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第55幕

 眼下に広がる黄金の領域から、無数の光の触手が伸びて来る。

 次々と襲い来るそれらを加速し旋回し上昇して回避しながら、その合間に私は、白の剣を邪竜ナハティガルへと向け、熱線による砲撃を行なっていた。

 こちらの攻撃は、邪竜の防御障壁を貫通し、既に幾度となくその体を貫いていた。

 その度にナハティガルは怒りの咆哮を上げるが、私の前に立ち塞がるその動きに鈍ったところは見られなかった。

 黄金の触手に囲まれた私が回避するそのタイミングに合わせて、ナハティガルが直接殴り掛かって来る。

 空中で急制動を掛けた私の眼前を、黒い巨大な腕が通過する。

 その風圧だけで、私の体はふわりと揺さぶられてしまう。

『なかなか良く動く……』

 ナハティガルの中から男の声が響く。

 私はその台詞が終わらない内に、伸び切ったナハティガルの腕に向かって斬撃を繰り出した。

 白の剣はあっさりと黒の表皮を削るが、対象が大きすぎて一撃で切断するには至らない。

 そのまま黒の巨腕を吹き飛ばそうと剣に魔素を込めるが、それよりも早く足元から新手の金の触手が襲い掛かって来る。

 直接私を捕縛しようと伸びてくる触手を、私は全周囲に障壁を展開して遮断する。

 触手を無視し、改めてナハティガル本体に攻撃を加えようとするが、しかしそこで私は、上空から新たな殺気が降って来るのに気が付いた。

『これ以上はさせん……!』

 私とナハティガルの間に立ち塞がる様に割って入って来たのは、巨腕を振りかざした黒い竜の鎧だった。

 邪竜を守るために駆けつけたのだろうが、既にその鎧はあちこちに傷を抱え、満身創痍といった状態だった。

 この鎧は、今まで竜騎士たちが足止めをしていた筈だ。この傷も彼女たちが与えたものだろうが、突破されてしまったのか。

 もう一体の翼の黒鎧の姿が見えないのは、依然竜騎士たちが奮戦しているのか、既に倒してしまったのか。

 いずれにしても私の目標は、邪竜と彼の黄金の柱だけだ。

 あの様な邪悪なもので、我々が守護すべき大地を汚させる訳にはいかない。

 巨腕の鎧が殴りかかって来る。

 私はひらりと舞い上がり、それを回避する。

 どうやら巨腕の鎧は、それほど長く滞空出来ない様だ。一度攻撃すると、その竜の黒鎧は黄金の光に支配された地上に向かって降下して行った。

 巨腕の鎧を相手にしている間にも、一旦身を引いたナハティガルからは雨の様に光線や光弾が打ち出される。

 私はその砲撃を掻い潜りながら、隙を突いて白の光をその体へと叩き込む。

『ふむ、照準補正がまだまだか。なるほど。テストだけでは見えてこない事もあるものだ』

 邪竜から響いてくる男の声には、しかし面白がる様な響きがあった。

 私の攻撃にさらされ、邪竜自身も多数の傷を負っているにも関わらず、特に焦っている風もない。

 私は白の残光を引いて複雑な回避機動を取り邪竜の砲撃を回避しながら、その赤い目を見据える。

 過去、奴らは大挙して押し寄せて来た。

 それに対して、私も含め多くの竜と人間が力を結集して戦った。

 普段はそれぞれの地を守護し、大地を流れる魔素を管理している始まりの竜たちが、集い、力を合わせたのだ。

 あの時相手にした邪竜ども全てが復活したとは考えたくないが、あの過去の大戦を思い出させる様な何かが今、起こっているのは確実の様だ。

 人々を守る騎士として、人々の住まう星を守る竜として、今は私があれを止める。止めなければならない。

 再び黄金の領域から跳躍して来た巨腕の鎧が襲い掛かって来る。

『ふんっ!』

「邪魔だ」

 私はその拳を左の剣で受け止め、右の剣でその巨腕を斬り落とした。

『なんとっ!』

 驚愕の声を上げる隻腕となった鎧。

 私は片方の剣を消してその襟首をむんずと掴むと、邪竜ナハティガルに向かって投げつけた。

『ぐうっ!』

 巨腕の鎧が黒の竜に激突する。

 その衝撃で、一瞬邪竜の砲撃が乱れた。

 私はそこで、すっと目を細める。

 そして、邪竜の胸に向かって白の剣を投擲した。

 ぶんっと空気を斬り裂く音を響かせ、魔素を込めた剣は容易く邪竜の守りを貫く。

 白の剣がその胸に突き立つのを待たず、私は差し出した手の中に新たな剣を生み出す。そしてそれを、続けてナハティガルに向かって投擲した。

 間髪おかず、今度はさっと左右に突き出した両の手の中に白く矛先の輝く槍を生み出す。

 苦し紛れに放たれた邪竜の追尾光線を回避しながら、私はその槍も邪竜の胸部に向かって投げつけた。

 さらに剣を、槍を、斧を、次々に生み出し、続けて投擲する。

 邪竜が、世界を震わせる様な咆哮を上げる。

 胸に無数の武器を突き立てられた邪竜は、さすがに大きく怯み、高度を落とした。

 その巨体に押し潰された下方の街の尖塔が、土煙を上げて倒壊する。

 制御が乱れたのか、私の動きを邪魔していた黄金の触手は光の粒へと砕けて足元の金色の領域へと帰って行く。

 邪竜が赤い目を輝かせ、私を睨み付ける。

 私はそちらに視線だけを送り、黄金の柱へと向き直った。

 掌中に白の剣を生み出す。そしてその切っ先を、天へと続く長大な黄金の柱へと向けた。

「撃ち貫く」

 ぼそりとそう呟きながら、私は収束熱線を放った。

 白の光が、黄金の輝きを両断する。

 ガラスが割れる様な乾いた音を響かせ、私の放った熱線は呆気なく黄金の柱を貫いた。

 記憶にある過去のそれよりも、随分と脆い。昔の戦いでは、この黄金の柱を、竜と融合した騎士たちが数人がかりで撃ち倒していたのだが。

 私は少し怪訝に思いながらも、熱線を放ち続ける剣をさっと振り上げた。

 白光が軽やかに走る。

 黄金の柱を貫いた熱線の輝きが、私の動きに合わせてそのまま斜めに柱を引き裂いた。

 半ば両断された黄金の柱が、斜めに傾く。

 私はさらに、熱線を放つ剣を倒壊しかけている柱へと振り下ろした。

 光線によって斬り裂かれる黄金の柱。

 次の瞬間。

 数片に斬り刻まれて崩れ落ちる柱から、黄金の輝きが消えた。

 同時に、下方の街を中心に広がっていた金色の光も、まるでその中心に立つ柱の残骸に吸い込まれるかの様に一点に収束すると、完全に消え去ってしまった。

 黄金の光が失われ、周囲は薄暗くなる。

 後に残されたのは、夜の帳が降り始め、薄闇に包まれた元の世界の風景だった。

 黄金の柱によって雲が吹き散らされたせいか、雨は既に止んでいた。見上げると、早くも瞬き始めた星々の姿が見える。

 静寂が世界を支配する。

 私は熱線を照射し終えた剣を下げて、空手となったもう片方の手を見た。

 周囲に、魔素が戻って来るのがわかる。

 大地にぽっかりと開いた穴の様に魔素が消失してしまった領域に、周囲の土地からじんわりと魔素がしみ込んで来るのがわかる。それと同時に、今まで黄金の魔素に支配され、まったくその存在を感知出来なかった存在との繋がりも、徐々に感じ取れる様になり始めていた。

