17 魔物の襲撃
※残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
その朝、ルギはロアートともに教会の手伝いをしていた。
もうすぐ年に一度の子どもたちの合唱祭がある。そこでロアートが伴奏をすることになったため、練習のついでに会場の掃除と飾り付けを引き受けたのだった。
「二人ともごめんなさいね。こんなに手伝ってもらっちゃって」
メイサが大きなお腹を撫でながら、申し訳なさそうに言う。
二人は出産を間近に控えた彼女の代わりに働いていた。台の上に乗ったり、重い荷物を持ったりするのは危ないらしい。
「べ、別に、これくらい大したことねぇし。なぁ、ルギ」
「うん。ゆっくりしてて」
屋敷の手伝いを続けていたこともあって、ルギは大抵の雑用は上手くこなせるようになっていた。ロアートも実家ではよく家事を手伝っていたらしい。二人の息はばっちり合う。
この数か月で、ロアートの人となりが分かってきた。言動と感情がちぐはぐなのだ。冷たいことを言いながらも、とても相手のことを心配して気遣っている。
本当は優しくて温かい人だ。一緒にいると心地いい。
「ああ、くそ、町の人みんなが聴きに来るってなると、さすがに緊張するぜ。なぁ、俺、上手くなってるか?」
ピアノを横目に見ながらロアートは窓を拭く。そわそわと落ち着きがなかった。
「演奏のこと? うん、すごく上手になってる。この前も大成功だった」
ミシュラの誕生日パーティーでのことを思い出し、ルギは少し俯いた。
ロアートが彼女へプレゼントを贈るか迷っていたので、ピアノの演奏はどうかと勧めたら、どういうわけかルギが歌う羽目になった。歌うのも大勢の人に注目されるのも初めての経験で、
今までになく恥ずかしかった。
それでも、やって良かったと思える。
「ミシュラも、最高のプレゼントだって言ってた」
あの時のミシュラの笑顔を思い出すと、とても幸せな気持ちになれた。ルギが見た景色の中でも一際美しいと感じる。
「別に喜ばせたかったわけじゃねぇし。あれは、そう、実験だ! あいつの魔力が高まったりはしなかったんだろ。まだまだダメだな」
ロアートは悔しげに雑巾を絞っている。
ササ村へ魔物討伐に行ってから、ロアートは真剣に音楽を学び始めた。それは単純にピアノが好きで上手くなりたいという理由だけではない。
ルギだけにはこっそり教えてくれた。ロアートはピアノの演奏で戦うミシュラをサポートしたいと思っている。
音楽には人の心を揺らし、奇跡を起こす力がある。具体的に言えば、演奏で鼓舞することで魔力の量と質が上がり、一時的に強くすることができるのだ。
毒蛇の怪物退治をミシュラ任せにしないために、ロアートは音楽を武器にしようとしているのだ。
ミシュラは普通の人よりも、感動による魔力の向上がしにくいらしい。それでもロアートは諦めず頑張っている。鎮めの役を継ぐという絶望の未来を自分の力で変えるために。
彼の変化を好ましく思う一方で、ルギは無力感に囚われていた。
――ロアートに比べて俺は……。
ミシュラの役に立ちたいと思っているのに、未だに躊躇いがある。
ササ村での魔物討伐の日、目の前で倒れる魔物を見た時、ルギの心は大きく騒いだ。
いとも容易く奪われる命。血塗れで微笑むミシュラ。
かつて巻き戻し前の世界で大剣を振るった時の感触を思い出してしまった。
剣を握るのが、戦うのが怖い。
自分が自分でなくなってしまうような気がして、どうしても嫌だった。
ミシュラもレムナンドも、何も言わない。
この様子では「一緒に戦ってほしい」と言われることはないだろう。頼りにされていないのではなく、そのまま好きなことをしていればいいと許されているからだ。
その厚意に甘えてしまっている。
戦う以外で役に立てることはないだろうかと考えているが、これといったものは思いつかない。ロアートのように彼にしかできない方法で、ミシュラの役に立ちたいのに。
――俺は、意気地なしだ。
