プロローグ
すべてが終わった水曜日の午後、ぼくはみなが集まるまでに準備を整えていた。仕込んでおいたアップルシードルの樽を納屋から運んできて備え、人数分のグラスにスツールも。そろそろ誰かがやって来るだろう時間だ。潮風がやや強いこのテラスで楽しげにシードルを飲む光景なんて、いつ以来なのだろうか。繰り返し語られる昔話でしかなかった夢の時間が、今、取り戻されようとしている。
最初に顔を出したのはラオ爺だ。
「早すぎだよ」
とぼくは軽口を叩く。ラオ爺はいつものように黙ったままテラスの揺り椅子に陣取り、あたりを見渡す。潮風を味わうようなどこかうっとりとした表情。
次はヤンだ。ヤンはラオ爺と対照的に来た途端矢継ぎ早に捲し立てる。
「準備万端か?何か手伝うことがあるんじゃないかと早く来てみたんだが。なんだ、この樽、これがシードルか。噂のシードルをようやく味わえる日が本当に来るとはな」
ヤンには地下室から持ってきた魚の缶詰を開けてもらうことにする。前に試しに一つ開けてみたが少し油くさいものの味は悪くなかったやつだ。ヤンはぶつぶつ言いながら古い缶詰と格闘しはじめる。
次に着いたのはツバサだ。そしてカイも一緒。
「迷わなかったかい?」
ツバサはただ頷く。そんなツバサをカイが眩しげな眼差しで見ている。ツバサはそれを感じているのかやや照れくさそうな表情にみえる。この二人を見ているとこちらまで幸せな気持ちになる。久しく失われた感情を思い出すから。
準備が整ってみながそれぞれ腰をおろし、満をじしてぼくは樽をあけピッチャーに注ぐ。独特の爽やかな香りがあたりに広がってゆき、それぞれが頬を緩めるのがわかる。林檎の果実の色によく似た淡い黄色の液体がそれぞれのグラスを満たす。少しだけ、濁りと発泡がみえる。
ぼくは自然と軽く音頭をとる。グラスを軽く持ち上げながら言う。
「こんな日が来るとは」
みなが繰り返す。
「こんな日が来るとは」
そして一口、口に含む。刺すような刺激的な酸味の後から柔らかな甘さが広がってゆく。この爽やかな甘さはぼくにとっても初めて味わう味。
ツバサとカイは同時に咳き込む。無理もない。物心ついてから彼らは水以外の飲み物など口にしたことはないのだろうから。
「大丈夫かい?」
ヤンが二人を覗き込む。
「これ、何?」
ツバサが驚いたように聞く。
「酸味」
「甘さ」
ぼくとヤンは同時に言うと、ツバサは独り言のように復唱する。
「酸味、甘さ」
ぼくとヤンとラオ爺のグラスはすぐに空になる。
「酔うかな」
ヤンが愉快そうに言う。ぼくたちはアルコールを飲むのはこれが初めてなのだ。少し喉が温かくなったような感触がある。これが酔うという感覚なのだろうか。
「酔う?」
カイにツバサが教える。
「アップルシードルにはアルコール分があるから、人はアルコールで『酔う』という状態になるらしい」
ツバサは書庫の本から知識を得ている。そんな彼女のことが少し誇らしかった。
いつの間にかピッチャーから三杯目のシードルを注いでいるヤンはぼくに言った。
「まさか、やり遂げるとはな。いつからの計画だったんだ?いつからこの日が来ることを考えていたんだ」
ぼくはみんなの顔を見回す。
みなが話を聞きたがっている。全貌を知っているのはぼくだけだからだ。ぼくはこの計画の発端から彼らに語り始める。