第52幕
空気が震える。
青の光が広がる度に消し飛んでいくバルクスの街。
堅固な防御力を有していた巨大な城壁や、幾つもの尖塔が連なる大きな建物が、呆気なく炸裂する光りへと呑み込まれていく。
爆裂音と盛大な破壊音が、遠く離れた私のもとにも響いてくる。
砲弾が誘爆したのか、バルクスの街のあちこちで、青の光とは別の爆発が複数起こっているのが見えた。
黒煙が吹き上がる。
火の海が広がる。
雲が重く立ち込めたモノトーンの風景の中に鮮やかな青の光が次々と広がる光景は、まさに灰色の世界に大輪の青の花が咲き乱れている様だった。
今まさにあのバルクスの街にいる人たちにとっては、その青の光こそが、終の花に見えているのだろうか。
帝国の人々の間に伝えられる、人がその生の最後に見るという花に。
青の花が全てを薙ぎ払う。
永遠かと思われたその惨劇は、しかし不意に終わりを告げた。
3度の斉射の後、中央方面軍からの砲撃が止む。同時に、青の爆光もやっと終息した。
その後に残されたのは、惨たらしく破壊された瓦礫の山だけだった。
あれが、あの場所が、つい先ほどまではオルギスラ帝国有数の大都市であったなどと誰が信じられるだろう。
あそこで暮らしていただろう人々は、どうなってしまったのだろう。
いや、そんな事は明白だ。
あの破壊の中で、ただの人が無事でいられる筈がない。
呆然と目の前で展開するその光景を見つめていた私は、はっと我に帰る。そして剣を握りしめる手にぐっと力を込めると、ギリっと奥歯を噛み締めた。
「何という事を」
ぼそりと、吐き捨てる様に呟く。
何という事を!
怒りがこみ上げて来る。
体の奥底が、かっと熱くなる。
体内の魔素が活性化したのか、私の白い髪から放出される余剰魔素がぐっと増え、光を振りまく髪がふわりと浮かび上がった。
私は、バルクス市だった場所をキッと睨み付け、そちらに向かって飛び出そうとした。
とにかく、まずはあの場所に向かわなくてはと思ったのだ。
その瞬間。
「セナ!」
「セナちゃん!」
下方から、私の名前を呼ぶ声が響く。
浮遊する私の下に勢い良く駆け込んで来たのは、騎乗したオレットとレティシア、それにアメルとマリアだった。
「セナ、降りて来い!」
怒りに任せて飛び出そうとしたところを出鼻を挫かれる形になってしまった私は、むっと顔をしかめた。
しかし、ここはまず状況の確認を行っておいたほうがいいだろうとも思う。
先ほどは怒りに我を忘れて考えが及ばなかったが、今も私の隊の皆は各地で戦っているのだ。その仲間の事も考えて行動しなければならない。
オレットの声に従って、私は一旦地上へと降り立った。
「誰か、何が起こっているのかわかるか。あれが何かわかるかっ」
私は怒りと興奮で震えそうに声を抑えながら、オレットらを見回した。自分でも驚くほど冷たい口調になってしまった。
馬から降りたオレットやレティシアが私に近づいて来る。皆、一様に深刻そうな表情を浮かべていた。
「レティシア、あの青の光を見たか?」
私は、まずは魔素について詳しそうなレティシアに質問してみた。
私の問い掛けに、しかしレティシアは直ぐに答えない。じっと真っ直ぐに私を見ていたかと思うと、すっと目を逸らしてしまった。
いつも物怖じせず、自分の興味のある事に対してはためらいなく向かっていくレティシアにしては珍しく何かを迷っている様な態度だった。
オレットは何かを知っていそうな表情をしていたが、アメルとマリアは突然の事態に理解が追いつかず、困惑している様子だった。
このまま睨み合っていもしょうがない。
レティシアにも状況がわからないのであれば、やはり取り合えず現場の確認を行うしかないだろう。
そう考えながら、私がバルクスの街の方角へと目をやった瞬間。
「……あれは、魔晶石の崩壊爆発よ」
レティシアがぼそりと口を開いた。
私も含めて、皆の視線がレティシアに集まる。
「あれは、魔晶石の崩壊爆発反応を広範囲にまき散らす、大規模な、言わば魔晶石を用いた爆弾よ。魔晶石は、突発的な高圧力下におく事で結晶化した魔素のエネルギーを一挙に解放、爆発させる事が出来るの。この理論事態は、魔晶石利用の基礎中の基礎。特別なものなんかじゃない。魔晶石を動力とし動いているものは、全て小規模ながらこの現象を利用しているわ」
「しかし、あの様な攻撃は見た事がない!」
私は、思わず声を荒げてしまう。
魔晶石は、それほど高価なものではない。この世界では、どこでも普通に見る事が出来るものだ。
その魔晶石を利用した爆発があれほどの威力を出せるなら、既にこれまでの戦闘で使用されている筈だと思う。ただの3度の砲撃で、あれほど巨大な城壁と広大な都市を灰塵に帰す威力を出せる武器になるのならば。
私の指摘に、レティシアがより一層気まずそうな顔をする。
今度は目を逸らすことなく私を真っ直ぐに見たレティシアは、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「……先ほどの青の光。そしてこの規模の魔素反応。恐らくあれは、ただの魔晶石の崩壊爆発じゃない。竜晶石を用いた爆発よ」
レティシアの言葉を呑み込むのに、私は数瞬の時間が掛かってしまった。
竜晶石。
それは、亡くなった竜の遺骸が結晶化した、極めて高純度の魔晶石の呼称だった。
