スピンオフ2と4
スピンオフ-2
「しーんさん、ひどーい。」
そんな声とともに、
しなだれかかってきたその女の子を見て、信は吃驚した。
稽古場ライブの成功を祝しての、打ち上げ。
同じ会場。近所のレストランに頼んで、テイクアウト料理を運んでもらい。
飲み物は、大きな盥に氷と水を張り、ソフトドリンクを入れて冷やしておいた。公民館ということもあり、表だって酒は抜きにしてあるが、飲みたい奴は、こそっと各自持ち込みしてくれということになっていた。
「おいっどうした?」しんさーん。抱きついてくる。少し酒臭い。
「何飲んだ?」「ウーロン茶れすよ・・。」
そう言ってまた、ぐっと飲んでる。「貸せ。」と、その子のグラスを、むしり取り、
匂いを嗅ぐ。くっ、酒だぜ、これ。
「誰だ、ウーロン茶に酒混ぜたの?
わざとじゃないよな?そうだとしたら、犯罪だぞ。日野は、まだ高校生なんだぞ。」
「あーあ、センセイ。お堅いことで・・。」何かと突っかかってくる男衆の面々がそう茶々を入れる。
しかし、講師とはいえ本当に高校の先生でもあるのだから、そんなの見過ごすわけにもいかない。
「だって、しんさんは、あの人が好きなんれしょ。・・どうせ私なんてまだ子供で、相手にもしてくんないのは仕方ないけどさあ・・。」
こいつ、絡み酒なのか?
腕を掴んで、かわいく絡んでくる。化粧を取った顔は、まだあどけない。でも、和太鼓を奏している時には、時々、はっとするほど女の顔になる。
見ている者も、そんな魅力に鷲掴みにされ、いつのまにやら、ついたあだ名が夜叉姫。
顔立ちや舞台化粧が濃いこともあいまって、結構派手に見えるから、へんな輩に付き纏われるし、
何か勘違いして彼女目当てに、この和太鼓サークルに入ってくる男も多い。
そういう奴は、長続きしないが。
「もう、しょうがないな。
家まで送ってくるわ。それで、親御さんに謝ってくる。
送りとどけたら戻ってくるけど。遅かったら、この会場適当に、切りあげてくれ。9時までしか利用できないから・・」
そう言って、それぞれ指導しているサークルの代表である佐田君や山谷さんに頼む。
「ラジャ!ほんと、あいつら、困ったもんだよな。」酒を盛った面々へと、佐田もぼそっと言った。「夜叉姫狙いなの、ミエミエでさ・・。」と山谷さんも。
そう言って信は、「ほら、いくぞ。」といって、日野を促した。
「えーーーっ、やだぁ。まだ早いよーー。」と抵抗していたが、かまわず担ぎあげる。
ああ、面倒くせえ。
「おう、襲うなよ。」「ホテル、連れ込むなよ。」
無責任に掛けられる男どもの声に、もう、誰のせいだと・・睨みを利かし、
その場を、後にした。
「しーんさん。しんさん、おこってる?」
「ほら。水飲めよ。」
公園だった。
タクシーに乗ったが、途中で「気持ち悪い・・」と日野が口を押さえ出したので、
運転手さんの目も怖かったし、公園のあたりで降ろしてもらった。
ベンチに座らせ、自販機で買った水を持ってくる。
「気づいてたけろ。お酒入ってらこと。でも、少し飲んでみたい気分れ・・。」
「だめだよ。危ないんだから。あの後に、どっか連れ込もうって、そんな魂胆もった奴がやったことかもしれないし・・。」
信は、諭すように言い聞かせた。
「どうせ、しんさんは、あの人のことばっかり見てるから・・嫉妬れす!」ぷんと、怒った顔。なんだこの、“ド・ストレート”。小気味よくて、可笑しい。
「でも。あの人は、小野さんしか見てないれすよ。」いーって意地悪な顔をする。でも、この顔も、結構かわいい。
「ほっとけよ・・。」
そんな信に、夜叉姫は、嵩にかかって責め立てる。
「しんさんって、バカ。バカがつくお人よし。
そんなこといって、仲を取り持つまねをしたんれしょう?」
「何で・・知ってる?」と言ってから、あ、カマかけられたのかと気付いたが。
「やっぱり。そうでしょ。らって、しんさんらもん。私、しんさんのこと、どんだけずっと見てると思ってるんれすか・・。そのくらいわかりますよ。」
そう言うと、うっと、また口を押さえた。
「大丈夫か?吐きそうか?」そういって、信はやさしく背中をさすった。
・・ううん。大丈夫。しばらくこうしてても、いいですか?
そういって、夜叉姫は、信へと、
ぴとっと体を凭れかからせてきた。安心しきったような顔。
※
不意に、あの日の出来事が浮かんだ。
仲を取り持つ、お人よし。そんな言葉に刺激されたせいかもな・・。
融たちと約束した時間が迫って、急いで鳥居をくぐり、石段を駆けあがろうとしたとき、
背後から呼び止められた。
「おい信じゃないか?
そんな急いで。神社に何か、用事あるのか?」
振り返れば、宮司様だった。融のおじいさん。
「あれ。宮司様、ご存知ないんですか?
融に呼ばれたんですよ。
神楽舞、奉納するからって。」
信とすれば、それだけしか聞いてなかったので、深く考えず口にしてしまった。
しかしそう言われ、宮司様は少し口を歪めて、
「ああ。あの娘に練習させてるようだな。また、二人で何かこそこそしおって。
融は、何を考えてるのか・・。本当困った奴だ。」
信は、そんな言い草に、何だか一瞬ムカついて、気がついたら言い返していた。
「でも・・口幅ったいですけど、言わせてもらっていいですか?
