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「シンデレラ! 起きなさい、シンデレラ!」
義母がやかましく叫び出す。今日もこの娘——シンデレラと呼ぼう——は、朝は洗濯、昼は屋敷中の掃除、夜は雑事で一日を終えることを、今の一言で約束されてしまった。
屋敷のはずれのぼろ小屋の、床に広げた古い絨毯の上で、唾を飲み込みながら目を擦る。ここ数日の雨のせいで、絨毯がカビっぱなしになっている。毎朝一番に目にするのは、そんなカビだらけの絨毯と、カビに似た皺を顔中に放牧している義母である。
「いつまで寝ているの? 太陽はとっくに大樹様の上まで昇ってしまっているわよ」
「ああ、すみません……すぐに支度します……」
「まったく、甲斐性無しの娘も甲斐性無し……血は争えないのねえ」
当然のように嫌味を吐き捨てて、義母は去っていった。シンデレラはその後ろ姿を見送った後、また横になって、またすぐに起き上がった。
「……二度寝したい」
ボソッとつぶやいた。
「早くしなさいっ!!」
「は、はいっ!?」
義母に叱られた。扉を閉めて、聞き耳を立てていたらしい。最近やや素行不良気味だったから、目をつけられたようだ。
「はぁ……」
シンデレラは渋々立ち上がって、支度を始めた。
※
愛する母親が病で亡くなって、父は別の女性と再婚。しかし、その父も亡くなると、義母は二人の義姉と共に家のあらゆる雑用を父の連れ子、すなわちシンデレラに押し付け始めた。
押し付けられているのが家事とかだけならまだ楽だったのだけど、義母の性格上そうもいかず、当たり前にいじめや辱めがついてくるのだった。
どうだ、この状況。———そう、まんま童話のシンデレラ。であればきっと、この先妖精か魔法使いかが幸福を分け与えに来てくれる……。
(と、割り切れたらよかったのだけど)
園庭で棒立ちになっている自分。目の前には、険しい顔をした義母。その少し後方には二人の義姉。ニヤついていたり、真顔だったりである。
「これはどういうこと?」
シンデレラは今、義母に説教を受けている。
「申し訳ありません、何をお咎めになっているのかよく分からないのですが」
「ふざけないで。これを今日までに修理しておきなさいと言ったでしょう」
そう言うと、義母は馬車を指差した。修理を望んでいるように、車輪が二つほど外れていて、ところどころが破れて穴が開いていた。ペンキもあちこち剥がれているし、とても使える状態ではない。
「……その、うかがっていないのですが」
「忘れているだけでしょう。全く……これだから呪われた子供は……」
義母はやれやれと呆れながら、屋敷の入り口の方に歩いていくと、
「夕方までに直しておきなさい」
そう言い残して、入って行ってしまった。
二人の義姉もそれに続いて、ゾロゾロと屋敷に戻っていく。
「頑張ってねーっ!」
次女のクリティアは笑顔でそう言い放って、長女のアザレアは無言のまま去っていった。
一人残されたシンデレラは、屋敷の入り口をしばらくぼーっと見つめた後、振り返ってオンボロ馬車を見上げた。
「……毎度毎度、できなくもないところを突かれるから困るのよね…」
よくある話だ。義母にいじめられるようになってから、義母に用事がない時には無理難題を課せられ笑われて、用事があって他人の手が必要な時は、今みたいにあたかも元からシンデレラの仕事であったかのような言い方をして全ての作業を押し付けてくる。正直もう慣れた。
「何に使うのかしら……なんでもいいわ……」
シンデレラは腕をまくり、深呼吸する。
「とりあえず、夕方までに終わらせないと」
そう軽く意気込んで、無心で作業に打ち込むのだった。
※
「ふぅ……」
額の汗を拭った後、一度手を休めて空を見上げる。やや日が暮れてきて、西の空はほんのり赤みがかっていた。
風が吹き、足元の落ち葉が舞い上がる。その葉っぱのカサカサと擦れる音と、肌を伝う空気の冷たさが、シンデレラに季節の変わり目を告げている。
(ちょっと冷えて来たわね……一応、言われた時間には間に合いそう)
オンボロだった馬車を見上げる。こんな辺境の土地には、最近の流行の情報なんか入ってこないから、とりあえず新品に近い状態に戻すだけにした。ダメになっていた木壁は新しいものに取り替えて、ペンキを塗り直し、装飾も付け替えた。中もカビカビだったから、皮やらなんやらを一度全部剥がして、全く新しいものに変えた。
