4 夢か現か
遠い昔、神話時代。
この世界は闇の瘴気に覆われていた。そこには光も心もなかった。
大地は怪物たちに支配されており、配下の魔物以外の生き物は長く生きられなかった。
天上の神々は新しい生命を繁栄させるべく、末の神を大地に遣わした。
末の神は最高神に授けられた剣で各地に巣くう怪物を倒し、大地を浄化していった。
神々は思い思いにヒトの種を蒔いた。
浄化後の大地に落ちた種は人族になり、瘴気の中に落ちた種は鬼になった。
また、魔物が種を口にして、耳長族や人魚族などの亜人族も生まれた。
ヒトが増えていき、やがて末の神が天に戻る日が来た。
まだ討伐できていない怪物たちに封印を施し、末の神は自らに仕えていた者に剣を託して告げた。
【いずれこの封印は破られる。その時までに力を蓄えよ】
神が去った大地には、“奇跡”と“希望”が残された。
ミシュラは夢の中で考え事をしていた。
世界を巻き戻してくれたのは、一体誰だったのだろう。
こんな“奇跡”を起こせるのは神しかいない。しかし、教会が祀っている天上の神と“アレ”が同一の存在には思えない。どこか邪悪な雰囲気を感じた。
世界を滅ぼした張本人の記憶を残したままやり直させる辺り、まともな存在ではないだろう。
たった一度だけの奇跡、と神モドキは言った。
つまり、やり直せるのは一度だけ。ミスはできない。
【守り、崇めよ】
最後に聞こえた言葉はどういう意味だったのだろう。あの神モドキを守り、崇めなければならないのだろうか。だとしたらもう少し正体を明かしてほしかった。やり直しの機会をくれたことに感謝はしているのだから、信仰するのもやぶさかではないのに。
そして、気になっているのは、あの場にはもう一人いたということ。
ミシュラを殺すために造られたと思しき、呪いの殺戮人形。
もしかしたら彼も、未来の記憶を持ったまま人生をやり直しているのかもしれない。
だとしたら、未来で世界を滅ぼす“魔法銀の悪魔”を野放しにするだろうか。最悪の場合、もう一度、今度は違う形で戦う羽目になるかもしれない。
「っ!」
ミシュラは激しい頭痛と動悸で目を覚ました。命の危機を覚えるような体調不良だったが、とある方角を見つめた瞬間にぴたりと治まった。
何かに呼ばれた気がした。
その日、ミシュラは地図とコンパスを持ってレムナンドの小屋を訪問したのだった。
レムナンドは気だるげに調薬をしていた。器具の一部にはメリク公爵家の家紋が刻まれている。
ミシュラの母方の祖父――メギスト・メリク公爵は、ムンナリア王国一の錬金術師だった。若い頃からレムナンドとともに数々の研究を行い、偉大な功績を遺してきた人物である。
彼の死後、遺品の一部は親友のレムナンドが持ち出していた。公爵家はそれを黙認している状態だが、まさか日焼け止め薬作りに利用されているとは思うまい。
レムナンドの手が空くまで、ミシュラは宣言通り未来予知ならぬ、未来予告を聞かせた。これらの出来事一つ一つが的中することで、レムナンドの信頼度が上がるだろう。
「それでね、ハンナの一人娘のメイサがもうすぐ電撃結婚するの。相手は神父様よ。びっくりでしょ?」
「メイサはよく教会の手伝いに行ってると聞くし、そんなに驚きはないな」
「でも年の差が十五歳もあるんだよ。散々揉めたんだから」
「……そんなにおかしいか?」
長寿の種族に年の差結婚の衝撃を伝えようとしたのが間違いだった。ミシュラは諦めて淡々と伝える。
「一年後には二人の間に子どもが生まれるよ。男の子で、確か名前は……そうだ、レイくん! 山二つ向こうの村が奇色化した魔獣に襲われる事件があって、その時魔獣を討伐した勇敢な若者の名前から取ったんだって」
「ふぅん」
調薬が一段落ついてから、レムナンドが地図を見て真っ直ぐ線を引いた。
「やや外れているが、オーロ山や旧神聖国跡地がある方角だ。あとは、そうだな……祈りの宝樹がちょうど同じ方角にある」
「祈りの宝樹……」
「縁がある場所なのか?」
「全然。でも、何かピンときた」
前回も含めた生涯で一度も訪れたことのない場所である。
しかし、何かが引っかかる。聞いたことがある単語だった。
「確か、何年か前……じゃなくて、今から九年後くらいかな。宝樹が突然枯れちゃったって聞いた」
「それもお前のせいで?」
「違うと思うよ、多分。身に覚えないし。ただ、民衆は災いの前兆だって怯えてた」
祈りの宝樹は、その名の通り人々が祈りを捧げに訪れる聖地のひとつである。
神話の時代から現存すると言われ、樹齢数千年の大陸最古の大樹。樹全体が仄かに発光してそれはそれは神々しいらしい。
巻き戻し前の世界でどうして宝樹が枯れてしまったのか、ミシュラは知らない。敵と戦い、仲間を喪って荒れていた時期だ。その時は気にする余裕もなかった。
「気になるね」
「……だから?」
「連れて行ってもらうことになるかも」
「無茶を言うな。行き来に十日以上かかる。ジオたちになんて説明するんだ」
面倒くさい、とレムナンドの顔に書いてあった。
確かに、十歳の貴族の令嬢を連れ出すにはそれなりに理由が必要になる。現実的ではなかった。
「今朝の体調不良が気のせいならいいの。でも、何日も続くようなら無視できない。そうなったら計画を練らなくちゃね」
結果的に、それは気のせいなどではなかった。
*
もうどれだけ長い間ここにいるのか分からない。
その少年は暗闇の中に座り込み、俯いていた。
手足は木の根に拘束され、首以外は少しも動かすことができない。何も見えないし、何も聞こえない。食事はおろか、水の一滴も口にしていなかった。
