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煙草と灰皿

作者: 津村基樹

 どうにも落ち着かない。

 のは、ひとつ席を挟んだ窓際に座っている彼女の様子がいつもと違うからだ。普段は周囲の全てどうでもいいとでもいった様子で本を読んでいる彼女は、今はなんというか、有り体に言ってしまえば、なにかを思い悩んでいるようなのだ。手に持った小説を開きもしない。あれでは登場人物も泣くだろう。

 もっとも、実はこの昼休みの図書室で、本を読んでいる人間の方が稀だったりする。大抵の生徒は、といっても大した人数がいるわけでもないのだが、教科書とノートを広げて勉強に勤しんでいる。俺たち二年は昨日、試験期間が終わったところだが、そうでない学年もあるのだろうか。それなら今の時間は放課後にあたる。

 そんな空間で、彼女は本を読むでもなく、勉強をするでもなく、もちろん昼食をとるでもなく、ただ手元の小説に目を落としたままなにごとか考え事をしている。俺が時折そちらを伺っていたことには気づいていたのだろう、彼女は俺の本を向き、口を開き――

「……」

 そして、そのまま閉じた。元の通り小説の表紙に視線を戻す。

「いや、なんなんだよ」

 思わず突っ込むと、彼女は嫌そうに顔を上げた。……そんな顔をしなくてもいいだろう。

「煙草」

「は?」

 それきり彼女は口を閉ざした。なんなんだ、一体。

「吸ってみたくなったってんなら、やめた方がいいぞ。リスクが半端じゃない」

「肺癌とか」

 予想に反してリアクションがあった。

「だけじゃないけどな、癌は。喉、食道、胃、膀胱……。それに確か、癌以外にも、肺が炎症起こして吸った息を吐けなくなるって病気があったはずだ。死ぬに死ねなくて地獄の苦しみを味わうっていう」

「習った。中学で」

「おっと」

 事あるごとに雑学を言うのは俺の直すべき癖みたいなものだが、年々それも難しくなってくる。それはひとつには鬱陶しく思われるということもあるが、他に、それまでは雑学として通用した知識が、歳をとるにつれて常識になっていくということがある。

「それに、吸ってみたくなったのは私じゃない。……誰にも、言わないでほしいんだけど」

 その声の調子を聞いて、さっきの「嫌そうに」というのが間違いだったことに気づいた。「躊躇いがちに」というのだ、あれは。表情を出さずに話すせいで、彼女の感情は捉えにくい。しかし、文句を口に出していなくてよかった。

「ああ」

 俺は答える。安請け合いはするべきでないが、彼女との会話を誰かに話すというのは考えられないことだ。そもそも話す相手がいない。

 躊躇いがちに、彼女は口に出す。

「それまで吸ってなかった子が、いきなり煙草に手を出すっていうのは、どういう心境なんだろう」

「……どう、と言われても」

「違うな、そうじゃなくて……」

 どうにも要領を得ない話だ。普段から彼女の言うことはわかりにくいことも多いが、要領を得ないということはない。俺は言った。

「最初から話せ、最初から」

 頷く彼女を見ながら思う。彼女が相談というのもまた、珍しい。


 彼女に友人は少ない。そのことを俺は本人の口から聞いたわけではないが、以前そんな話をしたときに、彼女は否定しなかった。彼女の渾名はその面倒な受け答えの様子からつけられたものだ。自分が何か言ったとき、いちいち発言の理屈を問うてくる相手と、友人関係を築くのは難しいだろう。その渾名を『「哲学」さん』という。

 しかし、その「哲学」さんにも、全く親しい人間がいないわけではないらしい。これまた否定されなかったというだけのことではあるが、俺は彼女に少なくとも一人、仲のいい生徒がいることを知っている。その生徒は俺と同じ合唱部で、合唱部には俺の他に男子部員はおらず、従って女子であるということもわかっている。今回、彼女が話した中に登場する『その子』も、特に説明がないところをみると同じ生徒なのだろう。……逆にいえば、俺が彼女について知っているのはその程度だ。極めてどうでもいいことではあるが――俺は彼女の名前も知らない。彼女が俺の名前を知っているか、そのことも知らない。

