18 過ち
報せを受け、ミシュラとレムナンドは大急ぎでルナーグの領地に帰った。
ルナリアの町の上空に差し掛かった時、崩れた建物が目に入り、思わず顔を背けたくなった。
今の時期ではないが、ミシュラは滅びた町を見たことがある。あの時の絶望感を思い出して、胃の底から吐き気が込み上げてきた。レムナンドが後ろから支えてくれなければ、気が遠くなって落ちていたかもしれない。
「パパ! ママ!」
飛獣で直接屋敷の庭に降りる。
避難してきた住民の一部と、兵士と医者が入り混じり、随分と混乱していた。
人々に指示を出す両親の姿を発見して、ひとまずは胸を撫でおろす。しかし、悪いことが続いているのは明白で、魔物の襲撃が収束した様子はない。
「ミシュラ……」
「どういうこと? 奇色化した魔物が出たって……今はどういう状況なの?」
ジオは戻ってきた娘を強く抱きしめた。普段は躊躇って自分からは触れようともしないのに。父も動揺しているのだと感じて、ミシュラはぎゅっとその体にしがみついた。
ミレイヤも珍しく取り乱してレムナンドに取りすがる。
「レム、お願いです! メイサの容体が良くないの。陣痛が始まってしまって、このままじゃ……他にも怪我人がたくさんいて、医療魔法士の手が足りないのです」
「分かった。僕も手を貸そう」
レムナンドはミシュラに何か言いたげな一瞥をくれ、ミレイヤとともに立ち去った。
――メイサが……子どもが産まれるのはもう少し後だったはずなのに。
どうしてこのようなことになったのだろう。
知っていたはずの運命が変わった。報せを受けてからずっと考えていたが、原因は一つしか思いつかなかった。
『こいつのせいで、お前の知っている未来が変わるかもしれないんだぞ』
かつてレムナンドに言われた言葉が、ずっと頭の中で響いている。
「パパ、魔物は? ルギちゃんはどこ!?」
巻き戻し前と今、大きく違うのは“彼”の存在だ。
奇色化した魔物が、彼に引き寄せられたのだとしたら。
「落ち着いて聞いてほしい。実は――」
ジオの言葉を聞いて、ミシュラは制止を振り切って森の方へ駆け出した。
今日の朝、奇色化した熊の魔物が現れ、教会を襲った。
魔物の標的はやはりルギのようだったという。
私兵団の精鋭が勇敢に立ち向かったが、劣勢に陥る。ルギはあわやというところで、魔力を込めた剣で魔物を牽制してから逃げ出した。その場にいた者たちを守るため、離れていったように見えたらしい。
すぐに捜索部隊を編成して森へ向かったが、未だに発見できていない。
――お願い、間に合って……!
かつてないほどに心臓が騒いでいた。鼓動の度に痛くて涙が出る。
――大丈夫、まだ生きてる!
ここ最近は意識することもなかったが、ミシュラとルギの間にある目に見えない繋がり、それがまだ切れていないと感じる。確かにこの先に彼がいると心臓の鼓動が教えてくれた。
「ミシュラお嬢様、どうしてここにっ?」
崖の近くで捜索部隊を見つけた。
魔物が無理矢理通ったことでなぎ倒された木々があって、ここまでは簡単に追いかけられたが、どうやら魔物はこの崖から飛び降りたらしい。崖を下る準備のない捜索部隊は、足止めされてしまっている。
「先に行くね!」
ミシュラは迷わずに崖から飛び降りた。
魔法銀を操って小さな足場を造り、それを何度か踏んで落下の衝撃を殺す。地面に着地後、崖の上の兵士たちに「大丈夫だから!」と声をかけて、さらに深い森へ足を踏み入れる。制止の声は全て無視した。
崖下にも、魔物が通った痕跡が残っていた。どちらのものか分からないが、血の跡もある。
ほどなくして、小さな泉のほとりに辿り着いた。
周りを岩場に囲まれていて、逃げ場がなかったのだろう。
耳が痛いほど静かで、自分の乱れた呼吸の音しか聞こえない。
「…………」
柔らかな木漏れ日が死闘の跡を照らす。
血だまりの中に横たわっていたのは熊の魔物の方だった。脳天に折れた剣の刃が深々と突き刺さり、体中のいたるところが抉られている。はっきり絶命していると分かるほど、凄惨な死骸だった。
ルギは泉の浅瀬で座り込み、じっと動かない。頭から血をかぶったように全身が赤黒く、その手には剣の柄が握られている。
一枚の絵画のように静謐で神聖な光景に息をのみ、ミシュラはすぐに駆け寄ることができなかった。
――ルギちゃんが、倒したの……?
