メデューサの恋する瞳
今は昔、小さな島国ゴルゴニア王国の宮廷を震撼させる事件が起こった。
異国の王子、大貴族の子息、次々と高貴な青少年が石化――つまりは石へと変えられてしまったのだ。なぜそのような奇怪なことが起きたか、宮廷の人々にはわけもわからず恐怖のどん底に陥る。
しかしやがて、女中の証言などから判明していった。その犯人が誰であるのか。
ゴルゴニア第三王女ソフィー。
彼女は十六歳の恋多き乙女だった。初め外国からやってきたという背の高いシュッとした顔立ちの王子に惚れていた。しかしその王子がある日目の前で彼女に微笑みかけた途端、物言わぬ石へと変わり果てた。
初めは偶然だと思った。だけにただ嘆き悲しんだ。だが次の恋の相手をすぐに見つけていた。ゴルゴニア有数の貴族の貴公子に。だがその者も石化した二度目は流石に疑いを持ち始めた。自分が好きになった相手ばかり石になるなんて……まさか自分が関係しているのでは、と。
三度目でついに確信に至り、ソフィーは恐怖した。自分がやっているのだ。魔法か、いやもっとおぞましい何かの力によって。自分の恋した相手を自分の意思に関わりなく石化させてしまうのだと。そんな己が恐ろしくてたまらなかった。
父王に白状すべきか。だが自分のしでかしが露見して罪に問われるのも怖い。ソフィーは思い悩んでいた。そんな時、仕えるべき王女の異変をいち早く察知した若き近衛兵長が彼女に近づいてきた。
「ソフィー様、最近思い詰めていることがありませんか? 何か悩みがあるのでしたら私にお教えください。相談には乗りますから」
ソフィーは自分がやっているという確証を伏せて自分の恋する人が立て続けに石化しているということを話した。すると近衛兵長はひたすら優しく宥めてくれた。そんな彼にその場で惚れてしまった。絶対にあるまじき、禁忌の恋だというのに。
「そうか、あなたが……」
最後に責めるような顔をして、近衛兵長は石化した。それでもう限界だった。ソフィーはついに父王に全てを打ち明ける決心をする。
だがそれより先に女中の証言が王の耳に届いていた。三人目の被害者が石化する際、すぐ傍にソフィーがいて、その普段は綺麗な水色の瞳が髪の色と同じ金色に瞬いて、この世の者とは思えない魔性を感じさせていたのだと。
それは太古より伝わる魔眼の伝承を思わせた。金色に光る魔眼は相手に恐ろしい呪いをかけるのだという。
ソフィーは捕らえられ、王宮の地下牢で目をくり抜かれることになった。
しかしおぞましいことにソフィーの魔眼はくり抜いても潰しても、再生して新しい目に生え変わることが判明した。呪いの力とは、それほどにまで強いものだ。人知を超えている。これには王も困り果てた。
ソフィーの処遇を巡って裁判が開かれた。死罪にすべきという意見も少なくなかった。王子を失った異国からは身柄を引き渡せという要求もあった。しかし王は決断する。
「罪人、ソフィー・フランソワーズ・ド・ゴルゴニアをセントバジル島への流刑と処す」
それは愛娘への情を捨てきれず、彼女の身柄を島流しという形で守ろうという意思の表れだった。
かくしてソフィーは住み慣れた王宮を追放され、絶海の孤島に一人渡る。
仲良かった兄弟姉妹達の誰も見送ってはくれなかった。それを少し寂しいと感じるソフィーだが、それだけ自分がしでかしたことの重大さを重く受け止めた。
輸送船の中、ソフィーは隠れて泣いていた。もう恋することなんてできないという事実が悲しくて。けれど少しホッとすることもあった。島に着けば完全に自分一人。誰かを愛し、殺してしまう心配もないのだと。
船から降ろされ、セントバジル島に到着する。ソフィーはこれからの我が家――煉瓦造りのしっかりとしているが飾り気のない小さな家――を見て、牢屋に毛が生えたレベルだと感想を抱いた。