 さて、話に登場するのは三人だ。彼女自身と『その子』、そしてその先輩。この先輩というのが大学生で、彼女と友人の『その子』の二人は、試験対策として勉強を教えてもらうことになったのだという。その先輩本人の勉強は大丈夫なのかと他人事ながら気になるところだが、そういえば大学では学期が始まるのが高校よりも遅かったはずだ。とすると試験はもう少し後か。とにかく、そういう経緯で彼女たちは、先週の土曜日に市民会館に集まった。

「熱心だな」

 俺は思わず口を挟んだ。市民会館に自習ができるスペースがあり、半年後に受験を控えた三年生がよく利用しているらしいことは聞いているが、俺自身は使ったことがない。

「数Ⅱが酷かったんだって、その子、二学期の最初の試験で」

「それはそれは。ちなみに、あなたは?」

「私の成績がどう関係があるの」

 ……この会話の流れでそんなことを言うか。

「フェアじゃないなあ」

「フェアというなら、きみの点数も聞かないと」

「よし、続けてくれ」

 俺としても、あの英語二科目の惨憺たる結果を知られたいわけではない。

 会館の自習スペースの利用は午後五時までだ。五時少し前にそこを引き上げた彼女たちは、今度は場所を先輩の部屋に移すことにした。そんなに長い間よく頑張るものだとも思ったが、彼女の話ではどうもそれ以降は勉強だけをする予定ではなかったらしい。翌日も休みという日のことだ。

 それにしても、だ。後輩の女子二人を自宅に招くくらいだ、その先輩も女なのだろう。この彼女が女子トーク! 俺は内心密かに感動していた。あえて口には出さないが。

「なにか失礼なこと考えてる」

 あえて口には出さないのだから、あえて表情を読まないでほしい。

 ともかく、彼女たちは移動した。そこで先輩の自宅近くの駅まで来たところで、三人のうち彼女だけが少し遅れて行くことになった。理由を尋ねたところ、「この話には関係ない」との答えが返ってきたが、大方トイレにでも行っていたのだろう。聞くところによると彼女と先輩は初対面だというし、初めて訪れる家のトイレを借りるのを避ける気持ちはまあ、わからなくもない。

 十分ほど遅れた彼女が到着すると、出迎えたのは先輩ではなく友人だった。『その子』の話では先輩は飲み物を買いに行ったらしい。少しの間とはいえ留守番を任せられるあたり、『その子』は先輩に信頼されていたということか。それだけのつきあいがあったようだ。そういうわけで、彼女と友人は二人で先輩を待つことになった。

 そして彼女は気づいたのだ、部屋の中に、煙草の臭いが満ちていることに。

 煙草の臭いがする、と彼女は言った。友人は部屋の真ん中の卓袱台を指した。卓袱台には小洒落た陶器の灰皿があり、その上には一本の煙草が寝かされていた。火は消えていたという。

 大学生である先輩が二十歳を超えているかどうか、特に彼女は語らなかった。それは「この話には関係ない」ということなのだろう。とにかく先輩は喫煙者だった。

 一旦はそれで納得した彼女だったが、友人と会話を続けているうちに、どうもそうではないらしいことがわかった。煙草の臭いは『その子』からしているようなのだ。再び彼女は言った。煙草の臭いがする。今度は、相手の方を見ながら。

 『その子』は、口元に手をやった。ほとんど反射的な仕草だったように、彼女には見えたという。

「……なるほどなあ」

 これが、ただその友人の方から煙草の臭いがしたというだけだったら、臭いは部屋から移ったのだということも考えられる(たかだか十数分その場にいるだけで臭いが移るかどうかは疑問だが)。しかし『その子』が自分の口を気にしたというなら、それはもう、私は煙草を吸いましたと自ら白状したようなものだ。

