12 ロアートの希望
※残酷な描写があります。苦手な方はご注意下さい。
ロアートにとって、何より大切なのは家族だった。
ルナーグ家ではない。元の血の繋がった家族だ。
ムンナリア王国の南部に位置する小さな町が、ロアートの故郷である。
お世辞にも裕福とは言えない家庭で、両親と四つ年下の妹とともに慎ましく暮らしていた。
退屈な生活だったが、八歳の時に運命の出会いがあった。
町に有名なピアニストがやってきて、広場で無料の演奏会をしてくれたのだ。
その音色がロアートの魂を激しく揺さぶった。澄み切った音に情感豊かな旋律。心臓が熱くなって、全身が痺れていく。
そんな感覚は初めてだった。
その日からロアートは、ピアノと音楽の虜になった。
小さなその町には、庶民が自由に触れられるピアノはなかった。酒場の片隅にある古いピアノに目をつけて、店を手伝う代わりに少しだけ触らせてもらった。耳の良いロアートはすぐに音階を覚えて、知っている曲を片手で弾けるようになった。
酒場の音楽家に「才能がある」と褒められ、父にも嬉々として報告した。
「ロアート……目立つことはやめなさい」
喜んではくれず、むしろ叱られてしまった。
「でも、俺、ピアニストになりたい」
「馬鹿なことを言うな。そんな夢、見ちゃいけない」
ロアートは音楽の道に進むことを許されなかった。
父はいつも人目を気にしていた。
たとえ臨時収入があっても羽目を外すことはなく、いつも食卓は質素で身なりも地味。道の端を俯いて歩いていた。
ロアートの魔力が平均より高いことが分かっても、魔法教育を受けさせようとはしなかった。他の家ならば、熱心に子どもの才能を伸ばして魔法学校に入学させようとするだろうに。
聞けば、もともと住んでいた土地ではなく、世代ごとに転々と移住しているそうだ。
何かやましいことがあるのではないかと薄々思っていたが、ロアートがその理由を知ったのは十二歳の誕生日を迎える直前のことだった。
東部の辺境伯のルナーグ家から使者がやってきた。
田舎町の子どもでも知っている、有名な家だ。
毒蛇の怪物を封じる王国の守護者。醜い容姿の呪われた一族。
そして驚くべき話を聞かされた。
ロアートの曽祖父は、ルナーグ家の嫡子だった。しかし怪物の鎮め役を受け継ぐのを拒絶し、出奔したのだ。
まさか自分に貴族の血が流れているなんて思いもしなかった。
使者は有無を言わさず、ロアートと妹の魔力を鑑定した。ロアートの方が毒への耐性が強いことを確認すると、大金を提示して養子になるように迫った。
今のルナーグ家には鎮めの役を継げる子どもがいないのだという。
鎮めの役は、毒蛇の怪物の持つ瘴気を外界に出さないための魔法障壁のようなものだ。心身ともに猛毒に侵されるために、容姿は醜くなり、寿命も短くなってしまう。
要するに、ルナーグ家はロアートに過酷な役目を押し付けようとしているのだ。
「彼にしかできない役目です。お辛いでしょうが、どうか……ルナーグへ」
使者に対して、両親は「息子を生贄に差し出すことはできない!」と毅然とした態度で追い返した。使者が去った後、ロアートは貴族に反抗して大丈夫か不安になった。
「親父、俺……」
「行かなくていい。こんなことは馬鹿げている!」
しかし使者は諦めず、連日家を訪ねてきた。近所で噂されるようになり、どんどん住み心地が悪くなっていく。
ある日、妹が急に熱を出した。変わっていく日常に不安を感じ取ったのだろう。
父は医者を呼びに行き、母は泣きじゃくる妹に付きっきり。
せめて家の仕事を手伝おうと一人で水汲みに行ったロアートは、そこで使者に声をかけられた。
「決して辛いことばかりではない。役目を継ぐこと以外は、なんでもきみの自由にしていい。ご家族も、今よりずっと良い暮らしができるようになる。もう日陰を歩く必要はないんだ」
使者の言葉は甘い誘惑に満ちていた。
自分一人が犠牲になれば、家族は幸せになれる。命惜しさに逃げ出した曽祖父の汚名を返上することができる。顔も名前も知らない誰かの暮らしを守る英雄になれる。
国王だってルナーグ家には敬意を払って接しているのだ。その一員になって貴族になれば、なんだってできる。それこそ好きなだけピアノを弾くことも。
