幽奈とゴブリン
広いとはいえ、その通路は一本道。もはやどちらも気づいていないはずはない。
しかし、事態は視聴者達にとって不思議な方向へと進んだ。
「ギャギャ、ギャーギャ」
「ギャギャギャ? ギャ、ギャ」
ゴブリン達はそれぞれが剣や棍棒、槍に弓といった多彩な武器を携帯していた。数も十匹以上はおり、たった一人の人間相手なら恐れはしない。
すぐさま目をギラつかせて襲いかかってくる、そう誰もが思っていたはずなのに。
「私、やっぱり気づかれてない……」
幽奈は寂しげにボソリと呟いた後、静かにゴブリン達の横を通り過ぎていく。
凶暴かつ知性に優れた魔物は、たわいのない世間話をしているように見える。彼女とすれ違っても、特に気づく様子もなかった。
背後から襲われるか? そう心配した視聴者達も多くいたのだが、そのまま何事も起こる気配がない。
:え?
:なんで気づかないんだ?
:いやいや、気づいてるんじゃねえの
:襲われてないってどういうこと?
:普通ここで殺し合いが始まるんですけど
:分からん
:せんちゃんってば空気過ぎ!
:目の前にいるのに気づかれないって……
:信じられん
:なんで? なんで?
:分からん
:怪異やろこれ
コメント欄も疑問符だらけ。当の配信主は、慣れたそぶりだがどことなく寂しげだ。
画面の外で眺めていたシャムは、この異常な光景に目を丸くしていた。正面にゴブリンが大勢いるというのに気づかれないなど、ありえるのだろうか。
「私、いつもこうなんです。でも、戦わないなら、それに越したことないです……あ」
その時だった。すれ違いざまにゴブリンが、ふと剣を落としてしまったようだ。微かに手が震えていたことに、気づいた者はほとんどいない。
「ギャ、」
この時、剣を落としたゴブリン集団の最後尾が微かに声を漏らした。
「落としたよ」
なぜか剣を拾って魔物に渡そうとする幽奈を見て、持ち主は固まった。
そして次の瞬間。
「ギャギャアアアアーーーーーーー!」
絶叫しながら必死で走り出してしまった。
「あ」
「ギィイイイイ!? アアアーーーー」
「ギヒュウウウウウウウウ!」
「ギャギャギャギャーーーーー!」
幽奈が剣を手にしたままぼうっとしている間に、恐怖が魔物の集団に伝染していく。いつの間にか全てのゴブリン達が、我先にと暗闇の中に走り去ってしまう。
実はゴブリン達はとっくに気づいていた。しかし気づかないフリをして、この場をやり過ごそうとしていた。
:w w w w w w w
:なんだ今の!?
:草
:こんなゴブリン達初めて見た
:戦わずして勝ったんだね
:演技だったんかい
:そりゃ目の前にいて気づかないわけないよね
:逃げ足早過ぎ!
:もはや大草原
:みんな笑ってるけど、これすげえ現象だぞ
:w w w
:ってか、戦う前からあんなにビビらせてんの凄くね!?
:普通誰相手でも戦うと思うけど
:ゴブリンからも悪霊だって思われてる
:せんちゃん
:必死のゴブリン演技が崩れ去った瞬間
:魔物だってビビるんだから、やっぱ悪霊だよ
:ひいいい
:草すぎ
:もしかしていつもこうなの?
:普通に戦うとこ見れると思ってたら予想外
:やべえ!
:ゴブリンだって怖いんだよ
チャット欄はこの珍事に盛り上がっていたが、シャムだけは見る目が違っていた。どんなに強い探索者でも、初見のゴブリン達は普通に戦っていたはずだ。
なのに、奴らは幽奈には決して挑もうとしていなかった。
シャムの額に冷たい汗が流れ落ちた。彼女はやはり悪霊ではなかったかもしれない。しかし、もしかしたら、それ以上に……。
多くの思惑が交差する中、さっきよりも悲しい顔になった幽奈は淡々と奥へと進んだ。
「まるで化け物を見るみたいに……。ひどい。でも、いつもなので、慣れてきましたけど。け……ど!?」
幽奈はチラリと配信用の機材を見て固まった。いつの間にか同接が百十万を超えている。
「ま、まだ増えるの!? 怖い」
:あたしはせんちゃんのほうが怖いよ
:同接数にビビってるのかわいい
:こうして見ると可愛い女子
:ギャップやば過ぎ
:本当にこの子が希空を蹴散らしたん?
:実際強いのかはまだ未知数だけどな
:がんばれせんちゃん!
:全然強そうには見えないけど
:応援してるぞー
:やっぱ悪霊なんだって
:怖い怖い怖い
:謎が謎を呼びすぎ
:声がなんとも涼しげ
:ビビりなのか勇気あるのか分からんw
:どんどん降りよう
:これからがマジ楽しみ
:がんばれー!
「あ、あわわ」
動揺とコミュ力低の低さが相待って、いよいよ何を話していいか分からなくなってくる。しかし、ここで配信を終えるわけにはいかない。
だがここで、彼女を鼓舞するかのようにスマホが振動した。
シャムちゃん:幽奈ちゃん落ち着いて! 今のところ超いい感じだよ。ここで辞めたらもったいないよ
:うん。がんばる
初めて友達になってくれそうな女の子が、自分を応援してくれている。幽奈はダンジョンの下へと降りる決心をした。
次から次へと魔物は現れるが、いずれも逃げてばかりという異常な光景が続いていく。視聴者達にとっても、信じられない現象ばかりだ。
そして気がつけば、下層と呼ばれる危険水域に踏み込んでいた。たった一人で。
先程まで逃げるだけだった魔物はいなくなり、ここからは殺意に溢れた魔物ばかり。
シャムは喰いつくように画面を注視している。問題はここからだ。
(幽奈ちゃんの正体も、ここなら分かるはず)
紫色の通路に降り立った少女を、幾つもの凶暴な瞳が睨みつけていた。




