32 カーフの誤算
子どもの頃から、カーフは神話と英雄譚が好きだった。
天上より降臨した末の神が、闇の瘴気で満ちた大陸を一振りの剣で切り開き、恐ろしい怪物たちを退け、人々に希望と奇跡を残す尊い物語。
勇者・聖女・戦士・魔法使いの四人の英雄が運命的に出会い、史上最悪の怪物・邪竜王を討ち滅ぼす熱い物語。
どちらも教会で楽しめる数少ない娯楽図書であった。
末の神も勇者も、特別で格別な選ばれた存在だ。長く永く人々に語り継がれる伝説。子どもながらに強く憧れた。
神聖力と剣の才能を持つカーフは物語に自己投影し、彼らと同じように成すべき使命があるのではないかと夢想した。
家族の愛を知らない寂しさも、対等な友人がいない悲しさも、使命を果たすためだと思えば克服できた。孤高の存在はかっこいいのだ。ふと胸の内に込み上げてくる、泣きたくなるような衝動は、日々の忙しさに身を任せていれば忘れられる。
誰よりも強く、賢く、美しく。人々を導く模範となるために。
カーフは高潔な聖騎士を目指した。
そうなれば遠く離れた家族は自分を覚えていてくれるだろうし、同じ志を持つ友にもいつかきっと出会えるだろう。
才能に頼らず、努力は人一倍した。
同年代の誰よりも剣を振り、教会図書館に毎日通って知識と教養を身に着け、決して弱音を吐かず、卑怯なことはせず、背筋を伸ばして生きてきた。
神は、ちゃんと見ていてくれた。
教会の最上の預言者によって、カーフは“神の寵愛を賜る者”だと宣言されたのだ。
史上最年少で聖騎士に叙任されたとき、厳しく指導してくれた教官も、憧憬の念を向けてくる同い年の神官見習いたちも、口々に「素晴らしい」「さすがだ」と我が事のように祝ってくれた。
それも当然のように受け入れて、自室で一人になるまでは泣かなかった。
自分が誇らしかった。
しかし、大切なのはこれからだ。聖騎士として恥ずかしくない振舞いをする。より一層の努力を重ね、研鑽した力で人々を救わないといけない。
――ボクも、何百年も語り継がれるような立派な存在になるんだ!
そう張り切るカーフに、聖騎士としての初任務が与えられた。
ムンナリア王国の聖王女・リリトゥナの十二歳の生誕パーティーへ出席し、教会の代表として祝いを伝えること。
暗唱できるほど読み込んだ英雄譚のヒロイン、聖女ララトゥナの生まれ変わりに会える。
これ以上に心が躍る任務があるだろうか。カーフは内心の喜びを表に出さないように努めるのに必死だった。
「監視、ですか?」
「ああ。聖王女様と同じ日に生まれた……いや、造られた禁忌の人形だ。ムンナリア王家に強い恨みを持っている可能性がある」
任務に同行する神官バヤから、カーフは初めてその忌まわしい存在を知った。
ムンナリア王国屈指の悪女と、毒蛇封印の守護を司る者の子ども――ミシュラ・ルナーグは、死亡した赤ん坊の胸に錬成術で生成された心臓を埋め込まれて造られた、おぞましい人形なのだという。
祖父であるメリク公爵の強烈な執念によって自立して動き、今も普通の人間の子どもと同じように成長している。
「もはや呪いだ。一刻も早くその心臓を破壊すべきだというのに、こともあろうに聖王女様と相見えることに……災いを未然に防ぐためにも、我々が逐一見張らなければ」
ミシュラは、出産時の経緯に多少同情すべき点があったゆえに、ムンナリア王家から恩赦を賜り、処分を見送られた。しかし教会に出生届の受理を認められず、母子ともに蔑まれていることから、王家のことを逆恨みしているかもしれない。
――ボクが聖王女様をお守りしなければ!
