序章-1
目が覚めると、真っ白な空間にいた。
知らない場所。
状況もわからない。
ひとりぼっちの私。
周囲を見渡すが、何もない。ただ、ここがどこかもわからない“異空間”だということだけがわかる。
「夢……?」
思わず呟いた。
明晰夢なんて見たことがないけれど、現実味のない光景に他の答えは思いつかなかった。
右も左も、上も下も真っ白。自分がどこに立っているのかも判然としない。
それでも座っている以上、床はあるらしい。
恐る恐る立ち上がって一歩踏み出す。踏みしめられる感触は確かにある。床も天井も、すべてがミルクのような滑らかな白で、影ひとつない。
最初は底のないどこかへ落ちそうで怖かったが、慣れてしまえば「ないものがあるように思える」のが不思議だった。
何も見つからないまま、疲れたミナは再び座り込み、ぼうっと白い空を見上げる。
この広い空間に、ひとりきりだ。
「夢、覚めないかなぁ……」
今日は何曜日だったっけ。
明日はどんな予定があったかな。
現実のことを考えながらぼんやりしていると、背後から声がした。
「お嬢さん」
ばっと勢いよく振り返る。
心臓がバクバクとうるさく太鼓を打ち、背筋にじわりと汗がにじむ。
目の前には――男がいた。
「あ、え……ど、どうも……」
人がいる――そんな驚きを通り越して、目の前の男の姿に言葉を失う。
彼の髪には夜空が浮かび、星が瞬いては流れ、線を描いていた。まるで髪の中にディスプレイを映し出しているみたいだ。
瞳は夜空に浮かぶ満月のように金色に輝いていて、神秘的なのにどこか静かな煌めきだった。
黒いローブには繊細なレースが編み込まれ、視線を奪う。
幻想的で、神秘的で――それら全てを“付属品”にしてしまえる整った顔立ち。神様に丁寧に作られた顔、という言葉がぴったりだった。
「お嬢さん、こんなところで迷子?」
男が首を傾げると、髪がさらりと流れて星がひとつ落ちた。
(夢だ……)
ミナは再びそう思い、迷子かと問われてゆっくり頷いた。迷子のようなものに違いなかった。
男はその美しい顔に憐憫の表情を浮かべる。
「かわいそうに。こんなところにいたら干からびて消えてしまうよ。おいで、地上へ下ろしてあげる」
優しく微笑んで、男はそっと手を差し伸べた。
触れるだけで申し訳ない気がするほど綺麗な白磁の手。
恐怖は少しあったが、それ以上に――ひとりの孤独から解放される安心が勝った。
立ち上がると、男はミナよりずっと背が高い。もともと平均より小柄なミナから見れば、大抵の男は背が高いのだが、それ以上に“存在感”があった。
男は笑って「行こう」と手を引く。この真っ白な空間で、彼には道がわかるらしい。
ぽてぽてとついて歩くミナは、静まり返った空気の中で言葉を探し、「あの」と声を出した。
「ん?」
歩きながら男が視線を向ける。
「お兄さん、その……お名前は?」
「私の名前? そんなこと、久しぶりに聞かれたな」
うふふ、と柔らかく笑う声は、妙に似合っていた。形のいい唇が弧を描き、その鮮やかさに目を奪われる。
男は嬉しそうに、少しだけ顔を寄せた。
「――――だよ。……あれ、聞こえた?」
「え、何も……。なんか、急に耳鳴りがして……」
名前の部分だけが不自然に聞こえなかった。
男は首を傾げ、ぱちりと瞬きをする。
「お嬢さん、お名前は?」
「あ、ミナです。柏木美凪」
「ミナ、よろしくね。……そうか、驚いた。私の子じゃないね」
「私の子……?」
不思議そうに見下ろされ、ミナが不安になると男は安心させるように微笑んだ。
「地上へはちゃんと送ってあげる。でも……そうだな、ミナの元いた場所には戻れないかもね」
「えっ……?」
男は眉を下げ、美しい指先でミナの髪を梳いた。
「ごめんね、ミナ」
指が頬に触れた瞬間、心臓がまた違う意味で高鳴り始める。
(夢……だよね?)
でも――何かがおかしい。
「ど、どうして?」
「壁が分厚すぎるからかな。君のいた場所に送るには、手荒な手段が必要になる。そうすると、他の子たちが困ってしまう」
諭すように、けれど否応を許さない声。優しいのに、どこか冷たかった。少しもミナに歩み寄ってはいないのに、寄り添っているような気がする。
ミナは背筋がひやりと冷え、思った。
(これ……夢じゃないかもしれない)
ここは天界? 天国? それとも地獄?
目の前の男は神か閻魔のような――絶対的な存在かもしれない。
(じゃあ、私、死んだの?)