私たちはラドリア王国の奥地、ラドーナ山地にひっそりと佇む世界樹という巨木の下で眠りに就いていた祖竜アルテラールの墓所で、初めてそれを見つけた。
通常の魔晶石とは桁違いの魔素を秘めたその結晶は、帝国軍が魔素攪乱幕や機獣、アンリエッタの竜の黒鎧などの素材として集めていたものだ。
これまで私たちは、アルテラールの所以外でも何か所か、その竜晶石を採掘していた帝国部隊を撃破して来た。
ラドリアの世界樹で竜晶石を見つけた時、私はそれを研究、活用しようというレティシアやオレットに反発して、喧嘩の様になってしまった。
私には、アーフィリルの友人でもあったアルテラールの亡骸を物の様に扱う事が受け入れられなかったのだ。
「しかし、魔晶石技術の高い帝国軍には活用できても、我々サン・ラブールには、竜晶石は使用出来なかったのではないか?」
私は記憶を手繰りながら、レティシアを睨みつけた。
だからこそ、竜晶石に関する議論はしばし棚上げになっていたのだ。
活用しようにも出来ないのだからしょうがない。今は取り合えず、再度帝国に利用されない様に監視しておくしかない、と。
「そう。竜晶石の安定した活用には、私たちでは技術力不足。でも、さっきのあれは違う」
私を見返すレティシアは、そこで困惑した様な表情から一転して目を吊り上げる。艶やかなルージュを引いたその顔を、怒りに歪ませた。
「さっきの爆発。あれは、竜晶石を利用したなんて言えるものじゃない。通常の魔晶石をトリガーにして、力任せに崩壊爆発を誘発させたのよ。貴重な竜晶石を、使い捨ての薪の様に燃やしてね!」
私は、ギリッと歯を食いしばる。
何てことだ。
何という事だ。
アーフィリルの友であったアルテラールの竜晶石が、この惨状を生み出したというのか。
いや、アルテラールではないのかもしれない。しかし、眠りに就いた竜の亡骸を利用したという事に変わりはない。
竜たちを辱めただけでは飽き足らず、こんなにも惨たらしい事に利用するなんて。
怒りが、胸の中で轟々と音を立てて渦巻く。
よくも、よくもこの様な事を!
私は大きく息を吸い込んだ。そしてすっと目を細め、静かに体を震わせる。
「利用でもなんでもない。あんなもの、ただ爆発させただけなのよ。それを砲弾として撃ち出しただけ。……許せないわ。貴重な竜晶石を、こんな使い方で消費するなんて。まさかウェリスタの技術者に、こんなセンスの欠片もない奴が混じっていたなんて、本当に信じられないっ!」
レティシアも声を荒げながら、ぎゅっと手を握りしめている。
アルテラールの墓所である世界樹の管理は、レティシアの母国であるウェリスタ王国に任せていた。
その他の竜晶石の採掘現場は、どさくさに紛れて私が封印した。竜の咆哮で、地中に埋めてしまったのだ。
となれば、やはりアルテラールの世界樹から持ち出された竜晶石が砲弾に利用されていると考えるのが自然だろう。
この反応から見ても、レティシアが今回の竜晶石砲弾の開発に関与していたとは考えにくい。
恐らくは、世界樹の管理を任せていたウェリスタの誰かが、宮廷魔術師たるレティシアに断りもなく秘密裏に竜晶石を兵器へと転用したのだ。
その人物とは。
私は、金の蓬髪と髭を伸ばした大貴族を思い浮かべる。
バーデル伯爵。
現に中央方面軍を率い、あの砲撃を行って見せたあの男ならば、レティシアの目を欺いて竜晶石を取得する事も出来ただろう。強硬に帝国領侵攻を訴えていたのも、今になって思い返せば、この様な大規模破壊兵器の使用を前提としていたという事なら頷ける。
バーデル伯爵には、確実な勝算があったという事だ。
伯爵が帝国軍の新型砲に異様に興味を示していたのも、この竜晶石砲弾を打ち出す砲を欲していたからという事なら、説明が付く。
バーデル伯爵は、あの男は、最初からアルテラールの竜晶石ですべてを吹き飛ばすつもりだったのだ。
帝国軍も帝国の街も、そして帝国の人々も何もかも一切合切に。
私は白の剣を握りなおす。そして、さっとドレスの裾をひるがえしてバルクスの方角へと向き直った。
疎らな林の向こう、バルクスの街があった方からは、空を真っ黒に塗り潰すどす黒い煙が吹き上がっていた。
竜晶石砲弾の爆発で吹き飛ばされずに残った街の残骸が、燃えているのだ。
雨の気配をまとった湿っぽい風に、物の焼ける匂いが混じっている。
私は、背と腰に飛行制御用の翼を展開させた。
とにかく、現場に向かわなれば。
生き残ったバルクス市民を救助しなければならない。さらに味方部隊がこれ以上の蛮行を行うのを止めなければならない。
そして、バーデルに会わなければならない。
今回の攻撃の真相を確かめる。その上でバーデルが更なる蛮行に走るというのであれば、止める。
あの男を、これ以上野放しにしてはいけない。
私は魔素を込めてふわりと飛翔する。
しかしその瞬間。
「待て、セナ。行くな!」
オレットが鋭い声を上げる。
何故止める。
私は、目だけでギロリとオレットを睨みつけた。
「くっ、やむを得ん。アメル、マリア。セナを止めろ!」
オレットがさっと手を振った。
「了解っ!」
「えっと、わかりました……」
ゆっくりと高度を上げる私の足に、それまで大人しくしていたアメルとマリアが飛びついて来る。
思わず私は、むっと眉をひそめた。
何のつもりだ?