「それで?」

「それで、とは」

「いや、それからどうしたんだ。直接本人に訊いてみるとか」

「……なんて訊くの」

 まあ、確かに。どうしてあなたは煙草を吸ったのですか? ――なかなか、仲のいい相手に言える台詞ではないだろう。どうしても問い詰める響きが混じる。

「それに、私はその後すぐに帰ったから」

 彼女は『その子』に懇願されたのだという。悪いが今日は帰ってほしい、このことは誰にも言わないでほしい……。だから彼女はその後、灰皿の煙草を見つけたであろう先輩がなにを言ったかを知らない。

「一応、言っておくと」

 そう、俺が前置きを置くと、彼女が目で先を促した。

「未成年者の喫煙は法律で禁じられてはいるが、それ破ったからといってどうなるわけでもない」

 本人は煙草を取り上げられるだけだ。

「罰せられるのは保護者とか、売った人間だな。吸った本人に罰が及ぶことはないんだ」

「……それが」

 彼女は、呟くように言った。

「この話に、どう関係があるの」

 言われて、俺は考える。たとえ法律で罰せられないといっても、例えば学校に知られればそれなりの処罰はあるだろう。それになにより、彼女はなにも友人が罰せられるから悩んでいるわけではないのだ。

「ない、な。ああ、なかった」

「ないでしょう」

「悪かった」

 余計なことを言うべきではなかった。けれどその俺の謝罪を、彼女はまるでなかったことのように聞き流す。それならそれでいいが。

「それにしても、よく他人に話す気になったな」

 罰則云々は置いておくとしても、親しい人間の「悪いこと」には違いない。少しでも広まることを心配するところだろうに。

「心配はしてない。相手はきみだから」

 彼女の台詞には、なんの照れも気後れもなかった。

 俺の方はそうはいかない。なんとか声を絞り出すことしかできない。

「な、る、ほど」

 それでもすぐに気を取り直す。互いの名前も怪しい間柄だが、この四月に出会ってもう半年以上のつきあいだ。信頼されているとわかれば、悪い気はしない。

 考えてみよう。


 一番簡単な解答はこうだ。「彼女の友人、『その子』は先輩の自宅を訪れ、そこで丁度一人になった折に煙草を見つけた。喫煙に興味を持った『その子』は煙草に火をつけ、それを吸った」。これまでの彼女の話に反証はないし、単純で、なにより無理がない。これが一番ありそうな答えに思える。

 それでもこれを答えとするわけにはいかないのは、彼女が納得していないからだ。彼女は友人がそんなことをする人ではないと思っている。この問答が彼女の悩みを解くという形をとっている以上、そのことはまず事実として捉えなければならない。話題の前提、数学の仮定。『その子』は興味本意で煙草を吸うような人間ではない。

 問題把握は正確に。すると、問いはこうだ。「彼女の友人、『その子』は先輩の自宅を訪れ、そこで興味本意以外の理由で煙草を吸う必要に迫られた。その理由とはなにか」。

 事ここまで至ると、やっていることは普段の俺たちのゲームと変わりがない。どちらかが問いを出し、どちらかが答える。それはつまり、導かれた答えが事実とは限らないことを意味している。人が考えに使うことができるのは自分が知っていることだけで、それで正解に至れるとは誰が保証してくれているわけでもない。これは彼女のモットーでもある。だから俺たちはいつも、互いに事実らしいと認めた解答を正解とするのだ。