何も知らないリリトゥナが傷けられるようなことがあってはならない。カーフは分かりやすく使命に燃えた。
ムンナリア王国に到着後、待ちに待った王女への謁見でその決意を述べたところ、リリトゥナは花が綻ぶような笑顔を見せた。この世のものとは思えない可憐さに、体温がぶわっと上昇した。
「まぁ、頼もしい。では、聖騎士カーフ。ミシュラ嬢のエスコートをお願いしますね」
「え」
「初めての王都に戸惑うこともあるでしょうが、年の近いあなたと一緒なら彼女も安心できるでしょうから」
そして、冷や水をかけられたように感じた熱は急降下した。
リリトゥナは、ミシュラと友達になりたいのだという。造られた者であっても、歩み寄れば心を通わせることができると信じている。
カーフはますます心配になった。優しいリリトゥナが、信頼を裏切られて涙する姿が容易に想像できてしまう。
気を引き締めて、バヤとともにメリク公爵邸に向かった。
悪女の娘で、禁忌の人形。冷たく恐ろしいモノを想像していたカーフは、予想外の初対面を迎えた。
「初めまして。東部辺境伯の娘、ミシュラ・ルナーグと申します。この一週間、ご一緒されると伺いました。どうぞよろしくお願いいたします」
見惚れてしまい、激しく動揺した。
ミシュラは負の一面を微塵も感じさせない、朗らかな挨拶をして見せた。完璧すぎて気味が悪い、とバヤが罵るのも半ば納得してしまう。
しかし、次の瞬間にはミシュラは悲しみを全身で表した。まるで純粋無垢な少女を虐めているような気がして、胸が痛む。何も口を挟めない。
カーフが立ち尽くしている間に、バヤは公爵邸から追い出されることになった。
どうやらマルセル・メリク公爵は姪を溺愛しているようだ。相手側からすれば、確かにバヤの発言は耐えがたい侮辱だったのだろう。
一人残されたカーフは、早速冷や汗をかいた。
ミシュラの存在を認めるわけにはいかず、かといって、バヤの二の舞になったら任務を果たせない。
「では、こちらへどうぞ。屋敷を案内いたします」
ミシュラは、迷子に話しかけるようにカーフに接した。いかにも優しいお姉さん、という雰囲気を出していたが、カーフは「騙されまい」とじっとその表情を観察した。
そのうち、だんだんとミシュラの態度が砕けていった。先程までバヤの発言に傷ついて涙を浮かべていたのが嘘みたいに思えてくる。
――演技だった? やっぱり造られた存在なんだ……でも、人形にこんな高度なことができるのか?
バヤは道中でミシュラのことを「人間未満の欠陥品」だと言っていたが、これではむしろ人間より優れているように感じる。
子ども同士仲良くしたいという言葉に果たしてどんな意図があるのか。
「もっと人形みたいに表情が乏しいとか、会話が成立しないとか、そういう想像してたんだよね? ご期待に沿えなくて申し訳ないけれど、心臓が人造ってだけで後は普通の人間と同じだよ」
ミシュラはカーフの内面を見透かして悪戯っぽく笑う。自身の見た目の美しさを理解しているし、会話のテンポも速く機微に優れている。こちらが下手な発言をできないのが分かっていて、翻弄してくるのだ。
こんなにも手のひらで踊らされるような感覚は初めてで、カーフはかなり悔しかった。
だからこそ、さらなる屈辱を別の人間から与えられるなんて想像もできなかった。
「あり得ない。ボクが、このボクが、こんなに簡単に負けるなんて……!」
鍛錬だと連れて行かれた庭先で、カーフは無様に尻もちをついた。
フレインというミシュラの護衛剣士に、手も足も出なかったのだ。生まれて初めて体験する本物の殺気と目の前で消えたかのような凄まじい剣速。
今の自分ではどのような奇跡が起きても勝てない。フレインは別次元の強さを持っていた。
そして、ミシュラとも剣で手合わせをした。
嫌な予感はしていたが、思うように剣を振るわせてくれなかった。戦績で言えば勝ち越しているが、連続勝ちはさせてもらえない。
何度も打ち合ううちに確信した。おそらく彼女は魔法剣士ではない。他に戦う術を持っているから、負けても平然としていられるのだろう。それに驚くほどタフだった。
本気で戦ったら、きっと……。
努力の日々が打ち砕かれたような心地だった。
輝かしい十年と少しの人生が脳裏によぎり、絶望する。
同時に、不思議と胸が躍っていた。
――この世界は広い。予想外がたくさんある。
ミシュラへの認識を改めざるを得なかった。真に人間といえるのかどうかはともかく、決して見くびってはいけない。彼女は感情を理解しているし、底知れない何かがある。
そして、思っていたよりも不快ではない。
自分と同じかそれ以上の次元にいる存在と、剣の稽古やお茶をするのは、悪くない時間だった。
お茶会の日。
公爵邸のエントランスでミシュラを待つ間、カーフはロアート・ルナーグに話しかけられた。
「お前、カーフって言ったか」
「はい。なんでしょう、ロアート様」
次代の怪物の封印の守護者である彼のことは、聖騎士として敬うべきである。たとえ平民の出で、貴族としての礼儀作法が拙くても関係ない。
「あんまりミシュラに懐くんじゃねぇぞ」
「……懐いているつもりは微塵もありませんが、なぜそのようなことを?」
ロアートはメリク公爵たちに聞こえないよう、声を潜めて言った。
「あいつには、将来を約束した相手がいるんだ」
「はぁ……?」
「顔も心も綺麗で、今は剣の修業に出ている。お前はすごい奴かもしれねぇけど、ルギだって負けてねぇ」
そのルギという少年は今、カーフも知っている有名な剣術の門下に入って厳しい鍛錬を積んでいるのだという。それもこれも全てミシュラと一緒にいるため。二人の間には、他者には理解できない不思議な繋がりがあるらしい。