徐々に高度を上げ、地面が遠のいても、アメルたちは私の足から離れない。
アメルは楽しそうに上へと這い上がって来ようとしている。マリアは、少し悲しそうな顔をしてぎゅっと私にしがみついていた。
とうとうアメルたちの体がオレットの背丈よりも上に浮かび上がってしまうが、それでも2人は私から離れようとしない。
くっ。
しょうがなく、私は一旦地上に戻る事にした。
このまま飛び上がっては、アメルたちの身を危険にさらしてしまう。
怒りで顔が熱くなり胸の鼓動が早鐘の様に鳴り響いていても、アメルたちの事を思う冷静さくらいは残っていた。
地表に戻ると、アメルが改めて私の首に抱き着いてきた。一旦離れたマリアは、そっと剣を握っていない方の私の手を握る。
「無茶な行動は慎め、セナ」
仏頂面のまま少し困惑している私の前に、オレットが進み出て来た。
そうか、謀ったな、オレットめ。
私が飛び出すのを止める為に、あえてアメルたちを連れて来たのだ、この男は。私がアメルたちを無下に扱う事が出来ないのを承知の上で。
「しかしこの様な蛮行、放置などしておけるものか!」
私は顎を上げ、オレットを見据える。
「だからと言って、中央方面軍に殴り込んでもしょうがないだろう。お前が問題を起こせば、こちらの部隊はどうなる。今は主戦派が力を持っている。不要な行動は控えるべきだ」
オレットの言葉に、私は無表情を保ったままぐっと押し黙る。
確かに、オレットの言っている事は正論だ。
私が正面から抗議したところで、あのバーデルが簡単に行動を改めるとは思えない。連合軍総司令部に連絡を入れたところで、トラヌス文書やバルクス攻めの時と同じようにバーデル側の意向に従えという命令が返って来るだけだろう。
司令部は、既に主戦派に掌握されてしまっているのだ。
ならば、どうする。
このまま、あの暴挙を放置しておいていいのか?
「セナ。お前の気持ちはわかる。だが、1人で突っ走ろうとするな。お前には、俺たち仲間が付いている。レティシアやグレイのおっさんや、アルハイムたちも、な。だから、まずは皆で話し合おう。動くのはそれからでも悪くない。そうだろう?」
真っ直ぐに私を見据えるオレットは、そこでふっと微笑んで見せた。
周囲で起こっている大惨事に対して、その笑みはあまりにも場違いなものだった。軽薄とさえ思える。
しかし、不思議とこちらをそうだなと思わせる不思議な包容力があった。
オレットは、いつものオレットという事だ。
周囲を見回すと、不機嫌そうな表情で腕組みをしているレティシアも真っ直ぐに私を見ていた。アメルはえへへと笑い、マリアは悲壮な表情ではあったけれど、力強く私に頷きかけてくれた。
そうだ。
私の周りには、これまで共に歩んできた仲間たちがいる。私は1人ではなく、その仲間たちと一緒に戦っている。
私は、ふっと長く息を吐く。
今はその時ではないという事か。
しかし。
しかし、このまま黙っている事も出来ない。黙っていてはいけないと思う。
『セナよ。鎮まったか?』
アーフィリルの落ち着いた低い声が、胸の中に響く。
『怒りが力を引き出す要素である事は認めるが、それで魔素の制御を失ってはセナの身に危険が及ぶ。留意せよ、優しき子よ』
私の行動には口を出さず、ただこちらの身を案じて助言をしてくれるアーフィリル。
私はそのアーフィリルの声を聞いて、少しだけ怒りが収まるのを感じた。
アーフィリルには、あの爆発が竜晶石を用いて行われたものだという事がわかっていた筈だ。もしアルテラールの竜晶石が利用されているならば、友の亡骸があの様な事に利用され、きっと思うところもある筈だ。
でも。
アーフィリルは、人間である私の身を案じてくれる。
私はそっと胸に手を当て、軽く目を瞑り、ふっと短く息を吐いた。そしてゆっくりと目を見開き前を見据えると、零れる光の量がやや落ちた白の髪をさっと払った。
「オレット。伝令を。全部隊に集結命令。周囲の残存敵勢力に注意しつつ、私たちは一旦バルクスから離れる。グレイにも連絡を」
私がそう告げると、オレットがニヤリとして頷いた。
「了解した。行くぞ、レティシア」
レティシアが頷くと、踵を返す。
私は小さくもう大丈夫だとアメルの腕を解く。そして改めて、バルクスから立ち昇る煙が吸い込まれていく空を見上げた。
バルクスから離脱した私たちは、今回の作戦の前に制圧していた帝国軍の砦に入ると、防御を固めて周辺警戒の態勢に入った。
竜晶石砲弾の炸裂でバルクス周辺での戦闘はうやむやに終息してしまったものの、敵の戦力自体はまだまだ健在だと思われる。バルクスの街中に立て籠もっていたいた敵の主力や司令部は吹き飛んだかもしれないけれど、広範囲に展開していた各支城や陣地の戦力が全てやられてしまったとは考えにくい。
その残存敵勢力が、あの様な無差別攻撃を受け、怒り任せに反撃してくるかもしれない。
一応、それにそなえておかなければいけないと思ったのだ。
それに私たちも、先の戦闘でかなり消耗していた。防御態勢を固め、休息と補給を取る必要があった。
バルクスは崩壊しても、戦況は決して予断を許さぬ状況なのだ。
しかしながら、味方の士気は高かった。
皆、竜晶石砲弾での劇的な勝利に完全に浮かれてしまっている様子だった。