 街の形、大地を覆う植物、そしてそこに生きる命たち。

 今、私の足元には、確かにこの世界の一部としてそこに在るものたちの気配が無数に広がっていた。

 無論、黄金の兵士となった人間たちの息吹も感じる。

 邪竜の魔素による浸食時間が短かったせいか、殆どの人間はもとの姿に戻れた様だ。

 足元に広がる街に目を向けると、あちこちに倒れ伏している人間の姿を認める事が出来た。

 私は、鎧に覆われた胸にぽんっと手を当てる。

 人間たちが無事だった事に、私は今大きな安堵感を抱いている。

 しかし。

 それは自分の感情である筈なのに、どうも自分が今抱いているものだという実感が湧かない。何だかそういう感情を抱いている他人を見つめている様で、不思議な感覚だった。

『ふっ。よくもやってくれたな』

 私が自分の内面について考えていると、背後で巨大なものが動く気配があった。

 振り返ると、無事な方の手で巨腕の鎧を掴んだ邪竜ナハティガルが、再びゆっくりと飛翔するところだった。

 邪竜の胸に突き刺さった私の白の武器は、黄金の光に包まれて次々に消えていく。

『まあ良い。ナハティガルの実戦試験は無事終了した。天降しの階の性能も十分である』

 邪竜から響く男の低い声が、楽しそうにくくくっと笑った。

 黄金の領域は破壊した。

 あとは、あの邪竜の首を落とすだけだ。

 この黒き竜は、この時代にあってはならぬものだ。この世界に残っていてはならぬものだ。

 今日、眼下の人々が被った理不尽な出来事をもう二度と起こさないために、かつて命を懸けて戦った者たちの犠牲を無駄にしない為に、邪竜はここで討つ。

 私は顎を引き、すっと邪竜を睨み付ける。そして、白の剣を両手で構えた。

 私の体から溢れた魔素が、周囲の空間を白く輝かせる。

『この躯体では、竜騎士殿のお相手は些か荷が勝ちすぎる様だ。ここは改めて……』

 邪竜を駆る男がさらに何か言っているが、関係ない。

 私は全身に魔素を走らせて、一気に加速する。そして、邪竜の懐へと飛び込んだ。

 黄金の領域が消え、周囲の魔素とのリンクが回復した今、私の速度や出力は先ほどまでの比ではない。

『せっかちだな。もしくは、竜の魔素に呑まれているのか。そうであれば、残念な事だ』

 眼前に迫る邪竜の首に向かって、私は眩く輝く白の剣を振るう。

『また会おう、竜騎士殿。その時は、このナハティガルを止めるに値する真の騎士であって欲しいものだ』

 こちらを見下す様に、邪竜の中の男の嘲笑が響く。

 私の振り下ろした白の刃が、邪竜の黒の表皮を斬り裂く。

 そう見えた刹那。

 眼前で、黄金の光が弾けた。

 壁の様に私の前に立ち塞がっていた黒の巨躯が、一瞬にして無数の光の粒に分解される。そして、すっと空間に溶ける様に消失した。

 私の剣は、光の粒が消えた何もない空間を薙ぐ。

 刃がぶんっと空気だけを斬り裂く。

 白の剣を振りぬいた姿勢のまま動きを止めた私は、一瞬の間の後、ゆっくりと剣を下ろした。

「転移したか」

 邪竜ナハティガルは、空間に干渉してどこかに移動した様だ。

 空間転移など、魔素を操る事に長けた我ら竜にも難しい技だ。アーフィリルと融合した今の私にも、あれほどの巨体を転移させるのは難しいだろう。

 かつての私たちは、邪竜どものその転移技術に随分と振り回されたものだが。

 私は邪竜のいなくなった空域ですっと顔を上げると、僅かに残った夕日が最後の力で光を放つ彼方の山々に目を向けた。

 私、アーフィリルは、偶然にも出会った私、セナと一緒に、最期の瞬間を迎えるその前に、世界を見て回ろうと思った。それは本当に、ただの気まぐれであった。

 しかし。

 再び邪竜の姿を目の前にしては、ただ旅をするだけなどとは言っていられない。

 世界の秩序の為に、この世界で暮らす人々の為に、あの邪竜ナハティガルを倒さなければならないのだ。

 私は、静かに目を瞑る。

 それと同時に、私の全身を覆っていた白の鎧と、背中の一部を覗いた純白の翼が消え去る。

「はっ!」

 いつもの白のドレス姿へと戻った私は、思わず空を仰ぎ大きく息を吸い込んだ。

 まるで長時間潜水した後の様に、必死に空気を吸い込む。

 今まで靄がかかった様に白く塗りつぶされていた意識が一瞬にして現実へと引き戻され、周囲の情報が一挙に押し寄せてくる。

 同時に、全身にビシビシと痛みが走る。

 力が入らない。

 アーフィリルと融合した状態は何とか保てていたが、このまま空中に留まる事も難しく、私は足元に広がるリーナシュタットの街へとゆっくりと降下し始めた。

「ぐうっ」

 思わず胸を押さえて呻く。