攻撃魔法や剣の使い方は教えていない。いくら彼が莫大な量の魔力を持っていたとしても、奇色化した魔物を何も知らない子どもがたった一人で討伐できるはずがない。
体が戦い方を覚えていたのか、無我夢中で“奇跡”を起こしたのか、それとも“天”が彼の味方をしたのか。
やはりルギは、普通の人間ではない。誰よりも特別で、誰よりも数奇な――。
【守り、崇めよ】
あの時聞こえた言葉は、もしかして。
ミシュラはふらふらと覚束ない足取りでルギに近寄った。それでも彼は顔を上げず、膝をついて項垂れている。
「ルギちゃん……」
ミシュラの声に反応して、少しだけ肩が動く。
「ごめん、ごめんね……」
やっとの思いで言葉を紡ぎ、ミシュラは跪いてルギの頬を両手で包んだ。そのまま全身を確認する。そんなに大きな傷はない。血もほとんどが魔物のもののようだ。
しかし、ようやくミシュラを見た青い瞳からは、すっかり光が失われていた。その心がどれだけ傷ついているのか目の当たりにして、無事で良かったなど、口が裂けても言えなかった。
「俺のせいだ」
ルギは理解していた。誤魔化せない。
「俺がここにいたからだ。運命が変わって、みんなが傷ついた……外に出ちゃいけなかった」
奇色化した魔物は、それぞれ行動パターンがある。
ルギが魔物を倒したのを見て思ったのは、より強い人間を襲う種類の魔物だったのではないかということだった。
つまり、フレインよりもルギに引き寄せられたから、この魔物はルナリアにやってきたのではないか。
「ルギちゃんのせいじゃない。私のせいだよ……!」
ルギを宝樹の地下から連れ出し、この地に住まわせたのは他ならぬミシュラだ。ルギには選ぶ余地なんてなかった。未来のことだってほとんど何も知らない。
巻き戻りの奇跡の前に散々味わった感情――忘れかけていた後悔の念が押し寄せてくる。
キト村のことなんて放っておけば良かった。フレインに出会おうと欲張らず、領地にいれば良かった。
考えが甘かった。浅はかだった。選択を誤ってしまった。
知っている未来を変えること、その危険性をもっと理解していればこんなことにはならなかった。レムナンドに言われたことを、もっともっと真剣に考えなければいけなかった。
自分を責めるルギを否定したくて、ミシュラは必死に叫んだ。
「ルギちゃんは何も悪くない! 全部私が――」
「俺のせいだ。俺が弱いせいだ。勇気を出せなかった。自分から動けなかった。最初から戦っていれば、誰も傷つかずに済んだ……っ!」
ルギの声は涙に濡れていた。
触れたら壊れてしまうのではないかと思うほど弱々しい背を、ミシュラはそっと撫でた。彼の青い瞳からとめどなく大粒の涙が溢れ、泉に吸い込まれていく。
「違う。違うよ……ルギちゃんには、戦わなきゃいけない義務なんてないんだよ。大人が子どもを守るのは当たり前で……」
ルギは首を横に振るだけで、もう嗚咽しか聞こえてこなかった。
彼は自分の判断を悔いている。周りの状況や環境は関係ないのだと、答えを出してしまっている。
どれだけ言葉を尽くしても、ルギの心を救うことができない。ミシュラにはそれが分かってしまった。
――私はまた間違えた。守ってあげられなかった。
胸が痛い。視界が滲む。
途方もない無力感を覚え、ミシュラはルギを抱きしめながら声を殺して泣いた。