サン・ラブール万歳と声を合わせて拳を突き上げたり、一部では補給用に配布された粗末な戦闘糧食で宴会の様な騒ぎになっている場所もあった。
一旦アーフィリルとの融合を解き、元に戻った私は、そんな光景を見ていられず目を逸らしてしまう。
バカ騒ぎはしないようにと命令を出す様にグレイさんにお願いすると、私はアーフィリルを頭の上に乗せ、そそくさと砦の奥に引っ込んだ。
「はぁ……」
周囲に人目がなくなると、私は大きくため息を吐いた。
きゅっと唇を噛み締める。
頭から下ろしたアーフィリルを、ぎゅっと抱き締める。
そうしていないと、全身がふるふると震えるのが止められなかった。少し油断してしまうと、体の奥からこみ上げてくる熱いものに押し流されてしまいそうだった。
私は、帝国軍が倉庫として使っていたのだろう木箱が沢山積まれた狭い部屋に入ると、その箱の間の狭いスペースに入り込み、膝を立てて座り込んだ。
それまできつく抱き締めてしまっていたアーフィリルにごめんねと告げ、解放してあげる。その代わりに、私は自分の膝をぎゅうと抱き締め、その上におでこを乗せた。
「……うう」
引き結んだ唇の間から、声が漏れてしまう。同時に、ぎゅっと瞑った目にもじんわりと熱いものが滲んでしまう。
どうして、どうしてこんな事になってしまったんだろう……。
つい先ほど目撃した、青の花が咲き乱れる光景が頭から離れない。
今は戦争なのだ。悲惨な事が起こるのが当たり前なのだ。今まで私も、沢山の帝国軍兵士や騎士たちを斬って来た。
あの竜晶石砲弾で倒れたのも、敵の兵で敵の街なのだ。それで味方の被害を抑える事が出来たなら、それはむしろ喜ぶべき事ではないだろうか?
……でも。
でも、胸が痛い……。
今日、あの青い光の中に消えてしまったのは、兵士や騎士さんたちばかりではない筈だ。
あの街に住んでいた筈の沢山の一般の人たちだって、きっと巻き込まれてしまって……。
私は、こんな事がおこらない様に、そんな力のない人たちを守れる様に騎士さまになったというのに、目の前で沢山の人が、罪もない人々が消えてしまうのを止められなかった。
理不尽で圧倒的な力が、人々を蹂躙するのを見ている事しか出来なかった……!
「うう、うううう……」
青の光が、灰色の景色の中に咲き誇る大輪の花の様に広がるあの光景は、衝撃的だった。
信じられなかった。
頭の中が真っ白になってぐちゃぐちゃになって、上手く考えがまとめられない。
私は、ぐっと歯を食いしばる。そして押し寄せてくる感情の波にじっと耐えた。
胸が、痛い……。
『セナ。大丈夫か』
そんな私の頭に、アーフィリルがぽすんと前足を置くのが分かった。
「……アーフィリル、ふぎゅ」
顔を上げると、頭の上によじ登ろうとしていたアーフィリルのお腹が私の顔面に直撃する。
思わず私はアーフィリルを引き剥がそうとするが、アーフィリルは私の頭の上に登ろうと必死になっているので離れてくれない。
そのまま少し、一心にしがみつくアーフィリルと私との格闘が続いた。
『う、うむ。セナ、大丈夫か。泣いているのか』
何とか私の頭の上に収まったアーフィリルが、こちらを覗き込む様に頭を下げながら、前足でぽんぽんとおでこを叩いてくる。
「……うん、だいじょぶ」
アーフィリルの気遣いは嬉しかったけど、私は短くそう答える事しか出来なかった。
膝を抱え肩を落とし、はぁっと何度目かの大きなため息を吐く。
……本当に私、どうしたらいいんだろう。
私がもう一度俯いて項垂れようとしたその時。
「フェルト、行きなさいよ」
「な、何で俺が……」
「アメル、今こそアメルの出番でしょ」
「ああ、お姉さんのセナも凛としていて柔らかくて素敵だったけど、倉庫の隅で小さくなってるセナも、ぎゅっとしてあげたいなぁ」
「……ダメだな、こりゃ」
「ええ、そうね……」
ひそひそと何かを話す声が聞こえ来た。
顔を上げてキョロキョロと周囲を窺うと、部屋の入り口からフェルトくんとマリアちゃん、そしてアメルの顔が覗いていた。
眉をひそめて小さな声で何かを話し込んでいるフェルトくんとマリアちゃん。
アメルだけは、キラキラとした目でじっとこちらを見つめている。
そのアメルと目が合った。
にこりと微笑むアメル。
それは、とても優しい笑顔だった。
私はむうっと眉をひそめ、小さく首を傾げる。
そこに、さらに新たな声が響いた。
「何やってるんだ、お前らは」
アメルやマリアちゃんたちの後ろからぬっと姿を現したのは、オレットさんだった。
「セナも、何をやってるんだ?」
オレットさんの低い声が静かに響く。
オレットさんは、私がどんな状態なのかわかっている様だった。わかっていながら、あえて問いかけて来ているような様子だった。
私は、さっと目元をぬぐってのそりと立ち上がった。
オレットさんの声は、決して厳しいものではなかった。それどころかむしろ、私をいたわってくれるような優しい声音だったと思う。
でも、何だか私は、叱られてしまったような気がしたのだ。
大勢の人たちを預かる部隊の司令官ともあろう者が、こんな所で何をしているんだ、と。
……甘えてばかりではいけないのだ。落ち込んでばかりでは、いけないのだ。
オレットさんは、ふっと笑う。そして腕組みすると、ギラリと光る目で真っ直ぐに私を見下ろした。
「グレイのおっさんの命令で、これから中央方面軍に状況確認に行く。セナも行くか?」