融は、よくやってますよ。
あいつって、周りのことを気遣いすぎて、自分を殺してばっかりだし。
サッカーだって、続けたかったんだと思いますけど。
だけど・・宮司様が、反対されたんでしょ?」
「人の家のことに口を出さんでくれるかな。
お前の所とは、違うんだ。」
そんな言われ方に、また頭に来た。
「何が違うんですか?
融は、そんな風に偉ぶったりしませんよ。
ほんといい子だなぁって、僕の母も感心している。
近所の者は、みんな融のこと心配してるんです。この前の例大祭でのことは、
ウチの母も頭から湯気出して怒ってたし。」
「わしだって心配しとるわ。
あんな馬の骨とも分からんような娘を連れてきおって・・。何考えてるかと。」
「偏見じゃないですか?
いい子ですよ。少なくとも、あなたが考えているどこかのお嬢様より、
融のこと想ってるし、一生懸命だし。」
宮司様が、そんなに嫌う意味が分からなかった。
信は、巫女姿の瀬奈に一目で魅せられた。くるくると一生懸命働く姿に。
だけど、そう。悔しいくらい、瀬奈の目には、融しか写っていなかった。
「許さないなんて、そんなこと言ってる間に、
融、どっか遠くにいっても知りませんよ。
だいたい融がこの地を離れないのは、
神社の跡取りがどうのとか、財産がとかそんなことじゃない。
おじいさんを一人残すのが心配だからでしょう。
一人息子の自分が、役割を放棄するわけにはいけないと、そんな責任感のある、
優しい奴なんですよ。
そのやさしさを逆手にとって、宮司様の考えに従わそうなんて、思わない方がいいですよ。」
「信・・言ってくれるな?なんの権利があって・・。」宮司様を、完璧怒らせた。
でも、信は思っていた。誰も表だって言えないことだから、却って他人の自分が言うのがいいんだと。
「一度、瀬奈さんの神楽舞を見てあげてください。
一生懸命ですよ。
きっと、融を支えて、神社のいいお嫁さんになりますよ。
これからやりますから、陰から見てたらどうですか?」
そう言い放って、石段を上がった。2段飛ばしで、ダッシュで。
※
「あのね・・しんさん。」
突然の声に我に返った。凭れかかった夜叉姫の声だった。
「いま家、留守なの。母が弟連れて帰省しちゃってて。父は仕事で会社れす。
なんか大変なことがあったらしくて、泊まり込みになるって、さっきラインで、連絡が・・。」
「ああ、それは困ったな。
送り届けても、一人じゃ。困るだろう。」信は、夜叉姫の意図には気付いてないようで、そう言い返した。ただ単に、酔っぱらった身では、風呂とか食事とか困るだろうと。
どこまでも、子を心配する親の気持ちだった。
「いいれすよ。しんさんなら。ウチ来ても・・。」ふふふと笑う。その艶めかしさに信は、少し焦った。
「おまえな・・男誘惑するのは、10年早いっつーの。」そんな軽口で応戦したが。いや・・もう10年もいらないかもしれない。目の前には、いつのまにやら成熟しかけている果実。嘘だろ、と。
出会った時は、この子は10歳くらいで、こっちも大学生だったが、
あれから年を経た。不思議な感慨があった。
「でも、しんさん。そんなしんさんが、私は、らーいすきですよ。」安心したように、またべったりしなだれかかってくる。
「はいはい。しょうがねぇ。じゃあ、ここで、もうちょっと覚ましてから送るか」
そんな小さい子を宥めるような響きに、
夜叉姫は、突然声を荒げた。「しんさんのばか!」
「なんだよ。また、藪から棒に。」もう、この酔っぱらいが・・と。
「だって、全然あいてにしてくれないんだもん。もうずっと、コクってるのに。」
そう。中学の頃からだろうか?言っては即断られ、まだ言っては断られ、
仲間内では、もう一種のネタと化していた。
「だって・・高校生だろ。高校生らしい相手選べよ。」俺みたいな、おじさんじゃなくてさ。と。
「なによそれ。しんさん、ムカつく。
ずっと好きなのに。
どうせ、あの瀬奈さんみたいな清楚なタイプが好きなんでしょ。私なんかとは違って。」
嫉妬全開で迫ってきた。
「何言ってんだよ。おまえだって、ハデに見えるけど、寄ってくる男は、カンチガイしてるだけってことくらいわかってるよ。
本当のお前が純なことは、知ってるから。
だから、変なこと言うの、止めろって。」信がまた宥める。
「じゃあ、私とつきあってよぉ。」心の底からの、叫び。もう、小さい子が手足をバタバタさせるくらいの勢い。
「ダメだよ。特定の生徒と、特別な感情は持ちたくないんだ。」そんな信のいい分に。
あ、あれ?夜叉姫は気付いた。前までのふられ方は、幼いお前なんか相手になるか・・だった。ロリコン趣味と思われるだろう。そんな目で見られないから・・だった。
「じゃあ、やめる。生徒やめる。そしたら、選んでくれる?」まじで縋った。
「もう、ダダこねるなよ。そういうところが、まだ幼いよなぁ。ダメ出しだ。」そう言って、年上特有の上から目線で応戦する。
「違う。しんさん、答えになって無い。私、止めたら・・生徒じゃなくなったら、選んでくれるの?可能性あるの?」まだ、縋る。だって、きっとここがポイント。
「それは嫌だな。おまえと一緒に演奏できないのは、嫌だ。
止めるなよ。だいたい、お前止められるわけないだろう?
