第51幕
オルギスラ帝国の領土に足を踏み入れてからずっと、曇り空が続いているような気がする。
気温は随分と上がり、コートが不要になって久しいけれど、重く立ち込めた雲がずっと頭上に居座っていると、何だか薄暗く冷え込んだ冬に逆戻りしてしまったかの様な気分になってしまう。
そんな憂鬱な景色は、しかし頭上だけでなく足元にも広がっていた。
アーフィリルと融合した私は背や腰に飛行制御用の翼を展開し、空中から眼下に広がる戦場を見下ろしていた。
物の焼け焦げる臭いと大砲が発射された時の独特な臭いが風に混じって吹き上げて来る。私の白のドレスが、それを受けて大きくはためいていた。
風に揺れる髪もそのままに、私は胸の下で腕組みをしながら、見下ろす先で展開される戦闘の推移をじっと見守る。
森へ、そして山中へと繋がっている帝国の広い街道。
その道を挟んで、私たち白花の騎士団と北部方面軍の主力が、帝国軍の防衛部隊と交戦していた。
ここは、もう既に帝国の領土だ。
私たちは侵攻する側で、帝国軍は防衛する側なのだ。
その帝国軍は、騎兵と機獣部隊を使って私たちの部隊の前面を刺激しては退却を繰り返していた。
優勢なのは私たちだ。今攻勢を仕掛ければ、一気に帝国軍を突き崩せる様に見える。
しかし、それこそが帝国軍の作戦なのだ。
帝国軍が退却する振りをしてこちらを山側に引き寄せようとしているという事を、既に私たちは看破していた。
味方部隊の本隊を率いるのは、グレイだ。
グレイは帝国軍の作戦に乗った振りをして、逃げる敵を追撃している。しかし、決して踏み込み過ぎる様な事はしない。上空から見ていると、冷静に敵との距離を測りながら、周囲の状況を窺っているのがわかる。
さすがの用兵だ。
逆に帝国軍の方は、作戦が上手くいっていると思い込み、周囲が見えなくなっている様だ。グレイたちが食いついていない事に気が付かず、真っ直ぐに軍を引いている。
私は僅かに首を傾げ、目を細めた。
帝国領の西側に位置するこの辺りは、岩石質な地形が目に付く。帝国軍が撤退して行く方にそびえる山も、所々切り立った岩肌が露出していた。
その山の麓に到達した帝国軍が、不意に後退を停止する。そして、一斉に反転すると、砲撃陣形を組み始めた。
それを見た味方が、突撃の足を止めて防御態勢を取る。
その瞬間。
帝国軍が背にした岩山の上から、ドンっと腹に響く爆発が起こった。
それに合わせる様に、地上の帝国軍が発砲する。
乾いた音が連続し、むわっと発砲煙が湧き上がった。
先ほどまで逃げていた帝国部隊は、身軽さを重視していたのか重砲は装備していなかった。皆銃歩兵や銃騎兵たちばかりだった。
当然それらの弾は、サン・ラブールの騎士たちの防御障壁によって防がれる。
魔素撹乱幕は吹き抜ける風と戦場の移動に伴って拡散してしまい、ほぼ無効化されてしまっていた。そのため銃撃が防がれるというのは当然の結果の筈なのだが、帝国軍にとっては予想外だったらしい。
銃撃を受けてもこちら側が無傷なのを見て、帝国部隊に動揺が走るのがわかった。
『山上の砲撃陣地は制圧したわよ、セナちゃん。もうこんな山登りはしたくないわ……』
耳に装着した遠話装置から、レティシアの声が聞こえて来る。
同時に、再び帝国軍の背後の山頂で爆発が起こった。
黒煙を上げているのは、岩山の上に作られた帝国軍の砲撃陣地だった。
あらかじめ山の背後に回り込んだオレットやレティシアの別働隊が、帝国軍の砲撃陣地を襲撃したのだ。
平地に布陣した帝国軍は撤退する振りをしてこの砲撃陣地の射程内まで私たちを誘い込み、山頂からの大砲の砲撃で一気にこちらを殲滅するつもりだったのだろう。
戦技スキルを用いたとしても、大砲の集中砲火を食らってはひとたまりもない。
しかし。
私たちには、予め敵の陣地の場所がわかっていた。
あのトラヌスで押収した、帝国軍の秘密文書のおかげで。
先ほどの爆発が陣地からの砲撃ではなく、作戦は失敗したのだと知った山の麓の帝国軍部隊が、最後の突撃を仕掛けて来る。もはや彼らが取り得る手段は、突撃か降伏するしかない。
一部は勇敢にも戦闘を継続する様だったが、しかし殆どの帝国軍部隊は降伏する様だった。
ここ最近の帝国軍は、侵攻して来た私たちサン・ラブール連合軍を前に連戦連敗状態だった。恐らく士気も随分と低下している事だろう。
あとはグレイに任せておけば問題ない、か。
私はふっと息を吐く。
