30 波乱のお茶会
「もしかして、あなたの先生はミレイヤ・ルナーグ様でして?」
急に会話に入ってきたポーラに戸惑いながら、ロアートはおずおずと頷く。
――やっぱりこうなるよね。兄さんったら、迂闊だなぁ。事前に注意しなかった私が悪いんだけど。
母の存在を少しでも匂わせれば、突いてくると思っていた。
ちなみに巻き戻し前のお茶会では付き添いの保護者達が別室に集まっていたので、さすがのポーラも本人の近くで話題に出すことはしなかった。その代わり、親同士でひと悶着あったと母から聞いたが。
ミレイヤという名前が出た途端、サロン全体の意識が集まった。さすがのリリトゥナ姫も異変に気付いて首を傾げている。
「どうなさったのですか? ミシュラのお母様のお話?」
「ええ。ああ、失礼いたしました。殿下はご存知ないのでしたね……当時のこと」
ポーラはミシュラだけではなく、リリトゥナに対しても嘲笑って見せた。
――なるほど。別にリリトゥナ姫のご機嫌取りする気はないんだ……。
たとえ聖王女だろうが、自分よりも讃えられる存在は許せない。隙あらば泥をかける。もっとも目障りなミシュラを貶めることで、一緒に傷をつけるつもりらしい。
「え、なんのことでしょうか? 教えてください、ポーラ」
暗黙の了解でリリトゥナに内緒にしていた話も、本人が望むのならば。大人の介入がない隙を狙って、ポーラはやむを得ずという風を装って口を開いた。
「大変話しにくいことなのですが……これも殿下のためです。知っておくべきでしょう。ご結婚前のミレイヤ様にはいささか黒い噂がありまして」
「え?」
ポーラは憐れむようにしながら、リリトゥナに語って聞かせた。
元々は当時の王太子だったイグニスとミレイヤが婚約していたこと。しかしイグニスと平民だったリタが恋に落ち、それに嫉妬したミレイヤがリタに対して陰湿な嫌がらせをしたこと。ミレイヤは婚約破棄されて、どんどん落ちぶれていったこと。
それから取り巻きたちも、ミレイヤが行った様々な悪事について口にし出した。なんの根拠もない、親たちから聞いたであろう脚色だらけの噂話だ。
ポーラは共犯者たちを労うように頷き、リリトゥナ姫を励ますように悲しげに笑う。
「お優しい殿下の心を傷つけないため、お耳に入れないようにしていたのだと思いますが……まもなく十二歳になられるのですから、お付き合いする相手についてはご自分でよく考えるべきかと」
愕然とした表情のまま、リリトゥナがミシュラを見やる。
否、サロン内の全ての人間の視線がミシュラに集まっていた。
怒りを感じながらも、ミシュラの頭は冷えていた。
冷静に、招待客や周囲の騎士たちの顔を見る。
ポーラに乗って面白がっているのは半分だけだ。残りの半分は気まずそうだったり、不快そうだったり、この話題を嫌がっているのが分かる。この半分に嫌われなければいい。
「ミシュラ……今の話は本当なのですか?」
ここに来ても、リリトゥナは無神経だった。
異様な空気になってしまって焦っているロアートを視線で制してから、ミシュラは柔らかく微笑む。
「さぁ? 母がかつて陛下と婚約していた、という部分以外は、根も葉もないデタラメだと思います。少なくとも母にはそう聞いていますよ」
「嘘をおっしゃい!」
ポーラが噛みついてきたので、ミシュラは優雅にお茶を飲みながら適当に答えた。
「あなただって、どうせ誰かに聞いた話でしょ? 生まれる前の出来事を知っているはずがないし」
「そ、それがなんだというのです」
「私は顔も名前も知らない有象無象が吐いた噂よりも、いつだって気高く厳しい母の言葉を信じます。あなたたちがどんな話を信じようが自由ですけれど……得意げに吹聴するのは品がないのでやめた方がいいですよ。いつもご家庭でどのように過ごされているのか、想像できてしまうので」
見下すように笑ってやれば、ポーラの顔がみるみるうちに赤くなっていった。
「好き勝手なことを……! 稀代の悪女の娘のくせに、殿下の隣に平然と座るなんて厚かましいのよ!」
