9 生まれた時のこと
王城での日々は、ミレイヤにとって比較的和やかに過ぎていった。
王家から謝罪はなかったし、周囲には相変わらず厚顔な悪女だと思われていて不快な思いはしたが、昔なじみの公爵家の使用人が付き添っていてくれたことや、両親やレムナンドが頻繁に面会に行ったことで、随分と救われていたという。
一度だけ、リタが第一王子を連れてミレイヤを訪ねてきた。
「城での暮らしに不自由はないか」、「母親としては先輩だから何でも聞いて」、「子どもたちが将来一緒に遊ぶような仲になったら嬉しい」……表向きは当たり障りのない挨拶だったが、ミレイヤからすれば自分に成り代わり王太子妃になった女からの無神経な発言でしかない。
故意に言っているのなら相手にする価値もない性悪だし、悪意なく言っているのなら可哀想なくらい鈍感で愚かである。
『お心遣い、感謝いたします』
出産を間近に控えていたミレイヤは涼しい顔をして、そつなく対応した。そうするしかなかった。
そして、運命の日。
ミレイヤの出産のため、城の医療魔法士たちが駆けつけてくることはなかった。
同じ日同じ時間に、出産予定日が二か月後のはずだったリタもまた産気づいたのである。
王族の出産は何よりも優先された。予定外の早産に城中が混乱に陥り、ミレイヤのことなど誰も気にしない。
メリク公爵家お抱えの医者と産婆たち、そして、見習いの医療魔法士が一人。
一般的な出産ならばそれで事足りたが、高位貴族を両親に持つ赤ん坊――後のミシュラは凄まじい魔力を放出させてミレイヤと自分自身を苦しめた。
報せを聞きつけ、レムナンドとメギストが駆け付けたときには、何もかもが遅かった。
『このままでは母子ともに危険です!』
『魔力を制御できないっ。早くへその緒を切らないと、お嬢様が危ない……!』
ミレイヤは激しい陣痛と怒りの中、決死の想いで我が子を産み落とした。
しかし産声は上がらない。代わりに赤ん坊の口からは大量の血がこぼれ出ていた。
『心臓が、破裂しています……』
医者は振り絞るように言った。赤ん坊は自らの魔力暴走で小さな心臓を壊してしまっていた。
その場にいた誰もが言葉を失くして立ち尽くす中、部屋の外からは歓声が聞こえた。
『リタ様の出産が無事に終わったそうだ!』
『元気な女の御子だ! 神に感謝を!』
『ああ、良かった! なんて素晴らしい日なのかしら!』
長く生きてきたレムナンドの人生の中でも、一、二を争うほど最悪な気分だった。
今すぐこの部屋を飛び出して、笑っている連中の息の根を止めてやりたい。そんな衝動を堪えるので精一杯だった。
『レム……力を貸してくれ。こんな不条理を許すことはできない』
最初に口を開いたのはメギストだった。レムは彼の凄まじい形相を見て、全ての言葉をのみ込んだ。
メギストは懐から銀色の液体の入った瓶を取り出し、まだ体温の残る乳児に、レムナンドの補助の元にとある処置を施した。
『私の可愛い孫娘に、世界一の祝福を』
メギストは、開発したばかりの“魔法銀”で心臓を造り出し、限界まで命を削って魔力を込めて赤ん坊に与えた。
もちろん、臓器を造って生物に適応するのは初めての試みである。
『お父様……!』
『いいんだ、ミレイヤ。今度こそ家族を守る。守らせてくれ』
人体の中で最も尊い臓器、心臓を人の手で生み出すこと。
それすなわち命の錬成――死者蘇生の一種。
それは決して許されない“禁忌”だった。
しかし、レムナンドも、ミレイヤも、その場にいる誰もが心の底から“奇跡”を願った。
*
「ミシュラの産声を聞いた瞬間のことは、今でもよく覚えている。人生で初めて神に感謝したよ」
ルギは途中から手に汗を握って話を聞いていた。