それまでなんでも女中にやらせていたソフィーにとって島での一人暮らしは骨が折れるものであったが、じきに慣れた。人間なんてそんなものである。食糧は定期便で届くので調達の必要はなかったし、だけに一日の大半がやることがなくて暇だった。最初は前の流刑者が残していった本などを読んでいたが、それも早々に読みきってしまった。そういうわけで考え事ばかりしていた。
他の流刑者はどうやって過ごしていたのだろう。そして彼らはどんな罪でこの島に流されたのだろう。
自分の罪について考えると、ソフィーは死にたくなってくる。
でも私が死んだところで誰に許されるのだろう――そう考えると死ぬことすらできなかった。
もう一度燃え上がるような恋がしたい。全てを忘れて――そう思うことも性懲りもなくあった。だけど自分には許されないのだ、恋なんて、と思い直す。
そして四年という歳月が流れ――
激しいときめきもなく、色を失った日々。そんな植物のような生活と精神をソフィーは身につけていた。
燦々と照り付ける夏の日差し。豊満な胸を揺らし、薄着のソフィーは島の海岸へと向かっていた。こう暑いと海水浴でもして涼を取ろうという考えである。
ビーチには誰もいない。泳ぎ放題だ。それは島暮らしの数少ない良いところであるとソフィーは思っていた。裸になったところで誰にも見られないし。
しかしこの時ばかりは先客がいた。ソフィーは自分以外に人がいることにまず驚き、そして海岸線に青年がうつ伏せに倒れていることに驚いた。あれは、死んではいないだろうか? 急ぎ確認しようと近づく。そして彼を仰向けにひっくり返して顔を見てハッとした。
この黒髪の青年はかなり顔立ちが整っていて美形だった。思わず一目惚れしそうになるのを必死で抑えるソフィー。彼は息をしていてまだ生きている。なのに石に変えてしまうのだけは絶対にいけないと。
慌てて目線を逸らす。すると彼の首から掛けているペンダントが目に留まった。綺麗な宝石でできている。それがソフィーには無性に気になって仕方なかった。しかし今はそれどころではない。彼を家に運んで手当てしなければ。
かよわい女の身で大の大人一人運ぶのは大変だったがその時の彼女は必死で懸命だった。なんとか家に連れ帰ると青年をベッドに横たえた。
それからそっと、ペンダントを外した。
青年は気が付けば見知らぬ天井を目にしていて、紅い目をぱちくりさせる。
「目を覚ましたのね。身体は大丈夫?」
優しい声色で傍らの椅子に座るソフィーは語り掛ける。青年は彼女をちらっと見た後、自分の首元を見て、あるべきものがないことに仰天し、もう一度彼女を睨んだ。
「おい、てめぇ、俺のペンダントがねぇぞ! どこやった!?」
「ああ、それなら綺麗だからよく見たくて……」
ソフィーが手にしているペンダントを見つけるなり青年はガバっとベッドから起き上がってつかつかと歩き、彼女からペンダントを強引にひったくった。
「なっ、何?」
「そいつは親の形見の大事な品なんだよ、汚い手で触れるなオタンコナス!」
「オタンコナス……?」
青年の言葉がよく理解できないソフィーだったが、罵倒されているということはわかった。
彼の粗暴な言動は自分の好みのタイプではない――万が一にも惚れることはないだろう。ソフィーは安堵する。人を石に変えずに済むと。
「ったく……ここはどこだ?」
「私の家よ」
「そういうことじゃなくって、乗ってた船が難破したんだ、どっかの島にでも流れ着いていると思うんだよ。その場所を教えやがれ」
「じゃあ、セントバジル島」
「セントバジルか、随分流されちまったな……生き残ったのも俺一人か。島には他に誰かいるか?」
「いや、私一人よ」
「ちっ」