 俺たちにできるのは、事実らしい答えに至ること――そして、それが事実であることを祈ることだけだ。

 さて、問題を把握したら、今度はそれを解かなければならない。

「煙草はどこにあったんだ?」

 眉をひそめられてしまった。

「だから、灰皿の上だってば。灰皿は卓袱台の上。卓袱台は部屋の真ん中」

「残りの煙草だよ。火のついてない方」

 ああ、それなら、と彼女は説明した。

「部屋の隅に棚があって、そこの籠にライターと一緒に入ってたよ。籠はむきだしだった」

「ってことは、煙草は『その子』にも簡単に見つけられたわけだな」

「そう思う」

 しかし、これだけではどちらの証明にもならない。灰皿を見れば部屋の主が喫煙者だということは誰にでもわかる。

「それにしても、ライターも一緒だったか」

「使った後に戻したんだろうね。部屋には他に火のつけられそうなものはなかった。もしかしたら、どこかにマッチでもあったかもしれないけど」

「まあ、わざわざライターがあるのにマッチを探すこともないよな」

 『その子』は目についた煙草をそのまま吸っているのだ。火をつけるにも当然、同じ場所にある道具を使っただろう。

「でも、それがどうしたの。使ったら元に戻すでしょう」

「吸った煙草は放りっぱなしだぞ」

「処分の仕方がわからなかったんじゃないかな。元は火がついてたものだし」

「考えられなくはないが……」

 それでも、『その子』は最初、その煙草を先輩が吸ったものだと主張したのだ。ごまかそうとする意図があったことは間違いない。

「残りの煙草はボックスに入ってたんだよな」

 まさかばらで放り出されていたということはないだろう。

「本数、わかるか?」

「一箱に何本入ってるかなんて私は知らない。でも少なくとも、一本しか抜き取られてないように見えた」

「……よく確かめられたな」

「自分で訊いておいて、そういうことを言う」

 賞賛しているのだ。

「その子は私を監視してたわけじゃないから」

それにしても、一本だけ?

「それじゃ、すぐばれるだろ」

 二十本入りにせよ十本入りにせよ、そこから一本を取り出したというのは、つまり未開封のものを開けたということだ。そんなことをすれば本来の持ち主である先輩に気づかれないはずがない。そうでなかったとしても先輩が本数を数えている可能性はあるわけだが、どちらにせよ、そんなことに思い至らないことはないだろう。

「そうだろうね」

「先輩にはばれてもいいと思っていた……?」

 それでは、なんのためにごまかそうとしたのか。ところで彼女は最初、市民会館から移動した先を先輩の「家」ではなく「部屋」と言った。

「先輩、一人暮らしなんだよな」

「ルームシェアをしてたようには見えなかった」

「なら」

 騙す相手は一人しかいない。

「『その子』が騙そうとしていたのは、あなただ」

 それを聞いても彼女は表情ひとつ変えなかった。当然、既にわかっていたことだったのだろう。

 煙草を吸ったことを先輩に知られるのはよかったが、彼女に知られるとまずかった。すると、次に考えるべきは。

「『その子』が煙草を吸うことを、先輩は知っていたのか、いなかったのか」

「そうなるね」

 だが、『その子』と先輩が共謀していたというならば、それは結局のところ興味本意と変わらなくなる。

「ちなみに、その日あなたたちが先輩の部屋に行くことは、いつ決まったんだ?」

「最初から決まってた。土曜の予定を立てたときから」

 なら、なおさらだ。例えば先輩が『その子』に煙草を吸わせてやろうとしたのなら、あえて彼女がいる日を選ぶ必要はない。

 だが、彼女は更に可能性を挙げた。

「強要されてたってこともある」

「強要って、なあ」

 なんらかの事情で脅されていた? 先輩に、彼女の前で煙草を吸うように?

「もしそうだったとして、それなら今日までの間にあなたに相談されてると思わないか」

「わからない」

 彼女の答えは、強かった。

「わからない」

 ……これは、失言だったか。また。

「もし、そうだったとしたら」

 取り繕うように、俺は言葉を継ぐ。

「『その子』の行動は矛盾してるよ。あなたにごまかす意味がなくなる。先輩は『その子』が煙草を吸うことを知らなかったんだ」

 先輩も、そしてもちろん彼女も、『その子』が煙草を吸うことを知らなかった。その上で、先輩に知られるのは構わないが、彼女に知られるとまずかった……。この条件は、そのまま煙草を吸った理由にも適用できるのではないか。先輩に知られるのは構わないが、彼女に知られるとまずい、事情。そして場所は先輩の部屋だ。