「この場への招待も席次も私が決めたことではありません。せっかく姫様がご用意してくれた場ですから、心の底から楽しみたかったのですが、それが私には許されないと? ああ、お席を代わって差し上げれば満足ですか?」
「くっ」
ミシュラに何を言っても効果がないばかりか、口では勝てないと察したポーラが、責めるようにリリトゥナを見た。
「殿下! このような者と関わるのは御身のためになりませんわ! 今からでも辺境に追い返すべきです!」
「え? ですが、そんな、わたくしから招待したのに……」
混乱と動揺であたふたするリリトゥナ。こともあろうにミシュラに「助けて」と訴えてくる始末だった。
「気に入らないなら帰ればいいじゃん。お前、さっきからキンキンうるさいんだよ」
助け舟を出したのは、意外なことにカノンである。
「な!? あなたは黙っていなさいよ! 関係ないでしょう!」
「関係はねぇけど……俺もミレイヤ様の噂、知ってるぜ。すっげーピアノが上手くて、よく式典での演奏を依頼されてたって。そういや、ポーラの母親はいつも二番手で負けてたんだっけ?」
サロンに衝撃が走る。
ポーラは呆気にとられた後、テーブルを叩いて立ち上がった。
「嘘です! 母はいつも代表者として演奏していたと言っていましたもの!」
「それ、ミレイヤ様が変な噂されて、舞台に立てなくなってからじゃねぇの?」
「っ!」
カノンは快活にロアートに笑いかけた。
「まぁ、俺も当時のことは知らねぇけど、少なくともポーラよりもロアートの方がピアノ上手いのは確かだぜ。本人の才能か、指導者の差か、どっちだろうな?」
ミシュラはカノンに対して盛大な拍手を贈りたいでいっぱいだった。気づけば、ポーラに与していない招待客も、笑いをこらえている。
ポーラは奥歯を噛みしめて黙るしかなかった。ここでカノンの言葉を強く否定すれば、「じゃあここで弾いてみろ」という話になる。ロアートよりも綺麗な音色を鳴らす自信はないのだろう。
この沈黙は、自らの方が劣っていると認めたようなものだ。
勝敗は決したが、サロン内の空気は最悪だった。
主催者のリリトゥナに場をしきり直す力はない。次に誰が何を口に出すか、緊張感が高まっていった。
そんな空気を破壊したのは、扉が開く音だった。
「おや? 今日は随分と静かだね」
「お兄様!」
リリトゥナ姫が天の助けとばかりに、顔を輝かせた。他の令嬢たちも黄色い声を上げる。
一方ミシュラは、全身が凍りついたように動けなくなった。
現れたのは、この国の第一王子・トールバルトである。
――どうして……。
前回のお茶会には現れなかったはずだ。だから完全に油断していた。
脳裏に、巻き戻し前の忌まわしい記憶が蘇る。
『汚らわしい悪魔の娘。私が直々に罰を与えてやろう』
慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、粘つくような不快な囁きをして、彼は鞭を振り上げた。
何度も何度も執拗に打たれ、鮮烈な痛みが体中に刻まれた。反抗の意志を見れば、すぐさま家族の命を盾にして脅される。
耐えるしかなかったあの屈辱の時間を思い出して、ミシュラは無意識に口を手で覆った。
「ミシュラ……?」
ロアートがこちらを気にしたが、トールバルトが完璧な王族の微笑みを携えて近づいてくる。
周りに倣って、ミシュラとロアートも立ち上がって礼を取った。視界がぐらりと揺らぐのを必死にこらえ、ミシュラは平静を装う。
「皆、楽にしてくれて構わない。突然すまないな。私もぜひ挨拶をと……リリ、紹介してくれるかい?」
「はい!」
リリトゥナに名を呼ばれた後、ミシュラとロアートは形式通りに名乗った。
「はは、二人ともそう緊張しなくてもいい。我々は遠い親戚同士じゃないか。よく来てくれたね」
王子から親愛のこもった瞳を向けられ、ロアートはすっかり恐縮してしまっている。ミシュラもまた、全身が重くなるのを感じながら、なんとか表情を取り繕った。
――そっか。私が今回兄さんを連れてきたから、運命が変わったんだ。
