あなたの目
イルスとエレノアの出会いは、まだ2人が10にも満たなかった時だった。
その日、イルスは父の子爵に連れられて登城していた。既に10年ほど経った今ではどうして登城したのかなど覚えていない。いや、正確にはその後の方が印象深かったのだ。
イルスが緊張しながら城内を歩いていると、突如曲がり角で誰かとぶつかった。
イルスは父に言われて幼い頃から体を鍛えていたから少しよろめく程度で済んだが、相手はそうではなかった。イルスが助けようとする間もなく、ぶつかった少女は尻もちをつく。
「大丈夫ですか?」
イルスは少女に対して手を伸ばした。が、いつまで経っても少女はイルスの手を取らず、視線をさまよわせたままだ。その様子に、何かまずい事でもしたのか、と不安になる。
しばらくして少女が口を開いたが、出てきたのは感謝の言葉ではなかった。
「………マーサ?」
少女は視線をあちこちに向けながら、誰かの名前を言った。おそらく少女の様子からして、いつも一緒にいる人物か、またはつい先程まで一緒にいた人物だろう。
イルスはどうしようかと思い父を見上げる。父は何故か安堵のため息を漏らしていたところだった。
「イルス、彼女は第3王女のエレノア様だ。行こう」
そう言って父はイルスの手を引いてこの場を去ろうとした。王女なら助けなければ不敬罪に問われるのでは、と思うが、父は強引にこの場から去ろうとする。その様子が父らしくなくて、イルスは少女──エレノアを見た。
エレノアは不安げに視線を漂わせていた。イルスはそんなエレノアを放っておくことはできなかった。エレノアのことが可哀想で、悲しそうで、そして愛くるしかった。
いつの間にかイルスは父の手を払っていた。その行動に驚いたのは父もだし、イルス自身もだった。今までこのように父の手を振り払ったことはなく、初めてのことで、イルスは少しだけ不安になる。
父の茫然自失した様子にイルスは胸を痛ませながら、エレノアに近づいた。
「エレノア様、ですか?」
エレノアは突然話しかけられたせいか、ピクッと肩が跳ね上がった。
しばらくして落ち着いたのか、エレノアはゆっくりとした動作で頷く。
「……はい」
「"私"はグリール子爵の長男、イルス・グリールです。先程はぶつかってしまい、申し訳ありませんでした」
イルスはエレノアに頭を下げる。しかしエレノアはイルスの方を見ることがなかった。
「……こちらこそ、すみません。先程までは、マーサがいたのですが……」
そうエレノアは語るが、近くにいるのはイルスと父だけだ。いったいどういうことだろう、とイルスは思う。父や母に教えられた常識では、王子や王女は常に身辺警護の者たちが控えているはずだった。しかし、見渡す限りそのような人物たちはいない。
その事実に疑問を抱きながら、イルスは手を差し出す。
「エレノア様。王女ともあろう方がそのような体勢のままではいけません。どうぞ私の手を掴んでください。私の手では嫌だとおっしゃるのなら別に手は取らなくてもいいですが」
「え……?」
エレノアは呆気にとられていた。ただ視線をさまよわせる。
「あ、あの……」
エレノアがあらぬ方向を向きながら言った。イルスはその王女らしくない態度に、ただ疑問を抱くばかりだ。
「手、ありがとうございます。ただ、わたし、目が見えなくて……」
イルスはその言葉に驚いたものの、納得をした。エレノアの瞳は1度もイルスを捉えることはなかったし、それならマーサという人物がいなくなったことにも気づかないだろう。
「では、失礼ですがお手を拝借してもよろしいでしょうか?」
「え、あ、はい」
イルスはエレノアが見れないことを分かっていながらもエレノアに対して笑ってみせ、その手を取って立ち上がらせた。
これは不敬罪かな、と諦め気味に思いながら、イルスはエレノアの手を離す。
「エレノア様、勝手に御身を立ち上がらせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、ありがとうございます」
エレノアはそう言いながら笑った。相変わらず目線が全く合わないが、それでも綺麗だとイルスは思った。
「イルス」
後ろから聞こえてきた、父の震えた声に、イルスは振り向く。父の顔は明らかに青ざめていて、口がわなわなと震えていた。
イルスはその反応に首をかしげた。彼自身は当たり前のことをしたつもりなのだ。
父が絞り出すような声で言う。
「……おまえ、エレノア様を助けたら、王妃様に…………」
それだけでイルスは理解した。王妃がこの国で第2位の権力を持っているのは常識で、きっとエレノアは王妃から恨まれているのだろう。そして、そのエレノアを助けた自分も、王妃にとっては恨む対象だ。