オルギスラ帝国軍の国土防衛計画が記された秘密文書、通称トラヌス文書は、突然現れたバーデル伯爵によって持ち去られてしまった。
グレイやオレットはその伯爵の要請に不満を露わにしたが、それがサン・ラブール連合軍司令部からの命令であるならば従うしかない。
バーデル伯爵の要請については、もちろん連合軍司令部に確認を行った。その結果司令部からは、バーデル卿に従うようにという単純明快な回答が戻って来ただけだった。
司令部への確認の間トラヌスで待たせる事になってしまったバーデル卿は、日を追うごとに不機嫌になっていた。しかしその連合軍司令部の回答を聞くと、勝ち誇った様な笑みを私に向けて来た。
こうしてトラヌス文書は、結局バーデル卿に持って行かれてしまった。
しかしその内容については、司令部に連絡を取っている間に、レティシアやアメルがこっそりと控えを作ってくれていた。
さすがはレティシアだ。良く機転が利く。それにアメルの記憶力も、この作業に大いに役立った。
アメルは、やれば出来る子なのだ。
普段やらないだけで。
あと、その後褒めて褒めてとしばらくの間騒がしかったけれど。
このトラヌス文書の複写本のおかげで、私たち白花の騎士団と北部方面軍は、バーデル伯爵が去った後も敵の防衛戦力を把握しながら戦う事が出来た。
そのため都市国家群を制圧し、本格的に帝国領への侵攻が始まっても、今回の戦闘の様に安定した戦果を上げて前進する事が出来ていたのだ。
オルギスラ帝国への逆侵攻が始まって1ヶ月。
私たちは既に、帝国領の奥深くまで食い込んでいた。
私たち北部方面軍や白花の騎士団だけでなく、もちろんバーデル卿がいる中央方面軍や南部方面軍も同様だった。
戦局はここまで、サン・ラブール連合軍司令部の立てた計画の通りに推移していると言えるだろう。
しかし詳細な状況は、当初の作戦計画とは少々違っていた。
あらかじめ示されていた作戦計画では、私たち北部方面軍と中央方面軍が囮となり、エーレスタのディンドルフ大隊長らが主力となった南部方面軍が中心となって攻め込むという事になっていた筈だ。
しかし現在は、私たちとその南部方面軍が陽動と側面防御を担い、中央方面軍が突出する形で戦線を押し上げていた。
こうなってしまった要因は、もちろんあのトラヌス文書とそれを持ち去ったバーデル伯爵にある。
敵防衛戦力の情報を握ったバーデル伯爵は、自主参戦した1部隊の指揮官でありながら快進撃の立役者として、実質的に中央軍の行動を牛耳っていた。
サン・ラブール内でも大きな力を持つウェリスタ王国の大貴族であり、連合軍総司令部にも顔が利くバーデル伯爵に、中央方面軍の将官らは従うしかなかったのだ。
それどころかトラヌス文書の情報をもとに私たち北部方面軍や南部方面軍の行動にも口を出し始めたバーデル伯爵は、まるで帝国領へ侵攻する連合軍の総司令官の様に振舞っていた。
私にとっては、別に誰が戦功を独占しようと軍の指揮権を握ろうと興味はない。
私は私の務めを果たすだけなのだから。
しかしながら、バーデル伯爵の指揮する作戦行動に関して不穏な噂を聞くことも多くなると、さすがに眉をひそめずにはいられなかった。
捕虜を認めず、帝国軍の城を徹底的に殲滅したり、工廠を急襲して技師らを根こそぎサン・ラブールに連行したりという様な話も聞こえてくる。
私はじっと下方の戦場を睨みつけながら、ぐっと唇を引き結ぶ。
鹵獲した新型機獣を目の前にしてはしゃいでいたバーデル伯爵。その姿を目にした時に感じた得体のしれない不安感が、ここしばらくの間、私の胸の中にずっと居座り続けていた。
こうなっては、速やかに帝国軍を屈服させてこの戦争を終結に導くのが得策だと思う。
何かが起こる前に。
レティシアとアメルの機転で得る事が出来たトラヌス文書の複写を上手く活用して、速やかに、的確にオルギスラ帝国軍の戦意と継戦能力を奪うのだ。
それと同時に、バーデル伯爵の動向にも注意を向けておかなければならない。
伯爵が帝国の一般人を苦しめる様な理不尽な暴力を振るうのなら、それは止めなければならない。
1人の騎士として。
私は自分自身を抱き締める様に組んだ腕に少しだけ力を込めながら、軽く目を瞑り、小さく深呼吸した。
その時。
静まり掛けていた戦場が、再び騒がしくなり始める。
すっと目を開き、戦場を見回した私は、岩山の北側の部隊が乱れ始めているのを見つけた。
どんっと重い衝撃音が走り、新たな黒煙が吹き上がる。同時に、兵や騎士らの喊声が響き始めた。