 前回アーフィリルとより強固な融合をした時は、融合限界と同時に意識を失ってしまった。それに比べれば、力を行使した後もこうしていつもの状態を維持していられるのだから、アーフィリルの力に慣れて来たという事なのかもしれない。

 しかし、これ以上の行動は難しそうだ。

「はっ、はっ、はっ」

 私は乱れた息を整え、徐々に高度を落としながら、しかしふっと笑う。

 例え活動限界が来ても、まぁいいだろうと思う。

 今日のところはあの邪竜は追い払う事が出来た。アーフィリルのおかげもあって、ナハティガルの魔素に毒された人々や部隊を救う事が出来た。

 邪竜を逃がしたのは悔やまれるが、何とかこの場は凌ぐ事が出来たと思う。

 後はオレットやレティシアに負傷者の回収と戦闘後の処理を任せれば、私の出る幕はない。

 私はバクバクと激しく脈打つ胸に手を当て深呼吸を繰り返しながら、とあるリーナシュタットの街の家屋の屋上に着地した。

「くっ、はっ」

 片膝を着き、大きく息を吐き出す。

 頬から零れ落ちた汗が、屋根の上に点々と滴り落ちた。

 私は目を瞑り俯き、さっと白の髪をかき上げた。

 やはり限界が近い様だ。気を抜けば、あっという間にその場に倒れ伏してしまいそうだ。

 我ながら、まったく情けない事だと思う。

「アーフィリル」

 乱れた息のまま、私は何とか言葉を紡ぎ出した。

「今回も力を貸してもらって、すまなかった」

 私はふっと苦笑を浮かべる。

 アーフィリルがいなければ、今日この場は、あの邪竜によって蹂躙されてしまっていただろう。

『いや。あれは我の敵でもある。セナこそ、我と共に戦ってくれた事、礼を言う』

 いつもの調子を取り戻したアーフィリルの低い声に、私は笑みを浮かべながら小さく頷いた。

 アーフィリルとより深く繋がった際、私の意識は白く塗り潰され、アーフィリルのものだが自分のものだかもわからない程混じり合ってしまっていた。

 その中で私は、確かにアーフィリルの記憶を見た。

 アーフィリルは、過去にあの邪竜と戦った事がある。

 沢山の仲間の竜たちや騎士たちと共に、大挙して押し寄せて来るあの漆黒の竜たちと戦っていたのだ。

 あれが何なのか。

 そこまでは読み取る事が出来なかったけれど、この戦いが落ち着けば、一度オレットやグレイ、それにレティシアたちを交え、ゆっくりと話し合った方が良いだろう。もしかしたらアーフィリルの過去に、私たちの敵の正体を探る手がかりがあるかもしれない。

 私は額の汗をぬぐい、再び髪をかき上げる。そして白のドレスを揺らして、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。

 まずはオレットたちと合流しなければ。

 そう思って顔を上げた次の瞬間。

 私の眼前で、青の光が弾けた。

 まるで大輪の花が咲く様に広がった青の光は、リーナシュタットの正門を一瞬にして消し飛ばしてしまった。

「なんだ」

 私は短く呟く。

 そして、続けて花開くその青の破壊の光を、呆然と見つめる。

 私の目の前で青の光が瞬く。街が吹き飛ぶ。そして、人が。

 破壊音が響き、閃光が瞬く。そうして、次々とリーナシュタットの街が削れとられていく。

 これは、竜晶石砲弾、ストラーフェの砲撃!

 そう認識すると同時に、私はぎりっと奥歯を噛み締めてくっと顔をしかめていた。

 何故だ。

 何故今、攻撃を!

 砲撃がやみ、一瞬静寂が戻って来る。しかしそれは、本当に一瞬の事でしかなかった。

 僅かな間をおいて、再び青の光が広がる。第2波攻撃だ。

「くっ、何故だっ!」

 そう叫びながら、思わず私はその青の破壊の光に向かって飛び出していた。




 全身にまったく力が入らない。飛行する速度も、普段の半分程しか出ない。

 それどころか、少し動くだけで体中に激痛が走る。ただ飛んでいるだけなのに息が切れ、額に汗が滲む。

『セナ。既に体が限界だ。一度融合を解除し、休息を取るべきだ』

 そんな私の状態を見かねてか、アーフィリルが何度目かの警告の声を上げる。

 しかし私は、止まる訳にはいかなかった。

 目の前で、リーナシュタットの街が砲撃に晒されている。

 サン・ラブール連合軍の切り札、竜晶石砲弾による砲撃に。

 先ほどまで邪竜ナハティガルの魔素に汚染されていた人々は、何とか元の人間の姿に戻る事が出来た。しかし皆、まだ倒れ伏し意識を失ったままだ。

 そんな彼らが、逃げられる筈もない。

 倒れた人々のその上から無慈悲な青の光が降り注ぐ。

 その破壊の光は容赦なく人々を吹き飛ばし、又は吹き飛ばした建物の破片を身動きの取れない人々の上にまき散らした。

 くっ。

 私はぐっと唇を噛み締める。

 何という事を!