ほっといたって、叩いてる奴が。
ここで会えなくなるのも、嫌だな。何年一緒にやってると思ってるんだよ。」
「ですよね。そっだ。止めるなんて、私の辞書にはない言葉だった。」あはは。夜叉姫は、納得したようなふりをした。
でも、信さんは、ずるい。微妙に問題をすり替えられたことには気付いていた。
なあ、日野。ん?なに・・信さん。
「神楽舞、練習してみるか?」「え?いいの?」がばっと起きた。
「おい、酔い覚めたのか?」「うん。その言葉で、一気に醒まされたよ。
わーい、やったぁ!」単純。かわいい。でも、また、ふうって力が抜けた。
「あ、それからさ。一度聞いてみたかったこと。しんさんだけは、どうして私のこと、夜叉姫って呼ばないの?」
日野・・と呼ぶ。それが何だか少し余所余所しくて残念に感じていた。
それは・・信は言いよどみながら、
「滝夜叉姫の伝説って知ってるのか?
平将門の娘とされる伝説上の妖術使いのことでさ。天慶の乱で平将門は破れて、一族郎党が皆殺しになり、娘だけが生き残って。怨念を募らせ、貴船明神の社に丑の刻参り。」
カーンカーンと、五寸釘をうつまねをする。
「信さん、さすが、社会科の先生だね!」
「なんか、やだろ。怨念のこもったそんな名前。」「でも、カッコイイし、私としては、気に入ってるんだけどな。」
信は、ふいっとそっぽ向いた。
・・その名は、誰かが言い出して、なんか癪に感じていた。自分以外の他の奴が、彼女の何を知ってるという・・。それは、もしや、やきもちという感情?
信は気付いて、狼狽した。
「夜叉姫が嫌だったら、せめて名前で呼んでよ。
日野じゃなくて、由布子ってさ。」
信は、旗色が悪いのを感じ取り、なんだか焦って、
「ま、とりあえず、ここにずっといるのも、なんだかな。ウチでも来るか?」そう口走っていた。
「え?しんさんちに連れてってくれるの・・まじ?」
由布子はにわかに緊張した。
えっえーーーっそんな、一人暮らしの男の人の部屋なんて・・心の準備が。
今までの威勢の良さはどこへやら、もじもじと、挙動不審に。
そこへ、「ああごめん。ちょっと連絡するわ。」
そう言うと、信はスマホを取り出した。
そこで、由布子は、またもや、胸がぐっと苦しくなって、体が熱くなった。
もしかして・・部屋には彼女がいて、その人に了解を得てってか?
信さん、もてるから・・。
知ってる・・何人も、ライバルいること。あたりがやさしいから、女の人、すぐ勘違いしちゃうんだよね。
確信にも近いそんな考えが浮かび、一瞬でずーーーんと気持ちが落ち込んだ。
しかし由布子のそんな気持ちには、全く気付かないまま、
信は、繋がった電話へ話し出した。
「あ、もしもし、かあさん?今日ライブの打ち上げでさ。
え?ああ。ごめん。ライブのこと話してなかったよな。そんな大したもんじゃないから、言わなかった。そこで、サークルの高校生の女の子が酔っ払っちゃってさ。このままにもしておけないから、実家連れて行っていい?なんか家帰っても、誰もいないんだってさ。
風呂と寝床と朝ごはん。頼むよ。」
え?実家?
由布子は、少しがっかりしながらも、
で・・でも、信さんの生まれ育った家!見たいな信さんのお父さんやお母さんも。うん、これは一歩前進だよ。きっと!
「しんさーん、すきぃ!」抱きついた。
そして、お父さんお母さんじいさんねえちゃん義兄姪っ子大家族と対面することに。
外堀が埋められる、10秒前!カウントダウンは始まった。
(了)
スピンオフ-4
※
「由布子ちゃん、大丈夫?
おなか減らない?おにぎり持ってきたよ。」
部屋に籠った由布子へ、今は義姉である沙羅が、戸口から声を掛ける。
「あ。お義姉さん。ごめんなさい。」
由布子は仕方なく戸を開けて迎え入れた。
「お母さまから、頼まれたの。おなか減ったでしょ。」
由布子は呼び止められた父と言い合いになり、持っていた灰をバーンとぶちまけて、そのまま物置部屋に籠って内側からつっかえ棒をして泣き喚いていた。
「大丈夫よ。灰は私と母さまで片付けましたし。
まずは、腹ごしらえしましょうよ。
お腹減ってると、よくない考えばっかりぐるぐるするでしょ?」
由布子は、沙羅のその横顔をしみじみ見た。
子どもの頃の沙羅というと、髪を振り乱し、肌は焼けて真っ黒で、そこらじゅう走り回っていた印象ばかりだ。頼りがいのあるお姉ちゃんで、いじめっ子がいると、乗り込んで天誅を下してくれたりもした。
それが真一と結婚が決まったここ数年で垢ぬけ、色は白く髪は長く、ガサツな所は消え色気さえにじみ出て。綺麗。でも、姐御肌な所は、少しも変わって無いが。
「あのさ・・お父さまも、由布子ちゃんを思う故だと思うよ。だから、許してあげて。
真一さんも、心配してるよ。」
そりゃ・・義姉さんは、いいよ。兄と同年代で、障害も無くて。そんな荒んだ気持ちが胸をよぎって心を揺さぶる。
「だって。信と、離れなさいって。もう、部屋に行ったらダメって。
今のままだと、信だって、結婚できないだろう。かわいそうだよ。だから、
今度、外の村からお嫁さんをもらうことにしたんだ。だから、邪魔したらダメだよなんて・・。」
そう。一方的に宣言された。
・・みんな、私の気持ちは知ってるくせに!
