敵じゃない
ダンジョンに潜る人間には、通常ではありえない変化が起こる。
多くの場合、異常なまでの身体能力の上昇が見られた。その原理は明確には解明されていない。
それらはまだ限界が分かっておらず、多くの人間が他を超越できるという夢を見出してダンジョンに潜っている。
今こうして対峙している二人もまた、多くの人間を遥かに凌駕する身体能力と、ダンジョンに潜ることでしか得られない力……魔力の持ち主だ。
「アノ」
「だぁっ!」
幽奈は突然こちらに向けて飛び込んできた少女に困惑した。振り上げた大剣が天井を抉りながら、自分めがけて落下してくる。
その音はまるで爆発だった。不気味な紫色に変色した地面を、長さも太さも規格外な大剣が破壊している。
「ちぃ!」
「あ、えっと」
しかし、獲物はほんのわずかに体を横にしただけで、ダメージを受けることなくかわしていた。希空は即座に剣を真横に振り抜き、今度は腰部分から真っ二つにしようとする。
大剣にはいくつもの札が貼られており、怪しい赤や緑の輝きがダンジョン内を照らしていた。
(なんか、綺麗……)
襲われている最中に考えることではないが、石集めが好きな少女はその輝きに感動していた。
身を低くして横一文字の剣撃をかわし、両手を前に出す。
「ま、ま」
「魔法!?」
待ってくださいと言い終えるよりも早く、勘違いした希空が横っ飛びをしつつ、回り込むように迫ってくる。
「なら、あたしも!」
「ま、待って」
やっと言えた。だが肝心の相手に声が届いていない。
希空は全身から赤い魔力を解き放ち、大剣を同じ色に染めていく。
彼女が得意とする、自己の攻撃力や速度を高める魔法の一種であった。
「おおおおおおお!」
「待って、待って」
まるでダンスみたい、と幽奈は大剣をかわしながら思わずにはいられない。
ステップを踏み、時に激しい踏み込みを見せつつ、回転も加えて無数の剣撃を見舞う。
視聴者達はすでに画面酔いを起こした者も沢山いて、コメント欄は焦りと興奮と歓喜、そして恐怖が膨らんでいく。
:早いよおおおおお
:ノアパワー全開
:いつも思うけど、これでよくダンジョン壊れないな
:悪霊もう死んでるだろw
:草
:殺意ましまし過ぎて怖い
:ソロで活動してるだけあって、自己バフもこなせるのすげーわ
:もう画面見てられません
:吐いちゃう
:きゃー
:ひええええ
:Oh
:やっちゃえ
:さすがノアっち。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね
:何にも見えんがな
:絶対敵に回したくないタイプ
好き放題のコメント欄など、今の希空は見ていられない。
彼女が得意とする勝ちパターンは、ただひたすら相手を滅多切りにするというシンプルなものである。
しかし、いつもの手応えが今日はまるでない。
「は? なんで」
気がつけば何もいない場所を切っている自分がいた。ひとまず剣を止めて周囲を見回すと、少し離れた場所に標的が立っている。
「へえ、これでもダメなんだ。じゃーあたしは、もっとギアを上げるだけ」
これでフルパワーではない。もっとバフをかけることは可能だった。しかし、上げれば上げるだけ魔力や体力の消費も上がってしまう。
(普通に止めても、やめてくれないみたい)
幽奈は困惑していた。どうして自分を殺そうとしているのかさっぱりだったが、話しかけてもやめてくれそうにない。
どうやったら止められるか。一つの方法を思いついた彼女は、だらりと状態を前傾させる。
「……構えた? ふん。ようやくやる気になったってわけ?」
希空の体全体が、先ほどよりも赤く染まっている。しかし、幽奈の動きが気になって仕掛けられずにいた。
脱力しきった姿勢で俯いている。全ての動きを止めているかのようだったが、よく見れば明確な変化がある。
「その……爪は……」
右手の指にいつの間にか、赤く光る爪が伸びていた。それは本来人間が伸ばせる長さよりも、ずっと長く不気味なものに映る。
:なんだあの爪
:え、ちょっと待って
:えええええええええ
:怖い怖い怖い
:悪夢だわ……
:ホラーキャラ過ぎんだろ
:呪うとかじゃなくて、もしかして物理的に攻めてくる感じ?
