★一九一〇年五月十九日
「る、う、ほ、く、る、み?」
小学校低学年くらいのワンピースを着た少女が、ステンドグラスのはまった木製の扉を前にして首を傾げていた。すると、通りの向こうから襟の無いシャツの上に絣を重ね、袴を穿いた青年が下駄を鳴らしながら現れ、少女に声を掛ける。
「こんなところで遊ぶのは感心しないよ、お嬢さん」
「わっ。ねぇ、おにいさん。ここは、なんのおみせなの?」
「ここかい? ここは、勉強をサボタージュしてる怠け者の溜まり場さ。まったく。こういう輩がいるから、昨今の書生はたるんでいると言われるんだ。こういう学生は、あくまで一部の帝大生にすぎないのに。どうせ、デカルトだ、カントだ、ショーペンハウエルだと、ろくろく意味も理解せずにホラを吹いてるんだろう」
店内でカステラやコーヒーを嗜んでいる角帽と詰襟姿の学生を見ながら、青年は溜め息まじりに愚痴ると、ポカンとしている少女の手を引いて店のそばから離れ、三つ揃いでステッキを突いて歩く紳士気取りや、小紋を着た婦人とすれ違いながら、未舗装の通りを並んで歩く。
「さて、閑話休題しよう。アタシの名前は、桂三郎。時の総理大臣と一字違いだよ」
「わたしは、ようこ。ひいおじいちゃんがつけてくれたなまえなの。――ソーリは、ナカソネさんよ?」
「ナカソネ? 誰だい、その人は?」
「わたしも、よくしらないけど、ナカソネがコーシャをつぶしたからタバコがにひゃくえんをこえたって、いつも、おとうさんがぐちぐちいってるわ」
「おいおい、ちょいと待ちなよ、お嬢さん。一番高い敷島だって、口付き二十本で八銭だ。二百圓もあれば、単純計算で二百五十箱は買える。だいたい、給料のおおよそ七ヶ月分をタバコひと箱に使うなんて、正気じゃない。そこそこ良い自転車だって買える値段なんだからさ」
「わぁ、すごい。――あれ?」
二人が通りを抜けて河川敷に出ると、水際で逆さにした木製のビールケースの上に桶を置き、一人の少年が顔を付け、その横で二人の少年が秒数を数えているのが見える。
「あのひとたち、なにしてるの?」
「あぁ、アレね。今日の昼間に、ハリー彗星が接近するという話は、知ってるか?」
「あっ。それなら、テレビでみたわ。おほしさまがとおりすぎるんでしょう?」
「ん? テレビが何かは知らないが、その歳で星が通過するという認識が出来てるなら、重畳だ。なかなか賢い頭を持ってるね」
「えへへ。どういたしまして」
青年が頭を撫で、少女が照れると、青年は話題を戻した。
「それで、あの馬鹿たちの話だが、彗星接近の話から飛躍して噂が噂を呼んだ挙句、とんでもないデマゴギーが広まってね。尾に含まれる猛毒成分により、地球上の生物は全て窒息死するという根も葉もないことを信じる奴が出て来たんだ」
「まぁ、大変」
「そこから、毒によって空気が無くなるのは五分間だから、そのあいだを耐え凌げば生き残れるという話になり、あぁやって息を止める訓練をしたり、自転車屋のゴムチューブを買い占めたり、自棄になって全財産を道楽につぎ込む者が出たりしてるってわけだ」
「へぇー」
「まぁ、一時的には経済は潤うだろうけどね。商売人は、ハリーさまさまだと思ってるさ。ハハッ」
乾いた笑いを一つこぼすと、木蔭に入って立ち止まり、青年はつないでいた手を離して前方の駄菓子屋を指差しながら言う。
「さて。君の家を探す前に、ひと休みするとしよう。そこで飴でも買ってくるから、ここで待っててくれるかい?」
「はぁい」
「いい返事だ。すぐに戻るから、動かないでくれよ」
そう言って、青年は袂に手を入れてがま口を取り出しつつ、駄菓子屋へと向かった。
五分ほどして青年が飴玉を持って戻ってくると、少女の姿は、どこにもなかった。