序章 グローセ・ヴェルトというゲーム
目の前の白い靄を抜けると、直径100メートルほどのフィールドの向こう側に、筋肉の塊のような肉体を持った偉丈夫が立っているのが見えた。
身長は3メートルに届こうかというところ。黒地に金の鎧を着ているが、体の全てを守っているわけではない。
木の幹ほどもある二の腕はむき出しのままだし、まるで巨木の木の根ほ思わせるような足もまたむき出しのままだ。
その漢は将軍アポステル、半神である。
万の軍勢を荒れ野の草木のごとくなぎ倒すことができる、そんな存在。
俺が歩を進めると、アポステルが動き出す。
右手で左脇、左手で右脇にそれぞれ地面に突き立てていた双大剣をゆっくりと引き抜くと、両脇に構える。
とてつもない存在感だ。
デミゴッドなのだから当然ではあるのだが、それだけではない。
最強の二文字が冠される半神、それがアポステルである。
それに対して俺はレベルが初期値のまま。ステータスを確認すれば、最弱と言ってかまわないだろう。
装備も布のローブと真鍮の盾、そして初期装備のロングソードである。
一つでも攻撃が当たればその瞬間終了が確定する。対して、こちらの攻撃は気が遠くなる回数当てなくては勝つことができない。
アポステルが動き出すのを見て、俺は立ち止まる。
すぐにアポステルの周囲に青紫の光が纏わりつく。
それは重力魔術が起動した証。慣性と重力の法則が捻じ曲げられ、俺との相対距離が一気にゼロになる。
何度も繰り返し見た光景。当然のように俺は回避する。
それから俺は蹂躙を開始する。
三十分後、体力のほぼ半分を削られたアポステルは黄金の光を纏い、すべての攻撃に二倍のダメージと範囲攻撃が追加される。
圧倒的な膂力と速度によって振り回される双大剣が、聖属性の攻撃魔法と同時に最高の火力を持って襲いかかってくる。
宙に舞うと、巨大な岩が幾つも同時に放たれる。着弾の直後にアポステルが突撃してきて双大剣による乱舞が始まる。
すべての攻撃が強化され、すべての難易度が跳ね上がるが、俺の蹂躙は止まらない。
第二形態となったアポステルと戦い始めてから四十分後、俺は武器を下ろし棒立ちになる。
そこにアポステルの双大剣が振り下ろされて、俺は死んだ。
画面が暗転し、キャラクターの死亡シーンが流れるのを見ながら、俺はコントローラーを床の上に置いた。
もう数えきれないくらい繰り返して来た行為。
勝利する直前に攻撃を受けて死亡する。
今俺がプレイしているグローセ・ヴェルトにおいて、ボスキャラが復活することはない。
なので一旦倒してしまうと、次に戦うためにはクリア後にデータを引き継いで周回するか、ニューゲームでプレイするしかない。
俺が今戦っていたアポステルはダウンロードコンテンツにおけるラスボスである。
つまり、もう一回戦うためにはとてつもない時間が必要となる。
今俺がプレイしているデータは数えきれないくらい周回を繰り返してきたデータとなる。
周回を重ねるごとに、敵の強さが増していくシステムが採用されているので、すべての敵の強さはいわゆるカンスト状態にあり、難易度は初回時に比べて数十倍に跳ね上がっている。
もはや、ここから周回を重ねたところで敵が強くなることはない。周回する意味が存在しないのだ。
もちろん敵が格段に弱くなってしまうニューゲームなど論外だ。
だから死ぬ。アポステルを倒しきる直前で、敵の攻撃を受けるのだ。
ただ、ごく稀に失敗することがある。
アポステルの行動は毎回同じではない。だからダメージだけでなく、蓄積され敵に状態異常値も微妙に変化する。乱数によるものだ。どんなに慎重にやっていても、どこかでそれを引いてしまう。
次で最後に使用と判断した瞬間、爆発的なダメージが入ってしまうことがある。
アポステルはあえなく死亡し、俺は周回しなくてはならなくなってしまうのだ。
そうやって、何度も何度も周回するはめになっている。
また数多の半神達と戦うために。
俺は肩をほぐすと、手元に置いていたペットボトルを取る。
中に入っているのは水道水だ。
金がない。会社が倒産して無職になった。
そこからバイトでなんとか食いつないでいるが、生活費でほとんど消えてしまう。
本来なら、新たな職を探すべきなのだが、50才を過ぎて腕の無い営業職上がりではどうにもならないことは、もう十分実感している。
俺が今プレイしているグローセ・ヴェルトは無料でネット配信されているものだ。
オンライン接続は必須だが、それ以外に料金はかからない。
課金要素もなく、一体どこの誰が作ったのかも分からない、どういうメリットがあって配信しているのかも理解できない。
ただ、ある日突然配信されて、世界中のプレーヤーを虜にした。
プレイしていく中で語られるストーリーはほぼないと言っていい。
ただ、この世界の背景は得られるアイテムや、広大なフィールドに置かれたオブジェクトからプレーヤーが考察する以外にない。
考察して初めて、ストーリーらしき物が浮かび上がってくる。
ゲームがスタートしたら、プレーヤーはグローセ・ヴェルトの広大な破砕後の世界に単身放り込まれることになる。
そこから気が遠くなりそうなくらい広いフィールド上に、多数存在する咒鵠の礎と呼ばれる回復拠点を巡っていくことで、ストーリーが進行していくことになる。
とは言っても、セリフも説明もほとんどなく、理解するためには考察をする必要があるのだが。
俺は水を飲むと、両肩を回して少しほぐすと、再びコントローラーを手に取る。
モニターには、咒鵠の礎とプレーヤーさっきと同じままに写っている。
またアポステルとの戦いをするためにコントローラーを操作する。
だが、モニターに変化が起きない。
コントローラーを色々と扱っていみるが、まったく反応がない。
壊れてしまったのか、そう思いコントーラーを見るが、まったくさっきのままだ。
パソコン本体との接続を示すランプも点灯したままだ。
では、パソコンがフリーズしたのか、と思いもう一度モニターに視線を向ける。
そいつがいた。
モニターの向こう側に。
美しい女だ。非の打ちどころのない完璧な美貌。
俺はその女から目が離せなくなる。
見とれたわけではない、惹かれたわけでもない。
恐ろしかった。根源的な恐怖によって、体を動かすことができない。
否、動こうという思考すら働かない。
モニターの向こうから美しい女が手を伸ばしてくる。
モニターから伸びた手が、俺のこめかみを鷲掴みにする。
そのまま俺は、持ち上げられ足が床を離れる。
宙づりにされた俺は、両手で女の手を掴み引きはがそうとするが、びくともしない。
女の指に込められた力が徐々に強くなってくる。
頭蓋骨が軋み、強烈な苦痛が俺の頭を襲う。
爪で女の手を引っかき、両足をばたつかせる。
死が目の前に迫っていた。苦痛の中で死の恐怖から逃れるために全力で抗う。
だがそれは、なんの意味もなかった。
爪が剥がれ、出血した指は、ぬるぬると女の手の表面を滑っている。
どんなに足を動かして抗っても、女の手は微動だにしない。
プレスに頭を挟まれたように、頭蓋骨が歪んでいるのがわかる。
歪みはすぐに限界を迎え、俺は自分の頭蓋骨が砕けていく音を、苦痛の中で聞いていた。
女の指はそのまま俺の脳へと侵入し……。