16 最強の一人
翌朝、朝に弱いレムナンドを置いて一人で宿屋の食堂に向かうと、窓際の席に目的の人物が座っていた。
肩まで伸びた黒髪に切れ長の黒目を持つ、どこか浮世離れした雰囲気の少年。年は十代半ばだが、あどけなさは全くない。
ミシュラのお目当ての人物、フレイン・ブルーネルは机の木目をぼんやりと見つめていた。
――う……なんか変な汗が出てきた。
巻き戻し前の人生で、ミシュラはフレインとの接点はほとんどなかった。
面倒くさい野郎だと、エヴァンに聞いて知っているという程度だ。個人的に話したことはなく、イマイチどのような性格か分からない。
――なんか、話しかけづらいなぁ……。
宿屋の奥さんが美味しそうな朝食を運んできたが、フレインは礼も言わず目線も合わせない。他人とのコミュニケーションを拒絶しているように見えた。
下手に話しかけても、空振りに終わるかもしれない。
とりあえずミシュラはフレインが視界に入る席に座って、朝食を食べることにした。小さな宿なので宿泊客は少ないが、食堂には村人も朝食を食べに来ているようで、なかなか盛況である。
雑多な雰囲気に紛れて、じっくりと観察させてもらう。
食事の所作に癖はない。貴族のように上品ではなく、かといって目を覆うほど粗野でもなく、どの階級の人間か分からなかった。
強いて言えば、動作の一つ一つがのんびりしている。
――普通の人に見えるけど……隙がないな。
伊達に世界を滅ぼしていない。強いかどうかくらいは見れば分かる。
もし今ミシュラが奇襲を仕掛けたとしても、難なく対応されてしまいそうな気がする。ただ、今の時点でどれくらい強いのかは測りかねた。
朝食の後、一旦部屋に戻ってから、フレインは村のはずれにある空き地に向かった。
その手には剣が握られている。
鍛錬でもするのだろうかと、ミシュラはこっそり後をつけ、近くの樽の陰に隠れた。
フレインは空き地に積み上げられた資材に腰掛け、そのままごろんと仰向けに寝転ぶ。
「…………」
少し待ってみたが、一向に動きがない。顔は見えないものの、一定のリズムで体が揺れている。どうやら眠っているようだ。
ミシュラは少し呆れた。夜寝ていなかったのだろうか。昼寝というには早すぎる時間だ。
――変なヒト。
いつ魔物の襲撃があるか分からない。フレインとゆっくり話せる時間は限られる。
そんな焦りもあって、ミシュラはフレインに近づいた。食堂の時とは違って、今は隙だらけだ。なんとなく寝顔が見たかったので、起こさないように気配を消して忍び寄る。
何気なくその一歩を踏み込んだ瞬間。
「っ!」
抜き身の剣がミシュラの眼前で止まった。
――神速。
未来でフレインの剣技に付けられた異名である。
目にも止まらない速さ、斬られたことすら気づけない神懸った剣筋。
全身に鳥肌が立った。ミシュラは今、越えてはいけない一線を越えかけたのだ。
奇色化した魔物より恐ろしい人間がもう一人いた。
「食堂でずっと見ていたし、後をつけてきてましたよね。お嬢さん」
冷え切った目でフレインはミシュラを見下ろした。剣は突き付けられたままである。
「育ちが良さそうなのに、金目のものでも狙ってるんですか」
「……ううん。違うよ」
ミシュラは本能的に一歩ずつ下がって剣から離れた。額から汗が落ちるが、腕が震えて持ち上がらず、拭えない。
突然のことに頭が真っ白になってしまったが、深呼吸をして心臓を落ち着けた。
「普通の女の子じゃないみたいですね」
その言葉に対する言い訳はなかなか難しかった。
十分に距離を取ってから、ミシュラは空中に浮かぶ液体状の魔法銀を自らのもとに引き寄せた。
攻撃を受けたと感じた瞬間、ミシュラは反射的にフレインを攻撃しようとしていた。それを無理矢理止めたせいで、体が思うように動かない。
――危なかった。
フレインの方が速かった。彼が剣を寸止めしなければ間違いなく首を刎ねられていた。
殺気を感じなかったからこそ、ミシュラは咄嗟に魔法攻撃をキャンセルできたのだ。この数か月、真面目に魔力制御の鍛錬を続けていなければ、間違いなく勢いのままフレインを攻撃して、返り討ちに遭っていただろう。
