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魔法使いの朝は早い。
カーテンが開けっぱなしである故に、決まって鋭い朝日を浴びて目を覚ます。一度目を覚ませば二度寝に落ちることは決してなく、寝間着を着替えて顔を洗い、歯を磨いて髪も整える。そんな当たり前の身支度を整えた後は、およそ正午までぶっ通しで魔法の研究に時間を費やす。
彼が得意とするのはガラスの魔法。ガラスを用いてできることはあらかた再現可能であり、ただのガラスではできないことも、彼の魔法ではできたりする。例えば布のように編んでみたり、馬の形のガラスの像を作って操ってみたりである。
できることが多い分、研究にも多大な時間を要する。本当は今日も、いつも通り朝から晩まで魔法の研究に身を投じようと考えていた。
「これ、グラスハート。ちと時間を寄越せ」
それを妨げたのは彼の師匠だった。
「なんだ、ミス・ベテルギウス。弟子を二つ名で呼ぶなんて……僕それあんまり気に入ってないんだ」
師匠は彼を書庫に呼びつけた。書庫といっても、一般的な小さなやつではなく、王都の図書館ぐらいの巨大な部屋だった。上下左右、見渡す限り本がびっしり詰まっている。下にもあるということは、物凄く散らかっているということでもあるのだが。
何百、何千冊も本を積み上げて作られた小さな丘の上にちょこんと座って、老婆は弟子に話しかける。その手元には、珍しく最新の新聞があった。
「ふむ、嫌いか、グラスハート。良い響きだと思うんじゃがな」
「いや……僕の魔法からもじり過ぎだよ」
「そんなことはどうでもよい。ほれ、これ見よ」
青年は新聞を受け取り、師匠に示された部分に目を通す。
「おお、王子がシンデレラをね! よかった、ちゃんと気に入られてるじゃないか」
そこには王子が妃候補を見つけたこと、その妃候補の女性のパーティでの様子と、王子が直々にその女性の元に赴いたというむねの記事が載っていた。
「いやぁ、初め言われた時はどうなることかと思ったけど、あの美貌なら問題ないか。深くは知らないけど、性格も強かそうだったし。よかったよかった、ちゃんと幸せを勝ち取れそうで……」
青年は気持ちよさそうな笑顔で新聞をめくった。瞬間、青年の顔が大きく歪んだ。
「………………師匠、これはどういうことでしょうか?」
「わしが聞きたい。オマエ、託した仕事はきちんとこなしたんじゃろうな?」
「こ、こなした、はず……なのに……っ、これは……どういうことだぁ!?」
そこにはさっきの記事より大きな見出しで、「シンデレラ見つからず。王子ご乱心」という文字があった。同時に青年もご乱心である。
「オマエ、もっかい行ってこい。んで理由聞いてこい」
「り、理由? なんの」
「王子を振った理由じゃよ」
「お、おおお……王子を振ったぁあ!!?」
思わず声を荒らげる。書庫全体に青年の声が響き渡り、遠くの方で本がバタバタと落ちる音がした。
「ちゃんとマルガレット家を訪ねたにも関わらず、シンデレラは居なかった……こりゃ、シンデレラが敢えて王子の前に姿を現さなかったと考えるほかあるまいな?」
師匠は踏み台にしている本の一冊を手に取って、適当なページを開いた。
「確認してこい。お使いぐらい、ちゃんとこなしてもらわんと困る」
「ぐ……ぐぬぬぬぬ……」
新聞を強く握りしめる青年。苦悶の表情を浮かべながら、低い声で唸っている。
「どうしてだああああ!」
そんな感じの奇声を上げながら、青年は住居にしている城を飛び出して、シンデレラの元に飛んでいくのだった。
※
いつかと同じように、窓辺に体を預けて陽の光を浴びる。
普段なら義母に仕事を押し付けられているはずなのだが、今日はどうしてかそれがない。毎日こなしている雑用すらも今日は必要ないと言われ、事実上ボロ小屋に閉じ込められていた。
「暇ね……」
今にも溶けそうな声で、小さく呟くことを何度も繰り返していた。
「パーティから数日……やることがないわ……手放したとも言えるのだけど……心が……心が死んでしまう……」
チラッと目だけを動かして、空を見る。
「……ん?」
カラスっぽい黒い鳥の集団に混ざって、一際大きな影が浮いていた。
「……あ、あら?」
その影は、次第に大きさを増していった。初めは空中に何か物体があって、それが肥大化してるのかなぁと思ったが、流石にそんなわけはないだろうと考えを改めた。
