7 毒蛇の生贄
ルギがルナーグ家にやってきて早一週間。
彼の全身の肌を覆っていた炭のような物体は少しずつ剥がれ落ちていて、徐々に人らしい姿を取り戻していた。
呪いを解くのに、食事や散歩が効果的だった。どうやらルギの心に新鮮な刺激を与えると、呪いが剥がれ落ちるようだ。
傍から見ている分には、ルギはいつもぼうっとしていて反応が薄い。会話も長く続かなかった。初めて見る美しい世界に感情が追い付いていないようだった。
食事に慣れてきた頃、ミシュラは満を持して宝樹が落とした黄金の果実をすりおろした。
「はい、あーん」
一応レムナンドに毒性がないことを検査してもらい、ミシュラも一口毒見してから、果実のすりおろしをルギに食べさせた。
林檎のような甘酸っぱい果実で、ミシュラの体には何も起こらなかったが、果たして。
「ん……」
スプーンを差し出すと、ルギは何の抵抗もなく口に含んだ。元々死にたがっていたこともあってか、警戒心が薄いようだ。もしくは検診の度にジオの温かい人柄に触れ、なし崩しにミシュラのことも信じてしまっているのかもしれない。
気を許されればミシュラも悪い気はせず、すっかり世話を焼くのも板についてきた。
「どう?」
「甘くて、美味しい」
「そう、良かった。もっと食べる?」
「うん」
果実一個分をほとんど食べ終わった頃、ルギの体に劇的な変化があった。
「え」
「あ!」
黒く変質した肌にひびが入り、一気に剥がれ落ちた。その衝撃的な出来事に、ミシュラもルギも悲鳴を上げ、駆けつけたハンナたちを大いに驚かせたのだった。
「金と朱色の混じり毛だったんだねぇ」
ミシュラはルギの短くなった髪を櫛で梳きながら、珍しい髪色を堪能していた。呪いが剥がれ落ちると同時に、黒髪が金髪になったのだ。しかも淡い赤色の光沢がある。このように二色の髪の色を持つ者は滅多にいない。
「瞳も綺麗なブルーで、王子様みたい」
「ふふ、そうですね。きっと将来、美形になりますよ」
ハンナの娘のメイサが、庭先でルギの髪を切ってくれた。腰の長さまで伸びていたのを本人の希望で肩口の長さに整え、前髪も目にかからない程度になった。
肌が顕わになり、ようやくルギの顔立ちが判明した。
二重の大きな青い瞳がとても可愛い。メイサの言う通り、将来は美男子になって異性の視線を釘付けにすることが約束されている。
――本当に王子様かもしれないなぁ。
ルギの素性は未だに不明だ。
魔力の測定値はあまり高くなかった。しかし、巻き戻し前の戦闘力を考えると相当高いポテンシャルを持っている。今は上手く発現できていない状態なのだろう。
加えてこの整った顔立ち。王侯貴族の血を引いている可能性は十分にある。
ルギは鏡の中の自分を見て、ずっと首を傾げていた。美しい顔に見惚れているわけではなく、単純に「俺ってこんな顔だったんだ?」という戸惑いの方が大きいらしい。自分の顔すら覚えていないとは、かなり重度の記憶喪失である。
どうやら宝樹の黄金の果実は、ルギの呪いを解くためのアイテムだったらしい。
容姿が変わっただけではなく、意識も前よりもしっかりしているような気がする。聞けば、「頭の中がすっきりして、世界のことがよく分かるようになった」とのことだ。未だに以前の記憶については何も思い出せないようだが、語彙が増えて随分話しやすくなった。
もっと早く食べさせれば良かった、とミシュラは後悔した。
「でもルギちゃん、まだ顔色が悪いし、この目の下の黒いのは……クマ? ちゃんと眠れてる?」
「…………」
ミシュラが両頬を手の平で包み込んで覗き込むと、ルギは気まずそうに目を逸らした。
何か悩みや心配事があるのだろうか。ミシュラが問い詰めようとした時、
「おいミシュラ、てめぇふざけんなよ!」
予期せぬ乱入者があった。
「あら、ロアート兄さん。なぁに?」
クセの強い茶色の髪と同色の瞳を持ち、頬に特徴的な赤い傷跡がある。
二つ年上の義兄・ロアートだ。敵意をむき出しにして、大股でこちらに歩み寄ってくる。チンピラのように柄が悪い。
「その呼び方やめろ、気持ち悪ぃ」
「じゃあ、ロアートお兄様?」
「やめろ! 俺はお前の兄なんかじゃねぇ!」
巻き戻し前のミシュラはこの剣幕に怯え、何年かは呼びかけることもできなくなっていたのだが、今はロアートにどれだけ怒鳴られても怖くなかった。
ただ、ルギが怯えているし、メイサも困っている。精神年齢で随分と年下になってしまった義兄を虐めるのも躊躇われ、ミシュラは無難に応対することにした。
「はーい、ごめんなさい。それで、私に何かご用?」
「てめぇが、俺の服やら靴やら持ち出したって聞いた。勝手に何してやがる」
「ああ、そのこと」
一週間前、ルギの着替えが必要だったので、ロアートが着ていない服などを頂戴したのだ。ちゃんと両親の許可は取ったし、実際にクローゼットから持ち出したのはハンナとメイサである。
大体、ロアートに直接話そうにも、この一週間ほとんど屋敷に戻っていなかった。責められる謂れはない。