 竜晶石砲弾の数度の斉射で、無残にも瓦礫の山と化したリーナシュタットの外壁を飛び越える。そして街の外に出た瞬間、私はさらに愕然として固まってしまった。

 街も外では、サン・ラブール連合軍の騎士や兵士たちが、倒れた者たちに剣を突き立てていた。

 街中の人々と同様に、ナハティガルの黄金の魔素から解放されて倒れ伏す友軍の騎士や兵士、そして帝国軍やリーナシュタットの一般人と思われる人々に対して、無慈悲に止めを刺して回っているのだ。

 倒れた彼らが、死んでいるのか生きているのかはわからない。

 もしかしたら黄金の兵士と化している間の戦闘で致命傷を負い、既に事切れている屍なのかもしれない。

 それでもサン・ラブールの将兵たちが、一斉に無抵抗な者たちに刃を突き立てるという光景は、私の動きを止めてしまうだけの衝撃があった。

「何をしている」

 ふらつきながらなんとか空中で姿勢を維持した私は、眼前に広がる光景を見据えながら掠れる声でそう呟いていた。

 確かに彼らは、先ほどまで黄金の兵士となって襲い掛かって来ていた者たちかもしれない。

 しかし今、彼らを操っていた呪縛は断ち切られ、皆もとの状態に戻る事が出来たのだ。邪竜の魔の手から逃れる事が出来たのだ。

 せっかく戻る事が出来たのに、この様な事で命を奪われてよい筈がない。

 自らの意思で戦ったというのであれば、別だ。

 しかし彼らは皆、ナハティガルの理不尽な仕打ちによって操られ、強制的にその尖兵と化していただけなのだ。

 私は全身の痛みに耐えながら、サン・ラブール連合軍の上空へと飛ぶ。

 その間にも、私の頭上を飛び越えた竜晶石砲弾が、リーナシュタットの街へと降り注いでいた。

「皆、やめろ! 既に黄金の呪いは消し去った!」

 私は中央方面軍と思われる部隊の頭上で、声を張り上げた。

「私は白花の騎士団の団長にして、北部方面軍の司令官、竜騎士セナ・アーフィリルだ! 既に彼の黒の邪竜の脅威は去った! その様な行為は無意味である! お前たちは負傷者を回収し、ここは一度後退しろ!」

 私は、ばっと腕を振る。

 周辺の騎士や兵士たちが困惑した様に手を止め、こちらを見上げる。指揮官の顔を窺う者や、近くの仲間たちと顔を見合わせ、何事かひそひそと話し合う者たちの姿もあった。

 私は構わず声を張り上げながら、中央方面軍の頭上を移動していく。

 そして一際突出した部隊の上空に近付いた時、逆に私を怒鳴り付ける声が飛んできた。

「何をしている、竜騎士アーフィリル!」

 雷鳴の様に戦場に響き渡ったその低い声は、側近たちに守られる様に囲まれながら自身も抜き身の剣を手にしているバーデル伯爵だった。

「貴様、我が軍に襲い掛かった者共への攻撃を止めよとは、寝返ったのか!」

 バーデル伯爵の声には、怒りが滲んでいた。不快そうにしかめられたその顔に、ギラリと強い光を放つ目が輝いているのが上空からでもよくわかった。

 これほどリーナシュタットの近くにいるという事は、伯爵自身も黄金兵たちと戦っていたという事なのだろう。

 私は高度を落とし、バーデル伯爵に事態の推移を説明する。既に邪竜の脅威はさり、残された人々は無害であるという事を伝える。

 しかし伯爵は、ぶんっと剣を振り、その切っ先を私に向けて来た。

「つまり、こ奴らは帝国軍の術に掛かり、その手先となったのであろう! 一度帝国の毒牙に侵された者を放ってなどおけぬ。それがサン・ラブールの騎士であるならば、我らが手でもって討ってやるのが慈悲だ。帝国軍将兵であるなら、討つになんの躊躇いがある!」

 当然の事だと言わんばかり傲然と言い放つバーデル伯爵。

 周囲の騎士や兵たちも、伯爵の言葉を肯定するかの様に強い視線で私を睨み上げていた。

 私はその強い感情のこもった無数の視線に、思わず「馬鹿な」と呟いていた。

 皆の目には、顔には、強い憎しみと猜疑心が浮かんでいた。そして、大きな恐れも。

 私は一瞬気圧されてしまいそうになるが、直ぐにキッとバーデル伯爵を睨み付けた。

 ここで引き下がる訳にはいかない。

「邪竜の呪いは無効化したと言っている。これ以上の戦闘は無意味だ。無益な殺戮はやめるのだ!」

 伯爵だけでなく、この場に集う皆に届く様に、私は言葉に力を込めた。

 この様な事態となった以上、これ以上の作戦継続など無意味だ。リーナシュタットの帝国軍は壊滅状態だし、サン・ラブール側にも甚大な被害が出ている。ここはやはり、一度退くべきだ。

「馬鹿な事を言うな!」

 しかしバーデル伯爵は、さらに前へと進み出ると、怒気の増した大音声を張り上げた。

「帝国軍の兵だけでなく、我が軍の将兵までもが操られたのだ! そ奴らが再び襲って来ない保証などどこにある! 怪我人だ、味方だと収容した途端背後から刺されては、それこそ我が軍は壊滅する!」

 バーデル伯爵はそう怒鳴り散らすと、ぶんっと手にした剣を振った。

「竜騎士アーフィリル! あの巨大な黒い竜を討った事は評価しよう! 見事である! 貴公は疲れているのだ。後方に下がって休め。今ならその利敵行為、見なかった事にしよう。後の事は我らがケリをつけてやるっ! さぁ、者ども、行くぞ! 全軍、進め! 卑劣な帝国軍を滅ぼし、リーナシュタットを制圧するのだ!」

 剣を突き出し、新たな命令を下すバーデル伯爵。

 それに従い、一時行動を止めていた中央方面軍の部隊が周囲の屍を乗り越え、進撃を再開する。

 私は、ギリっと奥歯を噛み締める。

 馬鹿なっ。

 どうして、どうしてこの様な事になるっ!

