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第7幕

 息を荒げた馬が荒々しく山道を踏み締める。

 漆黒の鎧をまとった帝国騎兵が、猛然とこちらへ迫って来る。

 敵騎兵の兜の面防は下ろされ、その下の表情を窺い知る事は出来ない。ただ、抜身の刃が怪しく輝いていた。

 くっ!

 私は歯を食いしばり、両手で剣を構えた。

「おおおっ!」

 ルコント先輩ともう一人の先輩騎士が雄叫びを上げ、逆にこちらから突撃を仕掛けた。

 狭い山道で、帝国の騎兵とルコント先輩たちが激しく交錯する。

 金属と金属がぶつかる甲高い音が、盛大に山中に響き渡った。

「マリアちゃん!」

 その攻防の隙に、私は呻きながらも身を起こそうとしているマリアちゃんの元へと駆け寄った。

 マリアちゃんは落馬の衝撃で全身を打ち付けたみたいだが、下が柔らかい腐葉土で助かった。幸い怪我はなさそうだ。

「マリアちゃん、大丈夫?」

「……うう、だ、大丈夫」

 私はマリアちゃんが立ち上がるのを助けると、彼女の前に立ち、再び帝国騎兵の方へと剣を向けた。

 すれ違い様の攻防で、もう1人の先輩騎士も馬上から突き落とされてしまっていた。

 地面に転がった先輩は動かない。

 残るは、ルコント先輩と私だけだ。

 ルコント先輩は敵騎兵1人を馬上から落としていたが、落馬した敵は健在だった。剣を構え、ルコント先輩に対している。

 ……まずい。

 先輩は今、2対1の状況だった。

「マリアちゃん。ここは私たちが押さえるから、今の内に逃げて」

 私は前を向いたまま、背後のマリアちゃんに話し掛けた。

 この山の中を熟知している狩人のマリアちゃんなら、1人でも逃げられるだろう。

 私はマリアちゃんの返事を待たず、ルコント先輩の援護に回るべく走り出した。

「やあああっ!」

 自身を奮い立たせる為の気合いを上げ、徒歩になった敵騎士に向かって突撃する。

 私に気がついた敵騎士が、こちらに向かって剣を構え直した。

 マントをはためかせ、私はその真正面に飛び込む。

 迫る私を両断する様に、真正面から振り下ろされる漆黒の騎士の刃。

 私はひょいと左に飛んでその軌道を外す。

 髪とマントがふわりと流れる。

 敵の剣が、どがっと地面をえぐった。

 ……はっ。

 短く息を吐き、敵騎士の伸びきった腕を狙って横薙の一撃を放つ。

 しかし私の剣は、敵騎士の掲げたガントレットにカツンと弾かれてしまった。

 くっ。

 斬撃が軽いんだ……!

 防がれた衝撃で、僅かに私の体制が崩れてしまう。

 そこへ、すかさず敵が剣を振り上げた。

 その瞬間。

 とすっと軽い音を立て、敵騎士の脇腹、その鎧の隙間に、矢が突き立った。

「ぐぬっ」

 敵が呻く。

 矢……!

 マリアちゃんの!

 しかし今は、マリアちゃんの方を確認する余裕はなかった。

「ああああ!」

 敵が動きを止めたその瞬間。

 私はぎゅっと握り締めた剣に全体重を乗せ、全力で刃を突き出した。

 白刃が、敵兵の兜の隙間に吸い込まれる。

 ぐらりと揺れた敵騎士が、そのまま仰向くに倒れてゆく。

 慌てて剣を引き抜く。

 やった、か……?

 はぁ、はぁ、はぁ。

 つ、次を……。

 周囲を見回す。

 その私の眼前を、ひゅんっと矢が飛んだ。

 マリアちゃんが、今度はルコント先輩の方を援護してくれているのだ。

「死ねぇ! お前らなんか!」

 絶叫しながら放たれたマリアちゃんの矢が、もう1人の敵騎士の馬に突き刺さった。

 激しく嘶く馬が暴れる。たまらず帝国騎兵が振り落とされた。

 しかしその時既に、ルコント先輩は地面に倒れていた。無事なのかどうかはわからない。

「貴様っ!」

 落馬しつつも素早く体勢を立て直した敵騎士は、剣を構えながら猛然とマリアちゃんに向かって走り始めた。その鎧が、激しく音を立てる。

 ……いけない!

 私はだっと地面を蹴り、走り出した。

「お、お前らなんか! 父さんの仇!」

 マリアちゃんはなおも矢を放つが、敵の突撃に動揺したのか、当たらない。命中コースの矢も、敵騎士が素早い動作で身を捻り、避けてしまった。

 私は転がる様に、その敵騎士とマリアちゃんの間に割って入った。

「どけっ!」

 敵騎士がこちらに向かって剣を振り下ろす。

 私は掲げた刀身でその斬撃を受けた。

 ガンっと激しい衝突音が、山中に響き渡った。

 ぐぬっ。

 手が痺れる。

 思わず剣を取り落としそうになる。

 重い……!

 さらに敵騎士が、連撃を仕掛けてくる。

 先ほどの敵騎士よりも、ずっと早い……!

 私は後ろに飛んでその剣をかわし、時には弾いてなんとか捌くが、反撃の隙は見つけられなかった。

 考えなきゃ。

 オレットさんに習った事。

 フェルトくんから学んだ事を……。

 しかし。

 私はじりじりと押されて後退し続ける。

 だんだんと余裕がなくなり、頭の中が真っ白になっていく。

「くっ、もう矢が……。セナ!」

 背後からマリアちゃんの声がした。

 守らなきゃ。

 私がマリアちゃんを、守らなきゃ……!

 私は歯を食いしばり、敵の大振りの一撃を右側面に転がる様に飛んで回避した。

 ざっと地面に片手を突いて勢いを殺す。

 よし、体の横ががら空きだっ!

