028 その日、世界は色を変えた
――闇の中に、ずっといたんだ。
男たちの荒い息遣いが、室内へと木霊する。
揺さぶられる身体。
飛び散る汗は汚く――不快だった。
闇の中に蠢く獣達は――僕にとっては蟲と同じいきものだった。
己の身体を這い回り、体液を吐き出す、嫌悪すべしもの。
だがそんなもの――もう、どうでも良かった。
泣き叫んだって、誰も助けてはくれない。
これが僕の日常だ。
所詮この世は弱肉強食。弱ければ、食われる。
捕食される。
だから、その日も僕は――諦観する。
擦り減っていく精神。早く――今すぐにでも消えて無くなりますようにと。
願う事はそれだけだった。
『――誰にも言うなよ?』
去っていく蟲達が、僕に残した言葉だ。
……言える訳、ないだろう。
ふと湧いた反抗心は、男達の強い視線に簡単に揺らぎ、
「――はい」
と。気持ちの悪いにやけ面を浮かべて、聞き慣れた媚びた声が僕の喉から発せられた。
◆
男達が消えた後、僕は自身の身体を洗いに川辺へとやってきていた。
長い時間を掛けて洗っていたと思う。
ばしゃり、ばしゃり。
水で丹念に身体を洗っていく。
力強く擦る為、肌は赤く腫れていく。
でも、仕方がないだろう?
汚れが取れないのだから。――全然、全く。
水面に映る自身の顔は――まるで死人の様に生気が無い。
……いっそ、此処で死んでしまった方が良いのかも……。
僕がそう思考した時だった。
「ホ。――珍しい。白い毛のウルフディアンとは……」
「――ッ!?」
突然の背後からの声。
何者だと思う前に、僕は自身の肉体を腕で隠す。
咄嗟の事とは言え、未だ自分に羞恥心というものがあった事に、内心驚いていたりした。
「面白い、サンプルになるやもなぁ……クケッ!クケッ!」
「……」
声の主は、老いた魔族のものであった。
詳しい所は良く分からないが、不健康そうな緑色の肌に、目元へ浮いた魔抗線がそれを確信させる。
皺で歪んだ禿頭。罅割れた四角い眼鏡。口元から生やされた白い髭。短い手足など、とても濃い外見をしている。
一見して不審者ではあるが、その身に着けた黒いスーツは、見覚えがあった。
部落を出入りする――武器商人。
彼等の出で立ちと、老人の格好は似ていた。
……しかし、魔族の商人? 人間なら良く来るけれど……。
種族間で繰り返される戦争。それに終わりはない。
今は僕達【狼】と【虎】が争っていた。
人間達――商人達はそんな僕らに目を付け、武器を売り捌く。
正直、鬱陶しい連中だ。
だが、彼等の武器を買わなければ、同じく武器を買った【虎】へは対抗出来ないだろう。
無視する事は出来ない。
堂々巡りの地獄の誕生だ。
……尤も、貧弱な僕は戦争のお荷物。同年代の族長の息子が戦場に立っているというのに、僕は未だ初陣すら果たしていない。
いや、今はそんなこと――どうでも良いか――
「のうのう! 美しい狼よ!お前さん、儂の見る目が間違って無けりゃぁさ……お前、死にたがっていただろう?」
「――ッ」
図星を付かれたのが、顔に出たのだろう。
途端に、汚い声で笑い声をあげる老人。
……不愉快だ。
……何なんだ、この魔族は。
「良いなぁ、良いなあ! ――唆る! 大方同族にでも虐められたのだろう!? どんな泣き声を叫んだ!? なぁなぁ、儂にも教えておくれよ!? クケッ! クケケッ!!」
「……ふッ、ふざけるなッ!!」
老人のその、あまりの下卑た言い様に――僕はキレた。
川から上がり、一糸纏わぬ姿のまま老人の首を掴み、押し倒す。
押し倒してみて――分かった。
この魔族――恐ろしく弱い。
それは、老人なのだから、そうなのだろうと言われるかも知れないが――違うのだ。魔族とは本来、歳を重ねただけ強くなる種族なのだ。身体の構造上。マナの貯蔵の関係上、そうなっている。
だと言うのに、この老人は貧弱な僕でもその身体を押し込められた。