どうやら、新たな戦闘状況が発生した様だ。
「レティシア、状況はわかるか?」
私は、レティシアお手製の遠話装置に向かって話し掛ける。
『……えっと、ちょっと待って』
僅かなタイムラグの後、レティシアから返事が来る。
私のところからでは、森と岩山が邪魔で北側の戦場がよく見えない。ただ俄かに動き始めた味方部隊と風に流された黒煙が見えるだけだ。戦闘音も聞こえるが、詳しい状況はわからない。
山頂を占領しているレティシアらオレット隊からなら、状況がわかるだろう。
『……セナちゃん、聞こえるかしら。北から接近中の敵集団は、軽量の快速機獣を先頭にした中隊規模の部隊みたいね。後ろに砲兵もいるみたいだわ。また砲撃が始まってる』
ふむ、やはり新手か。
私はすっと目を細めた。
「了解した」
私はそう答えながら、飛行制御を解除して急降下を開始した、
やはりこのレティシアの遠話装置は便利なものだ。離れた場所にいる相手とも瞬時に意思の疎通が出来てしまう。
これが沢山あれば、部隊の運用は遥かに楽になるだろう。
しかし現在は、残念ながらレティシアが持つ分と私が装着している分の一対しかない。魔素の波長合わせなど、制作には色々と手間が掛かるそうだ。
私は白の髪を風に流しながら、 グレイが布陣する本陣の真ん中に着地する。
タンっと地面を踏み締めると、白のドレスの裾がふわりと広がり、そしてゆっくりと元に戻って行く。
周囲の北部方面軍の幕僚たちが、空から現れた私にぎょっとした様な表情を向けて来た。
「セナさま。敵の増援は確認出来ましたでしょうか?」
それに対してこちらは表情1つ変えないグレイが、私に鋭い目を向けて来た。
グレイは、既に敵の増援の襲撃があった事を把握しているみたいだ。
「機獣、砲兵隊の集団が北部より接近中だ。あちらは私が向かおう」
私は目だけをグレイに向けながら、さっと手を振って白の剣を生み出した。
やはり、何事も机上や書類の上だけでは終わらないものだ。
レティシアらが作ったトラヌス文書の複写では、この付近に存在する敵勢力は先ほど撃破した部隊と山の上の砲撃陣地だけだった筈だ。もちろん事前に送られてきた中央方面軍のバーデル伯爵からの情報でも、快速の機獣部隊が付近に存在するという情報はなかった。
もっとも伯爵からの情報では、山上の砲撃陣地の事ですら敵の小規模な拠点としか示されていなかったが。
レティシアの複写がなければ山の上に砲台がある事に気が付かず、手痛い砲撃を食らっていたかもしれない。
いずれにせよ、事態は流動的だ。トラヌス文書を過信して安易に盲進してはいけないという事だ。
剣を手にした私を見て、グレイが少し飽きれた様に息を吐いた。
「了解しました。騎兵隊を援護に向けましょう。こちらも投降した敵集団の掌握を急ぎますので」
「頼む。しかし、援護は不要だ」
私はグレイに向かってふっと微笑み掛けると、すっと息を吸い込む。そして、ダッと地面を蹴った。
一気に加速する。
戦闘が終わったと安堵の息を吐いている味方や、投降した帝国軍の誘導を行っている味方部隊の脇を高速で走り抜ける。皆私に気が付いていないか、たまたま視界に入っても何事か理解出来なかったのか、ぽかんとした表情でこちらを見ているだけだった。
森に入る直前で、背後に騎兵隊が現れる。
グレイの差し向けてくれた援軍だ。
中隊規模の敵ならば、私一人で十分なのだがな。
私はふっと笑いながら、森の中をさらに加速する。
右へ左へ最小限のステップで次々に木々を回避しながら、速度を緩める事なく戦域の北側へ突き抜ける。森の中では動きが制限される援護の騎兵隊は、あっという間に見えなくなってしまった。
森を抜けると、そこには既に帝国軍の増援部隊と交戦を開始している味方の姿があった。
敵は軽装の機獣を前面に押し立て、騎馬突撃の様に味方部隊の側面に襲い掛かっていた。
私はひと際強く地面を蹴りつけると、ふわりと空中に飛び上がる。そして味方部隊の頭上を飛び越えると、突撃してくる敵集団の前方へふわりと降り立った。
余分な装甲を下ろし少しスリムになった機獣が、地響きを立てて突っ込んで来る。巨大な金属の塊が一団となって突撃してくるその姿は、なかなか圧迫感のある光景だった。
「アーフィリルさま!」
「危険です、アーフィリルさま!」
未だ健在な周囲の騎士たちが、慌てた様な声を上げる。しかし私は彼らに無言で手を振り、一旦退く様に伝えと、改めて機獣群に目を向けて白の長剣を構えた。