私は、オレットさんの言葉に小さく息を呑む。
頭の上のアーフィリルの位置を調整してから、しかし私は迷う事なくうんっと頷いた。
今回のあの竜晶石の砲撃を行ったのは、間違いなくバーデル伯爵さまだと思う。
あの伯爵さまなら、今後も間違いなくあの大規模破壊兵器を使用するだろう。
トラヌス文書と竜晶石砲弾があれば、もしかしたら強大な武力を誇るオルギスラ帝国を屈服させる事も出来るかもしれない。
でも。
あれは、あんな攻撃は、もう使ってはダメだ。
例えあれで戦争が早く終わるとしても、そんな勝利はきっと、また新たな争いを生み出す事になってしまうだろう。
それではダメだ。
もうあんな兵器を使わせないためにも、バーデル伯爵さまに会って直接話をしなければと思う。その真意を確かめなければならないと思う。
伯爵さまを翻意させる事は、もちろん簡単な事ではないかもしれない。だけど、倉庫の片隅で木箱の間で蹲っているだけよりは試してみる価値はある筈だ。
私は大きく息を吸い込み、うんっと小さく頷く。そして、そっと気合を入れる。
そんな私を、オレットさんやフェルトくん、それにマリアちゃんがほっと安堵した様な顔で見ていた。
中央方面軍に向かう事にした私は、抱き締めようと飛び掛かって来たアメルを躱し、早速出発の準備を始めた。
部隊の事はグレイさんに託し、サリア隊とオレットさん、カウフマン参謀、それに私と護衛のフェルトくん、ハイネさまという陣容で中央方面軍へと向かう事にした。
ハイネさまと風竜シルフィルドが上空警戒する中、私たちは隊列を組んで砦を出る。
本当は私がアーフィリルと融合してぷいっと空を飛んで行った方が早くて安全だと思うのだけれど、それはオレットさんとグレイさんに揃って却下されてしまった。
2人とも、アーフィリルと融合した大人状態の私が直接バーデル伯爵さまと会えば、何か問題を起こしてしまうのではないかと危惧しているのだ。
確かに、バーデル伯爵さまに関しては思うところは大いにある。先ほどみたいに感情を抑えられない事だってあるかもしれない。でもそれで私が伯爵に何かをしてしまうと考えるなんて、大人状態の私はそんなに乱暴者だと思われているのだろうか。
私も、子供ではないのだ。
バーデル伯爵さまの真意をしっかりと聞く。そしてこれ以上、あんな戦い方はしない様に伝えるのだ。
竜騎士アーフィリルに対する扱いに少し納得出来ないところもあったけれど、ぎゅっと手綱を握りしめた私は、馬を進めながらそっと前方の空を見上げる。
重く立ち込める空はますます暗くなっていた。
もしかしたら、雨が降るのかもしれない。
中央方面軍の陣地も、私たちの部隊と同様勝利に沸いていた。
あちこちでサン・ラブールを称える声が響き渡り、まるで戦争が終わったかの様な歓声が響き渡っていた。
兵士の皆さんも騎士さんたちも皆疲れている筈なのに、明るい顔をしている。
そんな陣地の近くにハイネさまが風竜シルフィルドを下ろすと、周囲の歓声がますます大きくなった。
竜はサン・ラブールの人たちにとって強さと勝利の象徴みたいなものだから、兵士や騎士の皆さんの熱狂にますます拍車がかかってしまったみたいだ。
私は戦勝に湧き上がる周囲をさっと見回し、眉をひそめる。
皆が勝利を喜ぶ気持ちもわからないでもない。でも、空中から青の光に沈むバルクスの街を直に見た後では、やはり複雑な気分だった。
まるで祭りの会場の様に賑やかな中央方面軍の陣地を、奥へ奥へと進んでいく。
中央軍の皆さんは、ただ騒いでいるだけでもなさそうだ。中には、行軍の準備を始めている騎士さまたちの姿もあった。
どうやら、もう次へ向かうつもりらしい。
次の作戦へ……。
移動準備を進める人たちの一角には、巨大な金属の塊たちが並んでいるのが見えた。
機獣だ。
サン・ラブール連合軍の陣地の真ん中に、帝国軍の新型長砲身の大砲を背負った機獣たちがずらりと並んでいる。
数は10体ほど。
鹵獲したのであろうそれら機獣たちは、帝国軍所属を示す黒から鮮やかな青と白に塗り替えられていた。
恐らくその中には、私たちの部隊がトラヌスで鹵獲した機体もある筈だ。
この機獣たちが、バルクスの街を砲撃したのか……。
私はぎゅっと唇を引き結び、体を強張らせる。
その私の肩を、ぽんっとオレットさんが叩いた。
オレットさんが警備の騎士さんに名乗り、取次をお願いすると、直ぐにバーデル伯爵さまと会える事になった。
今回、私の素性は伏せておく事になっていた。
北部方面軍の司令官である私の使者として、オレットさんがバーデル伯爵さまに会いに来たという形を取ってある。これはもちろん、白花の竜騎士の姿が大人状態の私で通っているからだ。小さな私の事を説明している暇は、今はないのだ。
こちらの部隊と全く同じ作りの司令部用天幕に通された私たちを、バーデル伯爵さまが待ち受けていた。
以前トラヌスで会った時と同様に美術品の様な煌びやかな鎧に身を包んだバーデル伯爵さまは、血色の良い顔にニヤリとした笑みを張り付かせ、上機嫌な様子で会議卓の上座に座っていた。
伯爵さまが足を組んでどかりと座っているのは、こちらの部隊、というか一般的な部隊では、最上位の司令官が座る上席だ。私も、いつも座っている席である。