 皆、せっかく邪竜の支配から脱する事が出来たのだ。

 それなのに、どうしてその命を奪わなければならないのだっ!

 私は、両手をぐっと握りしめた。

 怒りか悲しみか、もはやよくわからない感情で頭の中が真っ白になる。

 体が燃え上がる様に熱くなる。

 魔素の流入量が落ち、その輝きを失いかけていた白の髪がふわりと舞い上がり、広がる。そしてゆっくりと、再び眩い光の粒を放出し始めた。

『む、セナ、鎮まれ。これ以上の魔素の行使は負担が大きすぎる。ここは一旦地上に戻り……』

 アーフィリルが声を上げながら融合を解除しようとするが、私は胸に手を当ててその言葉を拒絶した。

 もう少しだけ。

 これ以上、無益な殺戮をさせる訳にはいかない。

「頼む、アーフィリル。もう少しだけ力を貸してくれ」

 私は、感情を押し殺した低い声でアーフィリルにそう告げる。

 騎士として、この状況に背を向ける事など出来ない!

 背後に展開した飛行制御用の翼に魔素を込め、私は上昇を開始する

 それだけで全身の激痛がさらに大きくなり、体がバラバラになってしまいそうだった。

「もうこれ以上」

 私は、両手に白の剣を生み出す。そして、バーデル伯爵の部隊の背後に布陣している機獣部隊をキッと見据えた。

「もう、やめろ!」

 心の奥底から、そう叫ぶ。

 声を張り上げる。

 その私の声をかき消す様に、砲声が轟く。

 機獣部隊が発砲炎を噴き上げた。

 竜晶石砲弾による砲撃。リーナシュタットの街を狙った砲撃だ。

 その砲撃を確認するのと同時に、私は動いていた。

 周囲に白の光弾を生み出す。

 それを、砲撃が通過すると思われる空域で炸裂させる。

 夕暮れ時の夜空に、眩い白の閃光が広がる。

 私のその光弾の爆発に巻き込まれ、さらにばっと青の光が広がった。

 その数は5つ。

 しかし終息しつつある白の光を突っ切って、更なる砲弾がリーナシュタットの街へと向かうのがわかった。

 くっ!

 次の光弾を生み出すのと同時に、私は両手に剣を握りしめて飛び出した。

 全力で加速し、砲弾の予測通過地点に回り込む。そして魔素反応を頼りに、剣を振るう。

 同時に、全周囲に出来得る限りの出力で防御障壁を展開する。

 何かを斬り裂く鈍い手ごたえの後、私の周囲に眩い青の閃光と激しい衝撃波が広がった。

「ぐううっ!」

 障壁の強度を維持するのにも、体が燃え尽きそうな程熱くなる。体の中から炎で焼き尽くされるかの様だ。

 しかし、ここで手を止める訳にはいかない!

 私は光弾をばら撒き、空中を駆け回りながら、竜晶石砲弾の迎撃を続ける。

 完全には防げない。

 しかしこれで、少しでもリーナシュタットの人々を救えるならばっ!

「うおおおおおおっ!」

 自然と私は、そう叫んでいた。

『セナ!』

 アーフィリルが何度目かの警告を発する。

 何回か何十回か、私はがむしゃらに砲弾を撃墜する。

「次っ!」

 そして次の迎撃に備えようとしたその瞬間。

 不意に。

 唐突に。

 力が抜けた。

 空中で突然支えるものを失い、私は真っ逆さまに落下し始める。

「くっ!」

 翼に力を込めるが、体勢を維持する事が出来ない。

 地上へと落ちる私の目の前を、更なる砲弾が通過していく。先ほどまで何とか食い止めていたリーナシュタットへの砲撃が、容赦なく再開される。

 それを見送りながら、私は何とか左手の剣を持ち上げた。

 しかしその剣も、まるで空間に溶ける様に消え去ってしまった。

『セナ、限界だ。一度融合を解除する』

 アーフィリルの優しい声が響く。

「アーフィリル、まだだっ!」

 私は叫びながら、ぐっと握りしめた手を胸に当てた。

 しかし、アーフィリルは答えてくれない。

 悲しみとやるせなさで胸が震える。

 全身の肌が粟立つ。

 わかっている。

 アーフィリルは私の願いを聞き届け、融合を強制解除しなかった。私の好きな様にさせてくれたのだ。

 そして今、こんな風に力を失おうとしているのは、体が本当に限界を迎えているからなのだ。

 決してアーフィリルのせいではない。

 ここまでだ。

 ここまでなのだ。

 私は地上へと落下しながら、自分の体を抱き締める様に丸くなった。

 飛行制御用の翼も、光の粒となって消えていく。

 白のドレスも、所々が薄くなり徐々に消え始めていた。

 でも。

 本当に、ここまでなのだろうか。

 アーフィリルの力を借りて、全力を尽くして戦ったつもりだった。

 しかし、私は守れなかった。

 どうして、こうなってしまうのだろうか。

 私は騎士として、竜騎士として、あの時の竜騎士アルハイムの様に理不尽な暴力に怯える人々を救いたいだけなのに。

 地上が近付くにつれ、再び前進を続ける中央方面軍の部隊が見えてくる。

 彼らがリーナシュタットに入れば、意識を失って倒れているあの街の人々は、抵抗する術もなくその剣に掛けられてしまうだろう。

 そんな事。

 そんな事、許してはいけない。

 騎士として、見過ごしてはいけない!