うう、と父は呻きながら、残酷な事実を告げる。
「俺は、母さんのことが大切だ。王妃様に恨まれたら、母さんも終わりだろう。だから……」
「勘当、ですか?」
「…………」
父は何も語らない。そのことが肯定を示していた。
重苦しい沈黙が降りる。イルスは自嘲気味に笑った。笑うしか、なかった。もうどうしようもないことだから。
幸いにも、イルスには2歳年下の弟がいた。きっと、彼が家督を継ぐことになるだろう。
「……あの、」
それまで沈黙を保っていたエレノア様が口を開いた。
「わたしが、彼の身元を引き取ります。彼に、やって欲しいことがあるので。その代わり、わたしが彼を王妃様から、できる限り守ります」
その瞳は父の方に向いていなかったものの、強い光が宿っていた。
その後、イルスは勘当され、エレノア付きの従者となった。わざわざ王妃に睨まれているエレノアに付き従うイルスは奇異の目で見られたものの、すぐに忘れ去られた。
理由は王の寵愛を受ける娘が現れたらしい、という噂が出回っていたからだ。それは事実らしく、王妃も手間をかけて、害のないエレノアを虐めるよりは、今王妃の権力を危ぶませている方に労力を割いた方が良いと分かっているのだ。
後日エレノアにイルスが訊くと、随分前からそんな噂があったらしい。だから危険がほとんどないことはあらかじめ分かっていたらしかった。
父は滅多に登城しないため、知らなかったらしい。
そして、エレノアがイルスにやって欲しいこととは、"目"だった。エレノアの代わりにこの国を、この世界を見て、彼女に伝えること。それだけであった。
「それだけで?」
「ええ、そうよ」
エレノアは楽しげに笑う。
「……エレノア様の、仰せのままに」
血に濡れた剣を鞘には戻さず、そのままにした。ポタ、ポタ、と鮮血が白いシーツの上にシミをつける。
純白のシーツが真紅に染まっていく様は、美しくて、恐ろしくて、そして罪の証だった。
イルスはベッドから降りる。そして開かれたままのエレノアの目を閉じた。前々から白いと思っていた肌は、さらに青白くなり、生気が全く感じられない。
当然だ。死んでいるのだから。
そろそろ"裏の"革命軍も城内に潜入している頃だろう、と思いながらイルスは今一度エレノアを見た。美しい髪はシーツの上に散らばり、その顔はぞっとした美しさを感じさせた。
「……エレノア様、あなたの望みを叶えます」
騒がしい城内で場違いなほど静かなこの部屋で、イルスはエレノアに語りかけた。
返事はない。それでも良かった。
「この国が新たな門出を迎えるのを、見ていてください」
そう言って、イルスは部屋を出た。
鮮血が床にシミを作る。それはまるで涙のようだった。
「イルスおじさまっ!」
舌足らずな声は今年7歳となる姪のものだ。イルスは駆け寄ってきた小さな少女を抱き上げる。
「久しぶり、エリー」
イルスはいつも、この少女を見る度に罪悪感に押しつぶされそうになる。
エリーはエレノアと同じ色を持っていた。同じ色の髪に同じ色の瞳。しかもぼんやりとだがエレノアに似ているとなれば、生まれ変わりとしか思えない。
けれどそう思うのはイルスだけらしく、エリーの父である弟はそうは思わないらしい。自分や妻と少しずつ似ている、と言う。
イルスが生まれ変わりだと思うのは、もしかしたらただの先入観かもしれないし、はたまたは誰よりもエレノアの近くにいて、エレノアのことをよく知ってたからかもしれない。
どちらが正しいかなど、確かめる術はない。
ただイルスはエリーを見ると辛くなる。それだけだ。
「イルスおじさま!また王女さまの話をしてください!わたし、王女さまみたいになりたいです!」
「…………そうかい」
イルスは何とも言えない顔になる。エリーがこのままエレノアのように考えるようになったら、と思うと恐ろしい。
その時自分は正気でいられるだろうか。
「おねがいします!」
「うーん、じゃあまた今度ね」
「むー」
ぷくっと頬を膨らませて、エリーは拗ねる。その子供らしい姿に安心するのはいつものことだ。
──見て。見続けて。この国の未来を。より良くなったこの国を
その言葉を思い出し、イルスは辛くなると同時に幸福感にも包まれる。エレノアは残酷なことをお願いしたと思う。後を追って死ぬこともできず、何度嘆いたのか分からない。けれど、この思いを託してくれて、それほどまでに信頼されていたと実感できて、幸せになる。
「……じゃあ、お父さんとの話が終わったらね」
「やったぁ!おじさん好き!」
そう言ってエリーが抱きついてくるのが、とてつもなく苦しくて、そしてエレノアを思い出し、幸福感に包まれるのだ。
全ての話を、それぞれ別の人から見た話にする予定です。
次は革命軍のリーダーの話です。