「気に障ったのならごめんなさい。次からは、ちゃんと町まで聞きに行った方がいいかな?」
ロアートは町の宿屋や教会を転々として寝泊まりしている。父との約束で週に何日か屋敷に戻ってはいるが、基本的にはルナーグ家での暮らしから逃げ出しているのだ。
「余計なことすんな。俺に関わるんじゃねぇ」
「はいはい。あ、でも、男の子同士、ルギちゃんには親切にしてあげてね」
「あ?」
背中に庇っていたルギを紹介すると、ロアートは鼻で笑った。
「なんだよ、“生贄”の予備でも買ってきたのか? いいよな、貴族は。人の命を簡単に売り買いできて」
「……は?」
これは許されざる発言である。
思わずミシュラは真顔になった。殺気を込めて睨みつけると、ロアートはたじろいだように半歩後退する。
「と、とにかく、俺に近づいてくるな。分かったな!」
ロアートがまた町の方角に去っていたのを見て、ミシュラはため息を吐いた。気持ちは分からなくもないが、ルナーグ家と初対面のルギを貶めるような発言は許せない。今回の人生でもロアートとは仲良くなれない気がする。
「怖がらせてごめんね、ルギちゃん。彼はロアートっていう、私の義理の兄なの。これからもし何か意地悪されたら遠慮なく言ってね」
ルギは青ざめた表情で黙ったままだった。
ロアートと遭遇してから、ルギの様子がおかしかった。
いつもなら午後は木陰で昼寝をしているのに、今日は中庭のベンチに座り込んだまま深刻な表情で俯いている。
ミシュラは放っておけず、声をかけた。
「兄さんのことが気になるの?」
ルギは体をびくっと揺らし、何度か視線を宙に彷徨わせた後におずおずと尋ねてきた。
「あの人は、あの時、ミシュラが言ってた人……?」
「? あの時って……ああ、あの時ね。やだ、ルギちゃんにも聞こえてたんだね。そうだよ」
巻き戻し前、塔での戦いのときの話だ。
ミシュラは最後にロアートの言葉を思い出して立ち尽くしてしまった。そして呟いた言葉がルギにも聞こえていたらしい。
『あなたの言う通りだったね、ロアート兄さん……』
今思い出しても苦い気持ちになる。
「義理の兄って、どういうこと?」
「話せば長くなるんだけど……良い機会だし、ルギちゃんに我が家のことを説明しておこうかな。来て」
ミシュラは二人で散歩をしてくると使用人たちに報告し、ルギを連れ出す。
レムナンドが暮らす裏手の森の中に、小高い丘があった。
「少し遠いけど、見えるかな。あの紫色」
丘の上から指さした場所を見て、ルギが息を呑んだのが分かった。
ある場所を境に緑の森が途切れ、真っ黒な森に変貌していた。その中心にあるのが紫色の毒々しい沼である。
「あの沼には神話時代の怪物……“毒蛇”が封印されているの。ルナーグ家は代々封印の強化と、漏れ出てくる毒の瘴気を留める役目――“鎮めの役”を担ってる。パパのあの姿も蛇の毒の影響なんだよ。お役目を引き継いだ当主は、長生きできない」
歴代の当主の記録を見る限り、四十歳を過ぎた辺りから急激に衰えて、毒に苦しみながら死ぬ。ミシュラの父は三十歳なので、残された時間はそう長くなかった。
「本当なら一人娘の私が役目を継ぐはずだった。でも、私は毒に弱い体質で、適性がなかったの。とても後継者にはなれない。ママももう子どもを産めないし……だから、遠縁の中から毒への耐性が強いロアート兄さんを養子として引き取ったの。兄さんの家は貧しかったし、断れなかったんだよ……」
ロアートからすれば、酷い話だろう。
有無を言わさず本当の家族から引き離され、呪いを封じる役目を継がなければならない。醜い容姿と短命になることが運命づけられているのだ。
本来その立場を担うはずだったミシュラを恨んで、目の敵にするのも無理はなかった。
「パパもママも、兄さんには悪いと思ってる。もちろん私も。だからあんまり強く言えなかったんだよね」
本来ならば辺境伯の後継者として、諸々の教育を受けなければならないが、本人が荒れているので放置されている状態だ。
巻き戻し前の世界では、ミシュラとは終始気まずい関係が続き、最後に会った時も喧嘩別れしてしまった。
「あの色……見たことある」
ルギが愕然とした様子で呟いた。
「気づいた? ……そうだよ。私、封印を解いて、毒蛇を暴れさせたの。それで世界を滅ぼした」
これから先の時間軸で、あまりにも理不尽な出来事が連続したため、ミシュラは毒蛇の封印を解いて敵にけしかけた。
父や祖父、先祖代々命懸けで繋いで守ってきたモノをあっさりと壊したのだ。
「ロアート兄さんは、あんなに鎮めの役を嫌がってたのに、封印を解くのには強く反対した。私は聞く耳を持たなかったけど……あの後、兄さんはどうしたんだろ?」
いくら毒に耐性があるとはいえ、封印から解き放たれた神話時代の怪物の毒に打ち勝つことはできないだろう。きっとロアートも死んだに違いない。
「……した」
「え?」
感傷に浸っていたミシュラに対し、ルギは小さく震えながら言った。
「俺が、殺した……あの人のこと」