 私はダッと地面を蹴り、敵騎士の側面に突進した。

 しかしその瞬間。

 敵の無機質な兜が、ギロリと私を見た。

 あ……。

 フェルトくんとの訓練が脳裏をよぎった。

 ……誘い、込まれた?

 体を止めようとする。

 しかし全力突進の勢いは完全には殺せない。

 ぶんっと音を立てて敵の剣が眼前を通過した。

 かわせたっ?

 しかし敵騎士は、続けて体を捻り、片足を振り上げた。

 ドガっと全身に衝撃が走る。

「ぐうっ!」

 敵騎士の蹴りが、真正面から私の胴鎧を打ち据えていた。

 ふわりと私の体が持ち上がる。

 微かな浮遊感が全身を包み込む。

 体重の軽い私は、敵騎士の蹴りによって派手に吹き飛ばされてしまった。

「セナっ!」

 マリアちゃんが叫ぶ。

「うきゅ!」

 地面に打ち付けられ、一度弾む。

 そして蹴り飛ばされたその勢いを殺せないまま地面を転がった私は、不意に空中に放り出された。

「あ」

 背後は、谷川へと続く急斜面。

 その谷に……落ちる!

 マリアちゃんを守らなくちゃ。

 ふと、そう思った。

 敵がまだいるのに……!

 私がっ!

 谷に落ち行く私の目の前で、走り込んで来たルコント先輩が敵騎士の背に剣を突き立てるのが見えた。

 あっ。

 先輩、無事だったんだ。

 良かった……。

 これなら、マリアちゃんを守ってもらえる。

 そう思った瞬間。

 私は、斜面に打ち付けられた。

「ううっ!」

 何度か体が弾み、私はそのまま斜面を激しく転がり落ちる。四肢を踏ん張り回転を止めようと試みるが、ダメだった。

「ううううっ!」

 視界がぐるぐる回る。

 ちらりと谷川の水面が見えた。それと同時に、眼前に迫る太い木の幹も。

「うぐっ……かはっ!」

 全身に衝撃が走る。

 斜面を転がる勢いのまま、私は大木に激突した。

 そこで私の意識は、ふっと闇に沈んだ。



 夕暮れを告げる虫の音が、悲しげに響き渡っていた。

 ふっと覚醒した私の視界に飛び込んで来たのは、茜色から濃い夜の色に変わろうとする空。生い茂った木々の枝葉に切り取られた狭い空だった。

 ここは……。

 直ぐ近くで、ざあっと流れる水の音が聞こえる。むっとする程濃い緑の匂いに混じって、水の匂いも濃密に漂っていた。

 頬をぐにっと押す石ころが少し痛い。

 少なくともここは、実家のベッドでもない。騎士団女子寮の自分の部屋でもない。

 私は、どうして……。

 うつ伏せに倒れていた私は、ゆっくりと体を起こそうと力を込めた。

「ぐっ!」

 その途端。全身をびっくりする様な痛みが駆け抜ける。

 あ。

 そうだった……。

 その痛みで、私は唐突に現在の状況を理解した。

 私は先輩方と偵察任務に出て、そこで帝国軍と遭遇したのだ。それで戦闘になって、マリアちゃんを守ろうとして……。

 谷川に突き落とされた。

「マリアちゃん!」

 私は、ばっと体を起こした。

「ぐう……」

 再び全身に激痛が走る。痛すぎて、思わず涙が滲んでしまう。

 しかし私は、何とか歯を食いしばり、立ち上がった。幸い歩く事は出来た。骨が折れているという事はなさそうだ。

 私はズキズキ痛む左の二の腕を押さえながら、周囲を見回した。

 私が倒れていたのは、谷川の狭い河原だった。

 川の水量はそれほど多くない。しかし谷は深い様で、谷の左右の斜面はいずれも急な崖になっていた。鬱蒼と茂った木々が崖の上から張り出しており、薄暗くなり始めている事もあって、私が落ちてきた谷の上の方を見通す事は出来なかった。

 見渡す限り川の両岸とも似たような地形が続いていて、直ぐに登れそうな所は見つからなかった。そもそも、私がどこから転げ落ちて来たのかも良くわからないが……。

 むむ……。

 私はしゅんと肩落とし、ふらふらと歩きだした。

 周囲の気配を探りながら、登れそうな場所を探す。

 既に日の沈み始めた谷川に、幸いオルギスラ帝国軍の姿はなさそうだった。しかし、油断は禁物だ。目的は不明だが、こんな山中にも帝国軍がいた。敵があの2騎だけとは限らない。先程の様に突発的に敵と出会う可能性はゼロではないのだ。

「あ、うっ」

 私は、そこで初めて自分が剣を持っていない事に気がついた。

 髪を振り、慌ててキョロキョロと辺りを見回す。

 私と一緒に転がり落ちて来たなら、きっと剣もその辺りに落ちている筈だ。

 私は痛む足を引きずって、先ほどより早い歩調でうろうろと河原を歩き回り始めた。

 ……マリアちゃん、大丈夫だろうか。

 谷に落ちる瞬間、ルコント先輩が敵騎士を仕留めるのが見えた。ルコント先輩が無事なら、マリアちゃんも無事に村まで戻れたかもしれない。

 立ち止まり、私は唇を噛み締めた。

 ……もちろんそれは、私の希望的観測に過ぎない事はわかっている。

 誰もいない山の中に1人でいると、色々な事を考えてしまう。

 嫌な事ばかりを。

 その度に首を振ってそれを振り払いながら、私は剣を探し回った。

 辺りどんどん夜に呑まれていく。木々が生い茂った山の中は急速に真っ暗になり、周囲の空気がすっと冷たくなり始めていた。空には気の早い星が瞬き、周囲の虫の音も夕方から夜のものへと変わり始めていた。