「さて。皆が頑張っているのだ。私も見ているだけにはいかないな」
私は小さくそう呟き苦笑を浮かべると、敵集団に向かってゆっくりと歩き始めた。
微かな息苦しさを感じて、私の意識はすっと眠りの淵から浮かび上がる。
あれ、私は……。
薄靄が掛かったみたいにぼんやりとはっきりしない頭でいつの間に寝てしまったんだっけと考えながら、私は目を瞑ったままうんっと軽く伸びをした。
柔らかく温かで心地よい感触が、私の体を包み込んでいる。
顔から足の先まで。
何だか顔の感触は他とは違う気がするけれど、出来るならもう少しこのままじっとしていたいなと思ってしまう。
どんっと重たい疲労感に支配された体は、まるでお布団と一体化してしまったみたいだった。頭ではそろそろ起きなければと思っていても、体はまだ眠っている様で、思い通りに動いてくれない。
顔を覆う生暖かいものに向かって、私はふうっと息を吐く。
情けない事に、どうやら私はなかなか疲れてしまっているみたいだ。
「うーん……」
帝国領に足を踏み入れてから今日まで、ずっと戦っては移動するという日々が続いていた。
トラヌス文書のおかげで連戦連勝の私たちだったけれど、それでもやっぱり常に戦場にいるというのは、気持ちの面で疲れてしまうものなのだ。
この間の岩山の麓での戦いみたいに、トラヌス文書にない敵と遭遇してしまう可能性もある訳だし……
「はふっ……」
起きなきゃと思う。
今も確か、みんなは軍議の最中だと思う。
先ほどまで私も参加していたのだけれど、不覚にもうつらうつらとしてしまっていたのをオレットさんに見つかってしまい、休む様に言われてしまったのだ。
そのままアーフィリルと一緒に会議用の大天幕の奥に設置された簡易休憩所のベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまったのだけれど……。
まだみんなが軍議を続けているなら、戻らなくてはと思う。
私は、一応この部隊の、みんなの司令官なのだから。
……うーん。
でも、先ほどから私の顔を包み込んでいるこの柔らかなものは何だろう。少し息苦しいのだけれど……。
どうやら私は今、お布団や枕とはまた違う柔らかな感触のものに顔を埋めて眠っているらしい。ふわふわでほんわりと暖かく、お日様の匂いがするものに。
もしかして、アーフィリルなのだろうか。
もしかしてアーフィリル、私の顔の上に乗っているのだろうか。
……うーん。
ぼんやりとそんな事を考えていると、再び眠気が襲って来る。
寝てはダメだと思いつつも、私はアーフィリルに包まれる様にすうっと深い眠りの淵へと沈んでいった。
一瞬意識を失った後。
ふと気が付くと、私はどこかの崖の上に立っていた。
周囲は真っ暗だ。夜なのだろうか。
まるで体が宙に浮いているかのようなふわふわとした感覚が、私を包み込んでいる。
そっと周りを見回す私の視点は、本当に宙に浮いている様に少し高い場所に合った。
私の周囲には沢山の人たちがいて、じっと崖の先を見つめている。切り立った断崖の下には黒々とした森の様なものが広がっているけど、詳しくはぼやけてしまって良くわからない。何故だか……。
でも、そんな事が気にならない程印象的なものが2つあった。
1つは、頭上に広がる満天の星空だ。
非現実的な程ぎゅっとひしめき合った無数の星々が、今にも零れ落ちて来そうな程キラキラと瞬いていた。まるで私自身が、星の海に浮かんでいるかの様だ。
まさに、圧倒的だった。
今までも何度も夜中の行軍や作戦を行って来たけれど、こんな凄い星空は見たことがない。
雲に隠される事もなく山の端に遮られる事もなく夜空一面に広がる星々が賑やかに瞬いているその光景は、幻想的で美しく、思わず目を奪われてしまう。
そして、気になるものがもう1つ。
それは、遥か前方、暗い森の彼方に起立する光の柱だった。
まるで頭上の星空から光り輝く星が零れ落ちているかの様に、一筋の黄金の光が、柱となって夜空と大地を繋いでいた。
あれは、なんだろう……。
私のいる場所からその光の柱までは、かなり距離がある様に思える。そうすると、光の柱がかなり大きなものであるという事になる。
離れているはずなのに、その柱が光の奔流であるという事がわかる。
天から降る黄金の輝きが、大地に染み渡って行く。
無限の星空と、そこから降り注ぐ光の柱。
今私の目の前に広がる光景は、今まで見て来たどんな場所よりも美しく神秘的で、思わず胸が震えてしまった。