「ダメだっ!」

 私は落下しなが、まだ何とか握りしめていた右手の剣に力を込めた。

 もう魔素を制御している感覚はない。それは、魔素を込めるというよりもただ願いを込めるといった行動に近いものだった。

「己が剣で守るべきものを、思い出せ!」

 私は全力で声を振り絞りながら、願いを込めた白の剣を振るった。

 白の淡い光が、斬撃の形となって進撃を続ける騎士たちの前方の大地を割る。

 騎士たちがぎょっとした様に歩みを止める。

 しかしそれと同時に、白の剣はガラス細工の様に木っ端みじんに砕け、消えてしまった。

 呆然とした表情を浮かべて、騎士たちが私を見上げている。

 地面が近づく。

 彼らに何かを叫ぼうとして、しかしそれよりも早く、私は強かに地面へと打ち付けられた。

「かはっ!」

 口から空気が漏れる。

 一瞬意識が飛び、目の前が明滅する。

 それでも痛みや衝撃を感じていられる余裕があったのは、地面に激突する瞬間、私の体を温かい柔らかな光が包み込んでくれたからだろう。

 眠っているのか気絶しているのか、又は起きているのかもわからない状態のまま、私は体の中からアーフィリルの温もりが離れていくのを感じていた。

 それと、つっと頬を流れ散る涙の感触も。

 その涙と共に、私の意識はそのまま闇に沈んだ。

 そうしてどれほどの時間が経ったのだろう。

 もしかしたらいつもみたいに何週間も眠っていたのかもしれない。もしくは、一瞬の事だったのかも……。

「うっ」

 短いうめき声が漏れる。

 それが自分の声である事に少し遅れて気が付いて、不意に私は覚醒した。

 胸の上に微かな重みを感じる。何だろうと確かめようとして、思わず私は全身に走る痛みに悲鳴を上げた。

 ううう……。

 私は顔をしかめながら、ゆっくりと目を開けた。

 そこは、どこかのベッドの上でも神様の世界でもなかった。

 先ほどまで目の当たりにしていたのと変わらない戦場。沢山の将兵の皆さんが倒れ伏す、遠くに煙を上げるリーナシュタットの街が見える戦場だった。

 私は元の小さな姿に戻り、その戦場の真ん中で仰向けに倒れていた。

 意識が朦朧としてはっきりしないけれど、あの高さから落ちて無事なのは、地面に激突する寸前にアーフィリルが防御場を展開してくれたからだと思う。一瞬感じたあの温かい光が、きっとそうなのだろう。

 そのアーフィリルは、小さな姿のまま、ぺったんこになってしまった私の胸の上ですーぴーと寝息を立てていた。

 強大な力の行使には、私だけではない。アーフィリルにも負担を強いる事になるのだ。

「……ごめんね」

 私は掠れて自分でも聞き取れない様な声でそう呟くと、アーフィリルの背中をそっと撫でた。

 腕を少し動かしただけでも激痛が走る。

 思わず悲鳴がもれ、目元にじりにじんわりと涙が滲む。

 このままでは、しばらく動けそうにない。

 ……でも。

 ここが元の戦場で私が意識を失っていたのが一瞬の事であるならば、バーデル伯爵さまを止めなければ。もう一度お願いして、もうこれ以上酷い事をしない様に部隊を止めてもらわなければ……!

「うう、ぐきゅぅ!」

 くらくらする頭を奮い立たせ、全身を蝕む激痛を歯を食いしばって抑え込みながら、私は何とか起き上がろうと試みる。

 しかし私の体は、凄まじい痛みが返ってくるだけでほんの少ししか動いてくれなかった。

 ううう……。

 ここでじっとしている訳にはいかないのに……。

 ただじっと、目の前で起こる悲しい事をそのままにしておく事なんて!

 私は何度も何度も激痛と戦いながら身を起こそうとする。

 でもそんな私の意思とは反して、だんだんと意識が遠くなり始める。目を開けているのも辛くなって来た。

 そうしてしばらくの間もぞもぞともがいていると、不意に近くに足音が聞こえて来た。

 同時に、馬の駆ける音も。

 誰かが来てくれた!

 これなら!