 どれくらいうろうろと周囲を探し回っただろうか。

 下ばかり見ていた私がふと顔を上げた瞬間、斜面にきらりと光るものが見えた。

 痛む足を引きずってそちらに駆け寄ってみると、それは崖の半ばの倒木に引っかかっている私の剣だった。

「よかった……」

 私は、ほっと安堵の息を吐いた。

 しかし剣が引っ掛かっている場所は、急な斜面の半ば。よじ登るのも難しそうだし、うんっと背伸びしても剣には手が届かなかった。

 ぴょんぴょんとジャンプしてみるが、ダメだった。打撲した場所がズキズキと痛むだけだった。

 石を投げてみる。当たらない。

 長い棒で突き落とす作戦しかなさそうだが、棒が見つからない。

 うむむむむ……。

 色々と試行錯誤を重ねた結果、なんとか剣を回収する事は出来た。しかしその時には、私はもうすっかりへとへと状態だった。

「はあっ」

 大きくため息を吐き、やっとの思いで回収した剣をパチンと鞘に収める。そして私は、今度はほっと安堵の息を吐いた。

 まずは、これで一安心……。

 では、次にどう動くか。

 私は眉をひそめて周囲を見回した。

 剣を回収している間に、辺りはもうすっかり真っ暗になってしまっていた。

 光源は頭上の空の淡い星明かりだけ。こんな時に限って月は見えない。

 ……急に、心細くなって来る。

 このままこの場所にいても、助けが来る可能性は低い。

 これからどうなるのか、どうしたらいいのかという不安が、私の胸をあっという間に満たしていた。

 ……戻らなくちゃ。

 みんなの所に。バーデル隊長たちの所に。

 そのためには、まず私が転げ落ちて来た斜面を登り、もとの山道に戻らなくてはならない。

 私は暗い河原を辿り、崖を登れる場所を探して歩き始めた。

 どこから落ちたのかわからない。そもそも登れそうな場所がない。体は痛いし、無理は出来ない。しかし私は、立ち止まることなく歩き続けた。

 谷川に沿って、上流へ上流へと。

 じりじり大きくなる焦燥感が、私の足を突き動かしていた。

 しばらく歩いた後でやっと足が掛けられそうな場所を見つけると、私は迷わずそこからうんしょと斜面を登り始めた。

 夜の山はしんっと静まり返っていた。

 私の息遣いと足音、それに微かな虫の音だけが聞こえる。

 時たま微かに聞こえるのは、梟の声だろうか。

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 腐葉土や倒木に足を取られながら、私は必死に山を登った。

 時々休憩するが、また直ぐに歩き始める。体中が痛く、既に疲労困憊状態だったが、立ち止まっているとそれだけ不安と焦燥感が大きくなってしまうのだ。

 先を見上げても後ろを見ても、周囲はしんと静まり返った森の中。闇の中に、ひたすら同じような大木が並んでいるだけだった。

 谷川から随分と登って来た筈だが、一向にもといた山道は見えてこなかった。

 涙がじんわりと溢れてくる。

 私は乱暴にそれを拭って、斜面を登る。

 全然見当違いの方向に進んでいるのではという予感はあった。しかしもちろん、また山を下って別のルートを探すなんて余裕は、今の私にはなかった。

 気力的にも、体力的にも……。

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 汗を拭い、涙を拭う。

 お父さん、お母さん、ハロルドお爺ちゃん……。

「ううううっ……」

 怖くて心細くて、私は1人声を震わせた。

 そうしてどれくらい時間が経っただろうか。

 とうとう私は大木の根本に腰を下ろすと、そのまま動けなくなってしまった。

 抱えた膝に頭を乗せて、私は目を閉じる。

 少し、休憩しよう。そしたら、きっとまた歩きだせる。きっと、もう少し登れば、マリアちゃんが案内してくれたあの道が見えて来る筈だから……。

 真っ暗な山の中で、私は膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。



 大木の根元にうずくまった私は、そのまま少しうとうと眠ってしまった様だった。

 はっとしと目を開く。

 しかしそこは、相変わらずの暗い山中のままだった。

 私は短く溜め息を吐き、再び帰り道を探す為に立ち上がった。やはり体は痛かったけれど、少し休んだおかげだろう。疲労感は幾分ましになっていた。

 周囲を見回してからまた歩き出そうとしたその時。

 ふと前方に、淡い光が見えた。

 ……明かり、だ。

 前方の森の中。地面からぼうっと輝く淡い光が広がっているのが見えた。

 私は、吸い寄せられる様にその光に向かって駆け出した。

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 足が痛いのもお構いなしに、転びそうになりながらも、緩やかになって来た斜面を駆け上がり、私は必死に光を目指した。

 光があるという事は人がいる。もしかしたらルコント先輩たちかもしれない。マリアちゃんか、オーズさんたちか、あるいはバーデル隊長たちかもしれない……!

 暗闇の中、ぼおっと輝く淡い光がだんだんと近付いて来た。

 そして不意に、目の前の景色が開けた。

 はっとして、私は立ち止まる。ばらっと踏みしめた土が落ちていく。

 ちょうど私が立ち止まったその先から、地面がなくなってしまっていた。

 いつの間にか私は、切り立った崖の際に立っていたのだ。

 ここは……。

 恐る恐る崖の下を見下ろしてみる。

 木々が生い茂った崖の下には、緑に飲み込まれる様にして石造りの構造物が並んでいた。

 遺跡、だろうか。

 その至る所に、幾つもの松明の灯りが揺れているのが見えた。先程地面からぼうっと浮かび上がって見えたのは、その松明の光だった様だ。

 松明を掲げているのは、黒い軍装の集団。

 胸の真ん中がきゅっと冷たくなる。

 オルギスラ、帝国軍……!