「そうだったの・・。ごめんね、由布子ちゃん。
それは多分・・敦子様のお具合いが悪いから・・なのね。安心させたくて。
帯刀家が揺らぐと、この辺りに住む者がみんな困ることになるし。」
義姉は、苦しそうな顔をした。
そう。これは大人達が画策したことだった。夏に拗らせた風邪により、敦子様が病みがちになり、お加減が芳しくないことから、
雅孝さまの元服を急ぎ、すぐでは無くても、そのお嫁さんを由布子にと決めることにより安心させようとしたものだった。
そしてそのためには、どうしても、信と由布子の関係を断つ必要があると。
帯刀家の総領息子 雅孝の嫁に。
それは、もの心ついたときから感じていた。
ほぼ同い年。乳母子でもある。
だが、女の方が成長が早いので、雅孝は、いつも由布子に後れを取り、
みっともなく追いかけて、でも追いつけずわあわあ泣き喚き、乳母である瀬奈に縋りつく姿しかなかった。
「みんな・・私の気持ちなんて、置き去りなんだもん。」
大きくなっても、二人のその関係性は変わらなかった。何かと言えば、自分の母親である瀬奈に、甘えてくるのがみっともなく感じて、イラつく相手であった。
「せめて、信と、今のままでいたかったよぉ・・。」
由布子がずっと赤ちゃんのころから追いかけ続けていたのは、信だった。
でも、年が離れすぎていた。いつも父親さながらの包容力で、自分を守ってくれた。心地よかった。
それがお互いにダメなのだと言われた。
信・・信しか見て無かった。
ずっと。
だけど・・。
「あのさ俺、お前のおしめ替えたこともある人間なんだぜ。
今更、そんな風には見れないよ。」
告白しても、まともにはとりあわず、そうやんわりと切って捨てられた。
でも信だって、そんなことを言いながらも、由布子がまたやってくると、それ以上は拒否出来ないようだった。
そんな2人・・。ずっと。
信は、結婚しないと言っていた。
自分はもともと、訳あって帯刀家に御厄介になっている身。
敦子さま、そして雅孝さまを陰から支えて、家をもりたてていくことこそが自分の役目。
誰から説得されても、そう言い張っていた。
「でも、由布子ちゃんはまだ小さいからわからないかもしれないけど、
雅孝さまのそばに一番いるのは由布子ちゃんじゃない。いつも喧嘩してるけど、それだって仲がいい証拠よ。そのうち気付くよ。得がたい相手だってさ。」義姉が言う。
そりゃ義姉にとっては、それは兄だったんだろうけど。
でもちょっと違うの。
私と雅孝は乳母子で。小さいころから母を奪い合っていた。先に譲ったのは由布子。
しょうがないなって。
弟みたいに思ってる。確かに、まあちゃんと仲はいい。好きなこと言い合って、喧嘩して。
でも、違う。私が、求めてるのはそんなんじゃない。
なのに、信に外の村からお嫁さんって。結婚するって。嫌だ・・嫌だよお。
※
「信も、真一も、ひどいよーー!」
雅孝は、憤懣やるかたない表情で、叫ぶ。
「だめですよ、雅孝さまは、この家の後継ぎなんですから。
お方様を守って、この家を存続させる、それが大事ですから・・。」信が強く言う。
「やだよ。僕も行かせてよ!」
乳母子の由布子まで、長刀をもって自衛団の一員として戦っているというのに、
どうして僕は、ここから動いてはいけないの・・情けない。また由布子に、まーちゃんのいくじなしって、バカにされる。雅孝は、ベソをかいた。
世は乱れていた。
最初はわずかな綻びだったろうが。それはしかし、どんどん広がり、その速度はもう止められぬほどになっていた。
その年は冷夏で収穫が激減。飢饉となり、飢え死にする者も多く出た地方の惨状。
しかし公家は変わらず、我関せず、歌を詠み笛を奏し、雅を体現することこそ役目と言わぬばかりに、既得権の上に胡坐をかいてのうのうとした暮らしぶり。
業を煮やした地方は、動きだしていた。鬱積した不満は爆発し、
あるものは叛乱軍として決起し、そしてそれに力を貸すもの。またはそれに反して、朝廷軍として紅の御旗を与えられそれを制圧する側に回るもの。各地で戦いが起こっていた。
帯刀家の治めるこの隠れ里は、基本自給自足。戦いとはながらく無縁だった。
だが、鉄を産してのたたら場は、武器の注文が多く舞い込み、それにより潤い裕福となって、それに目を付けた者たちに、つけ狙われ出していた。
紅の御旗を与えられて躍りでてきた勢力は、平氏。
それに対して、地方の反乱軍には各地の源氏が力を貸しているといわれていた。
両者の戦いで、どちらにつくか、
帯刀家はまだ決めかねていた。
※
「由布子が帰ってきてないって?」
融は、慌てて外に飛びだした。
暮れかかった空には、山の中腹にあるたたら場と、帯刀家のあかりだけが仄かに点っているのが見えた。
「すいません。先に家に戻るからって言われて。
でも帰ってきてもいなくて・・。」義父の剣幕に、若妻の沙羅がおろおろと伝える。
「・・・もしや、信の所に行ったのではないか?」そう言った融に、
「いえ。先ほど、真一さまが、帯刀の屋敷の信さまの部屋を訪ねたのですが、
いなかったと・・。そして、信さまもご存知無いと言われて。
でもその後に、
心当たりがあるから、2.3探してみると、信さまが飛びだして行かれたと・・。」
※
「やはりここだったか。」
由布子は、どきっと振り返った。その聞き慣れた声。信だった。
そう。
いつも由布子は、悲しい時、ここに来て隠れて泣いていた。
知っているのは、多分、信だけ。
峠が見渡せる見張り小屋。
昔、都よりこの辺りまで逃げて来たときに、背負われた由布子が突然泣きだし、
信は、崖の花を取って宥めようとしてくれた。
渡された白い花弁の清楚な花。そのくっきりとした輪郭を、何故か覚えている。
「ダメだよ。今は物騒だから。勝手なことをしてお父上やお母上を心配させては、いけないよ。家に戻りなさい。心配掛けたことは、一緒に行って、謝ってあげるから。」
優しい声。信はいつも・・そう。私のわがままにも声一つ荒げること無く、いつも寄り添ってくれて。
「でも私、いつも思ってたの。
信は・・信が、心配をかける相手はいないんじゃないの?
