1-8
「倉橋・・・くん?」
私は一人街灯の下で呟いていた。
なぜだろう。
私は彼とは一度も喋ったことないし、彼がどんな性格なのかすらも知らない。
なのになんでだろう。なんでこんなにも心が晴れたのか。
まるで暗闇に閉ざされた空間で、どこから現れたのかすらもわからない光が急に空間いっぱいに光り弾けるかのように心の中で明るくなった。
別に私は彼のことが好きなわけじゃない。顔がタイプなわけでも声がタイプなわけでもない。
ただ、どことなく私に似ている。それだけの事しか思っていないはずなのにどうして私は今、彼の姿に釘付けになっているんだろう。
話してみたい。言葉を交わしあってみたい。今どんな事を思ってどんな事がしたいのか聞いてみたい。
そんな、恋する乙女のような事を私はずっと思っていた。
街灯を掴んでいるこの手を離して彼のところに向かいたい。向かいたいけどなかなか彼の元に向かう一歩が出ずにいた。
もしも全部私の勘違いだったらどうしよう。
もしもうざがられたらどうしよう。
もしも話しかけて気分を損ねたらどうしよう。
そんなもしもの話が私の心に鎖のように結びつき動けずにいる。
何度も街灯から手を離そうとするが離れず、何度も一歩を踏み出そうと思うが踏み出せない。
ー あんた、いつまで人に頼ってるつもり?自分で現状を打破しようともせずひたすら誰かの助けでも待つの? ー
私はそんな言葉を思い出していた。
中学の頃、かつて親友と呼べる人物から投げかけられた最後の言葉だった。
いまでもまるで呪いのようにこの言葉が時々胸を刺す。弱い自分が嫌いでたまらなくなったのもこの言葉のせいだった。
私だって打破できるものならしたい。だけど私は弱い。非力なんだ。
チャンスすら訪れないのにそんな事ができるはずがな・・・。
そう考えてる途中で私は気づく。
「チャンス・・・。」
もしかしたら今がその「チャンス」とやらじゃないのだろうか?
正直彼と話す事でなにかが打破できるかはわからない。
でももしも私が今ここで彼に話かけることができれば、それは今までの私だったら到底することができなかったことなのだから、現状を打破とまでは行かずとも新しい一歩になるのではないか?
そうすることで今までの私よりは少しは変われるのではないか?
そう考えた。
どうせこれからの人生良くなるか悪くなるかなんてもうどうでもいいんだ。
でも、もしも彼と話す事で何か変われるなら変わりたい。
すると急に、結ばれていた鎖がほどけるように手が自由に動き足も軽くなった。
「よし・・・頑張ろう。」
そう一言小声で気合を入れ彼の元に向かう。
彼に近づけば近づくほど手足が震える。気温的には寒いくらいなのに握った手の中で汗が出てきた。
一歩、一歩とゆっくり近づく。そして5mほどの距離まできたところで私は止まった。
彼はなにか考えてるかのように前を向いていて、私からは今どんな表情をしているのかはわからない。
「男の人の背中・・・。」
久々に男の人の背中をまじまじと見たので、小声でそう呟いていた。
大きくてたくましい。ほんとにこんな立派な体の持ち主の彼が、私みたいに悩みなんて持っているんだろうか。
今になってそんな不安がこみ上げてくる。
どうしよう。 どうやって声かけよう。
スタンダードに「こんばんわ」とかでいいのかな? いやでも、その後の会話はどうすればいいんだろう。
そう悩んでる時だった。
「ああああああああああああああ!!!!」
目の前にいる実に男の人らしい背中を持った彼はそう叫んだ。
「え・・・。」
急に目の前で叫ばれてしまい反射的に私も声がでてしまうと、彼は私の声を聞いたのか驚いた様子で振り向いてきていた。
風で靡いたのか前髪が横に流れ、顔がくっきり見える感じになっており、透けるような黒い瞳の奥には僅かに涙を浮かべている事に気づいた。
