13 世界で一番
「お、お嬢様、今日はどちらまで?」
「そんなに遠くまで行かないよ。ただの飛行訓練だから」
どこか怯える様子の厩舎番ににこやかに答え、ミシュラは飛獣に跨った。
黒豹に翼の生えたその飛獣は、ササ村での魔物討伐の後、父に買い与えてもらった。魔法調教師によって、人に慣らされた魔物である。
「クシィ。よしよし、今日もよろしくね」
クシィと名付けた飛獣はミシュラの意を汲んで飛び立つ。冷たい風を頬に受けながら、領地を一周する。
――だいぶ慣れてきたな。
手綱や脚の動きで、方向転換も速度調整もこなせるようになってきた。
前回の人生では飛獣に一人で乗ったことはなかった。こうして飛獣と一体となって、自由に空を飛ぶ楽しさを知らずにいたのはもったいなかったと思う。
上から見る限り、領内に異常はない。
辺境の地、すなわち国境に位置する領地ではあるのだが、毒蛇の怪物の封印のおかげで、森の向こうの隣国からの侵略される可能性はなかった。ルナーグ家が滅んで得をする者は誰もいないのだ。
ミシュラは地上に戻った。
相変わらずぎこちない厩舎番にクシィを託す。屋敷への帰り道、すれ違う私兵団の面々も、どこかよそよそしい。以前ならば、もう少し気安く声をかけてくれたのだが。
――仕方ないか。
ササ村での魔物討伐以来、周囲のミシュラへの対応が少し変わった。
特に、討伐部隊に参加していた面々には怖がられている。
『やっぱりお嬢様は普通の人間じゃない』
『そもそも人間なのか……?』
そんな会話が漏れ聞こえてきたこともある。
魔法銀の心臓で動く人形。平然と魔物を屠る魔法兵器。人の心を理解しているのか疑わしい未知の生物――彼らには不気味な存在だと思われてしまったようだ。
「あ! お嬢様! お疲れ様でーす!」
一方で、一部の人間には熱烈に慕われるようにもなった。
圧倒的な強さは、人によっては魅力として受け取られる。強者に仕えることに喜びを感じる者もいるのだ。
その“熱狂”を巻き戻し前に利用しているだけに、素直に喜べない。あまり良い結果は残らなかった。
十歳の貴族令嬢が猿の大型魔物二体を瞬殺、というのは自分でもやり過ぎたと思う。しかし、ルギとロアートを背にしている以上、わざと苦戦するように立ち回って、もしものことがあったら困る。
それに、自分の実力を周囲に正しく認識してもらった方がありがたい。「魔狩人になりたい」という無茶な願いを「才能がない」という理由で諦めさせられることはなくなったのだ。
父は言った。
『僕はミシュラに危険なことをしてほしくない。きみにもしものことがあったら、悲しくて死んでしまうだろう。それでも、どうしても魔狩人になりたいというのなら、強くは止めないよ』
母は言った。
『好きになさい。ただし、どのような道に進んでも、誇り高く生きると約束して。誰にも見下されないように』
大きな心配をかけてしまっているのを申し訳なく思いつつも、ミシュラの意志を尊重してくれる両親に深く感謝した。
「ハンナ、ルギちゃんはどこ?」
「今は、ロアート様のレッスンを見学されてますよ」
「そう……」
ロアートは正式に母にピアノを習い始めた。
ミシュラの強さを見て触発されたのは明らかだったが、「別に、ただの暇つぶしだ」と素直に認めなかった。可愛くない。
母のレッスンは想像以上に厳しく、暇つぶしというレベルではないらしい。しかしロアートは文句も弱音も吐かずに、むしろ嬉々としてピアノに向かっている。母のことを「先生」と呼ぶようになり、それなりに慕っているようだった。
また、楽曲の意図を理解するために、本を読むようにもなった。そのための読み書きや歴史の勉強だって頑張っている。
彼はとんでもない音楽バカだったようだ。
ロアートの変化に、ジオとミレイヤは好意的だった。
もちろんミシュラも好ましく思っている。
……思っているのだが、少しだけ面白くない。
可愛がっていたルギがロアートのピアノに心を奪われ、彼にも懐いてしまったからだ。
ルギは今日のようによくロアートのレッスンを見学している。
最初はロアートも嫌がったが、目を輝かせて自分の演奏を褒めてくれるルギに絆されてしまったらしい。
ちなみにミシュラの見学は却下された。差別である。
ロアートとルギが並んで食事をしているのを見た時は目を疑った。ロアートが声を上げて笑っていたのだ。あんなに楽しそうな義兄は初めて見た。
今ではミシュラよりも本物のきょうだいのようで、少し悔しい。
――まぁ、良いことだよね。
男同士、気兼ねなく仲良くできているのなら何よりだ。
別にミシュラとルギの仲が悪くなったわけではない。
相変わらず町には一緒に出かけるし、ミシュラの鍛錬にも付き合ってくれる。
ただ、体力づくりには意欲的でも、剣や攻撃魔法の練習になるとルギは途端に尻込みする。魔物討伐を直に見て、怖くなってしまったのかもしれない。
かろうじて弓には興味を持てたらしく、たまにレムナンドを交えて練習している。しかしそれも、動物や鳥相手に射ることはできず、的当てしかできていない。
――ルギちゃんは優しい性格だもん。無理に戦うことないか。
もう十分役に立っている。
ルギのおかげで巻き戻し前の世界よりも屋敷の雰囲気が良い。
ロアートは相変わらずミシュラにはきつい態度を取るが、それでも前回の人生よりも向けられる感情が柔らかくなっている気がする。兄と呼んでも怒られなくなったし、喧嘩にならずに会話できるようになってきた。
