第0.6話①:録、いつか、この瞬間が
歩く。ただ、歩く。
雄大に広がる、灰白色の石灰岩のような凹凸のある地面が、地平線の向こう側まで続いている。人や植物、動物を始めとした生物も、建物やその残骸を始めとした無機物も、見える限りのその世界には何も無い。
ただ、地面を踏みしめる。クッション性の高い丸まった足が、何度もゴツゴツとした岩肌の上を通っていくことで、まるでギターの弦を押さえる指がそうなっていくように、進むにつれて足先が段々と硬化しているのが分かった。
だからと言って、歩きやすくなったとかそういう事はないのだが、もう歩きだしてから決して少なくはない時間が経っていることを示すには、十分なエビデンスだった。
九華は、歩きながら後ろを振り返る。自分を先頭に、想汰、睡方、由依の縦一列で並び、隊列を崩さず行進を続けるその姿。奇しくもあの日、預言者の家に取材に行った時と同じ隊列のまま、新聞部の四人はいくら進んでも変わらない景色の中をただ直進するのみ。
時計なんてものはもちろんないし、なんなら現実では当たり前のように空に浮かんでいた太陽も、月も、未だ目にしていない。それでも、世界全体はまるで蛍光灯の電気をつけた部屋のような一定の明るさを保っており、まさに不変を体現したかのよう。それゆえ、自分達が歩き出してからどれくらい経ったかを測る指標なんてなく、変わらない景色を視界に継続して映しているからか、そもそも自分達が動いているのかすらも危うくなるほどだった。
一端の希望となったのは足跡だった。足が硬化するにつれて、徐々に地面に沈み込むようになり、四人の足跡が綺麗に自分達の歩いた場所を示している。だから時々後方を振り返り、それを確認して自分の心の安息を回復させるのが、早くも九華のルーティーンと課していた。
「しっかし……あまりにも何も無いわね……」
先ほどから周囲を注視しながら歩いているのだが、驚くほど何も現れない。人影や別の生物の気配すらも無く、元人間が四人揃って見ているのに、対価に見合わない収穫さえも獲得出来ず、段々と集中力も切れ始めていた。
「ねー、しりとりしなーい?」
言い出したのは、最後尾で頭の後ろで腕を組んでいる由依だった。普段だったら、すぐさま撤回させていた提案だったが、流石に何も進展のないこの状況においては九華も、それを許さざるを得なかった。睡方も想汰も、疲れからか、無言で了承した。
「……はぁ、良いわよ。その代わり、ちゃんと周囲の確認、忘れないようにね」
「やったー! じゃあ私、睡っち、想っち、九っちの順番ね」
「御託はいい。早くこの暇を埋めてくれ」
想太に急かされ、由依は頭に手を置く。
「おけおけ。うーん、じゃあしりとりの『り』から、りんご! はい、睡っち」
「ご、ご……。ゴリラ」
「ランゲルハンス島」
後ろから聞こえてきて、九華は思わず肩を落とす。困惑する睡方の声もかすかに背中に受けながら。
「はぁ……。なんか腹立つわ。はい、宇宙」
「海!」
「み、み……店」
「生活困窮者自立支援法」
「……運動会」
「苺のショートケーキ!」
あまりにも元気よく聞こえてきたものだからスルーしそうになるが、九華は即座に返す。
「ダメよ。それならなんでもよくなっちゃうじゃない」
「ちぇー。あ、じゃあ! いちごシェイク!」
「く、く、靴……」
「……。追求」
「ちょっと」
足を止めないまま振り返る。何か、と言いたげなその顔を見上げて。
「あんた、わざとやってるでしょ。さっきから『う』攻めばっかりしてるじゃない」
「もちろんだ、効率的に勝つにはこの方法が一番良いからな」
「なんでこんな状況になってまでしりとりの勝利に執着できるのよ。で、あと睡方!」
「な、なんだよ」
呼ばれると思ってなかったのか、面食らった顔をしたようにその頭のかさを揺らす。
「何よ、『店』、とか、『靴』とか、小学生じゃないんだから!」
「べ、別に、簡単な言葉言っちゃいけないなんてルール、どこにもないだろ!? 思いついたから言ったんだよ」
「そうは言っても、遊びが無いのよ遊びが。はぁ、もうしりとりはやめよやめ! 周囲の観察を再開!」
前に向き戻り、また何もない世界への注視を九華は再開する。列の後ろの方で、騒々しい掛け合いが聞こえ。
「えー! ウチ、まだまだ出したりないよー! う、だから、ウール! ほら、睡っち!」
「え? ウールって、何?」
「うぇ? あー、よく分かんないけど、なんかモコモコしたやつ! 確か制服のタグに書いてあった気がする!」