あまりにも予想外の状況。次に何を話せばいいのかわからず、私はどうしようかと口をパクパクさせながら少し混乱状態に陥いっていた。
すると彼は開口一番に小さくこう言った。
「え・・・なんで、お前いるの・・・。」
頭の中が真っ白になりいよいよなにを言えばいいのか、なにをすればいいのかすらわからなくなっていた。
視線のやり場すらもどこに移せばいいのかわからない状況だった。
「え・・・えっと・・・ご、ごめんなさい!」
返す言葉を思いつけなかった私はその場ですぐに謝罪をし、逃げるようにその場を去ろうとする。
ー あぁ。やっぱりこうなるんだ。ー
「いや・・・ちょ、ちょっと待てよ!」
ー もう、ほんとに嫌だよ・・・。ー
「おい!!」
後ろから怒号のような声を浴びせられ私は思わず立ち止まった。
怒らせてしまったのだろうか。怖い。本田さん達みたいに私に痛い思いをさせてくるのだろうか。
「は・・・はい・・・。」
体を震わせながら後ろを振り向く。
彼の顔はとても怒っているような顔には見えず、むしろ申し訳なさそうな顔で私を見ている。
私はホッとした後に、バクバクと忙しい心臓を落ち着かせた。
そして彼は私の足元を見ながら言いづらそうに口を開く。
「ご、ごめん・・・俺つい・・・・。」
「だ、大丈夫ですよ・・・。」
私は相手が不愉快に感じないように慎重に言葉を選んで答えながら、私は一つ彼に対して疑問に思う事があった。
どうして彼はあんな風に、何か今にもはちきれそうなほど溜まった思いをぶちまけるかのように叫んでいたんだろう。
もしかしたら私は今すごく場違いな事をしているんじゃないか?
一人で考え込みたい時。そういう時は嫌というほどあった。私はそんな状況の彼に今、こうして出会ってしまったんじゃないか。
そう考え込んでしまうと私の視線は自然と下へ下へと下がっていき、やがて俯いた感じになってしまっていた。
彼はそんな私を見ながら声をかける。
「なんで、ここにいんの?」
「先に・・・いました。」
「えっ、ど、どこに?」
「あっ・・・っちです。」
私は端にある街灯の下にぽつんと設置されていた小さなイスを指さした。
私が指さした後彼は驚きの顔を一瞬見せたがそれっきりで、会話が途切れてしまっている。
それから私は緊張で彼を直視できずにいた。というか私は元々人の目を直視できない。
話相手の人の目を見ていると「私が話相手の人に気があるとか勘違いされていたらどうしよう。」といった風に変な誤解を生んでしまいそうで怖いのだ。
だから私は彼の右肩の少し上に見える星を見たり、彼の後ろにある古びたイスを見たり、足元に生えてる雑草を見たり視線を色んな場所に移動させている。
そんな事をしながら時間の流れを感じていると、時折あたりの木々が揺れ、心地のいい風が流れていたりしていた。
私は、緊張や話のネタなどが浮かばずひたすら色んな場所に視線をずらしているだけだった。
彼は、そもそも顔を見ていないので何を考えていそうなのかもわからない。
ただ、彼の手の親指と人差し指がモゾモゾと不規則に動いていたり、彼の履いてるスニーカーの中で足の指を上下に動かしたりしているのがわかった。
それは私も緊張した際によくやる動きだった。
「私と一緒だ。」
視線は彼の足元の雑草に向けて、少し口角が上がりニヤついた顔になりながら小声でそう呟いていた。
彼が私をどんな風に見ているのかはわからない。だけど、私に少しでも似ている。私と共通点がある。それだけでとても嬉しい気持ちになった。
そう考えながら5分ほど経った頃だろうか。
長い沈黙に耐え兼ねたかのように彼が口を開く。
「名前・・・なんていうの?」
「え?」
私は不意にされた質問に驚き、彼の顔を見ながら呆気に取られたような声で返す。
