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序章-6

 雨のカーテンの中、ドラゴンだった男は戸惑いながらふらりと体を揺らした。足元がおぼつかず、転びそうになったところを反射的に片足で踏みとどまる。ミナは思わず手を伸ばしたが、空を切り、所在なげに下ろした。


 青年は浅い息を吐きながら、自分の人の形をした手のひらをまじまじと見つめる。


「なん……なんだ、これ。俺は……」


 二本の足で立ちつくし、片足を上げたり指に力を込めたりして感触を確かめる。何度も体を動かし、人間のそれと変わらない感覚を確信すると、ミナを見た。


 疑っていたわけではない。だが、実際にこうなると信じがたい思いが胸を満たす。


 ――まさしく神の所業だ。


 青年がミナを見下ろす。ミナは場違いなほどきょとんとした顔で、自分がしたことなのにどこか他人事のように見ていた。


「……これ、お前が?」

「えっと、多分? …本当に、叶った」


 ミナは浮ついた声で呟いた。

 もはやファンタジーに慣れすぎて、ドラゴンが人になることも特別な驚きではなかった。


 青年が不慣れな手足を動かしながら足を踏み出すと、ミナも自然にその動きに合わせる。ミナの目には、違和感のない完璧な人間の男が映っていた。


 ――しかも、かっこいい。


 赤い鱗の巨大なドラゴンは、今や赤髪の美丈夫へと変わった。首元までの短めのくせっ毛は真紅に輝き、爬虫類を思わせる朝焼け色の瞳が人外の気配を残す。筋肉質だが無骨ではなく、背も高く均整の取れた体だった。


 青年ははっとしてミナを見つめ、視線を洞窟や雨空に彷徨わせた後、思わずといったように震えながら手を差し出す。


 ミナは咄嗟にその手を取る。首をかしげると、青年は息を詰めた。


「……は、っ……あたたかい」


 ミナの手を握り込み、驚いたように呟く。ドラゴンの体では感じ得なかった命の温もりを、初めて知った。


 ミナの手は小さくて柔らかい。だが握り返す青年の手は、ミナよりも固く熱かった。ミナはにこっと笑い、その手をそのまま握らせた。


「言葉もちゃんと喋れるみたいで、良かった」


 青年はゆっくりとうなずいた。だが驚きはまだ抜けきらない。視界の低さ、翼や尾のない体のバランス。すべてが不便であり、同時に人型で感じる世界の繊細さが新鮮だった。


 風が柔らかな肌を撫でるだけでくすぐったい。掴んだミナの手の骨ばった感触すら、ドラゴンでは味わえなかったものだ。


 知っていたはずの世界が、急に広く、未知のものに思えた。――まるで、生まれ変わったかのように。


「それで、ドラゴンさん。私は柏木美凪……ミナっていうんだけど、ドラゴンさんの名前は?」


 握った手を少し引いて、ミナが見上げる。青年は真っ直ぐに向けられた視線に胸が詰まり、思考が空回った。ミナ、ミナ……と、何度もその名を反芻する。


 少し間を置いて、ようやく自分の名前を問われたことに気づく。


 ――名前。俺の、名前。


 誰かに名前を聞かれるのは初めてだった。呼ばれる必要もなかったし、呼ばれたいと思ったこともない。だが、ミナに問われたことが不思議と嬉しかった。


「…ッ、ろ、ロディウ、カルディア」


 生まれたときからの自分を示す名を、初めて他者に伝えた。


 どこか情けない声に、ミナはくすりと笑い、復唱しようとした。


「ろでう、かる…? む、難しいね…?」

「ロディウカルディア、だ」


 何度か言い直しながら教えると、ミナは繰り返した。


「ろでぃう、かるでぃあ」

「ああ、言えてる」


 それでも長い名前はすぐには慣れず、舌がもつれる。それを見てロディウカルディアは満足げだったが、ミナはむっと口を閉じた。


「えっと。ん~、ロディウ…ろ、ロディ! …ロディって呼んでもいい?」


 ミナが上目遣いで問いかけると、ロディウカルディアは少し息を詰めて頷いた。あだ名なんて初めてだったし、ミナだけの呼び名だと思うと特別に感じた。


「ロディ……うん、ロディ。よろしくね」

「ン。よろしく、ミナ」


 ロディは当たり前のように呼ばれる名前に、ふっと笑う。視線が自分を向いて、対話をする意図がこちらにあるのだと示すような尊い気持ち。名前を呼び、呼ばれる。ミナがミナに、ロディウカルディアがロディウカルディアだと世界に示すはじまりの言葉だ。