ミレイヤに心から同情し、ジオを尊敬し直し、メギストの行いに驚き、無事だと分かっていてもミシュラが生き延びたことに深く安堵する。
「赤ん坊の頃はあんなに可愛かったのに……はぁ」
レムナンドの苦悩は深そうだった。
「それで、どうなったの? 心臓を造るの、いけないことだったんでしょう?」
「ああ。メギストは罪に問われた……死刑だ」
「! そんな……」
「まぁ、メギストの場合、命を削って“魔法銀”に魔力を込めたことで、どのみち長生きはできなかった。自分の全てを犠牲にする覚悟で、ミシュラを生かしたんだ。婚約破棄騒動のときにミレイヤを守れなかったことをずっと後悔していたメギストからすれば、本望だったと思う」
レムナンドの声に力はなかった。言葉とは裏腹に、未だにやりきれない想いを抱えているようだ。
新しい王女の誕生の裏側で起こった悲劇。
ムンナリア王家としても、後ろめたかったらしい。リタの出産によって医療魔法士を独占したことが原因で起きたことだ。メギストに同情する者も出てくるだろう。王家は問題を大きくすることを望まなかった。
メギストもまた、自分亡き後の家族のことを考えた。何よりも最優先すべきは、ミレイヤとミシュラを守ること。どれほど王家を憎んでいても、二人のためを思えば内乱の種を残すわけにはいかない。
だからメギストは王家に取引を持ちかけた。
「メギストは自らが大人しく処刑を受け入れることを条件に、ミシュラの命と自由の保障を求めた。出生届は受理されなくとも、これから決して不当な扱いも受けないように王家に約束させたんだ。……王女の誕生による恩赦という形で、それは認められた」
王女と同じ日、ほぼ同じ時間に生まれた女の乳児の命を奪うことはさすがに躊躇われたのか。禁忌の子でありながら、ミシュラは生き永らえた。
メギストの刑は密やかに執行され、貴族たちも王家の視線を気にして表立って騒ぎ立てることはなかったという。
ミレイヤは恐慌状態に陥った状態で、ミシュラとともにルナーグの領地に帰った。全てが終わってから報せを聞いたジオもまた、慟哭した。
「僕は僕で、追われる身になってしまった。メギストは全て一人でやったことだと自白してくれたが、共犯者がいたことは明らかだったからな」
レムナンドは数年の間、王国や魔法協会の追手から逃げ続けて、ほとぼりが冷めたところでルナーグ家に匿ってもらうようになった。それからは、魔法銀の心臓に不具合が起きていないか等、ミシュラの経過観察を行いながら、ひっそりとこの森で暮らしているそうだ。
「ミシュラは祖父のメギストの命と引き換えに生まれた。造られた心臓で動く人形、“心”がない人間モドキ。領地の外ではそう呼ばれる。魔法の研究機関なんかは、ミシュラを格好の研究材料として狙っていて、金で買い取ると言ってきたこともあるそうだ」
心臓を持たないせいで、世間一般的にミシュラは人間扱いされていない。
想像以上に過酷な生い立ちだった。たくさんの悲しい出来事が集まって、ミシュラを取り囲んでいるように思える。
「僕から話せるのはこのくらいだ。これでは、ミシュラに同情するなというのは難しいか?」
レムナンドの問いに、ルギは上手く答えられなかった。
夜。
レムナンドから聞いたミシュラの出生の秘密を思い返し、ルギは布団の中で丸くなっていた。
可哀想かと言われたら、その通りだろう。
彼女は産まれたその瞬間から壮絶な運命を背負っている。
しかしルギは、ミシュラのことを幸運だとも思う。周囲の人間に恵まれ、惜しみない愛を与えられている。少なくても今、ルナーグの領地では幸せに暮らせているように見えた。
何も持たない自分とは違う。
「…………」
いや、彼女の幸せは長くは続かないのだろう。
ミシュラの口ぶりでは、世界を滅ぼしたのは出生時の悲劇だけが原因ではない。まだまだこの先、たくさん嫌な目に遭うらしい。