 疲労と不安でぼうっとしていた頭が、冷水を浴びせられたかの様に一瞬にしてクリアになった。

 思わず一歩後ずさる。

 帝国軍、やはりまだ山中にいたんだ。

 ……それも、こんなに。

 松明の灯りが照らし出す範囲の中だけでも、かなりの数の兵がひしめいているのが見て取れた。100は超えているだろう。

 この規模の部隊が山を下りて襲い掛かって来たら、バーデル隊では支えられないかもしれない。他にも敵部隊がいるなら、尚更……。

 帝国軍がこんな山中で何をしているのかはわからないが、やはり早くバーデル隊長に報告しなくてはっ!

 私は両手をぎゅっと握り締め、小さく深呼吸する。

 取りあえずこの場から離れようとして、しかしそこでふと私は、帝国兵たちが遠巻きに取り囲むその中心から目が離せなくなってしまった。

 ……何かいる。

 遺跡の中央と思しき場所。石造りの舞台の様な場所に、凄く大きくて真っ白なものが、ちょこんと座っている。

 微動だににせず、まるで周囲の自然や遺跡と一体化する様にじっと佇むその存在に、私は直ぐに気がつく事が出来なかったのだ。

 それは、それほど自然に、何の違和感もなくそこにいた。

 あれは……。

 胸が、ドクンと高鳴った。

 目を見張る。

 驚きで体が動かない。

 マリアちゃんの言葉が不意に蘇ってくる。

 この山に住んでいると伝えられているもの……。

 私は、息をするのも忘れてじっとその白い存在に見入ってしまう。

 すっと優美なラインを描いて伸びた首。折り畳まれた大きな翼。体を巻く様に垂らされた長い尻尾。

 その体全体を覆う純白の羽毛は、私の知っている特徴とは違うけれど……。

 間違いない。

 後ろ姿しか見えないけれど、きっと間違いない。

 あれは……。

「竜……」

 私は目を見開きながら、ポツリと呟いた。

 私の目の前に、竜がいる……。

 エーレスタの竜騎士たちの乗竜ではない。山の中で生きている、野生の竜だ……。

 トクトクと胸の鼓動が早くなっていく。

 凄い。

 ……凄い!

 それに。

「綺麗……」

 取り囲むオルギスラ帝国兵の松明の灯りを受け、夜闇にぼうっと浮かび上がるその白い竜は、言葉に出来ない程綺麗だった。

 本当に、綺麗……。

 淡い光に照らし出される純白の羽。

 それはまるで、物語の中の一幕の様な幻想的な光景だった。

 見たこともない凄い竜が、今目の前に……。

 そう思と、思わず胸が震えてしまう。

「機獣隊、前へ!」

 白の竜の後ろ姿に見入っていた私は、しかし不意に崖の下から響いた叫び声に現実へと引き戻されてしまった。

 声を上げたのは、白い竜の足元に展開する帝国騎士だった。羽根飾りの付いた兜を被った指揮官らしい男だ。

 私は、はっとして身をかがめた。

 ……そうだった。帝国軍が直ぐそこにいるのだ。

 しかし彼らは、あの綺麗な竜を取り囲んで何をしようというのだろう。

 私は崖から顔をだし、じっと帝国軍の様子を窺った。

 ズシンと重々しい音が響いた。

 白い竜を包囲する帝国軍の後ろから、何か巨大なものがゆっくりと歩み出て来る。

 それは、全身を金属で覆った様な不思議な格好をした獣だった。

 牡牛にも見えるけど、背中に人が乗っている。帝国軍の新手の騎獣だろうか。

 羽根飾りの兜の指揮官のもと、金属の塊ともいえる4体の獣が白の竜を取り囲んだ。そして白い竜に向かって何かを撃ち出した。

 じゃらりと鎖が揺れる。

 白い竜を捕えようというのか……!

「何で!」

 思わず私は声を上げてしまう。

 こんな立派な竜に、何て事を!

 私は思わず身を乗り出してしまう。

 その時。

 不意にがさりと背後で物音がした。

 ばっと振り返り、私は身を固くする。

 ……何だろう。

 まさか、背後にも帝国軍がいるのかと思った瞬間。

 私の悪い予感は、的中してしまう。

 茂みの向こうから、松明を掲げた帝国騎士がぬっと姿を現したのだ。

 崖下の敵部隊から出た斥候だろうか。

 ……しまった。

 私はぎりっと奥歯を噛み締めた。自分の迂闊さに顔をしかめる。

 それと同時に、私に気が付いた黒の鎧の帝国騎士たちが身構えた。

「何者かっ!」

「貴様っ!」

 帝国騎士たちは、こちらを睨み付けて鋭い声を上げた。

 敵は2人。

 松明を投げ捨てた敵騎士たちが、剣を抜き放った。

「その格好、貴様、エーレスタの騎士かっ!」

「やはりまだ潜んでいたか!」

 敵騎士たちは声を上げながら、私を包囲する様に左右に別れた。

 私を、エーレスタの騎士を警戒していたのは、やはり昼間の山道での遭遇戦があったからだろう。

 私も低い姿勢のまま剣を抜いた。そして、キョロキョロと頭を振って、左右に別れた敵を交互に睨み付けた。

 背中で髪がパタパタと揺れる。

 ……どうする。

 どちらを突破するべきか……。

 その私の一瞬の迷いを、敵は見逃してくれなかった。

 2人の帝国騎士が同時に斬り掛かって来る。

 ううっ!

 私はギっと歯を食いしばる。

 左から迫る敵騎士の剣を弾く。剣と剣がぶつかる甲高い音が、夜の山中に響き渡った。

 間髪おかず右から別の騎士が迫る。

 私はマントを翻してからくもそれを回避するが、その瞬間、右足が崖を踏み崩してしまった。

 しまっ……!