だって、信はお父さんもお母さんもいないんでしょ。わがままを言いたい時は、どうするの?」由布子は、聞いた。少し大人びたその横顔。泣き濡れた目が痛々しい。
「・・もう大人だからね。わがままなんて言いたい時は無いよ。
それに実の親はいないけど、小さい頃に、お方さまの旦那様に引き取られて、お二方のことを親だと思っているよ。よくして頂いた、大恩があるんだよ。」
落ち着いた信の言葉。でも・・でも・・!
「嘘だよ。
信だって、言いたいことあるはず。でも、私気付いたの。信はそれを言う相手がいないってこと。
もしかして、結婚したら、そのお相手に言うの?
そうだとしたら、私、信のこと諦めるよ。私はいつも信にわがままを聞いてもらってばかりで、迷惑かけてばかりで・・。どうしようもなく子供で・・。」
やだ。こんなダダこねてるばかりの自分は嫌だ。だけど・・急に大きくもなれない。
「そんなことは、ないよ。由布子。
由布子が、俺の代わりに怒ったり泣いたりしてくれてる。だから今まで俺は幸せに過ごして来れた。今度のことだって、俺は君に癒されている。だから俺は、きっと・・。」
そこで言葉を切った。そして、その後の言葉を信は、飲み込んだ。
・・そう。支えているようで、ずっと支えられてきた。
そんなことに気付いてしまうなんて・・。
そんな時だった、突然。小屋の周り、
どこからかやってきた黒い服の男たちがわらわらと取り囲んだ。
「信というのは、お前か?」
首領格のような男が、尋ねた。しまった。つけられていたのか・・。
「誰だ。」
「笛吹家の当主さまから頼まれたのよ。
帯刀家へと申し込んだ娘の縁談の、
その相手である信という男が、わが家の婿に相応しいかどうか見て来てくれとな。」
信は、そいつらを眺めまわした。いかにも胡散臭い奴ら。
もしや難癖をつけて、攻め込む理由を探しているのか?そんな気がした。
長らく付き合いのある笛吹家は、
帯刀家と同等の「介」の位を持つ地方豪族だが、
当主が病弱なのに付け込まれ、好きなようにされていると噂に聞いていた。
そんな時に帯刀家のしかも信を名指しにして申し込まれた笛吹家の一人娘の縁談。
どんな思惑が絡んでいるのか?皆はその意図が読めずに困っていた。
だが、しばらく様子を見て、その動きをあぶり出そうと融たちに提案したのは信だった。
「そうか。だが、今は取り込み中だ。出なおしてくれ。
今は、この子を家に戻さなくては・・。」
信は、その男たちの纏う臭いに身の危険を感じて、由布子を抱き寄せた。
しかし男たちは、由布子を見て目を輝かした。
「いい女だな。そいつを俺らにくれ。そしたら、お前が逢引きしてたなんてことは内緒にして、都合のいい報告をしといてやる。いい取引だろ?
その女、その目がたまらんな。見られると、ゾクゾクするぜ。上玉だな。こっちによこせ。
持って帰れば、大将も喜ぶだろう。」
大将?・・誰のことを言っている?