青年が舌打ちした理由をソフィーは察することができなかった。だからといって苛立つということはなく、詳しい話を聞こうとする。
「船って、ゴルゴニアからどこかへ行こうとしたの? それとも逆?」
「ゴルゴニアなんて小さな国からおさらばして大陸に渡るつもりだったんだよ。おかげでパーだな。ちきしょうめ」
「でもゴルゴニアには帰れると思うわ」
「どういうことだよ」
「一ヵ月に一回船の定期便が来るの。事情を話せば連れて帰ってもらえるわ。この前来たばかりだからしばらく来ないけどね」
「それまではここに厄介になることになりそうだな……ったく」
青年は頭を思いっきり掻いた。そしてこれからの同居人に名前を告げる。
「俺はレウスだ。根無し草だがその定期便とやらが来るまでは居座らせてもらう」
「私はソフィー。よろしくねレウス」
「てめぇなんかてめぇで十分だよ」
レウスの方はあくまで相手を名前を呼ぶ気はなかった。ソフィーは苦笑する。この横柄な青年とこれからやっていくことになると考えると少し心配にもなった。
「ところでなんでてめぇは定期便でゴルゴニアに帰らねぇんだ? おかしいだろ。こんな島で若い女が一人」
「私は……」
恐れていた追及。だがソフィーは正直に答える。
「私はゴルゴニアで四人も殺した……その罪を償わないといけないの、この島で」
「ふーん、そいつはご苦労なこって」
レウスは興味なさげに流す。その反応はソフィーには意外だった。ゴルゴニアの他の人間のように自分を糾弾するのかと思っていたからだ。
その時レウスのお腹の音が鳴った。
「つか腹減ったな……船が沈没して何日経ってるか知らねぇけどしばらく食ってないぜ」
「ごめんなさい……ここにある食糧は必要最低限で私が食べる分しかないの」
本当は分けてやればいいものを、ケチくさく言うソフィー。彼にあまり好感が持てないのでわざわざ身を切るような真似をしたくなかった。
だがレウスは気にしてない風に言う。
「あー別にいいから。自分の分は自分で調達する。てめぇは寝床だけ貸してくれたらいい。勿論ベッドなんていらねぇ、床で寝るから」
「自分で調達するって……」
「俺はこう見えて狩人だからな」
レウスは言いたいことを言い切ると跳ねるように家から飛び出していった。彼が腰にナイフを差していることには家まで運ぶ時に気付いていたソフィーだったが、はたしてナイフ一本で狩りができるのか。彼女には想像もつかなかった。
だが数時間して、彼は皮を剥いだ兎をぶら下げて帰ってきた。
暖炉の前で火打石を取り出して火を起こし、兎肉を焼いてかぶりつくレウス。その野性味あふれる姿に驚くとともに感心するソフィーがいた。
「すごいわね。本当に狩人なんだ、レウスって」
「当たり前だろこんなん。言っておくがてめぇにはやんねーからな肉! こいつは俺の獲物だ」
「わかっているわよ……」
ソフィーは自分の乾パンを齧る。決して羨ましくて声を掛けたわけではない。だが見比べればその差は歴然としているように思えた。
ふと、思いがけないことをレウスが口にする。
「てめぇさぁ、あんま感情ないのな。俺が何言っても怒んねぇし、笑いもしねぇ」
「感情がない……?」
それはそうだとソフィーは思った。四年の島暮らしの中で感情というものはすっかり欠落してしまった。それでいいのだ、罪人の自分には。そう思っていた。
「そうかもしれないわね」
「クソムカつくな。絶対俺がてめぇを笑ったり泣いたりさせてやる。見てやがれ」
そんなことを言ってレウスはガツガツと肉を食べた。そして食べ終わるなりすぐ寝転んで眠りに落ちてしまった。
その寝顔を見ながらソフィーは固く誓う。絶対に彼には恋しない。さっき言われたことに少しドキッとしたが、これからは動揺しない。大丈夫。もう過ちは繰り返さない。