『よく見ておくがいい、アベルよ』
低い声が響く。
アーフィリルの声だ。
しかし周囲にアーフィリルの姿はない。
「アーフィリル。あれが、そうなのか……」
私の傍らに立つ黒髪の青年が、厳しい表情でこちらを見上げる。何だかフェルトくんに雰囲気が似ている人だ。
そこで私は、やっと自分がアーフィリルの中にいるのだという事に気が付いた。
大きなアーフィリルからの視点だから、何だか目の位置が高く感じたのだ。
不意に、ああ、そうかと納得する。
ここは、夢の中だ。
アーフィリルと一緒に眠っているとたまに見る事が出来る不思議な夢。それは、いつかどこかでアーフィリルが経験した事を、私が夢として見てしまっているのだ。
目が覚めてしまうとほとんど覚えていない事が多いのだけれど、この夢の中にいる間だけは、これがアーフィリルの記憶であるという事を素直に理解する事が出来た。
アベルという黒髪の青年を見下ろしたアーフィリルが、重々しく頷く。
『魔素とは、この大地の底を流れる生命の源。いや、大地の命そのものといっても良い。又は、この世を形作るものたちの最も原初の姿でもあるとも言える。この星に息づく者たちは全て、魔素の奔流より出し形あるものなのだ。そして、あの光の柱も、本質的には同質のものではある』
アーフィリルがアベルさんから目を離し、前方にそびえる光の柱をキッと睨みつけた。
『しかし、あれは異物である。異なる地より導かれた魔素は、元来この星にある魔素を侵食し、汚す。下手をすれば、この大地に死をもたらしかねない劇薬だ。人の手には余るものだ。あの光は、断たねばならない。アベルよ。世界を生かす為には、それしか手段はない』
アーフィリルの声には、抑えきれない怒りがこもっていた。
あのアーフィリルがここまで怒るなんて、私と一緒にいる間にはなかった事だ。
ふと気が付くと、崖の上にはアベルさんとアーフィリル以外にも、何体もの竜と騎士さんたちが並んでいた。詳しくはやはりぼんやりとして見えなかったけれど、その中にはアーフィリルと同じもふもふの竜も沢山いた。
その竜たちも皆一様に、怒りに満ちた低い唸り声を上げ、じっと目の前の光の柱が降り注ぐ光景を見つめていた。
『アベルよ。我らは行かねばならない。あれは、我らが我らの姿で戦うに足る理由となる。世界の魔素の循環と調和を司るのが我らの責故に。アベル、汝らはどうするのだ?』
アーフィリルが目だけを動かして、再び傍らのアベルさんを見た。
こちらもじっと前方を睨みつけていたアベルさんは、さっとアーフィリルの方を仰ぎ見た。そしてふっと微笑む。
それは、強い意志の宿った力強い微笑みだった。
「もちろん俺たちも行くさ。あれを、あそこにいるあの男を倒す為に、俺たちは今日まで戦って来たんだ」
アーフィリルの目を真っ直ぐに見上げるアベルさん。その目は、私やアーフィリルと同じ鮮やかな緑色をしていた。
「世界がどうのというアーフィリルの壮大な話に比べれば、ちっぽけな事なのかもしれない。しかし、これ以上奴を放置しておけば、俺たちの国も他の国も、この大陸全土が蹂躙されてしまんだ。それを許すわけにはいかない!」
アベルさんの目には、真っ直ぐな光が宿っていた。少しも揺るぐことのない強い光だ。
「一緒に行こう、アーフィリル!」
アベルさんが力強く頷きかけてくる。
それを見て、アーフィリルの中に喜びの感情がじんわりと広がっていくのがわかった。
アーフィリルは、このアベルさんと一緒にいるのが本当に嬉しいみたいだ。
誰かと一緒にいるという事は、これまでの長い時間独りで過ごしてきたアーフィリルにとっては新鮮な驚きに満ちたものだった。
もともと好奇心旺盛なアーフィリルは、そんな新しい事に満ちたアベルさんとの生活がとても気に入っていたみたいだ。
……もしかしたら、あの竜山連峰の山の中でアーフィリルと出会った夜。アーフィリルが私に力を貸してくれたのも、私と一緒に来るという判断をしてくれたのも、昔こうしてアベルさんと一緒に過ごした事があったから、なのかもしれない。
そう思うと、いつも何だかんだと難しい事を言って澄ましているアーフィリルが、何だかとても身近な存在の様に思えてしまった。
強大な力を振りかざす恐ろしい竜ではなく、寂しがりやな真っ白のワンコみたいに……。
でも、同時に少しだけ嫉妬もしてしまう。
アーフィリルの中では、きっと未だアベルさんの存在が大きいのだ。
では、私の事もアベルさんと同じように思ってくれているのだろうか?