一度目を擦り、再び空を見上げる。
「……消えた?」
瞬間、目の前に大きな影が落ちた。マントに煽られて風が起きて、立て付けの悪い窓がガタガタと震えていた。
「シンデレラぁ!!」
「ぅわぁあっ!!?」
目の前で叫ばれて、驚きのあまりひっくり返ってしまった。尻餅をついたまま後ずさり、焦りつつも降り立った人物を確認する。
「ま、魔法使いさん!?」
「そうだ、僕だ! ちなみに予定外の訪問だよこれは!」
魔法使いはバッとフードを外して、容赦なく部屋に入り込んでくる。昼間であるから、この前よりもよりはっきりと魔法使いの容貌を確認することができた。
シンデレラは近くに落ちていた布で顔を覆った。
「あ、あの、一体どういった御用で?」
「『どういった御用で?』じゃない! 君、お、おおお……」
「お……?」
魔法使いはわなわなと震えている。シンデレラがゆっくりと布から顔を出した瞬間、魔法使いはシンデレラの顔をグイッと覗き込んで、
「王子を振ったって!?」
そう怒鳴った。それを聞いたシンデレラは急にスン……となって、黙って立ち上がった。
「そう……ですね。プロポーズは、お断りした……ということになります」
「な、なんでだ? あんなに幸せを願ってたのに。なんで手放した?」
「なんでと言われましたら……」
シンデレラは、今度は照れた様子でまた顔を布で隠した。少し吃っていたが、しばらくして。
「……その、新しい願いができまして」
「新しい願い? それは王子との結婚よりも大事なことか?」
「ええ、もちろん……とても大事な……大切な願いです」
シンデレラは頬を赤らめながら顔を出したり隠したりを繰り返している。チラッ、チラッと魔法使いを見ながら、口をモゴモゴしている。
「初め私は、この生活から抜け出すことさえできたら、それでいいと思っていました。それで私は幸せになれると……でも、そうではなくなってしまいました」
布を掲げていた両手をゆっくりと下ろして、顔を晒す。けれども目は合わせないで、俯いたまま話し続ける。
「……正直に申し上げますと、王城に向かう前の時点で、すでに王子様に興味はなく……」
「はぁ!? なんで!?」
「………『シンデレラ』は、王城に迎えられて幸せになります」
「え? ああ、童話の話ね」
「けれども私は、王城に行く前から幸せでした。それに、パーティは少し退屈で……終わった後の、王子様から逃げる体験の方が、なんだか慌ただしくてとても楽しかった」
「………………?」
魔法使いは全くピンときていない。あまりの鈍さが辛かった。はっきりと言葉に出す前に、なんとなく理解して欲しかったのだけど。
シンデレラは耳まで真っ赤にしながら、真っ直ぐ魔法使いを見据えた。
「わ、私は……っ」
言葉にしてしまうには、とても勇気がいる。こんな時に思い出されるのは、魔法使い自身がシンデレラにかけた「君はもっと自信を持っていい」という台詞であった。
数日前の凛とした様子とはほぼ真逆の、おどおどした臆病者みたいな振る舞いで、それでも懸命に言葉を紡ぐ。
「私は……っ」
ギュッと拳を握りしめて、言い放つ。
「あ、あなたに恋をしました」
「………ん?」
「王城でなくともいい……いえ、王城ではいけない。裕福はいらない。地位もいらない。王子様と添い遂げたいとは思わない。私は……あなたがいい」
「……んん!?」
やっと何かを察した魔法使いは、ポカンと呆けていた。シンデレラはお構いなしに、ついに最後まで口に出す。
「私はあなたと添い遂げたいのです。魔法使いさん」
そこまで言い切って、シンデレラは真っ赤な顔で恥ずかしそうに魔法使いを見ていた。魔法使いは一度自分を指差して、シンデレラが頷いたのを確認すると、
「僕ぅ!!?」
ただひたすらに、大声で叫ぶのだった。
というわけで、これは道を違えたシンデレラのお話である。童話通りに魔法使いに助けられパーティに赴くも、王子に恋をせず、結果的に童話通りの結末を迎えなかった。
このシンデレラは、富と名声を持っているだけで何かをしてくれたわけではない王子ではなく、嘘偽りのない言葉で自分を励まし、幸せを願い、大きな助力をしてくれた魔法使いに恋をした。
つまるところ、シンデレラと魔法使いの恋の物語が、まさに今この瞬間に始まったのである。
「あれ、じゃあ何でガラスの靴落としたの?」
「あ……それは、ただのドジです……」
……始まったのである。