そして二人の共同生活が始まった。それは禁じられた恋物語でもあった。
レウスの朝は早い。ソフィーが目覚める頃にはすでに彼の姿はなく、どこで何をしているかというと海岸沿いを走りこんでいた。なんでそんなことをしているのか尋ねた時、彼は必要だからやっていると答えた。この青年は兵士か何かの経験があるのだろうか、と密かに疑問に思うソフィーだった。
朝のランニングを終えるとレウスは朝食を調達しに行く。必ずしも獣を狩るだけでなくドングリやキノコ類を拾ってきて食べたりもする。腹ごしらえを済ませてしばらく時間に余裕があると筋トレなどをして時間を潰すのが常だった。
一方ソフィーは朝島の奥地にある泉に行って生活用水を汲んでくるのが日課だった。その途中で狩りをしているレウスに鉢合わせするようなことはなかった。お互い距離を置いて、食事の時だけ一緒、ということが多かった。
夕方の狩りを終えて帰ってきてディナーを食べると、そのまま寝てしまうことが多いレウスだった。早寝早起き。これが彼の日常サイクルであり、ソフィーとは少しズレていた。
彼とは噛み合わない。それでいいのだ、とソフィーは思う。もう何度読んだかもしれない本を読み返すのにも飽きて彼の寝顔を覗く。眠っている時はこんなにも美青年なのにちょっと残念だなという気がしてくる。
次の定期便が来るまで後二十日。その間だけの仲だ。しかしそう考えると少し寂しさも感じる。四年間の島暮らしと比べたら二十日なんてたった一瞬なのだから。
もう少し親しくなろうとしてもいいのだろうか。ソフィーは迷う。人を好きになることは自分には許されない。でも二十日共に暮らす同居人にもう少し気を許してもいい気はした。一線さえ越えなければ……。
だから次の日、ソフィーは朝食を終えたばかりのレウスに話を持ち掛けた。
「狩りを教えてほしいだぁ?」
「ええ。自分もレウスみたいにできないかと思って」
期待薄だ。レウスのことだから乱暴な言い方で断るとソフィーは思った。しかし意外にも彼は了承した。
「じゃあ昼の狩りに連れて行ってやるよ。言っておくが足手まといにはなるなよ」
そうしてソフィーはレウスと共に狩りに出かけることになった。真夏の太陽がギラギラと燃えている中、二人は隠れるように島の鬱蒼と茂る森の中に入る。
「普通の狩人なら罠とかを使う。だが俺にはこれ一本で十分だ」
レウスは腰に差したナイフホルダーからナイフを引き抜き構える。そして注意深くあたりを観察しながら、茂みに潜みつつ進む。その行動は俊敏でソフィーには遅れないようついていくだけで必死だった。
ふとレウスが立ち止まる。彼の紅い双眸が獲物を捉えたのだ。すると彼はナイフを思いっきり投げた。それは数メートル離れた獲物に見事命中し、胴を貫いた。
レウスは意気揚々と歩いて仕留めた獲物を確認する。ナイフが刺さった血塗れの野兎を嬉しそうに掲げてみせた。
「どうだこれが俺のやり方だ。参っただろう!」
「とても真似できないわね……」
常軌を逸したレウスの動体視力と筋力と投げナイフのコントロールにソフィーは感嘆し、あっさり諦めさえする。
「んだよ張り合いねーなぁ。こんなん死ぬほど練習すりゃできるようになんのに」
「そうはとても思えないけど」
「俺だってガキの頃に親父に叩きこまれたんだぜ。飲み込みが遅いってドヤされちまったもんだぜ」
レウスは肩を竦めて兎の屍をプラプラさせる。それをソフィーは見咎める。
「ちょっとかわいそうね、兎さんが」
「おいおいおいおい、かわいそうだと? それは違うぜ。こいつらの血肉は俺の血肉になって、俺の血肉は別の何かの血肉になって、そいつの血肉はまた別のって、命は循環しているんだよ。だからかわいそうだとは微塵も思わねぇ」
「命の循環?」