「何、わけわからないこと言ってるのだ。いやらしい目で見るな。
この子は、雅孝さまの乳母子。お前達の指の1本だって触れさせるわけにはいかない。」
そんな信の言葉に、
相手は、いきり立って、いきなり刀を抜いた。
「素直に渡せば、余計な殺生をしなくて済むものを・・なぁ。」
闇の中、刀身がぎらりと、わずかな月の光を反射する。手練れだ。
信は、由布子を庇ったまま、その相手の手を蹴りあげた。
ぐわっ・・その男は蹲った。その瞬間、信は、飛んだ。由布子を抱いたまま。
長いこと、忘れ去っていた記憶が再び蘇った。
その昔、あれは、お宮参りだったかの帰り。母と兄と、自分。
あの時も、信は、片手に母をもう片手に由布子と真一を抱いて、追手から逃げていた。
飛んで、木から木へ飛び移る。
「くそう。逃がすか!男は、いい。狙いは、あの女だ!」
信は、繁った葉陰に隠れた。そして、木の間を飛び移り、逃げる。
しかし、その時、信の背に、引き絞った弓から放たれた、1本の矢が・・。
「信、危ない!」気づいた由布子の声もわずかに間に合わず、
矢は信の右の二の腕を掠り、その瞬間腕の力が抜け、抱いた由布子もろとも態勢を崩し、二人はそのままもんどり落ちた。
その時においても信は、由布子を庇うように、下敷きに。しかし、枯れて落ちて積もった木の葉が、二人の身を受け止めた。
「大丈夫か?由布子。」「それは、こっちの台詞だよ。信。大丈夫?」
慌てて由布子は、立ち上がり、信の傷に取り縋る。血が・・流れている。
信の腕には矢が抉った傷と、その周りになすりつけられたような変な毒の臭いがあった。
由布子は狂ったように、信の傷に口をつけ吸い取って、吐きだしていた。
・・いやだ。こんなことで・・信が・・死ぬなんて。嫌。絶対嫌!必死だった。
私が、夜にこんな所に来たから。
信は一人だったら、誰にも捕まったりしないのに。私が足手まといになったから・・。
後悔が、次から次へと湧いてくる。
そして目についたどくだみの葉をむしり取って傷口を押さえ、止血しようとした。
処置は、信のいつもしていることの、見よう見まねだ。
しかし、その時ガサガサと音がして、向こうの木々の葉が揺れた。
追手か?信は、焦った。
目を落とせば、丁度木の根の所が洞になっている。慌ててそこに由布子の体を問答無用で押しこんだ。そして、その根に倒れ込むように、自分の体で塞ぐ。
やはり来たのは、追いついてきたさっきの男たちだった。
「ああ、いたいた。あの男。こんな所に、落ちてるわ。」「おい。女はどこに行った?」
「逃げたよ。」信は、軽く言い放った。「本当か?」
「体を打ち、動けない俺など、ただの足手まといだ。俺の怪我を見て、女は見捨てて逃げて行った。あっというまに消えた。」
つまらなさそうに信は、言い放った。その台詞は真に迫る。
「あーあ、かわいそうに。こいつ。」ひっひっひと下卑た笑い声が上がる。
「しかし。あの女は、帯刀家の総領息子、雅孝さまの許嫁だ。
お前らが、何かしたら家族の者が黙って無いぞ。」信は、睨んで尚も言い募った。
「ふふ。こりゃ笑える。そんな体でも、まだ我らを脅すのか?
本当、わかってないな。帯刀の栄華もあとわずかよ。
冥土の土産に聞かしてやろう。
もう、笛吹家は、平氏が乗っ取った。あの縁談は、お前をおびき寄せる口実よ。
時は、今、平氏だからな。
帯刀も、お前がいなければ、残るは、女子供だ。赤子の手をひねるようなものだろ。
逃げた女だって、遅かれ早かれ、我々の手に落ちるのよ。」
ははははと、愉快そうに男たちが笑う。
「あの女、あの気の強そうな目がいい。見られると、ゾクゾクしたぜ。
丁度良い。散々弄んだあと、白拍子にして献上したら、平氏の大将も、さぞや気に入るだろう。」男たちは、盛り上がっている。反吐が出そうな奴ら。
「おい、こいつ、もっと痛めつけておくか?」別の男が、信に目をやり踏みつけた。
信は、抵抗しなかった。「もう、動けないんじゃないか。」また別の男がそういって、つまらなそうに、そのまま顎を蹴りあげた。しかし信は、ただ受け止めるだけ、動かなかった。
「無用だ。もう傷から毒がまわってきてるだろう、これからじっくり苦しんであとは死ぬだけよ。それより、女を追え。女の足では、遠くにはいけないだろう。
へへっお楽しみはこれからだな。」嗜虐的な目を爛々とさせ、男たちは、去って行った。
そいつらが姿を消したのを見届けた後、信は、やっと、木の洞から体をずらして尋ねた。
「由布子・・大丈夫か?」
「バカ、信のバカ!!
やだよ・・死んじゃやだ。」洞の中から這い出て、由布子は信の背中に縋った。
その体はすっかり冷えて冷たく、由布子は慌てて体に覆いかぶさる。「やだ。信・・信、しっかりして。」
だけど、抱きしめる以外、由布子には何も出来ない。助けを呼びに行かないと・・。
「大丈夫だ。このくらいでは、すぐには、死にはしない。
まだ暗い。朝が来るまで由布子は、ここから動くなよ。敵がうろうろしてるかもしれん。」信が、横たわったまま、静かに答える。考えを、見透かしたように。
「ごめんなさい。私が、勝手なことをしたから・・。」
「勝手なことは、お互い様だ。
由布子には、笛吹家からの縁談の本当のことを言わないでくれって。みんなにそう言ったのは、俺だから。」
え?
「信・・どうしてそんな?」「縁談はただの口実。由布子には、俺のことなんて忘れて、幸せになってほしかったんだ。」
「そんな・・信のこと忘れて、幸せになんてなれるわけないじゃない!」
信、わかってないよ。女ごころってのを!バカ、バカ。
「帯刀の家には、由布子が必要なんだ。
さっきの男らの話も聞いたか?俺がいなければ帯刀は、女子供。係累が少なくて、脆弱だ。
おまえの父君や母君。そして兄である真一。その妻の沙羅。強くその縁を結びたい。それはお方様も同じ意見だ。」
「信とじゃ、ダメなの?」「俺は、帯刀の家とは、直接の血縁は無い。旦那様の姉上の嫁ぎ先にいた前妻の連れ子の子。それが俺だ。小さい頃ひどい扱いを受けていたのを、お方様の旦那様に救われた。」
初めて聞く話だった。そうか、だから信は・・ずっと帯刀の為に滅私奉公して。
「ごめん。でも・・俺が・・悪かった。
俺がもっと早く、思い切るべきだったんだ。」信の息が乱れてきた。もしや毒がまわって?