「ああ、じゃあ、る、る……。る……、ん? ちょっと待てよ。る……る……」
それから、しばらくしても自分の番が回ってくることは無かった。おろか、想太に回ることもなく、飽きてしまった由依も自然と周囲の観察に意識を移していた。睡方が、る、る、と呟き続ける中。
足は、前へ前へと動いている。動いているはず、なのに彼方に見える地平線が嘲るようにずっと居座っている。
そんな中、九華はふと思い立つ。いつも取材に行く時、何かを見つけるために使っていたあの能力のことを。
「そういえば、想太」
「今度は何だよ」
「前はあんた、眼鏡を外すと遠くが見えるっていうのがあったじゃない? 今はそれ使えないの?」
想太はそれを聞くと顎に手を当てて少し俯いた。いくらかの沈黙の後、進みながら彼は前を向く。
「今のところ、そういうのは感じられないな。あれは眼鏡を外すという、一種のスイッチによって裸眼に切り替わり、それによって近くのものは見えなくなるが、反して遠くのものはよく見えるようになるといういわば体質のようなものだ。それが今のこの体に継承されているかどうかは怪しいが、そもそも今は見ての通り外す眼鏡すらつけていない。ゆえに、スイッチがないから能力を発揮することは出来ない」
「うーん……回りくどいけど、言いたいことは分かるわ。じゃあ、由依さんはどう?」
「やってないから分かんないけど、多分出来ると思う! 想っちと違って、とりあえずウチは意識を集中しようって思ったら出来るから」
「分かった。それじゃあとりあえずやってみて。睡方は、倒れないように由依さんの手を引いてて」
睡方の簡単な返事が聞こえてきてすぐ、由依は小さく唸り声を上げる。こちらからは確認出来ないが恐らくいつものように目を瞑り、口に力を入れているはずだ。もうこの体にはそんな部位などない、故に感覚が走るのみだろうが。
四人は足を進める。三人は変わらず周囲を注視しながら、由依の次の言葉を待ったままで。
しばらく歩いた後、彼女は息を思い切り吐いた。お腹の口が大きく開いて閉じて、呼吸のような動きをする。息切れの状態で彼女は絞り出すようにして。
「はぁ……! はぁ……! 九っち……!」
「どうだった?」
「……音、聞こえたよ。それも、声も!」
「ほんと!?」
九華が体を後ろにした状態で歩く。つられて、想太も飢えていた新情報に興味を見せる。由依は睡方の手を支えにしてしばし一気に使いすぎた体力のせいで乱れた息を落ち着かせる。
「……ここから、左斜めにずーっと行ったところ。どんだけ遠いかは分かんないけど。音はねー、なんか砂がぶつかり合うというか擦れ合うみたいな音! 声は何言ってるかは分かんなかったけど、なんか『うわうわうわ』みたいな低めのうめき声? みたいなのが聞こえてきた!」
「分かったわ、ありがとう。そしたらみんな進路を変えましょうか」
「ああ」
「ふぁーい」
全く足の揃える気のない真っ直ぐに伸びた雑多な足跡が、それを行進だというのかと自分達に問うてきているような気がする。
その足跡を残す方向を、少し斜めに変えるだけの簡単な仕事。それだけで新しい情報が手に入るのなら安く、もちろん比喩だが、少なくとも九華はこの世界で初めて微かな陽光を浴びた気がした。
足が気づいたら、鉄になっていた。これは比喩ではない。登山などをした際に足の疲労が限界に達した時、よく、歩きすぎて足が棒になった、なんていう表現が使われることがある。言ってしまえば実際に足が棒になることは無い。腿、膝、脛と伸びる棒の先端には足首や指、足裏といった棒と呼ぶには邪魔なパーツがつき散らかしているからだ。
今の自分達には、それすらない。ただ、細く伸ばした粘土のような一本の足がくっつき、その足の先端は箸みたいに丸まっている。
その先端がもう歩くにつれて、硬化に硬化を繰り返して、遂には足を進める度にあれほど頑丈に見えた地面を掘ってしまうほどだった。それだけ歩いたのだ。なのに景色は綺麗すぎる更地の無限迷宮。
段々と肩が前に出てくる。不思議と前傾姿勢になってしまい、腕も前に出る。外から触るとクッション性で柔らかい肌も、その内部では、変に人間時代の名残か、重くなった腰が悲鳴を上げていた。
四人はあれからあまり会話をしていなかった。唯一の希望を見出して歩き始めたはいいものの、それがいつゴールを迎えるのか、そもそもそこにゴールはあるのか、というような懐疑的な自問自答を繰り返す時間だけをただ与えられるだけだったからだ。