レウスの口からそんな言葉が出てくるなんて、ソフィーには意外だった。彼は言葉を続ける。
「そうだ。巡り巡って、必ずどいつかに回ってくる。まぁ俺がこいつらの命を頂く時には感謝するがな。それは恵みだからな」
ソフィーは感心した、レウスの考え方に。彼は粗暴なだけの男ではないと考えを改める。その上で惹かれそうになる自分がいて、それを心の内に戒めた。
「ぼさっとしてないで次行くぞ次!」
「もう狩りは終わったんじゃないの?」
「まだだ、キノコ狩りをやるんだよ」
レウスは手招きしつつ、ひょいひょいと森の奥へ移動する。ソフィーも遅れないよう後に続く。
すると土が少し湿った地帯に着いた。そこにある木々の傍には多種多様なキノコが群生していて、キノコ王国とでも言うべき様相であった。
レウスの紅い瞳は即座にキノコの種類を判別し、ナイフを使わず手で引き抜いていた。
「これとこれは食べられる。でもあの派手な色した奴は食べたら一発であの世行きだぜ」
成程覚えておこうとソフィーは心に留める。もし自死を選ぶ時はあの毒キノコを口にして――
やってみろとレウスが促すのでソフィーもキノコを採集する。手に持てるだけ取ると、彼は撤収すると言った。
そういうわけで二人は帰宅し少し遅めの昼食を摂ることにした。自分で取って焼いたキノコをソフィーは口に入れる。途端、舌が蕩けそうになる。
「美味しい……」
「だろ! 自然の恵みだ。狩りって最高だよなぁ! 歩き回った甲斐はあったろ」
レウスはまるで自分のことのように喜んだ。さしずめ狩りの師匠の面目躍如といったところだろう。
ソフィーはレウスのように屈託なく笑おうとした。しかし笑い方を忘れて上手くできなかった。変に顔が引きつっただけになる。それを見てレウスは少し不機嫌になる。
「んだよ、美味いならもっと喜べっつーの」
「ごめんなさい……」
「ごめんなんて言葉はいらねーんだよ」
レウスは兎肉にかぶりつく。会話はそれで終わった。
どうすればよかったのだろう。ソフィーは思索に耽る。謝るくらいならちゃんと喜びの言葉を伝えるべきだったのか、いや言葉だけでは駄目だったのかもしれない……態度に表すことができなければ。
でも私はもう、きっと笑ったり泣いたりできないんだ。
すり減った感情は元には戻らない。それなのに、レウスと一緒にいると取り戻したくなる。
それは――彼が感情豊かな人間だから。
その一点については憧れを抱いていた。だからといってレウスのことを好きになったりはしないとソフィーは決めているが……それでも眩しかった。
四年の島暮らしの間に欠けていたものが埋まっていく感覚があった。それはソフィーにとって少し恐ろしかった。
共同生活を始めてから十八日、その日は雨嵐が凄まじかった。
台風でも来たのではないかとソフィーは推測していた。そんな状況下でレウスはいつも通り狩りに出かけると言って家を飛び出そうとしたので、流石に止めようとした。
「この大雨の中を? 無茶よ。今日は大人しくしておきなさいな」
「そうはいくか! こっちは飯が掛かってるんだよ。大丈夫だこんな嵐、屁でもねぇぜ」
レウスは強情を張って強引に制止を振り切った。扉が開けばごうごうという雨音が鳴り響く。彼は構わず雨の中に飛び込んで消えた。
あまりの悪天候に心配になるソフィーだったが後を追うわけにもいかず、家の中で本を読みながらじっと待つ。すぐ戻ってくるかと思いきや、レウスは中々戻らなかった。
朝方出かけたレウスが帰ってきたのは日も落ちかけという頃だった。彼は当然のごとくずぶ濡れで、いつもなら兎の肉をぶら下げているのに今日は何も持っていなかった。
「レウス! 大丈夫? 怪我とかしてない?」
「別に平気だよ。腹が減ってイラつくが。くそ、この雨嵐じゃ獣達もどこかに身を隠していやがる」