:あの長い爪で刺されたらどうなっちゃうの
:引っ掻かれただけで偉いことになるぞ
:やっぱ魔物だわ
:気味が悪すぎる
:気をつけろ!
希空は嫌な予感が頭をかすめた。一瞬の隙をついて、あの爪で貫いてくる可能性がある。
どれだけ鋭いかは分からないが、用心に越したことはない。何しろ相手はSS級の悪霊なのだから。
じりじりと距離を詰める。ここまでは常に先手を取っているが、次は相手が仕掛けてくるかもしれない。額を冷たい汗がつたった。
(こんなことでビビってどうするんだよ。あたしは、あたしは止まらない!)
だが、意を決した少女は先ほどよりも強く地面を蹴り、一瞬にして大剣が届く距離まで接近することに成功した。
斜め上から、これまでで最速の剣を振るう。視聴者達の目に映らない程の速度に満ちた刃が、必殺の威力を持って幽奈に襲いかかる。
ほんのわずかな一瞬。瞬きすら許さない速さの世界で、黒と青の瘴気のようなものに包まれた女が揺らいだ。
まるで悪霊が咆哮するかのように、顔を向けたと思った時、たしかに切り裂いたように映った瞬間、視界全てが歪む。
普段は同接二万もいかない希空の配信は、異常なほどアクセス数が跳ね上がっていた。
配信主は気づいていないが、この時の同接数は九十万を超えていた。誰もが悪霊が切り裂かれた瞬間を目にしたと、そう思い込んでいた。
「嘘!?」
しかし、幽奈の姿はそこにはない。希空は周囲を見渡し、ただ茫然と立ち尽くしていた。
すると彼女が落ち着くのを待っていたのかのように、大剣が鍔付近から抜け落ちるように、地面に落下した。
「はあ!?」
この時、膨大な流れとなっていたコメント欄が、一時的に動きを止めてしまう。視聴者達もまた、何が起こったのか理解できずにいる。
少しして、ようやくコメント欄は氾濫した河川のように激しく動き出した。
:ええええええええ!?
:ヒィいいいい
:どうなってんだよこれ!?
:さっきの爪で切ったのか
:嘘だろ
:倒したと思ったのに
:なんであんな芸当ができちゃうの?
:ひーーーーー!
:漏らしちゃった
:やっぱ悪霊パネエっす
:逃げたの!?
:直球勝負で負けた
:なんか相手にされてない感あったな
:めちゃくちゃだわあの悪霊
:実は人間だって噂もあるけど
:謎だらけだけど、とりあえず言えるのは怖すぎってこと
だが、これだけでは終わらない。
いなくなった髪の長い女。どこに消え去ってしまったのかと、何度も周囲を見回していた希空は、もはや嘆息するしかなかった。
「はあー。なんて奴だよ。でも、まだ終わってない。あいつ——」
言いかけたその時、背後から囁くように、
「敵、ジャナイ、デス……」
という一言が吹きかけられ、肩付近に冷たい物が触れた。
(これって……さっきの爪?)
視聴者達のコメントが、アクセス障害にでもあったように止まる。
完全に負けてしまった。希空がそう思い死を予感した時、ふいに気配が消失した。
「え……はあ!?」
静かに振り返ってみる。もう幽奈はそこにはいない。ただ紫色の不気味な空間が広がるのみ。
「な、な……く、くそ! くっそぉおお!」
敵じゃない。悪霊と思わしきそれは、確かに言った。
去り際に放った一言が、希空を盛大に誤解させてしまったことに、幽奈は気づかなかった。