……出来れば、そうであって欲しいな。
そう強く思うけれど、残念ながらアーフィリルの記憶の中にいる私にもそれはわからなかった。
夢の中では、それが夢だと自覚していても、得てして思い通りに事は進まないものなのだ。
目が覚めたら、もっとアーフィリルをもふもふしてあげよう。散歩もして、枝投げもしてあげよう。そして戦闘だけでなく、もっと楽しくて面白い思い出を沢山作ってあげようと思う。
そうすればきっと、私と過ごす日々もアーフィリルの大事な思い出になる事が出来ると思うから。
そんなとりとめのない事を考えていると、私の意識がすっとアーフィリルから離れて行くのがわかった。
もしかしたら、目覚めが近いのかもしれない。
今度こそちゃんと起きなければ。
そう思いながら、私は暗い暗い眠りの底へと沈んで行く。微かに伝わるアーフィリルの温もりと、柔らかさに包まれながら。
そうしてどれくらい経っただろうか。
私は、はっと目を覚ました。
今度は、目の前に広がっていたのは良く見知った光景だった。
視界の半分は、照明が落とされて薄暗い天幕の中の光景を捉えていた。間違いなくここは、私が眠りに就いた司令部用の大型天幕の奥に設えられた簡易休憩所だ。
そして私の視界のもう半分は、柔らかくて温かなモフモフに占拠されていた。
もぞっと手を動かしてそれを確認すると、やはりアーフィリルが私の顔の上に半分体を乗せて寝転がっていた。何とも器用な寝方だ。
『む、目が覚めたかセナよ』
アーフィリルの低い声が響く。
その声を聞いた途端きゅっと胸が締め付けられる気がして、私は思わず力を込めてアーフィリルの頭を撫でる。そしてそのお腹に顔を埋めたまま、白い小さな体をぎゅっと抱きしめた。
あまりよく覚えていないけれど、アーフィリルについて何か夢を見ていたみたいだ。何だか胸の奥に切なさが残っていて、こうせざるを得なかったのだ。
『む、どうしたのだ、セナよ』
しばらくは大人しくされるがままになっていたアーフィリルだったけど、やがてもぞもぞともがき始める。
こうしてアーフィリルを抱き締めていると、もう一度眠ってしまいそうになる。
いや、さすがにもう二度寝はダメだ。
軍議、出席しなければいけないのだ。
睡魔と義務感の狭間で揺れながら私がアーフィリルをぐりぐりしていると、簡易扉の向こうからざわざわと賑やかな声が聞こえて来た。
「だから、こうして貴重な情報を提供しているのだ!」
その時、一際大きな怒鳴り声が響いてくる。
私はびくりと体を竦ませ、思わずがばっと起き上がる。
『む』
その反動で跳ね飛ばされたアーフィリルが、ずるりとベッドから転げ落ちてしまった。
「あ、ごめんね、アーフィリル!」
しかし、何事だろう……。
私はうんしょと簡易ベッドから出ると、服装を整えてペタペタと髪を直しながら、隣の会議スペースへ繋がる扉へと向かった。
「貴軍らには、あの白花の竜騎士に加えて竜騎士が2騎も配置されているではないか! それらをもっと効率的に運用して、もっと素早く帝国軍を殲滅して行くのだ! 何も難しい事など言っておるまい! 確かに勝ち進んではいるが、我が主、バーデル伯爵閣下はこの程度では満足してない! その事をよく憶えておいてもらおうか!」
聞いたことのない声がしゃがれた声が、何かを一方的にまくし立てている。
私は眉をひそめながら、そっと休憩室の扉を開いてひょっこりと会議スペースに顔を出した。
どれくらい寝てしまったのかはわからなかったけど、天幕内には既に幹部のみんなの姿はなかった。残っていたのは、オレットさんとグレイさんにレティシアさん。それに北部方面軍のトップである副官さんだけだった。
そしてそのみんなに対しているのは、キラキラ光る豪華な鎧を着込んだ、恰幅のいい騎士さんだった。
「貴公らでは話にならん! 白花の竜騎士はどこにいるのだ! 私が直々に伯爵さまのお言葉をお伝えする!」
何があったのか、顔を真っ赤にして苛立たし気な声を上げるキラキラの騎士さん。
どうやら中央方面軍のバーデル伯爵配下の騎士さんみたいだ。
私に用事みたいだけど、伝令か何かだろうか。高級幹部であるはずのグレイさんやレティシアさんに対しても、何だか居丈高だけど……。