残すは車輪だけである。結構な力仕事だから、気をつけないといけない。
(……本当にどうやって付けようかしら? 車体を持ち上げながら……えっと、うーん……手が足りないわ……物理的に)
一人で馬車の周りを右往左往していると、
「シーンデーレラー!」
後方から声をかけられた。振り向くと、今朝会った時と違う服装をしたクリティアがいた。
短い金髪に、肩がまるきり露出した紅のドレス。首にはクリティアお気に入りのダイヤのネックレスがつけられている。靴も最近新調したオシャレな赤いヒールで、明らかに何処かに外出する様子。
クリティアはシンデレラに歩み寄ると、もうすぐ修理が終わる馬車を見上げた。
「ホントに一人で直しちゃうんだねー。どういう技巧?」
「いえ、このくらいは……」
大して照れることもなく、なんとなく俯くシンデレラ。
「クリティア姉様は、何処かにお呼ばれですか?」
「え? ああ……知りたい?」
クリティアは悪戯に笑った。少し面倒くさくなったが、追求することにする。
「ええ。いつになく着飾っていらっしゃるので」
「へへー、似合う?」
クリティアはドレスの裾を持って、ぐるっと一回転した。小さく風が舞起こり、地面の葉っぱがカサカサと動いた。
「ええ、お似合いです」
「ありがとー。というのも、王城でのパーティにお呼ばれしちゃってさー! そのために新調したんだ」
「…………パーティ?」
思わず聞き返した。クリティアは陽気な声で続ける。
「そう! しかもただの貴族のじゃなくて、王子様主催のパーティなんだよー! 王子様がお誕生日らしくてね、今年で成人なさるから、婚約者をお決めになるんだって!」
「そう……ですか」
当然のように自分が含まれていないことに、もはや何も感じなかった。こんなところで馬車の修理なんていう無茶をさせられていたのだ、含まれているわけがない。
というより、そのパーティのために新調したドレスを今着ているということは。
「もしやそのパーティというのは、今夜……?」
「そうなんだよー! ずっと前から楽しみでさー!」
当然、シンデレラはそんなこと一ミリも聞かされていない。未来に楽しみなどなく、毎日変わらず雑用の日々だった。
「なるほど……それで最近商人の方が頻繁にいらしてたんですね」
「そうそう」
「この馬車もそのために?」
「んぇ、ばしゃ? ……いやいや、そんなわけないじゃん!」
「え?」
クリティアはドレスにそぐわない不躾な笑顔を見せていた。
「都住まいなら自前の馬車かもしんないけどさ、こーんな辺境だよ? 迎えが来るに決まってるじゃーん! というかもう来てるし!」
シンデレラはしばし呆気に取られたが、しばらくして、
「……そう……ですか………そうですよね」
そう力なく返しただけだった。
「いやー、ずーっとこんなとこ住んでるとさ、退屈で死んじゃいそうなんだよね。良い男もいないし。これはホントに、二度とないチャンスだよ。あわよくば王子をゲットしちゃうぞ!」
いつになく元気なクリティア、それとは逆にいつになく沈んだ様子のシンデレラ。はたから見れば、かなり歪な光景だろう。
(そっか……これも、ただの厄介払いだったんだわ……)
こんな仕事を押し付けて来たのは、シンデレラを園庭に縛り付けて、支度の邪魔をさせないようにだろう。目障りだ、耳障りだ、存在が邪魔だと、そういう意味でずっと無駄なことをやらせて、パーティに連れていく気はないのだろう。
「クリティア」
ふと、園庭の入り口の方から義母の声がした。
「あまり迎えの方をお待たせしてはいけません。行きますよ」
「はーい」
クリティアは屋敷に戻っていった。すぐに正面玄関の方に行って、さぞ煌びやかな馬車に跨るのだろう。
義母はシンデレラを一瞥したあと、すぐに背を向けた。
「あなたはその仕事を終わらせておきなさい」
それだけ言って去った。あまりに冷酷で、心ない一言。
お前はついてくるな、と。ほぼ直接言われたのだった。
玄関の方から、ほんの僅かに、いつもと違う喧騒が聞こえてきた。しばらくしてその音は、大事な何かを連れていってしまうかのように遠のいていった。
シンデレラは馬車の修理を終わらせた後、屋敷内を見て回った。