ソフィーはタオルを取ってレウスに渡してやると、彼は濡れた髪を拭いた。それから目の前で濡れた服を脱ぎ始めたものだから生娘は少し顔を赤くしてそっぽ向いた。
レウスは腰にタオル一枚巻いた状態で暖炉に身を寄せ温める。その鍛え上げられた肉体美、半裸の彼から醸し出される雄のフェロモンにムラっとくるソフィー。だから彼を直視しないよう降りしきる雨を映す窓を見ながら、それでも彼の肉体を意識して言った。
「レウスって鍛えてるよね。そんなに鍛える必要あるのかというくらい」
「必要ならあるぜ。狩人なら熊と格闘して勝てるようじゃなきゃな」
「熊?」
熊ならこの島には生息していないはずだ、前の流刑者が残した記録にはない――だから無駄な努力だと内心せせら笑った。しかしそれは悟られた。
「あっ、今馬鹿にした目つきしたろ! 許さねぇ……もし熊に襲われても助けてやらねぇぞゴラ!」
「いいわよ別に」
「ふん、いないんだろ熊。それくらい俺にもわかる。散々探索したからな」
「流石ね」
「それより……本当に腹減ったな……一日食ってないのは堪える」
レウスのお腹が唸りを上げる。ソフィーはちょっと待っててと言って自分の食糧箱から乾パンを取り出し、それを二つに割って片方を彼に差し出した。
「いいのかよ」
「いつか狩りを教えてくれたお礼がまだできてなかったから」
跳ねっかえりのレウスが受け取りやすい口実をソフィーは考えて言う。すれば素直に受け取るレウスだった。しかしそれを齧るなり、苦々しい顔をした。
「なんだこれ、まっず……人の食い物じゃねぇぞ!」
「それしかないから我慢して」
「おいおいおいおい、てめぇはいつもこんなもん食ってるのかよ。信じられねぇ。狩りを教わりたがったのもそのせいか……」
「別に、普通じゃない? 確かにちょっとまずいかもしれないけど、定期便で届く食糧だから好き嫌い言えないじゃない」
「いや、抗議しろよ。こんなまずい飯寄越すなって本国の連中に」
「そんなの無理でしょ……私は罪人なの、だから」
「まずい食事も我慢するってか? またそれだ! 罪人だからなんだっつうんだ。島に流された時点でもう罰は受けたじゃねぇか、後は自由に生きろよ!」
「自由に生きる? 私が?」
ひどく難しいことを言うな、とソフィーは思った。そんなことはできない。自分には自由に、人を愛することもできないのだから。
「てめぇなら出来る! なんなら俺が手伝ってやってもいいぜ、ちょっぴりだけならな」
そんな風に熱弁するレウスが少し羨ましかった。自分にはない自信に満ち溢れている。彼の言葉は嬉しかったが、同時に自分には受け取る資格がないと思うソフィーだった。
「遠慮しておくわ」
「んだよ……なんでそうなんだよてめぇは……」
これ以上レウスには近づいてはいけない。一線を意識するソフィー。その一線を越えてしまったらレウスのことを好きになってしまう。それだけはあってはならない。
しかしレウスの方から近づいてきた。物理的に。彼はいつの間にか暖炉の傍を離れてソフィーの目の前に立っており、彼女の頬を両手でガシッと掴んだ。彼の紅い双眸が彼女を捉えて離さない。
「さっきから気になってたんだが、せめて目見て話しやがれ」
「えっ、レウス……」
あまりにも顔が近くてソフィーはどぎまぎする。心臓が高鳴る。信じられないことをする! 自分が普段あれほど恋心を抑えつけるのに必死になっているのに、容易く閾値を超えようとしてくるレウスが憎らしくさえあった。
「よし、今のてめぇからは少し感情を感じるぜ。一歩前進、だな」
「何よ、勝手なことばかり……」
「勝手なのはお互い様だろ、な!」
あっけらかんと言うレウスにどうしようもなく惹かれていく自分がいて、ソフィーは戸惑う。
「私、疲れているみたい……もう寝るわね」
