1 悪魔と殺戮人形
よろしくお願いいたします。
「あーあ、世界滅ぼしちゃった……」
一人の女が歪な塔から大地を一望していた。
地平線まで葉脈のように広がる紫の炎。なんて美しく残酷な景色だろう。女はどこか他人事のようにそう思う。
大地の命脈は毒に侵された。水源から病を発生するため、今後百年健やかな緑が芽吹くことはない。そして立ち上る煙は長く太陽を覆い隠し、熱と希望を奪うだろう。
次の冬を越えられる人間はいない。その他の生命も大幅に種を減らすに違いなかった。吸血鬼ならばあるいは生き延びられたかもしれないが、餌がなくなればそれらも絶えていくしかない。
この滅びを与えた女の名は、ミシュラ・ルナーグ――ムンナリア王国の東部辺境伯の娘である。
人々は彼女のことを“魔法銀の悪魔”と呼び、忌み嫌った。
ミシュラは生まれ落ちた瞬間から、過酷な人生を歩むことを運命づけられていた。
何度も何度も殺されかけて、あるいは死を望まれて、それでも生き続けて復讐を果たした結果、いつの間にか世界が壊れてしまった。
どうあってもお前は生きてはいけないのだと、大いなる存在に諭されている気がして、ミシュラは星も見えない夜に向かって微笑んだ。
「私はリリトゥナ姫に勝ったのかな。それとも、引き分け?」
もうどちらでもいい。
独り言が虚しく響き、寒々しい空気にそっと腕をさすった。
ミシュラには敬愛する家族と大切な仲間がいたが、全て喪ってしまった。
今は一人、この心臓が自然に止まるのを待っていた。仲間たちは自分を生かすために死んでいったのだ。軽率に命を絶つような真似は許されない気がした。
無茶な戦い方をしてきた影響でだいぶ寿命は削れている。それでも、死ぬにはまだまだ時間がかかりそうで嫌気が差し始めていた。
寂しくてどうにかなってしまいそう。
――誰でもいい。私の孤独を慰めて。
こんな自分勝手な願いを聞き届ける神はいない……はずだった。
塔の中を反響する足音に、顔を上げる。螺旋状の階段を上ってくる者がいる。
ミシュラの心臓は恋する乙女のように弾んだ。
懐かしい顔たちが脳裏をよぎり、気分が高揚する。
もしかしたら戦わずに離れていった知人の誰かが会いに来てくれたのかもしれない。たとえ自分を殺しに来たのだとしても、もう一度彼らに会えるなら嬉しいと思える。
薄暗かった室内に魔法の照明を灯し、出迎えの準備をした。
「…………」
足音が最上階に辿り着いたとき、ミシュラはあからさまに落胆した。
全身黒づくめの奇妙な男だった。真っ黒のローブを纏い、やたらぎらついた大剣を握っている。
顔は、ない。皮膚も髪も真っ黒で、目の部分は黒い布で覆われていた。
かろうじて身長と体格で男だと分かるが、それ以外は年齢も種族も不明。生きているのか死んでいるのかすら判断できないほど、異様な気配を持つ男だった。
対面しているだけで気分が悪くなる。
――ああ、私、今からこの男に殺されるんだ。
なんて禍々しく膨大な魔力だろう。奇色化した魔物よりずっと恐ろしい。一対一では絶対に勝てないのだと本能的に理解できた。
自分を殺す忌々しい存在に対して怒りは湧かず、それどころか少しだけ親近感を覚えた。返事がないと分かっていても、つい話しかけてしまうくらいには。
「あなたは誰に造られたの?」
怨嗟と憎悪を極限まで詰め込んだ呪術兵器。これを造り上げるために何人の高位魔法士が命を捧げたのか。
これだけの呪いの力を詰め込んでなお、自壊せずに人の形を保っているのが意味不明だった。器となった人間は由緒正しい血統の王族か、高名な聖騎士かもしれない。
一体どこの誰だか知らないけど、可哀想に。
もう元の姿には戻れない。自由意思を持つこともできず、死んで楽になることも難しい。壊すものがなくなるまで殺戮を続ける化け物に成り果てている。
「私を殺すために、ここまでするんだね。今更、馬鹿みたい」