「………誰もいない」
義母もアザレアもクリティアも、誰もいない。シンデレラはボロ小屋で過ごしているから、屋敷は本当にもぬけの殻だった。
それからシンデレラは、言われずともやるよう命じられている屋敷の清掃をいつも通り丁寧にやった後、ボロ小屋に帰った。
汚れた寝間着に着替えて、窓辺に横たわって空を見上げる。日はとうに暮れていて、綺麗な三日月が空にあった。
思い出されるのは、両親のこと。幼い頃の、二人との儚い思い出。父も母も、特別えらい階級ではなかった。そもそも都住まいですらなく、シンデレラはここよりさらに遠くの、海に近い場所で産み落とされたのだった。
父はなぜあの人と再婚したのだろう。どこに惹かれてあの人を選んだのだろう。母とあんなに仲がよかったのに、亡くなったのをすぐに割り切って新しい女性と結婚してしまったのはなぜだろう。そんな人には見えなかったのに。
母の記憶はかなり朧げだ。家にいないことが多かった気がする。母はとても活発な人だったのだけど、なんの病で亡くなったのだろう。私はあの人から何を授かったっけ……そこまで考えて、ふと思い出した。
シンデレラは本棚から一冊の本を手に取った。表紙には「灰かぶり姫」の文字。一般には「シンデレラ」として有名な、あの童話である。
シンデレラはこの本を母から貰った。物心ついて間もないころである。
「……私が本当にシンデレラなら」
魔法使いか、妖精か、誰かが幸せを与えに来てくれる。そんな望みを持っているのだ。
彼女は待っている。自分が幸せになれる日を。まさしく「シンデレラ」のように、まさに今夜、主役のように着飾って、王子のような素晴らしい人に妻に迎えられることを願っている。
「———ああ、本当に……どうでもいいわ」
本当の願いは押し殺して、せめてシンデレラのように幸せになるくらいは許してほしいと、神に願うばかりなのである。
それからというもの、シンデレラは窓辺に横たわった姿勢のまま、来るかもわからない迎えを待っているのだった。馬車があるということは馬がいるということで、シンデレラは馬の騎乗くらい難なくこなせるが、これまた童話通り着ていくドレスがない。だから、せめてドレスを恵んでくれる誰かがいなければ、お城のパーティなど論外だ。
同じ姿勢のまま、刻々と時間が過ぎていく。時計こそないが、月の傾きで時間が経っているのが分かる。
夕食を食べていない。けど、お腹が空かない。食欲がわかず、寝る気にもなれず、ただぼーっとしたまま、誰かが迎えに来るのを待っている。
(ああ、なんて憐れなのかしら)
一人では何もできない。空想の物語に一生懸命に身を寄せて、他力による救済を待ち侘びている。待ち侘びたまま、時間が経過していく。
そうして足が痺れて感覚がなくなった頃、鐘の音が聞こえた。ボーン、ボーンと、ゆったりとしたリズムで、遥か遠くの方から聞こえてきた。
「………ああ、もう」
溢れそうになった涙を必死に堪えた。これは深夜十二時を告げる都の鐘の音だ。毎日ではないが、祭りの時期や何か催し事があるであろう日には、このように深夜を告げる鐘が鳴る。そして残念なことに、シンデレラの願いはもう叶わなくなってしまった。
童話での「シンデレラ」は、深夜十二時に城から抜け出して、ガラスの靴を落とす。十二時が魔法が解ける期限だからだ。そしてそれを過ぎたとなれば、もう魔法にかかる余地がない……と、勝手に期待して勝手に落胆したのである。
(……寝ましょう)
シンデレラは力なく立ち上がって、窓から離れていく。髪ゴムを解いて、手で髪をすいて、そのあと涙を拭った。
その時、突然視界が少し暗くなった。明かりはつけていなくて、窓から注ぐ月の光だけが部屋を照らしていたから、自然と振り返って窓を見た。
「いやー、申し訳ない。道に迷って遅れてしまった」
「———どなた?」
知らない人物が、窓から顔を覗かせていた。黒いローブで顔が見えなかったが、声から若い男であることが予測できた。
男は許可もなしに部屋に入ると、フードを取って顔を露わにした。逆光で見にくかったが、本当に若い、同い年くらいの青年だった。
「君に幸せを運びに来たんだ、シンデレラ」
青年はハキハキとそう言った。シンデレラは、止まりかけていた鼓動が再び跳ね始めるのを、強く感じていた。