結局ソフィーはその場からベッドに逃げ込む。これ以上レウスと話していると恋に落ちて彼を石に変えてしまうかもしれない。彼に好感を持てば持つほど殺してしまうことが恐ろしかった。
「疲れてるのはどう見たって俺の方だろ、なぁ?」
返事はなく、これはレウスの独り言となった。
月日は過ぎ、定期便が来る前日の夜になった。
レウスとの共同生活を始めてから日々に彩が付いたような感覚を覚えていたソフィーだった。彼とは当初と比べれば親しく話せるようになっていた。だけに別れを惜しむ気持ちが湧いてくる。
だから夕食を終えたレウスの前でぽろっと口にしてしまっていた。
「これで最後なのね……」
「ん?」
「いや、なんでもないの」
「なんでもあるだろ。やっぱ気にしてんのか? 明日の定期便で俺がゴルゴニアに帰っちまうかもしれないってことに」
「帰ってしまうかもしれないって……帰るんでしょ?」
「いや、どうだかな。別に帰らなきゃいけないなんて決まりはないし。このまま居残っちまったっていいんだぜ?」
「それは絶対に良くないわ。あなたは帰るべきよ、レウス」
別れが辛くないわけではないが、残ろうとするレウスの発言は咎めるソフィーだった。レウスは困ったように眉を八の字に曲げ、
「そんなの俺の勝手だろう? 明日のことは明日決めるよ。それでいいだろ」
と言い放った。はたしてレウスに帰るつもりがあるのだろうか、その話題はそれで終わってソフィーにはうかがい知れない。
いつもなら寝る時間なのにレウスは起きていて、何やらそわそわしていた。何かを待っているかのようでもあった。彼の様子がおかしいことをソフィーは聞く。
「どうしたの、落ち着かない様子だけど。まるで旅に連れて行かれる前の子供みたい」
「うっせーな……そろそろか? よし、外へ行くぞ」
レウスは頃合いを見計らって家を出た。何かあるとソフィーも悟って彼についていく。
昼間は相変わらず暑い日だったが夜は幾分涼しくなり、夏の終わりの気配を感じさせた。満天の星空が二人を包み込む。
「まだっぽいな……じゃあちょっと散歩するか」
「もう、レウス、さっきから何を言っているの?」
「時が来ればわかる」
それだけ言ってレウスはすたすたと歩く。仕方ないのでソフィーも後に続いた。やがて二人は海岸に辿り着く。二人が初めて出会った、あの海岸に。
「ねぇ、レウス……」
「始まった。空を見ろ」
レウスの紅い瞳はいち早くそれを捉えていた。彼らの目の前で星が一つ流れる。一つ。また一つ。流星が降り注ぐ。ソフィーにとっては初めての、流星雨だった。
「ちょうど今日だったんだ。だからこれをてめぇに見せたかったんだ」
レウスは満面の笑みを浮かべて流星ではなくソフィーの方を向く。ソフィーはドキッとした。流星雨もすごいがそれ以上にレウスの笑顔が眩しくて。
レウスを直視できず、ソフィーは空を見上げる。星がまた一つパッと光っては消える。その儚い美しさに酔いしれる。
「綺麗ね……本当に綺麗……」
「そうか?」
ところがこの流星雨を見せに来た張本人が疑問形で返した。彼は恥ずかしげもなく言う。
「こんな流れ星なんかよりてめぇの方が綺麗だよ、ソフィー」
瞬間、ソフィーの心臓がバクバクと音を立てる。初めて名前を呼んでくれて、綺麗だと言ってくれて、屈託なく笑う姿を見せられるなんて、そんなの好きにならないはずがない。でもそれは許されない。今までずっと封じ込めてきたのに。
それでもどうしようもなく、恋に落ちる音がした。
やっぱりレウスのことが好きだ。今に始まったことじゃない。でも今確信した。そして――
ひどい恐怖と嫌悪感がせり上がってくる。私は人を愛してはいけない人間。いや怪物と言ってもいい。呪われた魔眼を持つ、恋する相手を石化させる恐ろしいモンスター。今、ソフィーの魔眼が金色に輝く。その効力を発揮せんと。