「『その子』は、先輩がしていたなにかを、あなたに隠そうとしたんじゃないか? 煙草はそのための手段だった」

「なにかっていうのは、なに」

 それを考えるのはこれからだ。

 煙草を吸うことで隠せること。もっといえば、煙草を使って隠せること。煙草というのは独特なものだ。それでいてどこでも目にするから、かなり強い印象を残す。例えば焦げ跡、いわゆるタバコ穴なんかは、見ればすぐにそれとわかるだろう。印象の強いものは他のものを覆い隠すのに役に立つ。

 『その子』は煙草をどう使ったのか。こうなると気になってくるのが、彼女の話の中の煙草の様子だ。

「さっき、煙草は寝かされていたって言ったか」

「言ったよ」

「なら、煙草はまだ長かったんだな」

 彼女は頷いた。

「ちょっとは短くなってたけど、よく捨てられてるほどにはなってなかった。形も保ってたし」

「噛んではなかったのか」

「さあ、それはわからない。咥えるだけなら跡も残らないでしょう」

 それにしても、煙草一本吸うのにどれだけかかるか知らないが、十分を超えてまだ長いままということはないだろう。火をつけてすぐに消したのか? あるいは火をつけたのが遅く、吸い終わる前に彼女がやって来てしまったのか、さもなければ。

「火をつけたまま、放置されていた」

 考えてみれば、煙草を使うのにずっと吸っていなければならないということはない。それに、煙草には火がついている限り、ずっと立ち上り続けているものがある。

「煙……」

 答えは最初から出ていたかもしれない。それは事の発端になったもの。

「臭い、だ」

 しかもそれは、重要なことだが、煙草を吸うというリスクを冒してでも隠さなければならないものに限られる。未成年の『その子』が煙草を吸うことよりも、誰かに知られるとまずい、匂い。

 もしかして、と思うものがあった。

「確認するけど、その日に先輩の部屋に行くことは、最初から決まってたんだな?」

「うん」

「なら、もうひとつ」

 彼女は煙草が灰皿の「上に」寝かされていたと言った。「中に」ではない。

「その灰皿は平たい形だった」

「……灰皿は平たいものでしょう」

 そんなことはない。世の中には様々なデザインの灰皿がある。それが部屋に置くものならなおさらだ。とにかく、先輩の部屋の灰皿は平たい形をしていた。

「その、灰皿の中に、煙草以外のものは入ってなかったか?」

 俺としてはそこそこの自信を持って訊いたつもりだった。しかし、彼女は首を振った。

「なにもなかった。底は綺麗だったよ」

「そうか……」

 まあ、もしこの考えが正しかったとしても、それがそのまま放置されているわけもない。俺は息をついた。

「でも、生ごみの中に、なにかの灰が捨てられてた」

「……!」

 顔を上げて彼女の方を見る。

「なにを燃やしたように見えた」

「わからない。でも、葉っぱみたいなものが燃え残ってた」

 なら、ほとんど確定だ。

「乾かした茶殻を燃やしたら、臭い消しの効果があるんだ。その先輩はきっと、灰皿の上で茶殻を燃やすことで、夕方の来客に備えて部屋の煙草の臭いを消そうとしたんだろう」

 彼女が僅かに両目を見開くのを見ながら、訊く。

「麻薬かなにかだと思った。そうじゃないか?」

 返事はない。その反応こそが、俺の推測が正しかったことの証明だ。

「あなたは最初から煙草のことだけを気にしてたけど、麻薬の方はなんとも思わなかったのか」

「あの子の先輩がなにをしても、それは本人の自由だから。私が気にすることじゃない」

 ああ、こいつはそういう奴だ。

 それはいい。彼女の倫理感のなさは、なにも今に始まったことではない。結果論ではあるが、実際にその先輩は麻薬を使っていたわけではないのだ。それよりも、彼女には他に問題にすべきことがあるはずだ。大したことではないが……。