初めての感覚だ。
この時僕は、不思議な昂揚感を抱いていた。
それは、誰かを支配する喜び。
あいつらが――僕に対して抱いていた感情。
「――ぐッ!」
そう考えた瞬間、僕の腕は力を無くした。
酷い、嫌悪感に襲われたからだ。
老人は、そんな僕を見上げながら――
「――何故、止める?」
心底信じられないと言った表情で、僕に問いかけた。
「何故って、そんなの……」
言って、僕は言葉が続かない。
自分でも自分の感情が分からなかったからだ。
「ふむ? 力の解放、その快感に恐れを抱いているのか……?」
「……?」
「……良いだろう。これも研究の一つだ」
言いながら老人は、己の懐から小さな小瓶を取り出した。
小瓶の中には、紫色の液体が入っている。
それを僕に手渡しながら、老人は言った。
「白き狼よ。美しき君に力を与えよう――欲するままに奪い、求めるままに破壊せよ……さすれば世界は、色を変える」
「……力を?」
手に持った小瓶に視線を落とし、呟く。
「!」
気が付けば、老人の姿は何処にもなかった。
取り残された僕が、小瓶の中身を飲み干す決心をするのに、大した時間は掛からなかった。
老人の正体が、悪名高き万魔八殲将――創殲ゲルマだと知るのは、それから少し経っての事だった。
◆
求むるままに……。
欲するままに……。
「――あぁ……」
燃え盛る部落の光景を目にしながら、僕は恍惚とする。
――世界は変わったのだ。
簡単に、劇的に。
もう、僕を害せるものなんて何もない。
倒れた近くの亡骸へと視線をやりながら、僕は笑う。
蟲に――炎はお似合いだ。
自身を汚した汚物へと侮蔑の表情を浮かべながら、しかし、巻き添えにしてしまった妻の方には悪い事をしたと僕は思う。
尤も――この女がちゃんした甲斐性を見せていれば、僕が汚される事もなかったのかも知れない。そう思うと、やっぱり殺して正解だったのかもなぁ……。
口元を歪めながら、そんな事をつらつらと考えていた時、
「――そんなッ、そんなッ!!?」
幼馴染の少年が、顔を歪めながら、此方へと駆けてくる。
正確には――亡骸となった両親の元へ、だけど。
「親父ッ!? お袋ッ!? う、うぁあああ――ッ!!」
「……」
悲しみに暮れ、涙を流す少年。
思わず溜息が出そうな、定番の反応だ。つまらない……。
……どうせもう、此処には用はない。
……早々に退散して、部落を去ろう。
――僕が、そう思っていた時だ。
「……奴等が、やったのか?」
「……え?」
「俺の両親を【虎】の、奴等が――ッ!!!」
「――」
幼馴染の少年――ファング=コードレスは激怒していた。
沸々と湧き上がる怒り。――負の感情。
初めて見せる少年のその姿に――僕は、激しい共感を覚えた。
そうか……そうか。そうか!そうか!!
君も僕と一緒かッ!!
いや、まだ早い。
結論を出すには、もう少し様子を見なければ!
内心で歓喜に打ち震えながら、僕は彼へと返答する。
「そうだよ、ファング。君の両親は――無残に殺された」
情けなく、命乞いをしていた。
「丸腰の相手を甚振る様に、連中は執拗に攻撃を仕掛けたんだ」
謝罪の声も、上げていたとも。
「君のお母さんは、途中でそれに気付き、止めに入った」
夫の所業を暴露した時、その表情は傑作だったなぁ。
「けれど――御覧の有様だ」
「……ッ!!」
ファングは黙って僕の言葉を聞いていた。
歯を強く噛み締め、固く握った拳からは血が滴っていた。
「すまない。――僕は、怖くて動けなかった……」
凶行を――振り上げた手を、止める事などしなかった。
「……ファング」
「あぁ」
「――絶対に、こんな事をする奴を……許しちゃ駄目だよ?」
「――」
少年は、強く頷いた。
彼が戦場に立ち、指揮をし【虎】の部族を滅ぼしたのは、そのすぐ後の事だった。