そしてそんな邪推をしてもなお、誰も止まろうとしないのは、恐らくそれは前向きな姿勢などでは無く、誰も自分達が歩いてきたこの軌跡を否定したくないという、ただそれだけの理由でしか無かった。
九華は必死に前を向く。お腹の口が勝手に少し開いて、浅い吐息を漏らす。その状態でも少しずつ前に進む。自分が止まったらみんなも止まってしまう。ならば倒れるまで歩くしかない、そう思っていた。
矢先だった。
「……あ、あ! 聞こえてきた! さっきの砂の音とうめき声!」
由依の声が、列の一番後ろから聞こえてくる。九華はゆっくりと頭を振り向かせ、肩を揺らしながら聞き返す。
「由依さん……あなた、集中して聞くのって数時間に一回しか出来なかったんじゃなかったっけ……?」
「それをしなくても聞こえてきたんだよ! だから多分……近い……!」
「時原さん……、それ本当にほんと……? 俺、結構もう限界なんだけど……」
睡方が訝しげに由依に詰める。今までのことがあるからか、信頼半分、疑念半分といったような表情。
だが、九華はそれを信じられた。彼女の耳は常時人より聞こえる範囲が広く、それに意識を集中させることでその範囲を大幅に拡大出来る。その集中なくとも聞こえるのだから、その音主はもうすぐ近くに……。
────ザザッ……ザッ……ザザッ
「あ、聞こえた!」
────……ぁう……ぁ……うぁ
「うわあああ! 俺も聞こえた! しかもなんか、声気持ち悪……」
「みんな、あれ……」
想汰が腕を前に向ける。その方向に見えたのは、人の影。蜃気楼に揺らめくようにしてはっきりとは見えないが、確かに、人型の。
「き、きた……! やっと見つけられた……自分達以外の……」
九華は後ろの三人を手で制するようにして足を止める。これはまたとない機会だ。もしかしたら、早々に預言者の風句二に会えた可能性だってある。もしそうで無かったとしても、対話は出来るか不明だが何かこの世界に関する情報を得れるはずだ。というか、そうでないと困る、とこの足も言っている。
「良い? みんな、これは絶好のチャンスよ。分からないことだらけのこの世界を解明する機会であり、うまくいけば現実世界に帰れる鍵となる情報を見つけられるかもしれないわ。慎重に近づいて、何でもいいから引き出すように、」
「ちょっと待って、九っち!」
「どうしたの?」
「……足音してる。音がどんどん、近くなってる。多分……あっちから歩いてきてる!」
由依にそう言われて、思わず振り返る。彼女の言う通り、その姿は自分達からもう数十メートル先まで迫っており、今もその距離を詰めつつあった。そして、遂に見えた全身を見て、九華は震えた。
確かに、人型だった。でも、なぜ姿が霧も無いこの景色で揺らめいていたのか。それは、近づいてくるその人型が、舞い上がった砂塵が渦巻くように人の形を構成しているものであり、時折吹く風により全身が飛散しそうになっていたからだった。
身長は平均の成人男性ぐらいで、中学生の自分達よりはよっぽど高い。顔の目と口の部分には、それらがぽっかりと空いたように黒い渦が巻いており、正直言って恐怖を感じざるを得ない見た目だった。その部分から聞こえてくるうめき声も明確な言葉を聞き取ることは出来ず、ただただ不安感を煽る材料にしかなっていない。そんな竜巻に巻き上げられて人型になった砂の粒が、こちらへとゆっくり近づいてきており。
「うわ何あれ!? キモ!」
「ちょっと……! あいつに聞こえたらどうするのよ……!」
思わず大声を上げてしまった睡方に内心同感しながらも、それを説き伏せる。あんな見た目でも一応この世界での第一発見住民なのだ。いくら異形でも失礼と思われてしまったら、こちらの話を聞いてもらうことは出来ないだろう。
────……うぅあ…ぁうあ……うぁ……うぁあ……
「くっ……!」
距離が縮まることで、更に呻き声が頭の中で大きく響く。眼下のその異形に狼狽えてしまった九華は思わず後退りをすると、苦笑いで睡方に話しかける。
「ねえ……約束したわよね? こういう時はあんたが先行くって……」
睡方は無い目を見開いたように、全身を反射的に反応させ。
「は……はぁ!? お前まじかよ!? いや無理、無理だって! というか、そもそもお前が勝手に言っただけだろ! 他のみんなはどうなんだよ!?」
「……え、えー……ウチは、遠くの音が聞こえるっていう、能力があるからー……。あんまり、失ったら困っちゃうと思うしー……」
「……このチームは、僕のような聡明な頭脳を失うわけにはいかない。ああ、そうだ。……そうに違いない」
