6 平和な世界
見れば見るほど謎多き少年だった。
全身を覆う肌は炭のように黒く変質しており、髪も墨で固めたように真っ黒。かろうじて脈が取れるので生き物だと分かるが、遠目には不気味な人型の物体にしか見えない。実に人間離れした姿をしている。
着ていた服が現時点でボロボロになっていたところを見るに、かなり長い間宝樹の地下にいたらしい。
誰かに閉じ込められていたのか、宝樹に匿われていたのか、それとも。
ミシュラたちは眠り続ける謎の少年を連れて、ルナーグ家に帰還した。
錬金術の素材を取りに行った森でこの少年が倒れていて保護した。そんな単純な設定を、レムナンドがドラマチックに脚色して父と母に説明してくれた。「どうしても屋敷に連れて帰るしかなかった」という理由付けも見事で、隙のない名演技だった。ミシュラはその隣で泣きながら少年の身を案じていればいいだけで、非常に楽をさせてもらえた。
素性も身元も分からない、異常な容姿の子どもを屋敷に連れてきたことに、母は顔をしかめていたが、優しい父が哀れな少年を見捨てられるはずもなく、しばらくはルナーグ家の屋敷で預かって療養させてもらえることになった。
「私がお世話する!」
使用人たちに面倒を見させるのは、ミシュラにとって都合が悪かった。目覚めた瞬間に何を口走るか分からないし、そもそも危険だ。種族すら彼の見た目からは分からない。
使われていない客室のベッドに寝かせ、ミシュラは少年が目覚めるのを待った。
「あ……っ」
しばらくして目覚めた少年は、まずミシュラを見て驚き、自分の真っ黒でざらついた手を見て小さく悲鳴を上げた。さらに、夜だったのが良くなかった。鏡のように室内を映していた窓ガラスで自分の顔を確認し、強いショックを受けたようだ。布団を被って出てこなくなってしまった。
――自分の姿、知らなかったんだ……。
ミシュラはカーテンを閉めてから、嗚咽が聞こえてくる布団を撫でながら尋ねた。
「私はミシュラ。あなた、名前は?」
だいぶ間を置いた後、湿った声で返答があった。
「……分からない。覚えてない」
自身の名前も、年齢も、どこから来て、どうして宝樹の地下にいたのか、何もかもが謎。少年は記憶喪失だった。
記憶があるのは、巻き戻し前の世界で地下から連れ出された後からだが、早々に呪いをかけられたせいで朧気なことしか覚えていないという。
情報収集をしたかったミシュラはいきなり肩透かしを食らった。
「じゃあ、あなたのことは“ルギ”って呼ぶね。もし本当の名前を思い出したら教えて」
唯一、少年の記憶に残っていた単語から便宜上「ルギ」と呼ぶことにした。
「巻き戻し前の世界では、どれくらいまであそこにいたの? えっと、外に出てから私と戦うまではどれくらい?」
「それも、分からない……」
ミシュラの予想では、未来の世界で宝樹が枯れた頃とルギが地上に出たのは同時期だ。誰かがルギを強引に地下から連れ出し、宝樹を傷つけたのだろう。つまり本来ならばあと十年近く、ルギは地下にいるはずだったということになる。
――私、かなり悲惨な人生を歩んでいると思っていたけど、この子よりはマシだったかも。
暗闇の中、一人で何年も無為に過ごすなんて、考えただけで叫び出しそうになる。早めに連れ出してあげられて良かったと改めて思った。
話しているうちに少し落ち着いたのか、ルギの嗚咽は止んでいた。
「ねぇ、ルギちゃん。未来のことも、今の話も、全部他のヒトには内緒にしてほしいの。いい?」
「……どうして」
「私の都合だけど、ルギちゃんのためでもある。いきなり突飛な話をしたら、みんな驚いてルギちゃんのこと変な子だと思っちゃうでしょ」
よしよしと布団の上から背中を撫でると、ルギは恐る恐ると言った様子で顔を出した。
「俺、もう変だと思う……」
「見た目のこと? それはここではあんまり気にしなくてもいいよ。それより、内緒にしてね」