一通り綺麗になったところで、掃除道具を片付けるため、教会の裏の水場に行く。
「それにしてもミシュラの奴、急に出かけて行って何してるんだ?」
「……飛獣で遠出をする練習だって」
「本当に無茶苦茶な奴だよな。貴族のお嬢様ってもっとお淑やかだと思ってたぜ」
多分、ミシュラが特殊なだけで、普通のお嬢様は飛獣に乗って急に出かけたりはしない。ルギはそう思ったが、声に出さなかった。
――俺も付いていきたかった……。
ルギは無意識に胸に手を置いた。服の下にある硬い感触――ミシュラにもらったネックレスの結晶を握り締める。
戦いもしないくせに、ただ離れたくないという理由でついていくのは迷惑だろう。そう思って我慢したが、たった一日ミシュラに会えないだけで寂しくて仕方がなかった。
「あー……数日で帰ってくるんだろ? あいつの強さなら危険もねぇだろうし、心配は要らねぇよ。元気出せ」
ロアートが励ましてくれた。その優しさに救われながら、ルギは深く頷く。
農具などが置かれている棚に掃除道具を戻し、最後に水場で手を洗っていると、メイサが洗濯物を運んできた。
「あ、本当にありがとうございました。今日のお昼は張り切って作るから、良かったら二人も食べて行ってくださいね」
「……それも俺らで洗って干しとくから、置いておけよ」
「え、これくらい大丈夫ですよ。少しは動かないと」
「危なっかしいんだよ。俺とルギに任しとけって」
ロアートに同意を示し、ルギは洗濯籠を受け取って、水場に戻った。てきぱきと洗濯桶を用意するロアートを見て、メイサはすっかり恐縮してしまっている。
「――!」
その瞬間、背筋に悪寒が走った。
心臓が鷲掴みにされたかのように痛み、思わずその場に蹲る。
「な、なんだ!?」
異変を感じたのはルギだけではなかった。ロアートもまた、きょろきょろと周囲を見渡した。メイサだけが不安そうに首を傾げている。
洗濯ものが地面に落ちてしまったが、もはやそれどころではなかった。
遠くから人々の悲鳴が聞こえてきた。建物が壊れるような音もどんどん大きくなっていく。
ルギは直感した。“死”が近づいてくる。
「メイサ! 魔物が来てるっ!」
駆けてきたのは、ルナーグ家の私兵団の団長を務めるゲルトだった。メイサの父親である。
「ロアート様とルギくんも! ひとまず教会の中に! 早く!」
直後、教会の石造りの塀が壊れた。
現れたのは見上げるほど大きな熊の魔物だった。
「ひっ!」
ただの魔物ではなかった。
全身を覆う体毛が発光し、目から黒い靄が立ち昇っている。何より、膨大な量の魔力が放出されていて、息をするのも難しいほどだった。
説明されなくても分かった。
これが、奇色化した魔物。
ルギだけではなく、その場にいる誰もが絶望していた。恐怖のあまり一歩も動けない。
――ミシュラ。
脳裏に眩しい笑顔がよぎった。
どうして今ここに、彼女が討伐しに行ったはずの魔物がいるのだろう。こんな出来事、彼女は言及していなかった。
「あ……」
魔物と目が合った。
その巨躯からは考えられないスピードで、蹲るルギの方に駆けてくる。振り上げられた太い腕が風を切った。
「ルギくんっ!」
メイサの絶叫に近い悲鳴で、ルギは我に返った。
間一髪のところで地面に転がって、攻撃を避ける。地面が大きく抉れ、土埃が舞った。
魔物は勢い余ってひっくり返り、近くの納屋に突っ込んでいった。
「あ……っ」
「メイサ、どうした!?」
メイサがお腹を押さえて蹲るとほぼ同時に、教会から夫のグラスが出てきた。真っ先に妻を支える。
「こんな時に……うぅ!」
「まさか子どもが!?」
「クソ! とにかく避難しろ! グラスさんとロアート様でメイサを連れて行ってくれ! 慎重に――」
顔面蒼白になりながらゲルトが腰の剣を抜き、メイサたちを庇うように立った。顔を歪めて苦しむメイサを、グラスとロアートが両脇から補助した。
ロアートがはっとしたように振り返る。
「おい、ルギ! お前も早く――」
「ダメだ! 早く行ってくれ!」
ゲルトの鋭い声が飛ぶ。彼の目には、罪悪感が滲んでいるように見えた。