名前を聞かれたのはすごく久々の事だった。私は普段から名前どころか趣味も好きな食べ物なんてことも聞かれたことがない。
常に私はクラスのみんなとは蚊帳の外。誰も私に興味を持たれないし、私もみんなに興味を持たない。そんな毎日が続いていた。
だからこそ、私に興味を抱いているかのようなそんな言動に驚いていた。
そして、少し間を空けて私は答える。
「木口未依です・・・・。」
私はいつもよりも少し小さな声で、照れるようにゆっくりと言葉を発した。
「未依さんか・・・俺は賢一だ、よろしくな。」
「賢一さん・・・。」
私は彼の名前を確認するように繰り返す。
「さん付けは慣れてないからやめてほしいなあ。」
彼は苦笑しながらそう言った。
「わかりました・・・。なら、賢一君も・・・タメ口で呼んでいいです。」
私は少し照れくさそうに言葉を返した。
これはまるで友達みたいな、そんな関係になっていってるような気がする。
仮に友達とまでは行かなくても、赤の他人ではなくなった気がするのだ。
ほんとに久々にできた話せる相手。そう思うと私は少し微笑んだ。
気づくと、先程まで私が感じていた緊張も今では感じなくなっている。
どうせなら私からも声をかけてみたい。
話のネタなんてどんな些細なものでもいいんだ。
でもせっかく出来たこの小さな関係を私のつまらない話で壊してしまったらどうしよう。
そうやって私はまた臆病者になってしまっていた。
今までも私は前に進もうとせず後ろへ後ろへ戻り続けようとしている。
だけど、ここまできたんだ。後ろに戻るくらいなら前に進みたい。
やっと私の所まで来たチャンス。絶対に無駄にしたくない。
私は暴れる鼓動を抑え、ありったけの勇気を振り絞って固く閉ざされた口をゆっくりと開けていく。
「賢一君も・・・ここが好きなんですか?」
選んだ言葉はそんなありふれたどうでもいい言葉だった。
私にも言えた。
発した言葉はどうでもいい言葉だったが私にとっては次の一歩に繋がる大事な一言だ。
私の質問に賢一君はどうやって返してくれるのか。そう考えながら賢一君の顔をまじまじと見つめる。
すると賢一君は夜空を見上げながら切なそうに、でも小動物に投げかけるようなそんな微笑みをして答えてくれた。
「あぁ。たったさっきこの場所のファンになったばっかだ。ここってすっげえ気持ちが晴れるっつうか、心が軽くなるような気がするんだ。」
私はそれを聞いた瞬間目を見開いた。
目の前に広がる景色全てが急に輝いてるように見えた。
彼の後ろに見えるイスがお城に置いてあるような立派なイスに見える。
振り向いた先に見えるこのシンボルとも言える大きな大樹が華やかに彩られたおしゃれな木に見える。
地面に生えてる雑草が綺麗な薔薇やチューリップのように美しく見える。
全てが華やかに見え、まるで希望に満ち溢れた世界が広がってるかのような光景が目の前に広がっていた。
私と同じだ。
私もそんな理由でこの場所が好きだったんだ。
一緒だ。
賢一君と同じ事、私考えられているんだ。
「そ、その気持ちわかります!わ、私もここ大好きです!」
気づくと私は興奮気味に賢一君に言葉を返していた。
久々にできた赤の他人以上の関係。久々にできた会話。
その相手が賢一君だということ。
それが心の底から嬉しかった。
多分賢一君以外の人だったらここまで喜べる事はなかった。
いつも独りだった私に、いつも孤独だった私に、私とどこか似ている、私と共通点を持った存在の賢一君だったからこそここまでの喜びを感じれたんだと思う。
そんな喜びを私は今噛み締めていた。
春に吹く夜風は肌に染みてちょっぴり寒い。
にも関わらず私の体は信頼のおける人に抱きしめられてるかのような包容力と共に暖かさを感じていた。
自分の今の顔は自分自身では見ることができない。
だけど私の今している顔は、今までで一番の笑顔をしていたと思う。