小さいままの姿では白花の竜騎士とは認識してもらえないだろうから、取り合えず状況だけでも確認しておこうと私はとととっとオレットさんの背後に駆け寄った。
バーデル伯爵さまの部下の騎士さんが、不機嫌そうにぎろりと私を見る。
むむむ。
「……オレットさん」
私がそっと話しかけると、オレットさんは何も答えずに背中に回した手をパタパタと振った。
あっちに行っていろという事だろうか。
……むむむ。
「とにかく、大きな作戦が近づいているのだ! 北部方面軍としても、今まで以上の働きを見せてもらわなければ困る!」
腕組みした怒り顔の騎士さんは、細い目に鋭い眼光を湛えてさっとみんなを見回した。
「さっさと白花の竜騎士を呼んで来てもらおう。まったく、伯爵閣下の使者である私を待たせるなよ!」
そう言い放つと、キラキラの騎士さんはふんっと不満そうに鼻を鳴らした。そしてさっとマントをひるがえして踵を返した。
私は未だに良く事態が理解出来ず、オレットさんやグレイさんたちの顔を見回す。
皆、苦虫を噛み潰した様に顔をしかめていた。
『第1波攻撃、完了したわ! 現在オレット隊が撤退中! 敵の追撃部隊はマーサスの隊が受け止めている!』
「了解。援護の必要性は?」
『大丈夫みたい。それよりも、第2波攻撃と同時に、西側から迂回して一撃を加えて欲しいってグレイさんが言ってるわ』
「了解だ。タイミングはそちらで指示して欲しい。戦域が広すぎて、どこの部隊が援護を必要としているのか上空からでは判断が付かない」
『わかったわ。あ、ちょっと待って……』
耳に装着した遠話装置から聞こえてくるレティシアの声が、そこで一旦途切れた。
『今、南部方面軍がかなり苦戦しているって報告が来たみたい。これから検討するけど、もしかしたらそちらに竜騎士たちを向ける事になるかもしれないわ』
あのディンドルフ大隊長が苦戦しているのか。となると、全体の戦況は思わしくないのかもしれない。
『さすがは帝国軍の大拠点ね。一筋縄ではいかないわ。また情報が入ったら送るから、セナちゃんはそのまま待機していて』
「了解」
アーフィリルと融合し、翼を展開して空中に在る私は、短くそう答えるとふっと息を吐いた。そして改めて、眼前に広がる戦場をじっと見据えた。
私の目の前では、今、かつてない規模の戦闘が繰り広げられていた。
山間に広がるオルギスラ帝国有数の大都市バルクス市。そしてその街を守る様に周辺各地に配置されたいくつもの防衛拠点。それら広範囲に広がる施設が1つの巨大な要塞の様に機能しているこの地に、3方から終結したサン・ラブール条約同盟連合軍の帝国侵攻部隊が、一斉に攻撃を開始していた。
こちらの動員兵力は、軽く10万を超えているだろう。帝国側も2個師団の駐留部隊がいる事になっているが、私たちの猛攻を押し返して来ることからこちらと同等の戦力が投入されている可能性が高い。
先日。バーデル伯爵配下の騎士が私たち白花の騎士団と北部方面軍の陣地を訪れたのは、このバルクス攻略作戦を行うために各隊の動きを合わせよというバーデル卿の命令を伝えるためだった。
バルクスは帝国の第2の都市で、経済や人口はもちろんの事、軍事拠点としても帝国領の西の地域で1番の規模を誇る大都市だった。
トラヌス文書を紐解いても、やはり帝国西部で最大規模の部隊が駐留しているという事になっていた。
確かにバーデル伯爵が示した作戦案の通り、このバルクスを落とす意義は大きい。ここを陥落させてしまえば、帝国西部はサン・ラブールの支配下に入ったも同然となるだろう。
しかしだからこそ、帝国軍の守りは強固だった。
都市そのものは3重の城壁で守られ、周辺の山丘を利用した砲撃陣地や砦がさらに幾重もその街を守る様に配置されていた。どうやら新型の砲や機獣も大量に配備されている様だ。
バルクスは市街地の規模も他の都市とはけた違いで、大規模な兵器工廠も備えているらしい。籠城戦となっても、長期間耐えるだけでの備えはありそうだ。
さらには帝国軍は、開戦と同時に魔素攪乱幕も惜しげもなく展開していた。
どうやら戦力も装備も、帝国側は準備万端という訳だ。