長い銀髪を掻き上げて、ミシュラは呆れ果てて笑った。諸悪の根源たる自分を殺したところで、もはや世界の破滅は避けられないというのに。
そして、殺戮人形ににこやかに語りかける。
「呪いのお人形さん。とっても可哀想だから、勝機がなくても真面目に戦ってあげるね。呆気なく死ぬのは仲間たちに申し訳がないし」
胸の、心臓の上を人差し指でなぞって、魔法を発動させる。
宙に現れた無数の銀の弾丸が、部屋中を縦横無尽に駆けた。
殺戮人形は怯みも避けもせず、反撃のために向かってくる。弾丸が体を貫いてもものともしない。黒い靄があっという間にその体を修復していく。
「あははっ!」
振りかざされる大剣を避けて、ミシュラは弾丸を操りながらステップを踏む。肺一杯に空気を吸い込んで、踊るように攻撃をかわして、二人は命の削り合いをしていった。
ミシュラの心臓は特別製。
そして長年の戦いの経験で敵の動きは手に取るように分かる。相手はただの人形だから力とスピードだけで、技術はない。
戦いは長引き、たっぷりと走馬灯を見ることができた。
――パパ、ママ。ムンナリア王家は滅ぼしたよ。でも、幸せになれなくてごめんなさい。
優しかった父と、誰よりも気高かった母。こんな自分を心から愛し、最後の最後まで守ろうとしてくれた。
二人の死に対する復讐は果たせたが、二人の望む通りの生き方はできなかった。
それと、
『いつか絶対に後悔する。もうやめろ、ミシュラ!』
よりにもよって最期に思い出したのは、自分を毛嫌いしていた義兄の言葉だった。
愕然として、ミシュラは足を止める。殺戮人形は驚きもせず距離を詰めてくるが、反応できなかった。
「あなたの言う通りだったね、ロアート兄さん……」
急速に全てのことがどうでも良くなって、ミシュラは振り下ろされる刃をただ眺めていた。
はっきりと自覚してしまった。
ミシュラは強く後悔していた。
世界を滅ぼしてしまったことを。
家族と仲間を守れず、自分を含めて誰も幸せにできなかったことを。
――私は間違えた。何にも勝ってない。こんなにも後悔している時点でただの敗者だ!
大剣がミシュラの体を裂く。
おびただしい量の赤い血が散って、燃えるような痛みが全身に走った。
死を確信して崩れ落ちる。
心臓の鼓動が止むまでの僅かな時間、それは起こった。
「ぐああああああ!」
まず、返り血を浴びた殺戮人形が頭を抱えて叫び出した。途轍もないほどの魔力が放出され、空間そのものが焼き切れてしまいそうだった。実際、なんらかの“奇跡”を起こしたのだろう。
「?」
いつの間にか、真っ暗な空間にいた。倒れ伏すミシュラと殺戮人形の目の前に、一点の光がぼんやりと漂っている。
痛みは消え、体が妙に軽かった。精神も落ち着いている。ただ、難しいことは何も考えられない。
【――やり直したくはないか、その後悔に塗れた人生を】
頭の中に響いてくる神秘的な声。
朦朧とする意識の中で、ミシュラは間髪入れずに答えた。
「やり直したい。今度は、ちゃんと……!」
もっと強く、もっと賢く。
どんな苦難に晒されても、躊躇わずに大切な人たちを守ってみせる。
壊すのは簡単だった。けど、今度は全てを守って、みんなと一緒に幸せになりたい。
それが嘘偽りのないミシュラの願いだった。
光の中で誰かが嗤った気がした。
【いいだろう。ならば、やり直しの機会を与えてやる】
光がまばゆく輝き、空間を白く染め上げていった。
【ああ、可哀想に! 神に祝福されることなく生まれ落ちた歪な魂よ。私が憐れみ、たった一度だけの奇跡を授けよう。なに、問題はない。天上の神も、この最悪の結末を憂いているだろうから】
地面が消えて、世界が、時間が巻き戻っていく。
遠ざかる意識の中、「あなたは誰」とミシュラは心の中で問いかけた。
答えが返ってくることはなかった。代わりに聞こえたのは――。
【守り、崇めよ】