「何を?信!どういうこと?」由布子の目から、はらはら涙が流れる。
「・・でも、出来なかった。
俺は、恋より先に、
温かくって柔らかい感触を知ってしまったのがいけなかった、ということもあるの・・か・な。」と信は目を閉じて、少し嬉しそうに口元に微笑みが見えた。
え?どういうこと?
「触れるとぼちゃぼちゃとしててさ。すべすべで、
そして、無防備に求めて吸いついてくる。
しん、しんってさ。気やすく呼んで。かわいい口で。」
なによ、何言ってるのよ。それって、女の人と、なんやかんやしたこと?
もしかしていやらしいこと言ってるの?由布子は戸惑った。
「信、なんかいやらしい。知らなかったよ、そんな信・・。」だれよ、その女の人?と、由布子は問い詰めそうな勢い。
そんな誤解も可愛くて、信は思わず笑った。でも、笑うと少し傷が痛み、顔が歪む。
「何だよ。俺だって、人並みにいやらしいこと位考えるって。
でもそれは違う。もっと純粋でさ。こんなかわいさ知ってしまったら、
俺、どうしたらいいのって。身に余る幸せで・・。」
え?由布子にも少しわかった。それって・・
「他の女と結婚なんてしたら、それを失ってしまうから。躊躇してしまったんだ。
それに小さい姫君が、
つぶらな瞳で、しん、けっこんしちゃうの?って聞いてきて。
そしたら、もう会いに行ってはいけませんよって、お母様が言ったの。と寂しそうで。
つい、
・・しませんよ。少なくても由布子さまが大きくなるまでは・・。なんて答えて。
覚えて無いか?」
あ・・。「信。」もしかして、信も、ずっと、私のことを?
いや、信の方がずっとずっと広く大きい愛で、受け止めてくれていたんだ。
「ごめん。
分不相応な願いだと知りつつも、ずっとずっと引き延ばして、
そして君の前で自分を、誤魔化して誤魔化してここまで来た。
・・好きだよ、由布子。」はあはあと、信は少し苦しくなったのが息が上がってきた。
「私だって、信が大好き。やだぁ・・死なないで!」
「大丈夫。また会えるよ。
生まれ変わったら、今度はもうちょっと年の差が無い方がいいかな・・。」頬が歪む。
「うん。絶対、見つける。私、信のこと見つける。どんなにいっぱいの人の中でも、必ず。」
「由布子・・。」信の目に涙が光る。涙なんて、初めて目にした。
「今度は信に、いっぱいいっぱい家族がいたらいいな。両親にお爺さんにお婆さん。お兄さんにお姉さん。姪と甥もゴロゴロしててさ。みんなみんな信のこと、だーい好きなの!」
はは。信が笑った。いやだ・・死なないで。
その時、5.6本の松明の光が、こちらへと来るのが見えた。
信は慌て、もう最後の力で由布子を隠そうと押しやったが、その前に、信、信いるのか?と名を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある男の声と女の声。由布子と呼ぶ声も重なった。
「あ。お兄さまだ。義姉さまも。父さまも・・。ごめんなさい。」由布子は、泣いていた。こんなにこんなに家族が心強く感じたことは、無かった。
「大丈夫か?」「敵はやっつけたぞ、信。」真一だった。「あんな奴、私たちの敵じゃないよ。油断したとこ、一網打尽よ。」威勢よくそう言ったのは、沙羅。
「ありがとう。」信は安心して、張りつめていたものがなくなったせいか、ぐったりとその場に倒れ伏し。慌ててその体を、融が受け止めた。
「やっぱり、笛吹家は平氏に・・乗っ取られて・・。」信は融へ告げようとしたが、
「喋らないでいい。信。わかってる。これを飲め。あの毒には、これだろ?」そういって、融は手に持った煎じ薬を信の口に入れ、水筒の水を流し込んだ。
そう。融は、信に習って、村では医者のような役目を担っていた。
そして飲んだのを見届け、融は、当然のように信を担ぎあげて背負った。
「あの日の恩が、やっと返せるな。
信。ありがとう。由布子を守ってくれて。」「いえ。俺の方こそ・・。」
融とは、由布子のこともあって、少し蟠りを感じていたのだが、それは自分の勝手な思いだったのか・・と、
信はわが身を振り返って、少し恥じた。
「なんだか嬉しいな。お前は、ちっとも隙を見せない奴だから、
こうやって、背負わせてもらえるなんて、やけに嬉しくてたまらぬ。」
「父さま、それって、性格悪いんじゃないの?」
由布子が口を尖らした。
「由布子・・。」そしてそれを背中から窘める信の声。
「情けは人の為ならずって本当だな。
こうやって、回り回って、また自分を助けるんだ。
信、一人で抱え込むな。
もっと甘えろよ、僕達にも。」融が言う。
「身分違いとか、考えてたらお門違いだぞ。そんなの神が気まぐれに置いた駒の位置に過ぎない。
僕と瀬奈も、乗り越えてきたんだ。お前も、乗り越えてこい。」
信は、融の背中で、ただその言葉に聞き入っていた。
そして帯刀の屋敷に帰り着き、
それから三日三晩、信の体は、毒と戦い、昏々と眠り続けた。
※
最初の処置と、薬が効いて、快方に向かっているのは見えたが、
疲労が激しいのか、なかなか目覚めず、
みんな心配していた。
信が目覚めた時、目の前にいたのは、敦子様だった。
「お方様・・。」あわてて立ち上がろうとした信を制して、
「ほんと、もう、お前は何やってるのよ。
私の風邪は、やっと抜けてすっかりよくなりました。心配かけてすまなかったね。
それにしても・・
信、あんたって子は・・。」