自分の息遣いも鼓動の音も緩慢で、どうして自分が生きていられるのか不思議で仕方がなかった。
少年は最近見た夢について考えていた。
そう、あれは夢だったに違いない。
ここから連れ出され、不気味な部屋でなす術もなく強力な呪いを受けた。死んだ方がマシだと思えるような激痛と、気が狂いそうなほどの恐怖が脳に焼き付いている。
少しでも間違えれば体が爆発してしまいそうな状態だった。心を無にして耐え続けていたので記憶は曖昧だ。
長い苦しみの果て、初めて見た外の世界は、言葉で言い表せないほど醜かった。視界には赤と黒しかなくて、聞こえてくるのは悲鳴と不幸を嘆く声だけ。空は濁り、大地は死を待ち、首を絞めるように時が過ぎていく。
自分に呪いを授けた者たちは言った。「魔法銀の悪魔を殺せ」、と。
少年の意思とは関係なく、体は命令をこなそうと動いた。
立ちはだかる者を排除して、少年は朦朧とした意識で塔の長い階段を登った。もうなんでもいいから早く終わらせたいと思っていた。
塔の上にいたのは、美しい女性だった。
長い銀髪がときどき赤く光って見え、微笑む顔には感情が乗っていない。
「呪いのお人形さん」
少年をそう呼ぶ女性の方こそ、呪われた人形のように思えてならなかった。悪魔と呼ばれるのも納得できてしまう。
目の前の女性を殺せば、意識の中に取り残された塵のような自我も完全に消えるだろう。早く楽になりたい気持ちと、死ぬときは一人ではないとことが少しだけ嬉しかった。
呪いに身を委ねれば腕が大剣を掲げ、女性を殺すために動き出した。
すぐに決着はつかなかったが、少年にとってはほんのわずかな時間だ。微睡むように最期の時が過ぎるのを待った。
「あなたの言う通りだったね、ロアート兄さん……」
女性の愕然とした呟きが、少年を激しく動揺させた。
胸が痛い。
振り降ろされた大剣が女性の体を裂き、鮮血を浴びる。
「っ!」
あと少しの辛抱だったのに、急に耐えられなくなった。
今すぐに世界を壊してしまいたい。そんな強い衝動に抗えなくなり、気づいたら全てを解放していた。
ああ、これで全てが終わる。
しかし心を満たしたのは安堵ではなく、凄まじい悔恨の念だった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
悔しかった。哀しかった。寂しかった。
一片でもいいから、幸せに触れてみたかった。生まれたことを誰かに祝福してほしかった。
選択肢が一つもなく、出会うモノもなく、拾われることもない。
絶望に続く一本道を進むだけの人生。
『お前は――希望……頼む、――ルギ……必ず世界を――』
脳裏に知らない男の声が響いた。
……そして、気づいたら、この暗闇に戻ってきていた。
長い悪夢だった。夢であってくれと思う。
世界が巻き戻されたような感覚も気のせいであってほしい。
このまま暗闇の中で虚無の時間を過ごし、また激痛を伴う呪いをかけられて、滅びいく世界であの悪魔と戦うことになるなんて考えたくない。
いや、全てが夢であってほしい。
苦痛だった。
前回はぼんやりとしていた意識が、完全に覚醒してしまった。
あと何日、何か月、何年、このままずっと一人で最期を待たないといけないのだろうか。
せめて、ここに囚われる前まで時間が巻き戻っていれば……そう考えても、この暗闇以前の記憶は全く思い出せない。少年は自分を慰められるような思い出を何一つ持っていなかった。
少年は改めて絶望した。
――死にたい、死にたい、死にたい。
少年は救いを求めた。その言葉を呪詛のように繰り返すことで、意識が霞んでいく。そうやって心を守っていた。
未来の悪夢を見てから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
終わりはまた、唐突に訪れた。
瞼の上に刺激を感じて、久しぶりに目を開く。ボロボロと何かが剥がれて落ちる感触がした。暗闇にオレンジ色が浮かぶ。黒以外の色に懐かしさを覚えた。
「見つけた……本当にいた」
幼いが、聞き覚えのある声だった。
「私のこと、分かる? 呪いのお人形さん」
オレンジの光の傍らに、美しい銀髪を持つ少女がいた。悪夢の中でこの手にかけた女性の面影があり、みぞおちの辺りがヒヤリとした。
「魔法銀の、悪魔……」
ひどくかすれた声だったが、少女には聞き取れたらしい。銀髪を耳にかけながら小さく笑った。その表情は、悪夢の中とは違って鮮やかに見えた。本当に楽しそうで、生きている人間という感じがする。
眩しさを覚えると同時に、少年の心に影が落ちた。
「死にたい」
無意識に呟いていた。
「死にたい、死にたい、死にたい……殺してほしい」
最後は明確に少女に向けて懇願した。
彼女がどうやってこの場所に来たのかは分からないが、何をしに来たのかは想像できた。あの忌々しい悪夢――未来の世界で少年は彼女を殺すために造られ、実際に致命傷を与えることができた。世界を滅ぼす悪魔を止められる唯一の存在だったのだ。
今のうちに自分を殺しておきたいのだろう。だとしたら、願ったり叶ったりだ。
もう耐えられない。これ以上の孤独と苦痛を味わうくらいなら早く楽になりたい。
少女は考えるように宙を見つめた後、可憐な笑顔で頷いた。
「そうなんだ。じゃあ――」
少女の周りに、夢で見たのと同じ銀色の液体が浮かぶ。大きな刃に変形したそれは、空を切り裂く音ともに素早く振り下ろされた。