 私は塞がりそうになる目に力を込めて見開いて、何とか頭を動かす。そして、その足音のした方に顔を向けた。

 体はどんどん重くなっていく。無理やり体を動かそうとして、無駄に力を費やしてしまったせいだろうか。

 でも、ここで眠る訳にはいかない。

 ここで……。

 私は片目を瞑り、もう片方の目だけでこちらに近づいて来る人影に目を凝らした。

 そこで、私はびくりと身を竦ませた。

 ドキリと胸が跳ねる。

 冷たいものが、つっと背筋を伝う。

 霞む私の視界が捉えたのは、激しく損傷し、惨たらしく斬り刻まれた黒い鎧だった。

 半ば折れた槍を手にしたその鎧は、片足を引きずる様にして私に近づいて来た。

「アンリエッタ、クローチェ……」

 私は、消え入る様な小さな声でその鎧の名前を口にする。

 完全に仕留めたとは思っていなかったけれど、やはり生きていたんだ……。

『あらあら、可愛らしい姿に戻ってしまったのね、竜騎士サマ』

 アンリエッタの嘲笑うかの様な声が響く。

『まぁ、みっともない姿はこちらも同じなのだけれど』

 今度は自嘲する様に笑ったアンリエッタは、ごとりと何かを投げ捨てた。

 それは、半ば砕かれた、竜の意匠が施された黒い兜だった。

 片目だけで何とか視線を上げる。

 そこには、まるで三日月の様に口元を歪めた黒髪の女の人の姿があった。

「シェリル、さん?」

 燃え上がる炎の様な目で真っ直ぐにこちらを睨み付けるその顔には、見覚えがあった。

 あの温泉の町ダーナで出会った、黒髪の女性騎士さんだ。

 レンハイム城襲撃事件の後、行方が分からなかくなっていたのだけれど……。

「お互いこの姿でお会いするのはお久しぶりね、竜騎士サマ」

 シェリル……いや、アンリエッタが薄く笑い、倒れたままの私の傍に立つ。

 兜を脱いでも変わらず真っ赤に輝く目で、アンリエッタは私を見下ろしていた。

 アンリエッタは、そのまましばらくの間沈黙する。遠くで響く砲声と、どこかの部隊の上げる掛け声だけが、微かに響いていた。

「再会間もなく申し訳ないけど、ここで死んでね」

 不意にアンリエッタが口を開く。そして、その手にした折れた槍を私に突き付けて来た。

「2度も鎧をこんなにされて、このまま帰る事なんて出来ないのよ、私もね」

 アンリエッタの声が低くなる。

 その目がギラリと光り、黒く刃の輝く槍の矛先がすっと持ち上げられる。

 私は咄嗟に、胸の上に乗ったアーフィリルをどかそうとその尻尾を引っ張った。そして、きゅっと目を瞑って身を固くした。

 その時。

 目を閉じた私は、先ほどまで響いていた馬蹄の音がすぐそこに迫っているのに気が付いた。

「セナ! アンリエッタ!」

 声が響く。

 直ぐ近くで。

 馬の嘶きが響き、続いて鎧のガシャガシャという音が近づいて来る。

 それが誰の声だったか。

 あ、オレットさんだ!

 その事に気が付くのに、意識が朦朧とし始めていた私は少し時間が掛かってしまった。

 アンリエッタふっと息を吐き、槍を振り下ろすのがわかった。

 同時に、何か大きなものが私の上に覆いかぶさるのも……。

 甲高い音がする。

 鎧の金属板が貫かれる音だ。

 私のお腹の上に、温かいものがじんわりと広がる。

 その液体は、私の騎士服にゆっくりとしみ込んで来た。

 ふっと漂って来る血の臭い。

 刺された?

 でも、痛みは感じない。

「アンリエッタ、やめろ……」

 苦しそうに呻くオレットさんの声。

「くっ、何なんだお前はっ!」

 アンリエッタの狼狽した声が響く。そこには、先ほど私に刃を振り下ろそうとした時の様な冷たい響きはなかった。まるで普通の、突然の事態に驚く、普通の女の人の声だった。

「お前……?」

 そう呟いたアンリエッタは、何故か泣きそうな声をしている様に思えた。

 私の上に覆いかぶさっていた気配が動く。

「セナ。アーフィリルを連れて逃げろ。フェルト、セナを頼む!」

 オレットさん?

 力を振り絞って重い瞼をこじ開け、片目を開く。

 やっとの事で焦点が合うと、そこには人を小馬鹿にした様ににやりとした笑みを浮かべるオレットさんの顔があった。

 口元から血を流したオレットさんは、先ほど私が引きずり下ろしたアーフィリルをひょいっと掴み上げると、私の顔の上にぎゅむっと下ろした。

 視界が白い毛で覆われる。

「セナ、行くぞ! うぉ、軽いな……」

 今度はフェルトくんの声がする。

 続いて、アーフィリルを乗せた私の体がひょいっと抱えあげられるのがわかった。

「アーフィリルを落とすなよ!」

 傍でフェルトくんの声が響く。アーフィリルの体の脇から見上げると、歯を食いしばって必死な表情で前を向くフェルトくんの顔が、すぐそこに在った。

 振動が伝わって来る。

 どうやら私は、抱きかかえられている様だ。私を抱きかかえたフェルトくんが走っているみたいだ。

「おのれ、逃がすか。逃がすものかっ……!」

 先ほどよりも勢いを無くしたアンリエッタの声が聞こえた。傷でも受けたのか、何か苦しんでいる様な声だった。

「……アンリエッタ! 俺だ! オレットだ! ぐっ、もうやめろ、もう十分だろっ! さぁ、帰ろう、一緒にっ……!」

 オレットさんの声が聞こえる。とても苦しそうで、最後の方は消えてしまいそうだった。

「……フェルトくん。オレットさん……」

 私は、掠れた声でかろうじて言葉を絞り出す。

 しかしきちんと発音出来ていなかったのか、フェルトくんは何も答えてくれなかった。

 アーフィリルの温もりを感じる。

 鎧越しなのに、フェルトくんの温もりも感じた様な気がした。

 その温かさに引きずられる様に、意識が遠のく。

 フェルトくんが私を一瞥する。その顔はとても辛そうで悲しそうだった。今まで見て来たどんなフェルトくんの顔よりも。

 フェルトくんの口が何かを言おうと動いた気がしたけれど……。

 私の意識は、そこでぷつりと途切れてしまった。




 次に目が覚めた時、私は柔らかいクッションといい匂いのするシーツに包まれていた。

 ここは……。

 近くにあるらしき窓からは、カーテン越しの柔らかな日差しが降り注いでいてた。日差しが強くて少し暑い気がするけれど、時よりふわりと入り込んで来る風がとても心地よかった。