大人たちとは違って、ロアートはミシュラをむやみやたらに怖がったりしないのだ。それが何よりの救いだった。
ミシュラが過去に戻ってきてから、十か月以上が過ぎた。
十一歳の誕生日、ルナーグ家の屋敷ではパーティーが催された。
新しいドレスを着て、両親にプレゼントをもらい、使用人や私兵団の面々、町の重役たちにお祝いされる。今日だけは鍛錬もお休みである。
メリク公爵家からもたくさんプレゼントが届いていた。メッセージカードを読むのが楽しみだ。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます!」
「ありがとう、メイサ。あ、飲み物はいいから、座っていて」
嫁いだメイサもケーキを焼いてお祝いに来てくれていた。
お腹は目立つくらいに大きくなっており、出産予定日もそう遠くない。
巻き戻し前の人生と同じだ。これで産まれた子どもに「レイ」と名付けられれば、レムナンドもミシュラの話を完全に信じるだろう。
ちなみにレムナンドには、パーティーの前にお祝いをしてもらった。
お互いの本性を見せ合ったことですっかり淡白な関係になっているが、両親の手前、例年通り和やかに祝福してもらった。笑いをこらえるのが大変だった。
プレゼントにもらったレムナンド特製のジャムを紅茶に溶かして楽しむ。
――王都では、今頃リリトゥナ姫の誕生日を盛大に祝ってるんだろうなぁ。
王都だけではなく、王国中でリリトゥナの誕生日を祝して大騒ぎしているに違いない。王国に住む者で、今日この日に彼女の名前を全く口に出さないのは、この屋敷の人間くらいだ。
ミシュラは来年の十二歳の誕生日のことを思い、少しだけ憂鬱になった。しかしまだ先のことだと無理矢理頭の隅に追いやる。今年の誕生日を楽しまないと損だ。
「あれ、そう言えばルギちゃんは? ロアート兄さんもいないけど……」
今日は朝から準備で忙しく、二人の姿をまだ見ていない。
「ふふ、もうそろそろいらっしゃると思いますよ」
ハンナとメイサが意味深に目を細めているのが気になった。
その言葉通り、間もなく広間の扉が開いた。顔を覗かせたのはルギとロアートである。ぎこちなく入場してくる姿に、大人たちが微笑ましそうにしている。
ミシュラは息をのんだ。二人とも正装をしていて、髪型まできちんとセットしている。普段とは全然雰囲気が違う。
「ミシュラ、誕生日おめでとう。すごく綺麗だ」
ルギが真っ直ぐミシュラのところに来て、跪くようにして花束を差し出した。
美しく整った顔立ちと白い礼服姿、丁寧な所作は物語の王子様のようだった。花自体は森の奥で摘んできた野花の寄せ集めのようだが、そんなことはどうでもいい。
「ありがとう……」
花束を受け取りながら、思わず見惚れてしまう。
一体どういうことかと周囲を見ると、侍女たちが胸を張っている。美少年を飾り付けるのはさぞ楽しかったのだろう。ミシュラは自分も参加したかったと謎の悔しさを味わった。
「すごく素敵だね。服まで仕立てたの?」
「ううん。ロアートが着られなくなったやつくれた」
少し離れた場所にロアートが顔を赤くして立っている。
「ふんっ、俺よりルギの方が似合うからな」
それはそう、という言葉をミシュラはかろうじて飲み込む。
「兄さんも、カッコイイよ。来てくれてありがとう」
「う。その……おめでとう」
巻き戻し前の人生では、ロアートは一度だって誕生日を祝ってくれたことはなかった。ルナーグ家の催しに顔を出したことすらないはずだ。
嬉しい。嬉しくないわけがない。
「ロアート。準備ができましたよ」
ミレイヤがロアートを呼びに来た。
見れば、会場の隅のピアノにスポットライトが当たっている。
「え、もしかして私のために弾いてくれるの?」
「お、俺の発案じゃねぇ! こいつが、そうしろって」
ルギがはにかみながら頷いた。
「うん。ロアートがプレゼントを迷っていたから、ミシュラの喜ぶものを一緒に考えて――」
「あー! いいから行くぞ!」
ロアートはルギの口を塞いでピアノの方に引きずっていった。
「え? ルギちゃんも?」
会場の視線が二人に集まる。誰も彼も温かい笑顔を浮かべていた。
「ここ最近、ずっと二人で練習していたのよ」
母も珍しく微笑んでいる。ミシュラは固唾を飲んで二人を見守った。
ロアートは固い表情で鍵盤の前に座り、ルギはその傍らに所在なさげに立つ。
やがて、ロアートが演奏を始めた。
意外なほど優しくて繊細なタッチから、ドラマチックに曲が展開していく。数か月前とは別人のように両手の指が滑らかに鍵盤を踊っている。
「――――」
ルギが躊躇いがちに口を開き、耳心地の良い美声で歌い始めた。
誰もが知っている曲だった。
天上の神々が大地の生命を慈しみ、愛を育む祝福の歌だ。
温かく透明感のある音を広間に響かせるロアート。
恥ずかしそうにしながらも明朗と歌い上げるルギ。
聞いていると胸が熱くなって、言葉にならない何かが喉の奥に込み上げてきた。
二番からはパーティーの参加者全員が歌ってくれた。ロアートとルギも楽しそうに体を揺らしている。
自分を怖がっていると思っていた面々まで微笑みかけてくれるので、ミシュラも目の端の涙を拭い、笑顔を返す。
――愛されてる。みんな、優しい……。
最後の一音が消えるのを惜しみながら、花束を抱きしめた。
一度は失ってしまった居場所が、さらに価値を増してミシュラの胸を占める。夢のようなひと時だった。
「ありがとう。私は今、世界で一番幸せだよ」