 ぐらりと態勢が崩れてしまう。

 バランスを崩し、ふらつく私に、容赦なく敵騎士が斬り掛かって来る。

 私は剣を掲げて防御する。

 1撃目を弾き、しかし下から来る2撃には何とか刃を合わせるので精一杯だった。

 不安定な姿勢から繰り出した剣は、易々と私の手から弾き飛ばされてしまった。

「……あっ」

 ひゅんっと風切り音を上げて飛んだ私の剣は、くるくると回転しながら谷底に向かって落ちてしまった。

「殺すな。捕らえろ!」

「了解!」

 武器を失った私に対して、敵騎士がぬっと手を伸ばして来た。

 私はガントレットでその手を弾くが、敵騎士はさらに掴み掛かって来る。

「ぐうっ、ううっ!」

 私は唸りながら、必死に逃げた。しかし既に崖ギリギリに追い詰められていた私に、それ以上の逃げ場はなかった。

 再びずるりと足が滑った。

「あ、れ……?」

 そして次の瞬間。

 私の体は、あっけなく空中に放り出された。

 ぐるりと周囲の景色が回転する。

 落ちる。

 谷底に……!

「うわあああっ!」

 口から自然と悲鳴が飛び出した。

 崖の上から顔を出した帝国騎士が、何やらこちらを見て叫んでいた。崖の下の帝国騎士たちも、声を上げているのが聞こえた。

 私はそのまま、崖の中ほどから生える木の枝に突っ込んだ。

 わわわ……!

 必死に腕で顔を守る。

 それでも葉っぱに頬を引っかかれ、細い枝をバキバキへし折って、やっとの事で枝を突っ切ったと思った次の瞬間。

 私の眼前には、白くて大きなふわふわが広がっていた。

「わふっ!」

 私は、その白い羽毛の上にぼふっと落下した。

 一瞬、柔らかな感触に包まれる。

 ふわりとお日さまの匂いがした。

 しかし、それも一瞬の事。

 私はその白い羽毛の塊にぽんと弾かれると、今度はそのまま固い地面に叩きつけられた。

「かはっ……ぐうっ……」

 落着の衝撃で、口から悲鳴と空気が漏れてしまう。

 先ほどの柔らかい羽毛とは対照的に、石が敷き詰められた地面は冷たくてゴツゴツしていて硬かった。

 うううっ……。

 落着の衝撃で頭がくらくらする。それに全身が痺れていた。

 しかし、幸い他は大丈夫そうだ。白い羽のおかげで助かった。直接地面に落下していれば、大怪我ではすまなかったかもしれない。

 それにしても、1日に二度も崖から転落するなんて……。

 私は顔をしかめて頭を振りながら、のそりと体を起こした。

 そこで、ふと気が付いた。

 崖の底に落ちたということは、そこに展開している帝国軍の真ん中に落ちてしまったという事で……。

 顔を上げた私は、その場で凍り付いてしまう。

 私を照らし出す無数の松明。そしてその向こうにずらりと並ぶ敵意の籠もった眼差しと、槍や斧槍の刃、そして銃口の冷たい輝き。

 今その全てが、私に向けられていた。

 物理的な圧力をもっているかの様に、濃密な殺気が吹き付けてくる。

 私は一瞬にして、顔から血の気が引くのがわかった。

 ぐ、ぐううっ……。

 思わずその場に崩れ落ちそうになってしまう。

 壁の様にずらりと並んだ黒い鎧たち。私の視界を埋め尽くす敵兵。

 どこにも逃れる道ははない。

 頭の中が真っ白になる。

 怖かった。

 カチカチと歯が鳴った。

 全身が小刻みに震え始める。

 ……でも。

 でも!

 私は、体の中の勇気を総動員して、キッと帝国軍を睨み付けた。

「オルギスラ帝国め! 私たちの、エーレスタ騎士公国の領土に土足で踏み込んだ報い、必ず受ける事になるぞ!」

 震える足を押し隠すためにも、震える自分を叱咤する為にも、私は目の前の帝国軍に向かって叫んだ。

 私は……私は、こんな奴らに負けたりしないもん……!

 私は騎士なのだ。これでも、エーレスタの騎士なのだっ!

 ぎゅっと握り締めた拳に力を込め、私は帝国軍と対峙する。

 ……もちろん、こんな状況を切り抜ける方法なんて思い付かない。

 今は剣すらもない。

 少し離れた場所に先ほど飛ばされた剣が刺さっているけれど、きっと回収は難しいだろう。

 それでも、諦めない!

 私は、誰かを笑顔にするために騎士になったのだ。誰かを安心させてあげられる様な強い騎士さまを目指して。

 ならば、オルギスラ帝国軍なんかに屈する事は出来ない。

 戦争を仕掛け、マリアちゃんの村に酷いことをしたそんなオルギスラ帝国には、絶対に!

 私はぎゅむっと唇を噛み締めて、太ももに括りつけていたナイフを抜き放った。

 ……負けない!



 しかし私がどんなに力を込めて睨み付けても、帝国の騎士や兵たちは余裕の態度を崩さなかった。私を見下ろしながら、下卑た笑みを浮かべている。

 ……それは、当然だろう。

 私1人に対して敵部隊は100人以上。

 この状況で敵の優位が覆る事など、ありえる筈がない。敵からすれば自分たちの優位は絶対。私は弄られるだけの哀れな獲物に過ぎないのだ。

 十重二十重に展開する敵部隊の前に立った男が、ニヤニヤしながら私に投降を呼び掛けてきた。

 オルギスラ帝国軍独特の羽根飾りを付けた兜を被り、口髭を生やしたその男は、この部隊の司令官なのだろう。尊大な態度で私を見下ろしていた。

 指揮官だけでなく他の帝国兵たちも、私を値踏みするかの様なギラギラとした視線を向けて来た。

 汗が、つっと頬を流れ落ちる。

 敵がじりっと迫る。

 私がじりっと後退した。

 ……もし私に、アルハイムさまみたいな強い力があれば。竜騎士の方々の様な何者にも屈さない強い力があったならば、こんな場面も切り抜けて、帝国軍の企みを打ち砕く事が出来ただろうか。

