序章-5
しとしとと雨が降り続いている。
森の灰を静かに押し固める雨は、ただ地面を濡らすだけでなくドラゴンの巨大な体も容赦なく濡らしながらいつもの熱気と粉塵混じりの空気を清らかに洗い流していた。
洞窟の入り口から外を見やると、雨に濡れるドラゴンの姿が目に入る。広い山の広場でぽつりと佇むのを見ているしかなくて、ミナは申し訳なさで胸が締め付けられた。
ドラゴンはその巨体のせいで洞窟に入ることができず、黙って雨に打たれるしかないのだ。
あの日から、もう一週間が経っていた。
不便だらけの森での生活は、ぎりぎり「生きている」と言えるような状態だったが、それでもミナはなんとか暮らしていた。
怠惰でのんきな性格が災いしてか、ほとんどのことをドラゴンに頼りきりで、自力で食料を確保したり、水を汲みに行ったりすることはしていない。
魔物や獣といった脅威に遭うことはなく、森は平和だった。けれど、どこか物足りなさもあった。
ドラゴンとは意思疎通ができるとはいえ、言葉が通じる相手がいない孤独は、やはり辛い。
「……」
それでも、森を出る決断はできなかった。
確かに生活は苦しく、ザクロと水だけの食事では、いずれ身体がもたなくなるのは明白だ。
だが、それ以上に怖いのは「ひとり」になることだった。自分ひとりで生きていける自信もない。そして何より、このドラゴンを置いていくなんて考えられなかった。
ドラゴンはいつも重そうに身を横たえながら、それでもミナの世話を焼いてくれた。
病気か、あるいは寿命か──理由は分からないが、常に疲れた様子で、暇さえあれば灰の中で眠っている。
森の中での時間つぶしなどたかが知れており、ミナは死体から金銭や金目の物を掘り出してみたりもしたが、それはあまりにも血生臭く、気が滅入った。無一文じゃなきゃこんなことやらない。
とにかく、生活を改善する為に山を下りたい気持ちはある。けれど、それ以上にこのドラゴンを独り残すことの方が重くのしかかっていた。
ムルが言っていた「特別で強い存在」とは、きっとこのドラゴンのことだろう。
ムルの言葉がなかったとしても、今こうして生きていられるのは、このドラゴンのおかげなのだ。今さら見捨てるなんて、できるわけがない。
「……でも、連れていくのもさぁ」
ドラゴンはとてつもなく大きい。
頭に乗れば森を一望できるほどで、その手のひら一つで人間など容易く潰せるだろう。
洞窟にあった人間の死体のことを思えば、ドラゴンと人間が友好的な関係とはとても思えなかった。
「ドラゴンさん」
小さな声で呼びかけると、灰の中からドラゴンがまぶたを開けた。
どんなに小さな声でも、ミナが呼べば、彼は必ず応えてくれる。
じっとミナを見つめるその瞳には、どこか優しさが宿っていた。胸の奥がじんわりと温かくなる。
ミナは急いでぼろのマントを羽織り、雨の中を駆けていった。
手を伸ばすと、ドラゴンは静かに顔を寄せて撫でさせてくれる。
私のドラゴンがこんなにもかわいい。
だからこそ、ずっと一緒にいることが難しいという現実が、どうしようもなく悲しかった。
「君が人みたいになれたらなあ……そうしたら全部解決するのに……」
ふと漏れた自分の呟きに、ミナ自身がはっとする。
どうして今まで思いつかなかったのだろう?
よくある漫画や映画のように、ドラゴンが人の姿になれたら──きっとすべてうまくいく。
人の姿なら、言葉を交わせるだろうし、他の人から見ても「人を殺していたドラゴン」には見えないかもしれない。
ミナは期待を込めてドラゴンを見上げた。
くりっとした大きな瞳が、雨に濡れながら不思議そうにこちらを見返している。
「だめ? ………だめか。そうだよねえ、できたらしてるよねえ」
分かっていたつもりでも、がっかりした気持ちは抑えられずミナは彼の顔にぎゅっと抱きついた。濡れているのに、あたたかい。
どうにかして人型になってもらえないか考えるが、ミナにはそんな力など持ち合わせていない。
となると、選択肢は──たった一つしかない。
「……いやでも。さすがに……もったいないかな?」
ムルの言っていた「贔屓」の一言が、ずっと頭の片隅に残っていた。
便利な暮らしへの誘惑はあったものの、それに使うにはもったいないと思っていたし、実際そういう発想はほとんど──いや、少ししかなかった。
(でも、これって使い時かもしれない)
衣食住とは違って、自分の力ではどうしようもない願い。
そもそも何に使うか迷っていたのだ。なら、ここがその時じゃないか。
でも、それでもまだ迷う。最後のエリクサー症候群だ。
けれど、ドラゴンが人型になれば、きっと良いことばかりだ。
まず、言葉を交わせるようになり、お喋りができる。バレなくなるから人の国にも一緒に行けるようになるし、そう、一緒にどこへでも行ける。
思いつくリスクも思いつかないリスクもあるとしても、それが自分にとって致命的なものになるとは思えなかった。
ミナはもう一度ドラゴンを見上げる。
手のひらを開いたり閉じたりして、吹いた風に少し心を落ち着ける。頭も冷えた気がした。
「ね、ねえ。人型になれるよって言ったら、嬉しい?」
「ぐあ? ……ぎゃあう」
ほんと? うれしい!──そんな風に聞こえた。
「人型になっても、一緒に居てくれる?」
「ぎゃあう」
「え、ほんと? 守ってくれる?」
「がぁふ」
「…約束ね?」
「がう」
「絶対、絶対ね?」
「がおぅ」
ドラゴンはぐいっと頭を寄せてミナを小突き、ぺろりと舌を出した。
何の合図かは分からないが、少なくとも否定の意図ではないと分かる。
ミナは少し悩んでから、気持ちを切り替えるように「ヨシ」と声を上げる。
いつか森を出ることは既に決めていたが、ドラゴンを置いていくことだけはずっと引っかかっていたのだ。
だからこそ、この選択はきっと正しい。
たとえ放って旅に出ても、ずっと気にして落ち着かないに決まってる。
「ずっと、いっしょにいてね」
そうと決めたら、立ち上がる。
ムルにどう伝えればいいかなんて分からないが、どんな形でも彼なら察してくれる気がした。
半ば無茶な思い込みで、目を閉じて心の中で願う。
(ドラゴンさんが人型になってお喋りできるようになりますように!)
本当にこれで叶うのか──そう疑った瞬間、ミナを包んでいたドラゴンの体がびくりと震えた。
がくがくと震える体に、ドラゴンだけでなく地面も揺れていると気づく。慌てて身を離すと、ドラゴンが苦しそうにうめき声をあげて大きく雄叫びを上げた。
ごご、がごごごご……地面が揺れる。慌ててミナはそっと地面にしゃがみ込む。ここだけ揺れているようにも、はるか遠くも揺れているようにも思えて辺りを見渡した。
しかしすぐに揺れはおさまって、目の前のドラゴンの体がみるみるうちに小さくなっていった。
そして、鮮やかな光が彼を包む。
あまりの眩しさに細めた目を再び開けると、そこには──ミナより幾分か背の高い、人間の男の姿があった。
「わあ……」
ぱちりと瞬きをしたその瞳は、ドラゴンのときと同じ赤色。
その奥には朝焼けのように黄色い光が灯っている。
髪は深紅の鱗を思わせる鮮やかな赤。筋肉質でスラリとした体が露わになっていて──ドラゴンは、美しい青年の姿になっていた。