このまま狭い町で好きなこともできず退屈に生きるより、ずっと刺激的で楽しい毎日を送れるだろう。
何より、心苦しいのだ。
逃げたと思われるのも、自分が果たさない辛い役目を他の誰かに肩代わりさせることも。
「親父、俺なら平気だよ。だから、みんなで――」
一緒にルナーグへ行こう。
そう言いかけたロアートの頬を父は叩いた。
「そんな恥を晒すような真似ができるか! 行くなら一人で行け!」
殴られたことへのショックと、分からず屋な父へ反発心から激しい口論に発展し、勢いのままロアートはルナーグ家の養子になっていた。ルナーグ家から提示された大金を父が受け取ったのかは知らない。
冷静になって考えれば分かる。
息子の命を差し出して、裕福な暮らしを手に入れた。世間からそのような目で見られることが、父には耐えられなかったのだろう。
故郷の町から遠ざかるにつれて、猛烈な後悔の念に襲われる。
しかしロアートはもう、引き返せなかった。
ルナーグ家で新しい父と母に対面した時、どれほどの絶望に襲われたか。
養父ジオの醜い容姿。養母ミレイヤの気品のある美貌。
未来の自分の姿と、決して自分が馴染むことができない高貴な姿を見せつけられて、完全に心が挫けてしまった。
豪華な食事は味がせず、上品で清潔な服に袖を通すのが恥ずかしくて仕方がなかった。用意された自分の部屋も、知らない香りがして息がつまる。
養父母は気を遣ってくれた。悪い人ではないのは分かるが、永遠に打ち解けられる気はしない。
家族が恋しい。家に帰りたい。……逃げ出したい。
「これからよろしくね、ロアート兄さん」
人懐っこい義理の妹の笑顔が心底憎らしかった。
ミシュラ・ルナーグに兄と呼ばれるたびに、心がささくれ立つ。
――お前は俺の妹じゃない!
その可憐な容姿は毒で損なわれることはなく、両親にも使用人にも愛され、何をしても許される。彼女は自由で眩しかった。
そして、無神経で能天気だった。代わりに生贄になる自分を嘲笑っているとしか思えない。
ロアートは家に残してきた本当の妹を思い出していた。
人見知りが激しく、臆病で鈍臭い。ロアートの頬の傷は、妹が幼い頃に野良犬に襲われそうになったところを助けたときに負ったものだ。
その傷を見る度に申し訳なさそうにする心優しい妹。
――毒への耐性が強いのが、あいつじゃなくて良かった……。
自分が逃げたら妹にもしわ寄せが行くかもしれない。ロアートはその一心で、なんとか踏ん張った。
さりとて屋敷でじっとしているのは耐えられなかった。勉強もしたくない。あと十年もしたら人前に出られないような容姿になるのに、貴族の嫡男としての教養を身に付けて何になる。
ロアートはルナリアの町を出歩き、宿屋や教会の小部屋に泊るようになった。町の人間もその境遇を察してか、特に干渉してこない。気持ちの悪い町だった。腐っても領主であるルナーグ家の人間だからか、同年代の子どもも近寄ってこない。
ただ、この町の教会には自由に触れるピアノがある。それだけは嬉しい。
人のいない時に忍び込んで、こっそりと演奏した。下手くそだから、誰にも聞かせたくない。
ピアノに夢中になっている間は、嫌なことを全て忘れられた。
寂しさも後悔も恐怖も頭から追いやり、希望だけを音色に込めて楽しむ。その瞬間だけ、ロアートは幸せを感じられた。
もっと上手くなりたい。いろいろな曲を弾けるようになりたい。自分の思う通りに音楽で世界を創造したい。
……欲求は強くなるばかりだった。
しかし、ピアノが上達しても仕方がないと分かっていた。
ロアートはジオの指が醜く爛れ、些細なことで血を滲ませているのを知っていた。
十年後、鎮めの役を引き継いだ時、鍵盤を血で汚して激しく絶望するのは嫌だった。
だからピアノの音に集中して心を慰めるだけでいい。下手なままでいい。どうせ誰も聞いてはいないのだから。
今だけの孤独な幸せでも、いい。
「すごい……!」
だから、その下手くそな演奏に目を輝かせる少年と出会った時、ロアートはどうしたら良いのか分からなくなった。
最近ミシュラが旅先で保護したルギという謎の少年は、ロアートがこれまで出会った誰よりも純粋無垢だった。ミシュラと同じ年頃なのに、生まれたての子どものような清らかさがある。
――お世辞じゃねぇのか……?