由依はその両腕の先端同士を何度もくっつけるようにして、目を逸らしながら。想汰は俯くようにして、無い眼鏡を上げるように手を動かしながら。
「……ほんとに言ってんのかよ……!? というか、なんで俺死ぬ前提なんだよ!」
「ああ、分かった分かった! あんたも行ったら、私達も行くから! とりあえず、」
九華は睡方の後ろへと回り、背中を強く押していった。そのままその異形がもう十メートル先まで近づいているのを捉え、動線上に彼を誘導してその背中を思いっきり押して。
「行ってきなさい!」
「うぁあ!」
睡方は吹っ飛ばされ、その体を前に出す羽目になった。彼に近づいてくる異形。視力は無いのか、ただその黒い空洞を真っ直ぐ見るようにして、歩みを進めている。
「あぁ! お前ら! 死なずに帰ってきたら褒めろよな!」
睡方は思い切り頭を掻くと、もう仕方ない、といった様子で足を進めた。そして、そのまま彼は喋りかけ。
「……あ、あのー、」
向かってくる異形に、自信なさげに声をかけている彼の姿を少し遠くから見守る九華含む三人。だが、声をかけられてもその異形は止まる気配は愚か、微かな反応すらも見せずに、棒立ちになっている睡方に近づいてくる。眼前に接近したぐらいのところで、彼はもう一度声を上げた。
「あのー! すいません! 俺達この変な世界に迷い込んじゃって! 現実世界に帰りたいんですけど!」
その張り上げた声に、やっと異形は反応を見せた。その場所にだけ吹き上げられた風が砂塵を巻き上げており、それで構成された不気味極まりない顔が睡方の顔を覗き込む。真っ黒に塗りつぶされたような大きな目と口を模した渦。その迫力に睡方は体を強張らせて固まっていると。
異形は再び顔を上げ、何も無かったかのように歩き出した。そのまま歩いたにも関わらず、砂塵ゆえか異形は彼の体を通過し、今度はこちらに向かってくる。彼は驚きと恐怖のあまり、その場にへたり込んだ。向かってくる異形に、今度は九華が小走りで詰め寄る。異形の歩くスピードに合わせながら、隣を共に歩くようにして彼女は質問を繰り出した。
「あのすいません、私、瀬尾九華って言うんですけど、あの失礼ですが、あなたは一体何者なんでしょうか? 元々、私達と同じ人間だったりするんですか?」
異形は反応を見せず、前を向いたままゆっくりと足を進める。それでも九華は続ける。
「この世界って、一体なんなんですか? どこなんですか?」
「……」
「現実世界は滅亡してしまったのでしょうか? それともここ自体が現実世界なんでしょうか?」
「……」
「この世界には、あなた以外にもまだ生命体のような存在がいるんでしょうか?」
「……」
「……預言者の、雨宮風句二という人を知っていますか? またはこの世界で、そのような人を見ませんでしたか? あの、四十代くらいの男性で、丸刈りで、白装束のようなものを着ていて、首からしめ縄を下げていて、」
その瞬間、異形の顔が初めてこちらを向いた。一瞬狼狽えるが、九華はチャンスだと思い、声を上擦らせる。
「知ってるんですか!?」
彼女が返答をした後。異形はおもむろに虚空に手を伸ばすと、突然小さく砂塵を発生させ、それを長細い筒状にしてそのぽっかりと開いた口へと当てた。そして困惑する暇もなく、異形が恐らく息を勢いよく吐いた音がして。
────ヒュン。
「いった!」
風を切ったような音。遅れて、筒から自分の足に何かが刺さった感覚が伝わってきて、九華は反射的に足を手で持ち上げ、悶絶するようにその場で跳ねる。
刺さったのは、一本の細い矢だった。不思議にも、その矢は刺さるとすぐに全体が砂になって地面に溢れ落ち、跡形も無くなっていた。
「……うぁあ……あぁ……うぁ」
「ちょっと……待ちなさいよ……!」
気づいたら、異形は彼女を追い越していた。後を追おうと自分の足を押さえながら、その巻き上がった砂塵の背中を見るが。想汰と由依の二人が並んでいる横を通る直前、その異形の体は無数に散っていき、空気中に浮かぶ塵となって姿を消した。
「……。……あぁ! もう!」
すぐさま固めた拳で、九華は地面を思い切り殴る。音の響かない、感情の発散。凛とした顔をした由依が小さく呟くと、彼女は勢いのまま言葉をかける。
「……聞こえた。声」
「あいつの!?」
「……う、うん」
「なんて言ってた!?」
由依は、少し俯いて。
「フキヤ……って」
フキヤ。吹き矢。九華は静かに足を撫でる。
「そんなの……分かってるわよ!」
絶叫と共に、彼女は地面に背中をつけた。




