわ」
「九っち……」
「だから……。とりあえずあんたは、あんたらしくしとけばいいのよ。いつもみたいに」
「……うん!ありがと!」
吐き捨てるように言ってしまったことを少し後悔する。それでも彼女は、柔らかな微笑みでこちらを向いたまま両手を胸に前に出し、強くその拳を握って前を向いていた。反対側の隣の想汰が、背中を向けている自分を小突く。
「おーい、撮るぞ」
頭のボタンに手をかけている彼が、レンズの方を向いている。他の三人もそれに合わせて同じ場所を向き、自由にポーズを決めて刹那、彼はシャッターを切った。
出てきた写真に映っているのは、それぞれ個性もバラバラの四人。全員の全身が映るように配慮したせいか、主に一人のせいで引き気味の写真になっていたが、それはそれで味があって良かった。
その写真を天に掲げるようにして眺めながら、新聞部の面々は地面に寝転び、束の間の休息に身を委ねていた。