 もっと私が強ければ……。

 私に力があったならば……。

 私はまた一歩後退りしながら、そっと背後に佇む存在を仰ぎ見た。

「やはり竜……」

 周囲の人間たちの動きなど物ともせず、静かに座り、私や帝国軍を見据えている白い羽の竜。

 崖の上からは背中しか見えなかったが、ここからだとその顔が良く見えた。

 シャープなラインを描くその顔は、やはり綺麗な羽毛で覆われた。

 白の竜の頭は、大まかな輪郭では良く見知った鱗の竜と変わらなかった。しかし、潤んだ緑の大きな瞳と長い鼻梁の先にポツンと付いた黒い鼻など、ゴツゴツと厳めしい竜というよりも巨大な狼を連想させた。

 後頭部には一対の角が生え、その体躯は二階建ての建物ほどの巨大さではあったけれど、私たち人間を見下ろす緑の瞳は澄んでいて、穏やかで優しい光を湛えていた。

 それに。

「綺麗な羽……」

 白の竜の首もとから胸にかけては、特にふわふわな羽毛に覆われていた。

 あそこにぼふっと抱き付けば、きっと気持ち良いに違いない。

 そんな想像のおかげで一瞬緊張の緩んだ私は、思わずふっと微笑んでしまった。

 しかし私は、そこでふと、その白い羽毛の一部に赤い血が滲んでいるのに気がついた。

 あれは……。

 目を丸くする。

 白い竜は、その柔らかそうな羽毛には相応しくない無骨な拘束具に捕まっていた。帝国軍の金属の獣が放ったものだ。

 その拘束具が組み付いた場所から、白の竜は血を滲ませていた。

 綺麗な羽毛が、血の赤に染まっていた。

「何て事を……!」

 私は呆然と呟いた。

 拘束具の鎖の先は、帝国軍の金属の雄牛につながっている。

 私はそちらを一瞥してから、また白い竜を見上げた。

 酷い……!

 こんな優しい顔の竜さんに、こんな酷い仕打ちをするなんて!

 ……この子が何をしたというのだろう。

 これでは、マリアちゃんの村の時と同じではないか。

 全身がカッと熱くなる。体がふるふると震え始める。抑えようのない強い怒りが、全身を駆け巡った。

「こんな綺麗な竜に、何て酷い事を!」

 今度は怒りを込めて叫んだ私は、真っ直ぐに敵指揮官を睨み付けた。

 髭の指揮官は、おどけた様に戦利品だ、土産だと口にするが、その度に私は怒りが爆発しそうになる。

 ナイフを握った手に力を込め、私はギリと歯を噛み締めた。

 エーレスタ領に侵入して来たオルギスラ帝国軍は、罪もない村を襲い、マリアちゃんみたいな子供に辛い思いをさせた。さらにはこうして、山の中で静かに暮らしていた綺麗な竜さんまで傷付けているのだ。

 何の罪もない者たちを傷つけて……。

 そんな事、許される筈がない。

 許してはいけないっ!

 マリアちゃんの村を守る事は出来なかった。ならば私は騎士として、この竜さんだけでも守る責務がある。

 竜の力を借りるエーレスタ騎士団の一員として。

 ……ううんっ、違う。

 誰かを守って笑顔にする為に剣を取った騎士として、私はこの白の竜さんを守らなくてはならないんだ。

 例えそれが不可能な事でも。

 私の力が足りなかったとしても。

 諦めて逃げる事は許されない。

 ……私が許さない。

 私はナイフを構えて、精一杯の力を込めて帝国軍官を睨み付けた。

「……大丈夫」

 私は前を見つめたまま背後の白い竜にそっと話し掛けた。

「……こんな酷いことをしてごめんね。でも、あなたはきっと私が守る。守ってみせるから」

 それは、白の竜へ向けた言葉であると同時に、私自身に言い聞かせる為の決意の言葉でもあった。

 私の目の前には武器を携えた大勢の敵がいる。見渡す限り強そうな兵士や騎士ばかりだ。

 今も私は、怖くて怖くて、微かに足が震えていた。じんわりと涙も滲んでいた。

 しかしそれでも、私は白い竜を守ると決めたのだ。

 この状況で、その立場を貫こうと決意した。

 それが、せめてもの私の譲れない部分。

 貫き通さなければならないものなのだ。

「今度は、私が竜を……」

 一度はアルハイムさまとその乗竜、ルールハウトに助けてもらった私だからこそ、今度は私が竜を守る為に戦う。

 私はチラリと背後の竜を見上げた。

 こちらを見詰める竜さんと目が合った。

 大きな緑の瞳が、少し驚いた様に丸くなっていた。

 ……やっぱり、優しい目だ。

 守ってあげたい。

 傷付けたくない。

 私が……。

 でも。

 私は僅かに目を伏せた。そして眉をひそめた。

「……いえ。もう私じゃ無理かもしれない」

 しかし、決意だけでは現実を変えられないという事も、良く分かっている。

 私が貫くものは、私の意地でしかないのだ。

 言葉が通じる筈はないけど、せめてこの白い竜さんには、人間は帝国兵の様な敵ばかりでない事を伝えておきたかった。

「……でも、エーレスタには竜騎士がいる。きっとみんなが、最強の騎士たちが、あなたを守ってくれるから」

 私はそっと唇を噛み締めた。

 ……お父さん、お母さん、ごめんね。ハロルドおじいちゃん、ごめん。

 私は、竜さんの為に戦います。

 オレットさん、ありがとうございました。

 フェルトくん。

 もしかしたらフェルトくんの言うとおりになるかもしれないけど、それでも私は、竜さんの為に戦ってみせるから。

 私は精一杯気合いを入れて、再び白の竜を見上げた。そして、目の前の帝国軍を睨み付けた。

 さっとナイフを構え直す。

「もういい。捕らえよ。抵抗するなら殺せ」

 私を見た帝国軍の指揮官が、つまらなさそうに吐き捨てた。

 ざっと帝国軍の前衛が槍を構えた。

「くっ……!」

 私が震える足を叱咤して身構えたその時。

 不意に、白の竜を繋ぐ拘束具が白く輝いたかと思うと、帝国軍の金属の雄牛が、ぼんっと白い煙を上げた。

 何?