中央方面軍には、伯爵さまとは別に方面軍司令官がいる。本来ならば、客将である伯爵さまではなく、その指揮官さんが座るべき席なのだが……。
それに先ほどオレットさんが取次をお願いしたのも、中央方面軍の司令官に対してだ。別にバーデル伯爵さまを指名したのではない。それがすんなりとこうして伯爵さまに会えるという事は、中央軍がいかに伯爵さまに掌握されているかを物語っているといえるだろう。
中央方面軍の天幕の中には、まるでバーデル伯爵さまを王さまとした謁見の間に来たかの様な雰囲気が漂っていた。
「先の戦闘、北部方面軍の臨機応変な動きは見事であった。竜騎士を派遣した件、南軍も感謝していたぞ。はははっ、頭の竜騎士は弱腰だが、参謀か部隊指揮官か、あの娘の下には良い部下が揃っている様だな!」
広い天幕内に、低い声が豪快に響き渡る。
オレットさんが敬礼し、バーデル伯爵さまに感謝の言葉を告げた。
「過分な評価、ありがとうございます」
オレットさんの声は、かなり冷ややかだった。聞いているこちらがドキリとするほどに。
しかし、バーデル伯爵さまは特に気する様子もなかった。
「バーデル伯爵閣下。私は、主、白花の竜騎士アーフィリルから、状況の確認をして来る様に命じられております。先ほどのバルクス攻めの件、こちらは何も知りませんでしたので……。あの青の砲撃は、味方の、中央方面軍の攻撃でよろしかったでしょうか?」
淡々と要件を告げるオレットさんに対し、バーデル伯爵さまはふっと笑った。
「いかにも。あれこそが、我が秘蔵の特殊殲滅弾ストラーフェ。帝国を滅ぼす神罰の光だ。兵卒が知らぬのも当たり前だ。あれは我がウェリスタ王国が開発したサン・ラブールの秘匿兵器だ。今日まで、ここぞという時に使用するため、温存されていたのだからな。我らが心血を注いで用意した決戦兵器の威力、さぞ帝国兵どもは驚いたであろう」
ふんっと小馬鹿にした様に鼻を鳴らし、オレットさんを見るバーデル伯爵さま。
秘密兵器というからには何も話してもらえないかと思ったけれど、意外にもバーデル伯爵さまは、あの竜晶石砲弾、ストラーフェについてあれこれと教えてくれた。
砲弾の原理や開発経緯については、だいたいレティシアさんが予想していた通りだった。
世界樹の情報を聞きつけたバーデル伯爵さまたち主戦派は、帝国軍が欲する竜晶石を何とか自分たちも活用できないかと考えたらしい。
しかし、制御、使用に高度な技術が必要な竜晶石は、サン・ラブールにおいてはそのまま動力源として活用出来なかった。それならば、単純に爆弾として破裂させてしまえばいいと、そういう発想に至ったというのだ。
「問題は、投射能力だった。我々の砲では、長距離射撃の精度に問題があったからな。しかし私は、帝国軍の兵器を利用してやる事を思い付いたのだ」
バーデル伯爵さまは、得意気にふっと笑う。
その様子を見ていると、私は胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えられなかった。
ぷるぷると全身が震え、カッと顔面が熱くなる。
私はぐぐっと奥歯を噛み締める。
「ふっ。この力があれば、かの帝都を蹂躙し、帝国を破壊し尽くし、我らが勝利を得るのは確実だ。もはや、竜騎士などに頼る必要もないという訳だ。がははははははっ!」
そして、我慢しきれなくなったという風にバーデル伯爵さまが笑い出した瞬間。
オレットさんの背後に控えてじっとその話を聞いていた私は、思わず前へと踏み出していた。
「あんな攻撃、伯爵さまは、一般の人たちの被害については、何もお考えではないのですか!」
そして気が付いた瞬間、私はそう叫んでいた。
バーデル伯爵さまが、ギロリと私を睨みつける。
「セナさま!」
サリアさんが、咄嗟に引き留めようと私の肩を押さえた。
私はずんっと引っ張られて動きを封じられながらも、じたばた手足を振って拘束を逃れようともがきながら、キッとバーデル伯爵さまを睨みつけた。
一瞬、司令部天幕の中の空気が凍り付いた様な気がした。
時間が停止してしまったかの様に、気まずい沈黙が広がる。
「ふむ。確かに、一般人を巻き込むのは良くないな」
不意にその沈黙を破ったのは、意外にもそんな言葉を口にしたバーデル伯爵さまだった。
「だったら、何故あんな……!」
私はサリアさんに押さえられながら、続ける。
頭の上からずり落ちそうになったアーフィリルが、必死にしがみついてくる。その尻尾が、私の顔の前にだらりと落ちて来た。
「……我らの主、白花の竜騎士も、その点を危惧しておりました。一般人もろとも攻撃するというのは、人道にもとる行為ではないでしょうか。我らがサン・ラブールの名を貶める行為ではないかと考えますが」
こちら様子を横目で見たオレットさんが、私の意見をフォローしてくれる。
別に、サン・ラブールの名前とかはどうでもいいのだ。私が言いたいのは、騎士としてこんな事をして恥ずかしくないのかという事なのだっ!
オレットさんの言葉を受けて、しかしバーデル伯爵さまは動じた様子もなく、ギラギラとした目でこちらを見ているだけだった。
「一般人、などいたのかね」
そして、何を言っているのだと言わんばかりの調子で唐突にそんな事を口にした。
え?
その台詞の意味が分からず、私は思わず固まってしまう。
何を、言っているのだろう……?