だとしたら、理解できない。
しかし、ミシュラまでもがロアートの才能を認め、ピアノを習うように勧めてきた。
上手くなりたいという衝動と、未来に夢を見るなという理性がせめぎ合って、吐きそうになる。
そんなロアートの葛藤を見透かしたようにミシュラは言った。
「大丈夫だよ。兄さんは、生贄にならなくていい。十年後も五十年後も、好きなだけピアノを弾いていられるよ」
思いもよらない言葉に、息を呑んだ。
「だって、私が毒蛇の怪物を倒すから」
あり得ない、不可能だ。十歳の小娘がただ自分の願望を述べているだけで、信じる価値のない戯言でしかない。
そう思いつつも、ロアートは頭を殴られたような気分だった。
そうだ、怪物さえ退治できれば、自分は助かる。未来に夢を見られる。
耐えるか逃げるか、その二つ以外の選択肢を考えたこともなかった。
ミシュラの言葉は信じられない。ただ、無視することはできなかった。
少なくても彼女がどれくらい本気なのか知りたいと思った。
だから、ミシュラの強さを証明するための魔物討伐へ同行することを決めた。
やっと跡取りとしての覚悟が決まったらしい、と周囲がロアートにあらぬ期待を寄せているが、知ったことではなかった。
ササ村に到着し、村人たちの太鼓の演奏で士気を挙げてから森へ送り出される。音楽の力は偉大だが、今のロアートはほんの少し勇気をもらえただけだった。
魔物は恐ろしい。
故郷の町の周囲の街道で、魔物に襲われて亡くなった者が何人もいた。町に運ばれてきた魔物の亡骸を見たことだってある。
巨大な体に鋭い牙や爪、その上魔法を使うのだ。普通の人間が敵うはずがない。
不気味な雰囲気の森を、護衛の兵士に囲まれながら歩く。いつ魔物が飛び出てくるのか分からず、ロアートは常に奥歯を食いしばっていた。
「ルギちゃん怖いの? ねぇ、兄さん、手を繋いであげてくれない?」
「は?」
「お願いね」
青い顔をして身を縮こまらせているルギを見て、ロアートはミシュラのお願いを突っぱねることができなかった。何より、自分自身も心細い。
舌打ちをしながら、ルギの手を引いた。
少し前を歩くミシュラの足取りは軽い。まるで散歩をしているかのような緊張感のなさに、周囲の兵士が苦笑を浮かべている。
聞くところによれば、彼女は一人で魔物を討伐したことがあるらしい。しかしそれは森の奥で大人しく暮らす臆病な魔物で、今回のように人里に近づいてくる大型の魔物ではない。きっとこれから出会うのは好戦的な種だ。
ロアートは、忌々しく思いながらも少しだけ心配した。この世間知らずのお嬢様は、魔物を甘く見て怪我をするのではないのかと。
「――兄さん。兄さんったら! 大丈夫?」
水滴が、否、血が滴る音がした。
振り返ったミシュラの美しい頬が赤く染まっている。
ロアートは地面に尻もちをつき、息をするのも忘れていた。今も、目の前の光景が信じられない。
巨大な猿の魔物が三体、血だまりの地面に横たわっている。
一体は剣や槍に全身を貫かれている。これは討伐部隊が連携して仕留めたものだ。
残りの二体の死骸には頭がなかった。
一体は首を切断され、横に驚愕の表情を浮かべる生首が転がっている。もう一体は首から上が潰され、骨や脳漿が飛び散っていた。
しかし、魔物の体そのものは綺麗な状態だ。素材を高値で売るために、魔狩人は魔物の命を綺麗に刈り取ると聞いたことがある。まさにお手本のような仕留め方と言える。
ロアートは現実を受け入れられず、混乱に陥っていた。
この二体の魔物を、ミシュラはいとも容易く討伐した。たった一人で、ほとんど同時に。
「兄さんもルギちゃんも、怪我はないよね? 他のみんなはー?」
返事をする者はいなかった。
案内役の村人も私兵団のメンバーも、ミシュラを見て凍りついている。
「大丈夫そうだね。良かった」
ただ一人、ミシュラだけが返り血に濡れて微笑む。
場違いな無邪気さで。
――化け物……。
おぞましい。気持ち悪い。魔物よりもずっと、恐ろしい生き物が目の前にいる。
そんな嫌悪感とは裏腹に、目が釘付けになっていた。心臓が高鳴っている。
もしかしたら、本当に、彼女ならば。
「ふふ、私、結構強いでしょ?」
目の前にいる血塗れの義妹は、ロアートにとって希望だった。