サンと山の神
その子どもが現れたのは夏のことである。
男はその日も山に入り、その地に住まう神に祈りを捧げていた。
彼は農耕を行うことによって生計を立てていた。
その合間を縫って、猟や川での漁、山菜収穫などを行う。
生活はすべて山に支えられていた。
だからこそ、山に感謝するのは当然のことだ、というのが彼の持論だった。
酒や供物を山に捧げ、祈りを終えてから、男は山を降りだした。
夕闇が迫ってきている。
そうして足を動かしながら、ふと、子どものことを考えた。
妻と結婚して、二年が経っていた。
夫婦の営みを行っていないわけではない。
だが、妻には妊娠する気配がない。
別段急がずとも構わない。
人生はまだ長いのだから。
しかし、だからといって、時が止まるわけではない。
若くして子どもを生んだ友人が、子を連れて遊びに来た時など、羨みの心があるのを男には否定できない。
「彼ら幼子の笑顔といったら……」
その子を見つけたのは、男がそうつぶやいてすぐのことである。
土手を越えた林の中に、少年が立っているのを見つけた。
光を失いつつある山中のことである。
男は慌てて子どもへ近づいた。
「ぼうや、どうしたんだい」
子どもは答えなかった。
ただ男をじっと見た。
「お父さんと一緒だったのか? それともお母さん?」
子どもは何もいわず、ただ、首を降った。
男は困り果てた。
はて、どうしたものか。
もっていたお菓子をやると子どもは喜んで食べたが、自分の身の上については何も語らなかった。
いや、この子は何も知らないのだ。
無邪気というより、どこか抜けてさえいるその笑顔を見ながら、男はそう考えていた。
夕闇は近づいている。
あたりにいるかもしれないこの子の親へ向けて、男は何度も大声をあげた。
しかし反応はなかった。
捨て置いていくわけにもいくまい。
子どもの手をとり、男は山を下りた。
※※※
家へ連れてきた最初のうちは、妻もあまりいい顔をしなかった。
だが、数日暮らすうち、子どもの無邪気な笑顔に心を奪われた。
「いつまでもうちにいていいんだからね」
そんなことまで口にするようになっていた。
子どもの親は、結局見つからなかった。
最悪の可能性を考慮し、明るくなってから男は何度も山へ戻った。
谷や沢に落ちている可能性だってあったが、それらしいものは見つからなかった。
男の村にも、行方不明になった子どもは居ないそうだった。
どこへ連れて行くわけにも行かず、さりとて役人に引き渡す気も起きず、男はずるずると子どもと生活を共にした。
相変わらず会話らしい会話も出来ない子であったが、行動からは優しさが伝わってきた。
それに、一度言い含めれば言いつけを破ることはない。
言葉を発さないだけで、決して頭が悪いわけではなさそうだ。
無口だが、こんな子どもだって、いたって構わないだろう。
よく男は、家の裏山に入り子どもと二人で遊んでいた。
やがて男は彼のことを自らの子と思うようになった。
出会って二ヶ月、彼は子どもにサンと名前をつけた。
※※※
サンとの生活が急に終わりを告げたのは、それから一月も経たないある日のことだった。
男に、隣町から友人がやってきた。
男は、もらいっ子だが子どもを育てている、そんな話をしながらサンをみせた。
友人は喜び、サンを抱き上げたが、その前に一瞬見せた訝しげな顔を男は見逃さなかった。
そういう顔は滅多にしない友人なのだ。
その日の夜のこと、サンが寝付いた後に男は友人に聞いてみた。
「さっきの、どういうことだい」
「さっきのって?」
「あの子を見たときのお前の顔だよ。あの子の身の上は特殊だ。お前、何か知っているんじゃないのか」
友人はすぐには答えなかった。
夕方から突如としてひどい雨が降っていた。
やがて出て来た友人の声を掻き消すかのような雨音だった。
「あの子がどういう子なのか、俺は知らん。知っているのは……おい、あんた、あの子は早く放り出した方がいい。悪いことはいわねえから」
「どうして」
「あの子は俺たちの町にもいたことがある。あんたと同じ様な気のいい人が育てだしたんだ。だけどな、そのせいで、その人は家を失っちまった」
「どういうことだ?」
「そのままの意味さ。あの子が家に火をつけたのさ。家財道具は無事だったが、家は燃えちまって何も残っていない。本当さ」
※※※
男は絶句した。
そのとき、パチパチ、と火がはぜるような男がどこかから聞こえてきた。
やがて、サンと眠っていたはずの妻の叫びが聞こえた。
男と友人は自室を出た。
するとそこへ妻が転げるようにして現れた。
「あなた、サンがいつのまにか火をいじっていて……」
「どうしてちゃんと見てなかった、馬鹿!」
「いいや、奥さんのせいじゃないよ。あの子はそうなんだ。そういう癖がついているんだ。……あの火を消し止めるのはもう無理だ。早く、大事なものだけでも家の外へ」
「サンは? サンはどうした」
「それが、すぐにどこかへ消えてしまって」
「あの子は大丈夫さ。前もそうだった」
炎はすでに天井に達していた。
火元は台所のようだったから、幸いにして主要な財産まで距離があった。
友人の協力を得て一通り運び出したあと、サンを探したが、やはりその姿はなかった。
外の大雨でずぶぬれになりながら、男はみじめな気分を味わっていた。
あの子を連れてこなければよかったのだろうか。
立ち尽くす男の後ろから、轟音が響いてきた。
その音は家の裏の山の上から聞こえてくるようだった。
※※※
新たな家を作るのは骨が折れたが、それでも、生活が破滅してしまうほどのものではなかった。
サンは結局見つからなかった。
かつて家があった場所に遺体があるのかどうかも、いまとなってはわからない。
焼け跡は、すべて、土砂で埋まっていた。
あの夜のことだ。
自分たちが財産を運び出し家を出てすぐ、裏山で土砂崩れが起こったのだ。
男の家は、火がついたまま、土や砂や木々の破片に飲み込まれた。
中にいたらどう考えても助かっていなかった。
そうだ、火がつかなかったら自分たちは逃げなかった。
サンは、俺たちを助けてくれたんだ。
友人は人がよすぎると笑ったが、男と妻はそう信じていた。
夏を終え、秋になると、男はまた山へと祈りを捧げにいった。
家を破壊されたものの、山は依然として大きな恵みを男に与えていた。
大きな木の根元に、酒と供物、そしてお菓子を置く。
お菓子はサンの分である。
そして、山の神とサンへ祈りを捧げる。
半分はかつてと同様の祈り、半分は供養のつもりだったが、ふと、男は気がついた。
そういえば、あの日サンと出会ったのも、こうして祈りをささげた帰り道のことだった。
もしかすると、山の神とサンとは、同じものだったのかな。
あの無邪気な笑顔は神様にも似ていた。
サンの笑顔を思い出しながら、男は山を降りていった。