バーデル伯爵さまは、腕組みをするとその鋭い光の宿る目で私を一瞥した。
「オルギスラ帝国に一般人など存在しない。思い出せ、奴らの戦い方を。武装を。我がサン・ラブールの騎士たちは、厳しい鍛錬の末に戦技スキルを身に着ける。兵どもも、同様に兵士としての訓練を積む。そうして覚悟をもった勇士だけが戦場に立つのだ。しかし、帝国は違う。魔晶石技術の過剰な発展と銃などと子供ですら扱える武器を用いる事により、訓練された兵だけでなく、全ての民を戦闘員として扱っておるのだ!」
バーデル伯爵さまはバッと腕組みを解くと、その太い腕を前に突き出し、何かを掴む様にぐっと手を握りしめた。
「帝国軍を駆逐したら、今度は銃を手にした一般市民とやらが襲い掛かって来るぞ! そして、懲りずにまた、我らが父祖が守り続けて来たサン・ラブールの地を侵すのだ! 我が甥の様な、勇敢な若者を殺すのだ! その様な事、見過ごせる訳がなかろう!」
金色の髭を振り乱し、バーデル伯爵さまが吠える。
私は目を見開き、一瞬呆然としてしまった。
何という暴論……。
「……だから、アーフィリルのお友達の亡骸を使って、あんな酷い事をすると?」
私は目を見開いたまま、そうポツリと呟いていた。
「そんな事、ダメです! こんな事! 憎しみだけで未来を見てはダメなんです! そんなの、何の救いもない! いい事なんてない! もう終わらせましょう! もう十分戦いました! あの竜晶石の砲弾を脅しにつかって停戦交渉を迫れば、帝国も応じるかもしれない! これ以上はっ……!」
私はサリアさんの手を振り払うと、勢いよく前へと飛び出した。
視界がじわりと滲む。
胸の奥からこみ上げてくる感情のせいで、唇が小さく震えている。
しかしオレットさんの隣を通過した刹那、私の手がぐいっと引かれた。
ばっと振り返ると、厳しい顔をしたオレットさんが私を見つめていた。
オレットさんは強い光の宿った目で私を真っ直ぐに見据えながら、小さく首を振った。
「先ほどから、なんなのだ、その小娘は」
バーデル伯爵さまは、ふんっと不快そうに吐き捨てた。
「まあいい。北軍の騎士よ。白花の竜騎士にはその様に回答しておけ。そして、改めて戦闘命令を下す。次の作戦目標は、既に決しているのだ」
バーデル伯爵さまは鎧をきしませて立ち上がると、ゆっくりと歩き出す。そして木製のボードに張り出されたオルギスラ帝国の地図の前に経つと、赤い印が施された一点、多分バルクスを示した場所から少し上の場所をドンっと叩いた。
ギロリと私たちを睨むバーデル伯爵さま。
「リーナシュタット。次はこの街を落とす。帝都侵攻の前哨戦だ。我々は、この街で敵親衛師団を潰す!」
司令部天幕内に響き渡ったバーデル伯爵さまの宣言に、私はドキリとしてしまう。
親衛師団……。
アンリエッタたち黒の竜鎧が所属している部隊。そして、オレットさんやグレイさんが追っている、ガラード神聖王国の生き残りたちが潜んでいるかもしれないという部隊。
彼の部隊の所在については、私たち白花の騎士団と北部方面軍にとっても最大の懸念事項だった。
一般の騎士さんや兵士さんでは太刀打ちできない竜の黒鎧たちの攻撃力は、明確な脅威だ。さらに、アンリエッタは私と同じように空を飛ぶ事が出来る。その機動力をもって不意打ちを仕掛けられては、一挙に部隊が崩壊してしまう危険性がある。
敵地にいる今、その強力な敵がどこから襲って来るかわからないのだ。
残念ながらトラヌス文書には、一般の敵の配置はわかっていても、親衛師団の情報は一切載っていなかった。
オルギスラ帝国領に入ってから、私たちはずっとアンリエッタらの動向に注意を払ってきた。グレイさんは密かに少部隊を動かし、情報収集も行っていた筈だ。
しかし、現在に至るも奴らは現れていない。
これまで、その情報を得る事も出来なかったし、戦場で出くわす事もなかった。
それが、とても不気味だったのだけれど……。
でも、どうしてその親衛師団の場所をバーデル伯爵さまが知っているのだろうか?
レティシアさん達が作った写しが、それほどオリジナルのトラヌス文書と違っているとは考えられない。
そうなると、バーデル伯爵さまはトラヌス文書に頼らず、独自にアンリエッタらの情報を得たという事になるが……。
目元をごしごしとぬぐった私がそっと隣を見上げると、オレットさんが引き締まった真面目な顔でバーデル伯爵さまを見つめていた。
「白花の竜騎士殿には、リーナシュタット攻略戦において、我が特務重火砲部隊の護衛を命ずる。追って連合軍司令部より作戦指示が行くだろう。これまでの経験上、お前たちの主である竜騎士殿が、一番帝国の機械化鎧部隊との戦闘経験が豊富な筈だ。ふっ、守ってもらおうではないか。最強の竜騎士の力をもって、我らサン・ラブールの勝利の鍵を!」
そう言い放つと、バーデル伯爵さまはニヤリと笑った。そして静かに頭を下げるオレットさんに対して、満足そうに大きく頷いた。
私は、しかしそのまま頭を下げる事が出来ずに真っ直ぐにバーデル伯爵さまを睨みつけていた。
……私が、あんな惨たらしい兵器を守らなければならないのか。
自然と眉をひそめてしまう。
でも。
もし本当にリーナシュタットという街にアンリエッタらがいるのだとしたら、あの黒鎧の相手は私がしなければならない。さもないと、味方部隊に甚大な被害が出てしまうだろう。
私は、いったいどうしたら……。
ぎゅっと握りしめた手が小さく震える。
胸が詰まって息が出来なくて、苦しくなってしまう。
バーデル伯爵さまが、もういいだろうと言わんばかりにぞんざいに、私たちに退室を命じた。
それと同時に、伝令役と思しき騎士さまが天幕に入って来た。
「閣下。アムベリアル侯爵と名乗る方がいらっしゃっておりますが?」
その侯爵さまの名を聞いた瞬間、それまで上機嫌そうだったバーデル伯爵さまの顔が、さらにぱっと輝いた。
「うむ、そうか! 待っておったぞ! 直ぐにお通ししろ!」
そう言うと、伯爵さまはオレットさんに対して、早く出て行けという様に顎を振った。
私は大きく息を吸い込む。
……その態度、かなり失礼なのではないだろうか!