 それだけで、幸福感が胸に灯った。


「じゃあちょっと……ね、あっちいこ」


 ミナがロディの手を引く。雨の中に佇んだ二人はずぶ濡れだ。


「え、あ。ああ……どこにいくんだ?」

「服を探しに。さすがに裸はまずいから、その。……あっちに行って死体から適当に選ぼう」

「…………裸、だな」


 ロディが自分の体を見下ろす。ミナは意識すると顔が火照るが、今は仕方ない。目のやり場には困るが、騒ぎ立てるつもりはなかった。


「うん。さすがにちょっと…」

「ああ…これ、元の体には戻れるのか?」

「えっ、…あ、ドラゴンに? ……多分? やってみる?」


 ミナは分からなかったが頷いた。

 ロディ自身は特にドラゴンの姿形に重きを置いていた訳では無いが、人型では慣れずに不便な事もあるし知っておいた方がいいだろう。ロディが少し名残惜しそうにしながら手を離す。


 雨が人の肌に当たると、ドラゴンの時より冷たく感じた。だが火照った体にはむしろ心地よい。ロディは目を閉じ、意識を集中させる。共鳴率がぐんと引き上げられる心地がすると、体内の核が揺れ、灰が雨に舞った。


 次の瞬間、ロディはドラゴンの姿に戻っていた。


「ぐるる…」

「よかった、大丈夫そう」


 比較的簡単に変化できるようだ。ただし体力の消耗は大きい。だるい身体を動かして、ロディは再び人型へ戻る。変化自体はスムーズなもので、最早気持ち悪かった。自分の体がいいように作り変えられたような感じがする。

 違和感がないことが違和感だった。


「できた」

「ね。じゃあいこ。早くしないと風邪ひくよ」


 裸で雨に濡れたロディを心配そうに見て、ミナは急かすように手招いた。ミナ自身も、ずぶ濡れで寒い。いくらこの山が熱いと言っても、体内から逃げる熱は変わらない。

 ミナはぶるりと体を震わせた。

 ロディは首を傾げる。


「ああ。……ドラゴンもひくのか?」

「えっ、……さあ?」


 洞窟に戻り、ミナが用意していた服をロディは着た。死体のものだが他に選択肢はない。わざわざ燃えていない洞窟の外にあった死体を漁ったかいがある。

 それよりも人間の言葉を理解したと同時に、人間の文化や常識まで脳裏に染みついていたのが気持ち悪かった。


 二人で並んで洞窟に腰を下ろす。ドラゴンの姿では隣に座っても顔は見えなかったが、今は目が合うのが嬉しかった。


 ミナがちらりと視線を送ると、ロディも同じように見ていた。人型になった途端、無邪気だった気持ちに微かな緊張が混じる。


「これ、どうやったんだ? ミナはただの人なのに、まるで……」

「あ、ええっと……秘密。1回きりの特別だから…あんまり聞かないで」

「そう、か。ふぅん…」


 ロディはいくらか予想を立てたが、言われた通り深追いしなかった。言えないことなんてロディにもある。ロディは洞窟から見えない空に視線を向けて、直ぐにやめた。

 代わりに未来の話をする。


「ロディはその姿でも強い?」

「ん…ああ。そこら辺の奴らには負けないと思う。少なくとも人間にはな」


 手のひらを開閉しながら頷くロディ。ミナはほっと息を吐いた。今のミナの頼みの綱はロディだけだ。


「じゃあ絶対私の事守ってね。私、ほんとに弱いから、すぐに死んじゃうよ」

「ああ、いいよ、守ってやる。……もう、惰性と義務感で生きていたようなものだから、今更やりたい事も、やるべき事も無い」


 一人きりで、随分長く生きた。世界が美しく均衡を保っていた時の、あの時のような全能感は無い。世界は歪み、歪なままで外れた歯車を誤魔化しながら回っている。ロディはその最後の砦である自覚が、あった。