「……ロアート、俺はいい。急いで」
ルギは腰が抜けていて立ち上がれなかった。自分に構わず先に行ってくれと、ロアートに頷いて伝える。
ロアートは心配そうにしつつも、苦しむメイサをしっかり支えて教会の敷地から出ていった。
心臓の音が大きくて、周囲の音が聞こえづらい。目まぐるしく変わる状況を、ルギは悪い夢のように傍観するしかなかった。
納屋が完全に崩れて、瓦礫の中から巨体が立ち上がる。
「団長! ひ……」
続々と私兵団の兵士が駆けつけてくるが、相対する魔物を目にして平静でいられる者はいなかった。武器を落とす者もいる。
「しっかりしろ! ここを通したら町が滅ぶ! ジオ様にもしものことがあれば、国まで滅ぶんだぞ! 魔狩人への救援要請はしたな!? 第三班は住民の避難を急げ!」
ゲルトが声を張り上げ、部下たちに指示を飛ばす。屈強な男たちが武器を手に並び、後ろに防御魔法士が控えた。
体勢を立て直した熊の魔物が飛び出す前に、ゲルトの号令で大きな盾を掲げた二人が突撃していく。身体強化の魔法を使い、常人の何倍もの力を発揮する。
「おおおっ!」
魔物の突進は威力を殺された。そこに剣と槍が殺到する。見事な連携だった。私兵団はお互いを庇い合い、魔物をその場に足止めしている。
――また、俺を見てる……。
魔物の恐ろしい瞳が、ルギを捉えて離さない。
ここまでくれば、ルギにも理解できた。魔物は自分を狙っている。ゲルトがルギの避難を許さなかったのは、このせいだろう。メイサやロアートと一緒に逃げて、魔物が追いかけたら困るからだ。
「きみはここから動くな! 絶対だ!」
私兵団の中にもそれに気づいた者がいて、魔物とルギの間に割って入り、防御魔法を張った。
――どうしよう。
戦いは劣勢である。攻撃は当たっているが、奇色化した魔物は傷を気にせず暴れ続けている。人間の体力が尽きる方が早い。徐々に押され、今にも魔物の爪が兵士を切り裂くのではないかと、不安でたまらなかった。
――俺が一人で逃げれば……でも、ここを動くなって……。
ルギは震える足を必死に叩いた。立ち上がることすらできず、打開策など何も思い浮かばない。
絶望と恐怖で視界が歪んだ。様々な感情が後悔となって胸に押し寄せてくるが、頭の中が空回りして時間だけが過ぎていく。
「ぐああっ!」
ついに均衡が崩れた。魔物の腕の一振りで、兵士たちが吹き飛ばされてしまう。
教会の壁にぶつかった青年が、頭から血を流して倒れる。ゲルトも地面に横たわり、苦しそうにもがいていた。
「隊長っ! くそおお!」
激昂した若い兵士たちが威勢よく飛び出していくが、簡単に魔物に薙ぎ払われて終わる。
また血が流れていく。
目の前に、誰のものかも分からない剣が転がってきた。
顔を上げれば、もうルギと魔物を遮るものは何もない。魔物が咆哮を上げて飛びかかってくる。
「子どもを守れ!」
転がる兵士の一人が魔物に追いすがったが、見向きもされずに地面に叩きつけられた。
魔物と視線が交錯し、ルギの中で何かが音を立てて壊れた。
「あああああああ!」
目の前の剣を掴み、ルギは立ち上がった。いつもネックレスの結晶にするように、無意識のうちに剣に魔力を込める。
閃光が弾けた。自分を食いちぎろうと飛び掛かってくる魔物に対し、真っすぐ一撃を振り下ろす。
「っ!」
魔物の脳天をかすめた剣が、地面を焦がした。
落雷のような轟音の後、空気が焼けるような匂いが立ち込める。
頭蓋が揺れ、片耳を失った魔物は体をふらつかせる。しかしその目は変わらずルギを見据えていた。
「――――!」
怒りの咆哮とともに発せられた魔力の波が周囲を飲み込む。
怯まない。止まらない。きっと致命傷を負っても命続けるまで暴れ続ける。
ルギは折れそうになる心を叱咤し、一瞬で周囲を見て教会の裏手に走った。
――俺がここにいたらダメだ!
塀を超えて林に入り、いつもミシュラと遊んでいる森の方向を目指す。
背後に迫る恐ろしい気配から逃れようと、ルギは全力で駆け出した。