こんなにも肝が冷えたのは、巻き戻り前も含めて久しぶりだった。
「普通じゃないのは、お兄さんも同じでしょ。近づいただけで斬りかかるなんて……私は、お話ししたかっただけなのに」
「俺たち、どこかで会ったことがありますか?」
「な、ないよ。知らない人に話しかけちゃダメ?」
「大人はダメだとよく言いますね。俺の知ったことではないですが」
剣が鞘に収まるのを見て、ようやくミシュラは冷や汗を拭った。
とんだ初対面になってしまった。
甘かった。強くなったと過信していたし、自分が幼いからと相手の油断を無意識に期待していた。
今の時点でもフレインは自分より強い。それに女子どもでも容赦しないタイプのようだ。人気のない場所で二人きりになるべきではなかった。
しかしここで怯えて引き下がったら、全てが無駄になってしまう。
「改めまして。私はミシュラ・ルナーグ。ルナリアの領主の娘です」
「へぇ、ルナーグ……学のない俺でも聞いたことがあります。毒蛇の怪物で有名ですよね。貴族のお嬢様でしたか」
ミシュラは魔法銀を体内に戻して、近くにあった木箱に腰掛ける。
「そう。でも、この村では内緒にしてね。飛獣の飛行訓練で立ち寄っただけなのに、大騒ぎされたら困るもん」
しれっと嘘をついてから、ミシュラは上目遣いでフレインを見上げた。
「不用意に近づいてしまったことは、ごめんなさい。私、将来魔狩人になりたくて、お兄さんが強そうだったから、お話を聞きたかったの」
「…………」
せめて十代半ばの肉体だったら、色仕掛けが通用しただろうか。十一歳では、可愛く媚びを売るので精一杯である。
どうやらフレインに幼女趣味はないらしく、表情も冷めた真顔のままだった。何もかも見透かされているように思えてならない。
だいぶ怪しまれているが、ミシュラは開き直ることにした。
掌の上に魔法銀を顕現して、鳥や花を造形して見せる。
「ルナーグ家のことは知っていても、私のことは知らないよね? だいぶ特別な生まれ方をしたおかげで、特別な魔法を持ってるんだ。この魔法銀と一心同体になってるから、危険が迫ると反射的に攻撃しちゃうの。悪気はなかったんだよ」
先に手の内を明かしても惜しくはなかった。自分の出生については、調べようと思えば調べられる。
見たことのない魔法に対しては少し興味を惹かれたのか、フレインの目が魔法銀の動きを追っていた。
「お兄さんのことも教えて」
「俺は……フレイン。ただの旅人です」
「どうして旅をしてるの?」
フレインは雲が多い空を仰いだ。
「ドラゴンに会いたくて」
ミシュラは首を傾げた。
ドラゴンは、言わずと知れた最強の魔物である。人類未到達の土地に暮らしていると言われていて、よほどのことがない限り人間の生活圏にはやってこない。目撃証言が少ないのは、目撃した者のほとんどがドラゴンの餌食になっているからだろう。
「ずっと探しているんですが、手掛かりすらなく」
「そうなんだ……会ってどうするの?」
「どうでしょう。会ってみないことには……仲良くなれるとは思いませんけど、俺が興味を持てる唯一の生物なので、死ぬ前に見ておきたい」
ほとんど伝説のような存在を追い求めるなんて、意外とロマンチストなのだろうか。それとも、腕試しのために最強に挑戦したいのか。どちらにしろ、変わっている。
フレインが、ふと何かに気づいたようにミシュラを見た。
「毒蛇の怪物……蛇も、ドラゴンのようなものですよね」
「え? 全然違うと思うけど?」
「神話時代の怪物なら、言葉が通じたりしないでしょうか。ドラゴンについて何か知っているかも」
なんだか嫌な予感がしてきた。いや、ミシュラにとっては望むところかもしれない。
「ここで君に出会ったのも何かの縁。一度封印を見て――」
フレインの言葉を遮るように、一羽の鷹がミシュラのもとに舞い降りた。
ルナーグ家で飼育している魔鳥だった。緊急の連絡の時に飛ばす最速の子だ。脚についていた手紙を取り、ミシュラは目を見張った。
全身から血の気が引く。
「なんで……」
それは「ルナーグの領地に奇色化した魔物が現れた」という最悪の報せだった。