同時にレウスの首から下げているペンダントも光輝いた。すると驚くべきことにレウスは石化することなく無事であった。代わりになんと、ソフィーの方が手足から石に変わっていくではないか! 一体何が起こったのか、彼女には理解できなかった。
先程まで笑顔を見せていたレウスは一転してこれまでソフィーに見せたことのない冷たい表情をしていた。
「狩人は狩人でも俺は化物退治が専門なんだよ」
レウスはようやく自分の正体を明かす気になった。彼は何者か――金で雇われて数多の怪物の類を狩ることを生業とする退治屋であった。
今回はゴルゴニアの、ソフィーによって息子を石化させられた貴族からの依頼だった。いわば仇討ちだ。彼は最初からソフィーの命を狙い、セントバジル島に潜り込んだのであった。
しかしレウスには誤算があった。それはソフィーが到底怪物とは思えない、普通の、それも見ず知らずの男を助けるお人好しの人間だったことだ。それが彼の使命感を鈍らせた。あまつさえ、情が移ってしまった。
だが全てこの瞬間に終わってしまったと、レウスは冷徹な狩人の顔を取り戻す。彼はすぐさまソフィーを押し倒し、石になっていく彼女の両腕を取り押さえる。
「てめぇが人を石に変える化物だとは聞かされてたが確証が持てなかった。あまりにも普通過ぎて躊躇っちまった。でも今ハッキリした。このペンダントは神の加護で呪いを跳ね返す。てめぇが石になっていくってことは俺を攻撃したってことだよなぁ? だがお生憎様俺には効かねぇ」
「そう、良かった……」
「良かった、だと?」
ソフィーの反応が意外過ぎてレウスは戸惑う。決定的な溝ができてしまったにもかかわらず、彼女は心の底から安堵して言う。
「愛する人を石に変えることなく全身全霊を持って愛せるのだもの。こんなに嬉しいことはないわ」
「てめぇ……」
レウスは動揺する。だが彼の右手は慣れた手つきで腰に差したナイフをナイフホルダーから引き抜き、ソフィーの細い首元に沿わせるように当てがう。
――全身石化する前に確実にトドメを刺す。万が一にも石化を解除する魔法なんてものがこの世にあったら困るから。それがレウスの狩りの仕方だった。
「私を殺すの?」
「銀貨三十枚と引き換えにな」
「愛する人に殺されるのなら本望よ」
ソフィーは涙を流しながらも微笑みかけていた。最後の最後に、自分の感情を表現することができた。くしくも出会って最初にレウスが宣言した通りになった。
「……そうかよ」
ザクっと首筋に切り込みが入り、鮮血が噴き出す。また一つ星が流れる。それはソフィーの命か。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
レウスは叫びながらソフィーの首を切り落とす。彼もまた彼女を愛した。愛する人を手にかけ歯は軋み喉は唸る。
びゅるびゅると首元の断面から流れ出ていた血は止まる。ソフィーの首から下は完全に石化した。しかし生首はまだ生暖かいままであった。
レウスはソフィーの生首を持ち上げると、血が滴る唇にそっと口づけをした。
それから彼は口笛を吹いた。すると流れ星に混じって何かが空から飛来した。
そいつは馬だった。空を飛ぶ馬。所謂ペガサス。彼の愛馬だった。
勿論島に来るときもこの馬に乗ってきた。船が難破したなど嘘、でっち上げに過ぎない。レウスはソフィーの首を小脇に抱えたままペガサスに跨り、片手で手綱を握る。するとペガサスは浮上した。
流星雨は止んだ。島にはただ一つ、首のない石像が残された。
これはゴルゴニアに伝わる悲しくも美しい恋物語。そして狩人レウスの武勇伝の最終章。これにておしまい、その後の彼の行方について語られることは決してなかった。