その剣幕に、怒られるかと、信は項垂れた・・が。
「もう結納も済んだわよ。
ここまで来たら、観念なさい。」敦子様がニヤリと笑う。
「え?どうなったのですか?笛吹家は、平氏に乗っ取られたという話でしたが・・」
わずかな間に、笛吹家からの縁談はそんな所まで進んでしまったのか・・。
信は、凍り付いた。
「ああ。笛吹家ね。あのあと、
真一と沙羅が、平氏を追い出しましたよ。笛吹家の当主様、泣いて喜んでました。
そして喜んで、源氏につくとおっしゃいました。酷い目に遭わされていたみたいですからね。」
「源氏?」信は、初めて聞く名で、尋ね返した。
「ええ。
真一こそ、先の黎泉帝の落とし胤であらせられますからね。
源氏の名乗りで、周辺の豪族が、決起いたしました。真一様は、幼名から、源一と改められ、
そこにまず駆け付けてこられたのが、母君の兄。流刑を受けて土佐に流されていた、瀬奈様の兄君で。そして、次には駿河にやられていた弟君も。父君までもが佐渡からわざわざ来られたとか。」
そうだった。もともと、
融は黎泉帝であり、その息子真一は、臣下におりて、源氏を名乗る決まりだった。
血筋とすれば、申し分なし。生まれた時に帝より賜った、宝剣も持っており、
それを掲げて戦いへと赴いた。そして母の兄弟は、それぞれの流刑地でなり上がり、皆いっぱしの豪族となっていた。
「雅孝もついて行かせました。」
え?お方様、それは・・。信は、絶句した。
「それが、雅孝の為には良いと思います。修行ですよ。
あの子は、過保護に育て過ぎたきらいがありますし。いいんですよ、帯刀の血筋なんて、どうなっても。」敦子様は、不敵な笑いを浮かべた。
では、由布子も、そちらについて行ったのか?
信は、ふと目の前が暗くなった。
「お方様・・そんな。
では私も、婿に出して、もうおそばにはいらないと申されるのですか?」
そんな信の言葉に、敦子様はすこし冷たく、「貴方が、望んだことでしょうが?」とつきはなす。
「でも・・状況が変わってます。
私が寝ていたそんな間に。まるで私は、浦島太郎のようだ。
元気なら、真一に御供することもできましたでしょうに。
だから・・あの・・」
結納を取り消して欲しかった。そして由布子を追いかけたかった。
でも・・やはり敦子様を前に、信は言うのを躊躇った。
「あちらは、真一と沙羅がいれば、大丈夫ですよ。
信には信の役目がありますからね?」なおも敦子様は冷たく言い放つ。
「私の・・役目?」「ええ。この甲賀の地を戦乱から守ることです。
そして血を絶やさず、多くの子を育て、多くの知識を伝えることです。
貴方の子ならきっと、賢いことでしょうね。」
そう、本気なのか揶揄なのか、本心の読めぬまま、敦子様の言葉が耳に突き刺さる。
胸が軋んだ。もう我慢出来なかった。信は、思いの丈をぶちまけた。
「・・いやです。由布子様がいない地でなど、生きて行きたくありません。
もう・・会えないのですか?
一目だけでも・・叶いませんか?
由布子・・由布子様に・・。会いたいんです。想いが叶わなくたっていい。そばにいたい。好きなんです。」
信が・・そこまで、身も世もなく訴えた。
その姿を見て、敦子様はやっと、微笑んだ。
「ちょっと、いじめ過ぎましたね。
その言葉を貴方の口から聞いてみたかったのですよ・・。
このところ真一の決起など、いろいろあって、だから、結納を急いだのですよ。
信。お前は、この地を守ってください。
由布子と共にね。」
は?!信の目が驚きに見開かれた。
「あの・・敦子さま、こちらにおられたのですか?この衣装お借りして本当に、よろしいのでしょうか?」
そう言って戸を開けた由布子と信は目が合った。
「あ、信様。気が付かれたのですか?」
・・美しい。信の目の前には、化粧を施され、豪奢な花嫁衣装に身を包んだ、多分この世で一番美しい花嫁が立っていた。
「信さまっ」由布子の目には、感極まって溢れる涙。
「由布子!」・・信も駆け寄り、二人は抱きあった。
「よかった。
信様が、眠りつづけていたら、眠ってる信様とお式を挙げなければいけない所で、
この衣装、見てもらえないの、悲しいなって、思ってたの。」
「今日が、祝言?」 信は、驚いた。
「さあ、じゃあ、次は信の用意をしなくちゃな。」
出て来たのは、花婿の衣装を手にした融だった。妻が、産後で無理させられないから、僕が頑張らなきゃ・・と、
何故か楽しそうに。
「義父さんは、
僕が婿になることに、反対では無かったんですか?」衣装を着せてもらいながら、
信は、ふと聞いてみた。
「由布子が、望むことだからね。
反対はしないよ。あるいみ、雅孝より良かったとすら思っている。比較の問題だけど。」そう言って、義父となる融は、笑った。
「ああでも、花嫁の父って、なんか嫌だな。
まあだけど、信には、もうずっと前に取られてるようなもんだから、今更だ。まあいいか。」
そういって、信の手をとった。「娘をよろしくな。今日から君は、僕の息子だよ。」
ああ、やっぱり・・この人は、由布子のお父さんだ。
やさしい眼差しが似ている。信は、胸が熱くなった。
「こちらこそ、宜しくお願いします。お父さん。」
そして花嫁の待つ祝言の席へ。
まさかこれって、夢じゃないよな。つい、ほっぺを何度も抓ってみた信だった。
(了)
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