 寝起きの私には、少し眩しい。

 仰向けに寝かされている私の背中には、ゴトゴトと振動が伝わって来た。まだ頭はぼんやりとしていたけれど、ここは馬車の中なのかなと思う。

 馬車に乗せられて、私はどこへ向かっているのだろう。

 あの悲惨で悲しい出来事が沢山起きたリーナシュタットの戦場から……。

 ……起きなければと思う。

 起きて、状況を確かめなければ。

 でも、まだ私の体はほとんど動いてくれなかった。

 そっと手を動かして、お腹あたりに触れてみる。腕が異様に重たくて、鈍い痛みが走る。

 でも、どうやらお腹に傷はないみたいだ。

 やはり私は、あの時アンリエッタに刺された訳ではなかった。

 頬にあたるもふもふした毛並みで、顔の横で丸くなっているアーフィリルの存在を確かめる。どうやらアーフィリルも無事みたいだ。

 でも確かにあの時、私は血の気配を感じた。

 では、アンリエッタに刺されたのは……。

 オレットさんだ。

 刺されたのは、私をかばってくれたオレットさんなのだ……!

「うくっ……!」

 私は無理やり起き上がろうとして、しかし体に全く力が入らず、呻き声を上げるだけになってしまった。

 その私の声に反応する様に、周囲で誰かが動くのがわかった。

「セナ! 目が覚めたのね!」

「セナ、大丈夫?」

 直ぐ傍で響くのは、よく知っている2人の声だった。

 アメルとマリアちゃんだ。

「うう……」

 状況はと聞こうとして、私の喉から漏れたのは掠れた呻き声だけだった。

「御者さん。竜騎士アーフィリルが目を覚ましました。グレイさまに報告をします。馬車を止めて下さい」

 いつもの通り凛としたマリアちゃんの声が響く。年下とは思えないハキハキした様子で周囲に指示を飛ばしている。

 それに対してアメルは、「よかったよ~」と泣きそうな声を上げながら私にぎゅっと抱き着いてきた。

 動けない私はもちろん抵抗出来ない。苦情の声を上げる事も出来ない。

 馬車が停止し、それまで背中に伝わっていた振動がなくなる。マリアちゃんが扉を開け、外に出て行くのがわかった。

 その間も私は、何とか現在の状況を聞き出そうともがいていた。

「……アメル」

 ……ダメだ。

 油断すると、また直ぐに意識が遠のきそうになる。覚醒しているのは意識の一部だけで、体は再び眠りに就こうとしているのだ。

 でも、このまま何もわからないまま眠ってしまうのは嫌だった。

 リーナシュタットの事。オレットさんの事。この戦争の事。

 聞きたい事、ううん、私が知らなければいけない事は山ほどあるのだ。

「アメル……」

 私は、一旦体を離してこちらの顔を覗き込んできたアメルの顔をじっと見つめる。

 アメルの目は、こちらの心の内を見透かす様に穏やかに私を見据えていた。

 しばらく見つめ合っていた私たちだったけど、不意にアメルがふっと笑った。

 少し、困った様に。

「……セナの聞きたい事はわかるわ。長い付き合いだもの、それくらいはね」

 アメルが私の髪に触れる。

 まるで壊れ物にでも触れるかの様に、優しい手つきで。

「……リーナシュタットを突破したサン・ラブール連合軍は、帝都を前にして帝国軍の大部隊に負けてしまったわ。今は後退しながら戦力を立て直しているところ。これでこの戦争はわからなくなったってグレイさんが言っていた」

 アメルの声が、静まり返った馬車の中に響く。その声は、いつもの様にふざけている調子は微塵もなく、まるで小さい子供を寝かしつけるお母さんのように優しくて穏やかだった。

「隠してもセナは怒るだろうから、正直に言うね。セナは、味方を攻撃した反逆罪とか抗命罪とかで方面軍司令官を罷免されちゃった。白花の騎士団にも解散命令が出ている。今は、サン・ラブール最高評議会の勅命で、セナをサン・ラブールに送還中。私たちの隊の皆は無事だったけれど、オレットさんは……戻ってこなかったわ」

 ドキリと胸が震える。

 オレットさん……。

 アメルのその言葉が胸にしみ込むのと同時に、唇が微か震え始める。朧な視界に、じんわりと涙があふれ始める。

「……セナのせいじゃないわ。だから、今はもう少し休んでいて。私たちがついているから。今まで頑張って来たんだから、少々ゆっくりしていても誰も怒らないわ。オレットさんも……」

 アメルが私を抱き締めてくれる。

 ぎゅっと、強く。

 その温かさと柔らかさとほっとする甘い匂いに包まれながら、私は泣いてしまった。

 大声を上げて泣きわめきたかったけれど、それほど自由に体は動いてくれなかった。

 だから、私はただ静かに涙を流すしかなかった。

「大丈夫だよ、セナ。大丈夫。泣かないで、ね。一緒にエーレスタに帰ろう」

 アメルの声が耳元で響く。その声も、少し震えていた様に思う。

 マリアちゃんがグレイさんやレティシアさんを連れて来てくれたけれど、その時には私は泣き疲れて、再び眠りの淵に落ちようとしていた。

 アメルが胸の上にのせてくれたアーフィリルを軽く抱き締めて、私の意識はゆっくりと闇の底へと沈んでいく。

 押し寄せて来る悲しみに、じっと耐えながら。

 多分、戦争はまだまだ続くと思う。

 この大きな争いの嵐の中で、私はどうしたら良いのだろう。

 私は、このまま騎士を続けても良いのだろうか。

 竜騎士であって、良いのだろうか。

 私は……。

 イリアス帝歴393年。

 季節は夏の終わりから秋へと向かって移ろっていく。

 しかし大陸を覆う戦乱に、未だ終わりは見えない。

今話で第一部完となります。

これまで読んでいただき、ありがとうございました。

少し間をおいて、また第二部を始めたいと思います。その時は、是非また読んでいただけると幸いです!

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