 突然の事態に、私は眉をひそめる。帝国軍も何が起こったのかわからない様で、整然と並んだ隊列の間にざわめきが広がっていた。

 髭の指揮官も、何だ何事だと顔を引きつらせてヒステリックに叫んでいた。

 状況がわからない。

 私は突発の事態にも対応出来るよう腰を落とし、注意深く周囲を見回した。

 しかし不意の事態は、唐突に頭上から降って来た。

「わふっ! な、何?」

 私の頭の上に、白の竜の巨大な前足が降りて来る。しかし踏みつぶされるという訳ではなく、白の竜さんは優しくポンポンと私の頭を叩いた。

 わわ……。

 な、何だ?

 あ。

 竜さんの足の裏、肉球がある。

 それに、やっぱり少しお日さまの匂いがした。

『そこな少女の騎士よ』

「えっ……」

 突然声が響いた。

 低く重々しい、威厳に満ちた声だ。

 思わず私はぴんっと背筋を伸ばし、周囲を見回した。

『勇敢な少女よ。我が力を貸そう。汝が望む事は何か』

 また声がする。

 しかし周りには、私に話し掛けている様な人はいない。

 混乱したように帝国軍が慌てた様に隊列を組み直し、周辺警戒を強めているだけだ。

 後は私を見下ろし、ぼふぼふと頭を撫で続けている白の竜さんくらいしか……。

 緑の瞳が私を捉えている。

 まさか……。

「……もしかしてあなた、ですか?」

 私は目を丸くしながら、白の竜を見上げた。

 緑の目をすっと細めた白の羽の竜は、重々しく頷いた。

『汝が望む事のために、我が力を貸そう。その対価として、汝に我が望みを叶えてもらいたい』

「私が……」

 私は呆然としながら白の竜さんを見上げていた。

 竜は一般的に高い知能を持っているといわれている。しかしもちろん、人語を操るなんて聞いた事がない。そんな竜は、お伽話や物語の中の存在だけの筈だけど……。

『返答はいかがか、少女の騎士よ』

 白の竜が真っ直ぐに私を見つめてくる。

 曇りのないその瞳に吸い込まれそうになる。

 竜の力を借りられるのであれば……。

 あるいは、この状況を打開出来るかもしれない。

 背に乗せて飛んでもらえれば、この場から脱出し、ここに帝国軍の大部隊がいる事を味方に伝える事も可能だろう。

 でも……。

「私に、あなたの望みを叶えられるのですか?」

 こんな立派な竜さんが望む事。

 それが何なのか、私には想像も出来なかった。それに、私が出来る事だとも思えない。

 白の竜は私の頭から足を下ろす。そして、僅かに首を下げ、私の背後を睨んだ。

「ぐっ! ひ、怯むなっ!」

 ばっと振り返ると、帝国軍が槍を構え、隊列を組んでじりじりと迫って来るところだった。その背後から銃部隊が狙いを付けている。

 私ではなく、竜さんの方を。

「動ける機獣は前へ。突撃して祖竜の動きを封じろ! クソ、俺の昇進が、手柄が! さっさと再拘束しろ!」

 敵の指揮官が唾を飛ばして絶叫していた。

 まずい。

 このままでは、また竜さんが傷付けられてしまう。

「竜さん、逃げて下さい! ここは私が注意を引きつけますから!」

 私はぐっと拳を固めて白の竜を見上げた。

 白の竜は、微かに頷いた。その顔は、まるで笑っている様だった。

『狼狽えるな、優しき娘よ。問題などない』

 白の竜は焦る私などお構いなしに、今度は首を下げて大きな鼻を私に近付けて来た。

『我が望むのは、汝と共に歩む事だ。汝が歩む人の世を、その生を見届けたい。如何か、娘よ』

 ググッと濡れた鼻先を私に押し付けて来る竜。

『汝が逃げるならば逃げよう。戦うならば力を貸そう。我と汝が共に進むのであれば』

 共に。

 私と一緒に……?

 首を傾げる。

 背後から金属の軋む音が聞こえて来る。あの巨大な雄牛が迫っているのだ。

 くっ……。

 このままでは、帝国軍に押し潰されるだけだ。

 時間はない。

 私は白の竜の緑の瞳を、真っ直ぐに見詰めた。

 私に竜さんの望む事を叶えられるかどうかなんてわからない。

 でもこの竜さんが力を貸してくれるなら……。

 きっと、沢山の人を守れる筈。

 アルハイムさまたち竜騎士のみなさんの様に。

 ならば……。

 私はそっと手を差し伸べて、白の竜の鼻に触れた。

「……わかりました」

 私はコクリと頷いた。

「……力を、貸して下さい。その為なら、私は、あなたの望むものを捧げます」

 私はキッと白の竜を見つめた。

 この決断が何を意味するのか、今はわからない。

 でも、竜さんが協力してくれるならこの先の道を切り開く事が出来る筈。

 きっと。

 共にというなら、歩んで行こう。

 この白の羽の綺麗な竜さんと一緒に。

『受諾した。感謝しよう、娘よ』

 白の竜は首を上げ、改めて私を見下ろした。

『我は古き世代の竜。我が名はアーフィリル。この名、今日この場より汝に与える!』

 白の羽の竜、アーフィリルの全身が眩く輝き始めた。

 背後から銃声が轟いた。帝国軍が発砲したのだ。

 しかしその砲撃は、アーフィリルには届かない。アーフィリルの放つ光の表面に、僅かな波紋を作るだけだった。

 帝国軍にざわめきが起こる。しかしいくら銃撃を加えても、同じ事だった。

『汝の名を告げよ』

 アーフィリルの厳かな声が響き渡る。

「セナ、カーライルです……」

 目の前の光景に圧倒されていた私は、ぽつりとそう答えた。

『では、セナ・アーフィリルよ。この時この場より、我が力は汝が力だ。我を従え、汝が思う所をなせ』

 アーフィリルの放つ光が強くなる。

 夜の闇が駆逐され、真っ白な光が広がって行く。

 何が……。

 私は片目を瞑り、手をかざした。

 温かな光が私を包み込む。

 スキルが発動する時に感じるものに似ているこれは、これは魔素……?