最後の記憶は朧気だ。特別なことはなかったはず。
でも、ここを夢だと決めつけて適当にしたら、きっと後悔する――そう悟った。
ごくりと唾を飲む。
「じゃあ、えっと。私は……どこに?」
「どこにしようか。どこも楽しいけど、ミナの一番行きたいところでいいよ」
にこにこと笑う男に、ミナは背筋をぞわぞわと逆立てて、心臓なんてさっきの比にならないくらいに脳みそを揺らしていた。
それでも、逃げられないような雰囲気が、彼にはあった。
「どこ、って……わ、私ひとりで?」
「うん? 誰と行くの?」
「だ、だって……そんな……」
恐る恐る見上げる。怖い。けど――悪い人じゃない。だって、こんなにも優しい。
威圧感や存在感でミナの体は震えるが、仕草や言葉に怯える要素はない。少し怖いことは言うけど、彼のせいなことは何一つ無いし、むしろここから助けようとしてくれている。その行動は最初から一貫していて、やっぱり優しかった。
息を吐き、期待のこもった言葉を絞り出す。
「お、お兄さんとは……だめですか?」
声はしりすぼみになり、最後は消え入りそうだったが、男には届いていた。
「……私と?」
「……だ、だめ?」
離されていた手を男の服に伸ばして、ぎゅっと握り込む。美しいレースの布にシワがよった。
男は見た目は強そうに見えなかったが、絶対に強いと言う自信がミナにはあった。強いって言うか、高い?位が違う、みたいな。
……こんなに、怖いし。
男は一瞬ぽかんとして、それからふっと笑いをこらえきれず漏らした。
「ふ……あはは、本気? 私と?」
「だ、だって……ひとりは寂しいし。お兄さん、強そうだし、優しいし……」
「それでも、そんなこと言われたの初めてだ」
くすくす笑いながら目を細める男は、笑うと近寄りやすく――可愛かった。
綺麗で近寄り難い人は、綺麗で可愛い人に移り変わる。
やがて笑いを収めると、男は少しからかったような声で囁いた。
「かわいいね、ミナ。贔屓してあげたくなっちゃう」
「ひいき?」
「うん。ちょっとくらい、いいと思う?」
その美しさと悪戯っぽさに、ミナは心臓を逆立てて頷く。ちょっとくらいいいと思う。
「じゃあ、かわいいミナにだけ――地上に下ろしたあと、一つだけ何でも叶えてあげる」
「なんでも……?」
「うん。私にできることなら、本当に何でも。不死身になるとか、特別な力を得るとか。お金でも恋でも……ね」
男はミナの手をほどき、また歩き始める。ミナはそれに逆らわずについて行って、「なんでも」ともう一度呟いた。
「お兄さんとは、やっぱり行けないんですか?」
「んん…、そうだね。さすがに難しいかな。干渉する気もあまりないし。……ああ、でも。私とずっといるだけならできるよ」
ミナは震えた肌に首を緩く振って、男に返事をした。頷いたら終わりの予感がした。
「ふふ、賢いね。大丈夫。地上に降りても、たまにおしゃべりしよう。お願いは一個でも、きっとまた逢えるよ」
「本当?」
「うん。波長が合えば、夢でも逢えたらいいね」
――夢。
やっぱり、男は神様や天使様のような特別な存在らしい。
「じゃあ、ミナの降りる地上は私の管轄がいいかな。他に要望はある?」
「……ひとりじゃなくなるように。一番強くて、安心できる人がいたらいいなって」
「あれ、私じゃなくても誰でもいいの?」
「……いじわるだ」
「ふふ、いじわるだとも。じゃあ特別に――とっても強くて優しいやつの近くに下ろしてあげる。きっと君も気に入るし、彼も君を気に入るよ」
「あ、ありがとう……!」
男の足が止まった。
「ミナ、ほら。ここから地上に行けるよ」
指し示されたのは、真っ白な世界の中でひときわ目立つ“宇宙の階段”。
彼の髪のような暗闇に星が瞬き、ときおり流れ星がきゅうっと光る。流れ星だ。階段の境目だけが濃ゆい影になっていて、不思議な空間だった。
「ここを、降りるの?」
「うん。そうしたら、少しだけお別れだね」
手を離し、向き合う。短い邂逅だったが、忘れられない出会いだった。
再び見上げる。優しい彼でよかった、と心から思う。
「ありがとうございました……。連れてきてくれて、約束までしてくれて」
「ふふ、特別。他の子には秘密ね。嫉妬されるから。普段の私は怠惰なんだ」
こくり、と頷く。秘密は誰にも言わない。自分でも特別扱いをされた自覚はあったし、それを流布するような愚行もしたくない。
でも――そうなるとこの日の思い出はミナの心の中だけに収まる。
忘れることはきっと無いだろうけど、薄れることはきっとあるだろう。
ミナはそっと願うように見上げた。
「最後に……名前がわからないから、私がお兄さんを呼ぶときの名前を、つけてもいいですか?」
ミナがもしかしたら死んでしまっていることも、家族や友達ともう会えないことも、これまでと同じ生活をできない事も飲み込んで。
ミナはとりあえず今一番自分に優しくて、助けてくれる彼を覚えておきたいと思った。
男は目を見開き、ぱちぱちと瞬きをした。
ぽかん、と口が開く。
「ミナ……きみって、本当にかわいいね」
「えっ……?」
男は可笑しそうに笑い、美しい顔を近づけると――額に小さなキスを落とした。
「特別だよ。なんて名前?」
「……ムル。フルムーンからとって、ムル。お兄さん、本当に夜空のお月様みたいだから」
ムルは目を閉じ、すぐにまた開く。嬉しそうに微笑んだ。
「うん、素敵だ。君だけが呼ぶ私の名前だね」
「…うん」
「こちらこそ、素敵な贈り物に感謝を。――行ってらっしゃい、ミナ」
「い、行ってきます。ムル」
ミナは手を振り、階段を下りる。カツン、と靴が空を打つ音が響く。
真っ白な世界が消え、見えるのはムルの髪のような暗い夜空だけ。
この先に、新しい世界が待っている。
どきどきしながら――ミナは一歩、踏み出した。