だとしたら、今楽しそうに笑っているのが“奇跡”のように思える。運命に立ち向かおうとする彼女の強さが眩しい。
ふと、小さくノックの音が響いて、扉が開いた。
「ねぇ、ルギちゃん、まだ起きてる?」
「……っ」
枕を持ったミシュラが、薄暗い部屋の中に入ってきた。ルギが体を起こすと、布団に潜り込んで寝そべってしまった。
「今日レムに話を聞きに行ってたでしょ? 気になってきちゃった」
お話ししながら寝よ、とミシュラは強引にルギを寝転ばせた。
気まずい。ルギはミシュラに対してどのような反応を返せばいいのか分からなかった。
「私の出生の秘密を聞いて、どう思った?」
「……可哀想だった」
「そっか。でもね、巻き戻し前の十歳の私は、自分のことをそんな風に思ってなかったよ。毎日とても幸せだった。パパとママに愛されて、レムに遊んでもらって、屋敷でも町でも領主のお嬢様として大切にされて……ロアート兄さんはつれなかったけど、不満は何もなかったの」
柔らかい口調から、その言葉は強がりではないと思えた。
「生まれた時のこととか、おじい様のこととか、聞かされて知ってたけど、赤ん坊の頃に起きた遠い悲劇のことは、正直あんまり気にしてなかった。きっとおじい様は復讐なんて望んでいない。本物の心臓がなくても、特に不便はなかったしね。ただ、ママが王家に強い憎しみを持っているから、リリトゥナ姫にだけは負けないように、誰よりも良い子でいようと頑張ってた……」
「リリトゥナ姫……?」
「私と同じ日に生まれたムンナリア王家のお姫様。彼女は王家の祖先、聖女ララトゥナの生まれ変わりで、王国の宝。聖王女リリトゥナ……私がこの世で一番嫌いな子。今の時点ではまだ、会ったことないんだけどね」
ミシュラはそう言って小さく笑った。
ルギは途端に不安になると同時に直感した。リリトゥナこそが、ミシュラが世界を滅ぼす原因になった人物だろう。
きっとこの先、嫌なことが起こる。幸せな日々が壊れてしまう。
「俺……ミシュラに世界を滅ぼしてほしくない」
ルギは心の底から願った。
ルナーグ家の優しい人たちがこれ以上ひどい目に遭うことがないように。
この美しい世界が壊れてしまわないように。
ミシュラから笑顔が消えないように。
「何度も言ってるでしょ。私だって、滅ぼす気はないよ。大丈夫。復讐なんかよりも、今回は優先することがあるから」
ミシュラはルギの頭を軽く撫でた。
「あの未来は来ないし、ルギちゃんがあの暗闇に戻ることもない。だから安心して眠って。明日もその次の日も、ルギちゃんが望む限り、ずっと平和な朝が来るから」
ルギは小さく息を呑んだ。
「目を瞑って、深呼吸して。真っ暗でも大丈夫。怖くないよ」
見透かされていた。
この屋敷に来た日からずっと、夜が怖くて仕方がなかった。
どうしても思い出してしまう。暗闇と無音の中で一人ぼっちで死を願っていた時のことを。
眠りに落ちたら全て夢になってしまうのではないか。そんな不安が拭えない。
だからずっと、夜は眠れなかった。
「本当に? 寝ても、大丈夫? 夢にならない?」
「うん。明日は一緒に町まで行こう。楽しいこと、いっぱい教えてあげる」
ルギが鼻をすすると、ミシュラがまた頭を撫でてくれた。
そのまま彼女の体温に縋りつくようにして目を閉じる。最初は強張っていた体も、徐々に力が抜けていく。
意識がゆっくりと落ちていく中、遠くで自分のものとは違う、不思議な心音が聞こえた。魔法銀の心臓が脈打つ音だ。
――ミシュラに“心”がないなんて、そんなはずない。
彼女には優しいままでいてほしい。そのために自分にできることはあるだろうか。
ルギはそんなことを考えながら、眠りについた。