 この膨大な光の奔流が、全て魔素なのだろうか?

 トクンと胸が鳴った。

 何かが私の中に流れ込んで来る。

 一瞬。

 眩い白の光の中に緑の瞳を見た気がした。



 竜の力を借りるといえば、竜騎士さまの様にその背に乗せてもらえるものだと思っていた。

 でもこれは……。

 白い光に満たされた空間の中。下も上もない空間に漂う私は、何が起こっているのかわからず、ただキョロキョロと周囲を見回していた。

「アーフィリル? これは……」

 私は白の光の中で、目の前にいるであろうアーフィリルに向かって問い掛けた。

 姿は見えなかったけど、アーフィリルがそこにいるという事だけはわかった。

『セナ。体を楽にせよ。先ずは初期融合から始める。適応確認。カウントダウン』

 アーフィリルの声が優しく響く。

 えっ……?

 アーフィリルが何を言ったのか一瞬わからなくて眉をひそめたその瞬間。

 私の体の中が灼熱化した。

「かはっ!」

 目を見開き、私は体をのけぞらせた。

 ドクンと胸が震えた。

 熱い。

 衝撃が走る。

 全身が痺れて動けなくなる。

「ああああっ!」

 膨大な力が、魔素が私の中に流れ込んで来る。

 自動的に悲鳴が零れる。

 頭の中が真っ白になってしまう。

 私という存在が、溶けて無くなってしまう!

「ううう、あああっ!」

 パキッと音がして、私の鎧が砕け散った。

『安心せよ。純度の低い魔素の結晶が砕けただけだ』

 鎧の魔晶石が低純度?

『セナ。汝は魔素への適性が高い。これならば問題ない。やはり良き娘だ』

 嬉しそうなアーフィリルの声が響いた。

 体中を駆け回る魔素の奔流に耐える私には、返事をする余裕はない。

 目の前に竜の形をした光が現れる。

 アーフィリル?

 その竜の姿が砕けて光の粒になると、私の胸の中に吸い込まれた。

「うううっ、ああああああっ!」

 さらに巨大な力のうねりが、私を襲う。

 しかしそれも一瞬の事。

 体がバラバラになりそうな衝撃の後、その圧倒的な魔素の奔流は、まるで私の体の一部になったかの様に徐々に馴染み始めた。

 それと同時に、騎士団の制服の裾がびりっと裂けてしまった。

 びっくりして手足を見ると、微かに肌が光っていた。

 ズボンも袖も、いつの間にか七分丈状態だ。

 丈が短くなった?

 いや。

 私が大きくなってる?

 上衣も短くなって、おへそも出てしまった。お尻もかなり窮屈だ。

 そして、胸が苦しい。

 アメルや他の女性騎士に比べればないも同然だった胸が、いつの間にか大きくなってしまっていた。

 耐え切れなくなった制服の胸元が裂け、シャツのボタンが飛んでしまう。

「私、何が……」

 思わずそう呻いた自分の声にビックリしてしまう。

 声も、少し低くなっていた。自分のものではないと違和感を感じる程に。

 いつもの子供の様に高い自分の声ではない。まるで落ち着いた大人の女性みたいだ。

 戸惑う私の視界に、はらりと白いものが揺れた。

 私の髪、白くなっている。それも、腰を包む程長く、量も多く。

 何だろう。

 その髪からは、輝く光の粒が放出されていた。これも、魔素の光だろうか。

 白い光が、大きくなった私の体の周囲にも集まる。そして私の全身を包み込み、衣服の形にまとまっていく。

 長いスカート状になった裾がひるがえる。まるでドレスの様だ。しかしそれでいて、胸や腕は鎧の様な形状に覆われていた。

『魔素受容効率46パーセント。転換効率は26パーセントか。最初はこれくらであろう』

 直ぐ耳元でアーフィリルの声がした。

「アーフィリル、これは……」

 うう。

 この声、なれない……。

『接続完了。さぁ、セナ。準備は整った。我の力、携えて進め。汝が道を』

 アーフィリルが、ふっと笑った気がした。

 その瞬間。

 視界を塗り潰していた白の光が、一瞬にして消え去った。

 目の前に山中の夜闇が戻って来る。そして、帝国の軍勢も。

 オルギスラ帝国の騎士や兵たちは、武器を構えたままぽかんとこちらを見上げていた。

 そう。

 白の鎧とドレスをまとった私は、今、宙に浮いていた。

 周囲にアーフィリルの姿がない。

 しかしその存在は、確かに感じる。私の、胸の中に。

 白い髪を輝かせて浮遊する私に、帝国兵たちの視線が集まる。

 何だろう。

 何だか不思議な気分だった。

 先ほどまであれだけ恐怖を感じていた帝国軍の存在が、全く気にならない。

 それどころか一瞬で彼らを殲滅出来る予感が、今の私には確かにあった。

 良く見れば、帝国兵達の顔には恐怖が張り付いていた。まるで先ほどの私と立場が入れ替わってしまったかの様だ。

 ふっ……。

 私は深く息を吐く。

 夜の匂いが微かに鼻をくすぐる。白いドレスの裾と輝く髪が、ふわりと夜風に揺れた。

 良い夜だ。

『状態はどうだ、セナ』

 アーフィリルの声が響いた。

「問題ない」

 私は帝国軍を見下ろしながら、目を細めてふっと微笑んだ。


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