 大したことではないだけ、俺は彼女を睨んだ。

「このことは最初から言ってくれてるべきだったと思うがな。話に関係があることだろ」

 やっていることは同じでも、これは普段の推理ゲームとは違うのだ。彼女の悩みを解く、それが目的だったはず。ならば、情報は全て最初から伝えられているべきだ。

 同じことを考えたのだろう、彼女はすぐに謝った。

「ごめんなさい」

「いや、まあ」

 彼女にも話し方というものがあるだろう。これまでの習慣を変えるというのは難しいことだ。それに、素直な彼女というのも落ち着かない。

「ともかく」

 話を戻す。

「当然『その子』も同じように思っただろう。もうすぐあなたがやって来る。残った灰は捨てて、灰皿を洗っても、匂いはそうはいかない。『その子』は麻薬(﹅﹅)()匂い(﹅﹅)()隠す(﹅﹅)ため(﹅﹅)()煙草(﹅﹅)()吸った(﹅﹅﹅)んだ」

 彼女はなにも言わない。おそらくこれが答えだろう。だが。

「わかってたんだろ、そんなことは? 捨てられた灰を見れば思いつくことだ」

 なにより、わざわざ台所の生ごみを確認するという行為が、彼女は既にここまでたどり着いていたことを示している。

「なら、なにを悩んでたんだ」

 悩むことなどないはずだ。友人が置かれていた状況はわかった。それで煙草を使うというのは当然、褒められた行為ではないが、仕方がなかったとも見ることができる。それすら許さないというほど、彼女は倫理に厳しい人間ではないはずだ。

「だって、それじゃ」

 彼女が口を開く。

「煙草を吸ったことの理由にはならない」

「え?」

「その子は間違いなく煙草を吸ったんだよ。その説明がついてない」

 煙を、臭いを部屋に染み込ませるだけなら、火だけつけて置いておけばいい。わざわざ吸う必要はない――

「いや、だって、それは」

 言いかけて、俺は言葉を切った。彼女と俺の認識の違いに気づいたのだ。

「……はは」

 すると、次は笑いが込み上げてきた。

「なにがおかしいの」

 声を殺して笑う俺を、今度は彼女が睨みつける。

「いや、これこそ、歳をとるにつれて常識になっていく知識だよ」

 そして、ある人たちにとっては一生必要のない知識。すなわち、雑学だ。

「なにそれ」

「煙草に火をつけるには、吸う(﹅﹅)必要(﹅﹅)()ある(﹅﹅)んだ」

 彼女は、ぽかんと口を開けた。さっき茶殻のことを聞いたときもここまで驚きはしなかっただろう。その表情を眺めながら、俺は考える。

 彼女の友人、『その子』は、火のつけ方を知っていたのだろうか。おそらく知らなかったのではないか。先輩を助けようと、ライターを片手に、必死に調べている姿が浮かぶ。そこには俺の知る、同じ部活の誰かの顔が入るのだ。

 そして、それは彼女も同じだ。仲のいい友人の事情を知ろうとこんなに頭を悩ませていた。倫理など関係なしに、ただ純粋に、その友人のことを心配して。

「この答えが事実だったなら、『その子』の方にはもう隠す理由はないだろ。あなたが帰った後で、先輩との間で笑い話で終わったはずだ。クラスでなにか聞いたりしなかったのか?」

「私とその子、クラス違うから」

 そうだったのか。俺はてっきり、彼女たちは同じクラスなのだと思い込んでいた。

「それに、避けてたから。私が」

「そうか」

 親しい相手の事情を探るという行為には、詮索する方に疚しさがつきまとうものらしい。

「なら、話をしてみろよ。それが一番だ」

「……そう、だね」

 彼女は頷いて、それから俺の方をまっすぐに見た。

「ありがとう」

 そう正面から言われると、こちらも照れてしまう。

「けど」

「けど?」

「きみが得意げなのが、腹立つ」

 俺は、今度こそ声を上げて笑った。


 もうすぐ、予鈴が鳴る。

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― 新着の感想 ―
[一言] タバコを吸わない人はけっこう知らなかったりしますね。かく言う僕も吸わない側の人間で、知ったのは20代後半の頃でした。
2018/02/18 13:44 退会済み
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