 ロディの長い生の終わりかけに、たった一人の人間を守り、慈しむことくらいは赦されるだろう。


「……お前と、ずっと一緒にいたいと思ってる」


 ミナは聞こえた呟きに驚いて顔を上げた。美しい瞳が炎のように揺れて見えた。

 ミナは急に恥ずかしくなって、赤くなったであろうほっぺたを隠した。


「っ……あ、えっと。ずっと……一緒にいようね」


 思えば、ロディは初めからミナに優しかった。

 空から落ちてきて受け止めてくれたのも、水を求めるミナを川へ案内し、腹を空かせたミナへザクロを取らせたのも、ミナは何もしていないけれどロディはいつも優しい。


 そう思うと、その優しさが怖かった。

 他の人に容易に差し出される手は、ミナの手を容易に離すことと同じだ。


 一人は怖い。

 ミナはそれを知っているから、無謀にもムルを誘ったし、今はロディの傍から離れないでいる。


 でも、去っていくロディを引き止めることもできる自信は無かった。


 不安を感じ取ったのか、ロディは手を握る。体温が熱い。


「……ミナだけだ。こんなふうにドラゴンと会話をしようなんて考えて、敵意を向けず手を伸ばしたのは。俺の長い生の中で、お前が最初で、……きっと最期になる」


 ミナはぽかんとロディを見つめ、煩く鳴る心臓を抑えた。とにかく恥ずかしくて仕方なかった。

 甘い囁きに、ミナは思わず目を逸らす。


 隣にいる温かい存在はいつものドラゴンのはずなのに、人型になった途端に意識し始める自分が嫌だ。ドラゴンには出来た体を抱きしめるようなスキンシップが、急に難しくなる。


「もう、とっくに燃え尽きて冷えるだけの灰だった。……俺の、灰に埋もれて消えかけていた魂に、火を灯してくれたのはお前だよ」


 まるで火種の囁きのような甘い言葉だ。

 羞恥を誤魔化すように、ミナは声を絞り出す。


「……わ、たしも。ロディに会えてよかった。こっちで初めて出来た、友達」

「友達…」

「えっと、違う?……対外的には護衛かもしれないけど…」


 ロディは少し考え、静かに言った。


「それがどんなものかよく分かってないけど……俺も、友達は初めてだ」

「あ、そ、そうなの? 同じドラゴンとかは?」


 ロディは言葉を詰まらせた。友と呼べる存在はいなかった。ロディは随分長いことひとりぼっちで、この地獄を生きている。


「……友達は、いなかったな」

「そう、なんだ…」


 ミナはそれ以上は聞かず、話題を変える。


「そう言えば、寒くない? 人型だとどうなの?」

「いや、寒くは無いな。多分体の機能は本来のままなんだろう。ミナは?」

「んん……ちょっと?」


 雨脚は強まり、夜の空気は冷たい。濡れた服を脱いでも寒さは変わらない。


 ミナが体を抱くように丸めると、ロディが座り直し、手を広げた。


「……おいで。多分、俺は前と同じように体温が高い」


 ミナは一瞬迷ったが、ドラゴンの時にはたまにしていたことだ。寒さには勝てずロディの足の間に座る。マントと体温が包み込み、ほっと息を吐いた。


「んわ…ありがと」

「ああ。ミナは、相変わらず体が小さいな。不思議な感じだ」

「…まあ、ドラゴンに比べればね」


 ロディも別に寒かった訳では無いが、ミナとくっつくとやっぱり暖かい、と思った。鱗ごしではあまり感じなかった命の温もりが、心地いい。

 ミナはロディの硬い手をいじりながら、今後を考える。


 幸いお金についてはアテがある。

 洞窟に置かれている袋の中には死体の持っていたお金や金品が溜め込まれていて、それらは川の水で綺麗にされて一纏めに置いてあった。当然全部ミナのしわざだ。


 多少の罪悪感はあれど、ミナは必要経費だと割り切れた。川で綺麗にしては死体から使えそうなものを奪い溜め込む。倫理観なんてそこにはなかった。


「ここから一番近い国ってどのくらい?」


 ロディは少し考え込む。記憶は随分古い。


「国か。確か人間の国があったな……多分飛んで、数分。歩いたら……どうだろうな」


 歩いた記憶はなく、感覚でしか分からずロディは呻いた。

 ミナもドラゴンの飛ぶスピードなんて知らないから結局何も分からないようなものだ。


「……ロディに乗って飛んで行こ!」

「いいのか…? まあ、いいか。少し高めに飛べば近づきすぎても大丈夫だろう」


 ミナの諦めて縋るような視線に、ロディは苦笑して頷いた。飛んで遠くから人型になれば問題ないだろう。


 ミナとロディはそれだけ決めて、洞窟の中で初めて、二人で一緒に丸まって一晩眠った。


 近いうちに、この山を出る。


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