禁忌の子とされるミシュラ一人には挨拶する価値がなくても、いずれ辺境伯の地位と鎮めの役を継ぐロアートには礼を尽くすべきだとトールバルトは判断したらしい。
深く考えれば予測できたのに、心の準備を怠ってしまった。ミシュラは嫌な音を立てる心臓を宥めようと必死だった。
トールバルトの席が新しく用意され、リリトゥナはここぞとばかりに兄に甘えて会話を回した。他の招待客も何事もなかったかのように振舞う。
「失礼、そろそろ次の公務の時間だ。ではまた、四日後の生誕祭で会おう」
しばらくしてトールバルトが退室したタイミングで、場の空気がまた萎み始め、リリトゥナは「そろそろお開きにいたしましょう」とどこか安堵したような笑みで宣言した。
リリトゥナが見送りのために扉のそばに立ち、一人一人が丁寧に礼と挨拶をしてから出ていく。
ミシュラは順番を待ちながら、ぼうっとそれを見ていた。どっと疲れてしまった。
ロアートがカノンに呼ばれて自分から離れていく。
そのとき、一人の令嬢が横から駆け寄り、ロアートに思い切りぶつかった。体勢を崩し、ロアートは床に手をつく。
そして、まっすぐ出口に向かって歩いていた別の令嬢が、彼の指を思い切り踏みつけた。
「っ!」
嫌な音ともに、ロアートが短く呻いた。
「兄さんっ!」
その場は騒然となった。
ミシュラは蹲るロアートにすぐに駆け寄った。
――うそ、指が……!
右手を押さえて、額に脂汗をかくロアート。指先が真っ赤になり、手全体が小刻みに震えている。
「あら、ごめんなさい。いきなり目の前に倒れられるなんて思わなくて……不運でしたわねぇ」
ロアートの指を踏んだ令嬢――ポーラは悪びれもせず言った。ぶつかった令嬢もその後ろで、平然としている。
足を止めることも、避けることもできたはずだ。事故を装っているが、故意にロアートの指を踏んだに違いなかった。
燃え上がるような怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
「どいてください! 治療します!」
壁際にいたカーフが慌てて割り込み、患部に手をかざした。神聖力の癒しの光が降り注ぐ。
それを見たリリトゥナ姫も、我に返ったように寄ってきた。
「あ、わ、わたくしも手伝います……!」
「いけませんわ、殿下。その尊き力を簡単に施しては。命に関わる傷ならともかく、ただの指の怪我じゃありませんか」
ポーラが鼻で笑うと、カノンがカッとなって詰め寄った。
「お前! ピアニストにとって指は命なんだぞ!」
「こちらの方はピアニストではなく、次の“鎮めの役”でしょう。どうせ、役目を引き継いだら、その指も使い物にならなくなるのではなくて?」
ミシュラは無言で立ち上がり、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるポーラを睨みつけた。
「あら、怖い。そんなに怒らなくとも、ただの事故ではありませんか。たかだか指の数本で――」
「それ以上喋らないで。私は今、お前を殺さないように我慢するので大変なの」
抑揚のない声に、その場にいた者全員の背筋が冷えた。
ミシュラから溢れ出す殺気とともに、銀の髪が妖しく輝く。
ポーラの顔から余裕と血の気が失せていった。
「兄さんの指は世界の宝なんだよ。どうやって償う? お前の全身の骨を砕いても、足りない」
尋常ではない空気に周囲の騎士が慌てて動き出し、ミシュラとポーラの間に割り込む。
「な、何よ! 無礼だわ!」
油断すれば、なけなしの理性が吹き飛んでしまいそうだった。ロアートが治療を受けながらも、「やめろ」と縋るような視線を向けていなければ、目の前の令嬢を八つ裂きにしていただろう。
分かっている。ここで暴れて王家や教会の目が厳しくなれば、怪物討伐計画にも支障が出てしまう。
――でも、このまま引き下がれない。
あいにく、手袋を持っていなかった。
ミシュラはテーブルにあったナプキンを床に投げ付けた。この際、形式なんてどうでもいい。
「決闘を申し込む。家族でも騎士でも、好きに代理を立てていいよ。私が勝ったら、地面に這いつくばって兄さんに謝罪してもらうから」