首を傾げながらルギが頷いたのを見届けた後、ミシュラは大げさな態度で部屋を飛び出した。
「パパー! 起きたよ!」
*
少年――ルギは自らの置かれた状況を確認して、改めて絶望した。
目覚めたら見知らぬ部屋にいて、すぐそばに幼い“魔法銀の悪魔”がいた。今度こそ夢を見ているのではと思ったが、今までになく意識ははっきりしており、現実感が強かった。
「っ!」
しかし、自分の体を確認するやいなや、再び意識が遠のきそうになった。
全身真っ黒に変質した肌、窓に映る化け物のような自分の姿。普通の人間と全く違う容姿をしていることは理解できた。
何よりショックだったのは、自分の姿が今までどのような姿をしていたか思い出せないことだった。
もしかしたら、産まれたときからこの姿だったのだろうか。だとしたら、自分は正真正銘の化け物だ。人間ではない。
ますます死にたい気持ちが強くなった。
「私はミシュラ。あなた、名前は?」
ルギの気持ちなどお構いなしに悪魔――ミシュラはいろいろと話したり問いかけてきた。布団越しに感じる小さな手は、自分のことを全く恐れていないようだ。
不思議でならない。
「目が覚めて良かった。どこか痛みは? 辛くないかい?」
そして、駆けつけてきたミシュラの父親と名乗った男性を見て、ルギは感情の置き場が分からなくなった。
丸々と肥え太った体と、ところどころ腫れてぐちゃぐちゃになっている顔。ミシュラとは似ても似つかない姿だった。
「痛くない……?」
質問に答えず、ルギは思わず尋ねていた。目の前の男性は平然としているが、頬が赤黒く爛れている。
「ああ、大丈夫だよ。これは、僕がみんなを守れている証だから。心配してくれてありがとう。きみは優しい子だね」
向けられた微笑みは慈愛に満ちており、声はこれ以上ないほどに温かかった。この人は己の容姿を恥じていないし、それ以上に恐ろしい見た目をしている自分にも偏見がない。娘のミシュラが自分を見て平然としているのも頷けた。
徐々にルギの緊張は解けていった。
ミシュラの父――ジオはルギに許可を取ってから、頬に触れたり、目の下を見たり、体調について質問していった。
「うん。やっぱり、何か病を患っているわけではなさそうだ。きみは、きみ自身を呪っている」
「……呪い?」
己の手の平を見て、ルギは首を傾げた。
ジオ曰く、過去にルギは自分に強い負の感情を向け、このような姿になってしまったとのことだ。
「昔のことは何も覚えてないようだから、理由は分からないけど……大丈夫、治るよ。自分が自分にしていることだから、時間が解決してくれる。美味しいものを食べて、太陽の光を浴びて、楽しいことを考えているといい」
気分が和らぐという甘くて温いお茶をもらって、ルギは不思議な心地で目を閉じた。
翌朝、目覚めてもまた同じ部屋にいたことにルギは安堵した。あれだけ絶望していたのが嘘のように、心が穏やかだった。
「あ、もう起きてるね。おはよう、ルギちゃん」
訪ねてきたミシュラが気安くそう呼ぶ。己の名前かどうかすら分からない単語だが、誰かに呼びかけてもらえることが新鮮で、嫌な感じはしない。
「今日は良い天気だよ。歩けそうなら、お散歩に行かない?」
ミシュラは遠慮なくカーテンを開けた。
部屋に差し込んだ朝日に、ルギは一瞬顔をしかめ、しかし目が慣れてくると息を呑んだ。
窓の外に広がる景色は衝撃的だった。
爽やかな青空、色とりどりの花と艶やかな緑、光が溢れる世界。
「あ……」
思わずベッドから降りて、よたよたと窓辺に寄る。ミシュラが「自慢のお庭だよ」と笑っていた。
ずっと自分のことすら見えない闇の中にいて、外に出てからも滅びに向かっていく世界しか知らなかったルギにとっては、目の前の何の変哲のない光景は奇跡のように感じられた。
なんて美しく、眩しいのだろう。心が痺れて、涙が込み上げてくる。
「お散歩楽しみだね」
「…………」
小さく頷くと、音もなく頬から黒い塊が剥がれ落ち、砂のように崩れた。