「ミシュラは誰にでもああいう態度を取るけど、特別なのはルギだけだ。勘違いするなよ」
知ったことではない、とカーフは短く息を吐く。
「何を心配しているのか存じ上げませんが、ボクは生誕パーティーが終わったら教会本部に戻りますし、これ以上関わることはないと思います。これきりの縁です」
「そ、そうかよ。なんか仲良さそうに見えたから……じゃあ、いい。変なこと言って悪かったな」
「いえ……あの、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「うるせぇ! 緊張してんだよ」
初めてのお茶会、初めての王族。
その重圧を前に、ロアートの顔は真っ青だった。
――こんな状態で、他人のことをとやかく言っている場合じゃないでしょうに。
低俗な思い違いをされたことで、カーフは少しロアートが苦手になった。
お茶会で何か粗相をするのではないか。場違いな自分を顧みて、きっと恥ずかしくなるだろうな、と心配になったくらいだ。
「――――」
しかしカーフは、またしても“予想外”を体験した。
お茶会の席で披露された演奏。
ロアートの指先から紡がれる、澄み渡ったピアノの音色。音楽にあまり造詣の深くない自分でも非凡だと分かる。
恥ずかしくなったのは、カーフの方だった。心のどこかでロアートを無教養な馬鹿だと思っていた。こんなにも尊い才能を持つ相手に対して。
ミシュラがピアノの音に寄り添うように、伸びやかに歌っている。
その姿は禁忌だからと疎むべき存在とも思えなかった。リリトゥナ姫がミシュラに関心を向けるのも理解できてしまう。
その後、他の令嬢たちから選曲や母親のことを馬鹿にされても、ミシュラは平然としていた。自分と母親のことを信じ切っていて、微塵も揺らぐことがない。
――強くて賢くて……美しい。
カーフは再び悔しい気持ちでいっぱいになった。
ミシュラは、この世界でただ一人の特別製。
教会にとっては認められない禁忌によって誕生したが、果たして前例のない彼女のような存在の是非を、誰が決めることができるのだろう。
人間と同じように“心”があるかは分からない。だが、人の心を動かすことができる存在だ。
――ならば、彼女は。
ぐるぐるといろいろなことを考えてしまって、ぼうっとしていた。第一王子のトールバルトが現れ、お茶会が終わりになっても、カーフはミシュラに対する今後の態度を決めかねていた。
「兄さんっ!」
ロアートが指を負傷した時は、咄嗟に体が動いた。
迷わず神聖力を使って癒す。あの清廉なピアノの音が失われるなど、世界にとって損失だ。
――どうしてこんな心ないことができるんだ!
カーフの目から見ても、令嬢がわざと負傷させたのは明らかだった。立場上は中立を貫かねばならないが、怒りを覚えた。
そして、兄を攻撃した者に対して激怒する姿を見て、もうミシュラに“心”がないなんて思えなかった。
カーフは、ミシュラがポーラという令嬢に決闘を申し込んだことを、城に滞在していた神官のバヤに報告に行った。
「やはりアレは血に飢えた化け物なのだ。短絡的で暴力的。非常に危険だ」
「ですが、今回の件は相手方に非があると……」
「何?」
「いえ、なんでもありません」
ここで議論しても意味がないと、カーフは早々にバヤとの会話を諦めた。
そうこうしているうちに王の補佐官がやってきて、決闘ではなく魔物狩り勝負で決着をつけることになりそうだと伝えてきた。その際には、カーフがミシュラ達に同行して不正がないか見張ってほしいと依頼される。
「それはちょうどいい。カーフ、分かっているな?」
補佐官が退室した後、バヤは天啓を得たとばかりに笑った。
「アレの強運もここまでだ。魔物に襲われた、崖からから落ちた、なんなら殺されそうになって返り討ちにしたという理由でもいい」
「……何を仰っているのですか?」
わざと物分かりの悪い振りをした。カーフには、バヤの考えが信じられなかった。
「十二年も見逃してやったのだ。もう我慢ならん。隙あらばミシュラ・ルナーグを処分しろ。護衛剣士もろともな」
驚くことに、全く一片たりとも賛同できなかった。
「それは、なりません。間もなく聖王女様の生誕祭です。よりにもよって我々が凶事を起こすなんて」
「なに、不吉な人形を遠ざけたと考えれば、神はお赦しになるだろう。国王夫妻は気にしない」
無茶苦茶だ。
大人はそうでも優しいリリトゥナがひどく悲しみ、場合によっては王都に招待した自分を責めるだろう。
「よいか、カーフ。己の役目をしっかり果たすように」
「…………」
カーフはもやもやとした気持ちのまま、城を出た。
――そもそも殺すなんて不可能だ。
たとえミシュラと互角の強さであったとしても、フレインに敵うとは思えない。返り討ちにあって死ぬのは自分だ。
それでもやらねばならないのだろうか。初めての任務なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
聖騎士にあるまじき使命を課せられたことで、カーフの心はどんどん曇っていった。
まだカーフは人を殺めたことがなかった。聖騎士となった以上、悪人を断罪する覚悟はできていたが、今回は違う。
治療の礼を言い、兄のために戦おうとするミシュラを隠れるように殺すのは、どう言い訳しても正しい行いではない。
――ボクはもうすっかり、彼女のことを人間だと思っている。
殺さないための理由ばかりを並べて、どうにかバヤの命令に背く道を探してしまう。
しかし、命令に背くことさえも、カーフはまだ経験したことがなかった。どうすればいいのか分からない。
そして迎えた魔物狩り勝負当日。
カーフは、思いもよらぬ選択を迫られることになった。