私が何か言わなければとむうっとバーデル伯爵さまを睨みつけていると、サリアさんがそそくさと駆け寄って来た。そして「参りましょう、セナさま」と小さく囁き、私の手を引っ張った。
抵抗を試みるが、私は軽々とサリアさんに引っ張られてしまう。
サリアさんに手を引かれて天幕の出口に向かいながら、私はオレットさんの顔を窺った。
ぞんざいな扱いを受けたオレットさんは、しかし怒る事も顔をしかめる事もなく眉をひそめて何かを考えている様だった。
「アムベリアル……」
先ほどの伯爵さまの来客に何か引っかかるものを感じたのか、オレットさんが小さくそう呟くのが聞こえた。
私たちが司令部天幕を出るのと入れ違いに、黒いローブをまとい、フードまで被った怪しげな人物が司令部天幕内に入って行く。
すれ違った時にもその顔は全く見えなかったけれど、ローブの下には鎧でも着込んでいるのだろうか、かなりがっしりとした大柄な人物だった。
どうやらその黒ローブの方が、アムベリアル侯爵さまの様だった。
「お待ちしておりましたぞ! 今回の勝利、見ていただけましたかな! いや、全てあなた様の情報の通りだっ!」
天幕の入り口が閉まる瞬間、嬉しそうなバーデル伯爵さまの声が聞こえた。それに対するアムベリアル侯爵さまの応答は、何も聞こえなかったけれど……。
サン・ラブール条約同盟には数多貴族の方々が存在するけれど、侯爵家となるとそれほど数も多くない。私ももちろんその全てを把握している訳ではないけれど、アムベリアル侯爵さまという家名は聞いた事がなかった。
先ほどのバーデル伯爵さまの口ぶりからして、何かしらの情報提供者という事になるのだろうか。
私は、そこでふと思い出す。
バーデル伯爵の甥、亡くなってしまった私の元上司、バーデル隊長も、竜山連峰への出陣した際、誰かの情報に従って動いたという様な事を言っていた気がする。眼鏡のレーナ副隊長に向かって、何かそんな事を大声で言っていたのを思い出してしまった。
……もうあれから、随分と経つのだ。
何だかとても遠いところまで来てしまった気がして、私はそっと小さくため息を吐いた。
……でも感傷に浸っているばかりではいけない。
竜晶石砲弾の件も次の作戦の件も、何も片付いていないのだ。
サリアさんに手を握られたままの私は、ゆっくりと深呼吸する。
今の私には、胸の中でぐるぐると渦巻いている感情から取り合えず目を逸らし、陣地の向こうに広がる灰色の空を睨みつける事くらいしか出来ない。
……とても、とても悔しいけれど。
私は、ぎゅむっと唇を噛み締める。
そこでふと、私は隣を歩くオレットさんも、先ほどからずっと何事かを考え込んでいるのに気が付いた。
オレットさんも、先ほどのバーデル伯爵さまとの会見に、何か思うところがあったのだろう。
「オレットさん、どうしたんですか?」
私は、オレットさんの腕を包む籠手にそっと手を当てて尋ねてみる。
「いや……何だかな。思い出せそうで思い出せないって言うか……」
オレットさんはそう言うと、ガリガリと頭を掻いた。
私は、んっと首を傾げる。
それを見たオレットさんが、先ほどの私みたいにふっと大きくゆっくりと息を吐き、そしてニヤリと笑った。
それは、いつものオレットさんが浮かべる不敵な笑みだった。
「まぁ、思い出せない事は置いといてだな」
オレットさんが真っ直ぐにこちらを見つめる。
「色々と備えておかなくてはいけない事が多い。バーデルの情報が正しければ、恐らく次の戦いは奴ら、黒鎧たちとの決戦になるだろう。アンリエッタとも、な。気を引き締めて行くぞ、セナ」
そう言うと、オレットさんはポンッと私の肩に手を置いた。
私は、オレットさんを真っ直ぐに見上げてこくりと頷く。
竜晶石砲弾の事、それを撃ちだす機獣の護衛の事、そしてアンリエッタたち親衛師団の事。
考えなければいけない事とか気持ちの整理を付けおかなければならない事が、沢山ある。本当はとても混乱していて、今もアーフィリルを抱き締めて蹲ってしまいたいと思っている。
……でも、ダメだ。
立ち止まってはいけないんだ。
前に進みながら、何とか戦争の終わりに向かう道を見つけなければならないんだ。
どんなにつらい事があっても……。
とうとうこらえ切れなくなったかの様に、ぽつりぽつりと空から零れ始めた雨粒が、私の頬を叩いた。
あと1週間もすれば月が替わる。
来月は紫木の月。
この戦争が始まってから、ちょうど1年が経とうとしている。