対してサン・ラブール側の足並みは、揃っているとは言い難い。
使者の騎士が言っていた様に、突出した中央方面軍に合わせる形で北部と南部の軍を進めたために、全体の連携が上手くいっていないのだ。
バルクスは、確かに戦略的には見過ごす事の出来ない重要な場所ではある。
しかしグレイは、まずは周辺地域を指圧し、然る後にしっかりと準備を整えてじっくり攻略に取り掛かるべきだと言っていた。
正面から攻め掛かれば、たとえ敵の戦力は把握していても、味方にも甚大な損害が出ると予想出来たからだ。敵の戦力規模が把握できている以上、長期戦で兵力を削れば、無理な攻めをしなくても済むという訳だ。
しかしバーデル伯爵は、帝国領に侵攻している全戦力をもってこのバルクス攻略する事に決定した。
何か焦っているのだろうか、バーデル伯爵は。
もしくは、容易くバルクスを攻略する計画があるのだろうか。
さらに懸念されるのは、バルクスの街が一人も生活している場所であるという事だ。
全軍による総攻めを行えば、バルクスに住む一般人たちも戦火に巻き込んでしまう可能性が高い。
一般の市民に1人の犠牲も出さずに敵拠点を落とすというのは理想的すぎるかもしれないけれど、それでもどんな場合でも、一般人へに被害が出る事は許容出来るものではない。
バーデル伯爵は、しかしその様な状況などお構いなしに、この機に帝国軍を一挙に殲滅してしまうつもりの様だった。
もちろんバーデル伯爵や表向きは作戦立案を行った事になっている中央方面軍に対して、私はバルクス攻めは時期尚早である旨の意見を伝えていた。しかしその返答の代わりに私のもとに送られてきたのは、連合軍司令部からの正式な命令としてのバルクス攻略作戦への参加指令だった。
これは、トラヌス文書の時と全く同じ状態だった。
どうやら連合軍司令部は、完全にバーデル伯爵、いや、主戦派が掌握してしまっているらしい。
その主戦派たちは、どうやら一般人への被害などお構いなしに、徹底的に帝国軍を殲滅する腹積もりの様だ。
この作戦に対して、私やグレイは反対だった。しかし北部方面軍の中からも、作戦に賛同する意見が数多く出されていた。
中には、帝国民に配慮する私の態度を弱腰だと批判する声もあるという。
これは下士官や一般兵と接する事の多いマリアから聞いた話なのだが、戦争初期に帝国の侵攻を受けた国の出身者の間では、帝国の都市や町村も問答無用で制圧、占領すべきだという声が大きくなっているらしい。
先に侵攻して来たのは帝国軍なのだ。
奴らを同じ目に合わせてやるのに、何の躊躇いが必要なのか、と。
それを聞いた小さな私は、悲しさと怒りとやるせなさと無力感の混じり合った感情が込みげてきて、思わず涙を零してしまった。
ぎゅむっと唇を噛みて、真っ白になるまでぐっと手を握りしめてしまった。
果てない憎しみの連鎖。
報復の応酬。
そんなものが、サン・ラブールの騎士や兵のみんなを突き動かしているのだ。
それがとても悲しくて、ぽろりと涙があふれるのを止められなかった。
私はどうしたらいいのだろう。
こんな悲しい事だけが降り積もって行くだけの戦争を終わらせるには、私は何をすべきなのだろうか?
そうやって思い悩んでいる間に、とうとう有効な答えを見つけられないまま、バルクス攻略戦は始まってしまった。
嫌だ、そんな作戦には従いたくないと言うのは簡単だったけれど、私たち白花の騎士団と北部方面軍が参戦しなければ、中央方面軍や南部方面軍に多大な犠牲が出てしまう可能性がある。
作戦が始まってしまった以上は、戦うしなない。
空中からあちこちに上がる火の手を見つめながら、私は白の剣を握りしめる手にぐっと力を込めた。
こうなってしまった以上、速やかに戦闘を終わらせるしかない。そのためには私が突撃し、恐らくは街中にあるのだろう帝国軍の司令部を落とすののが最もいい方法だと思う。
しかしながら戦況は、そう単純なものではなかった。
3方から迫るサン・ラブール連合軍に対して、帝国軍は入念に計算して配置したと思われる砲撃陣地から十字砲撃を浴びせ、また効果的に要所要所で魔素攪乱幕を展開し、開戦から約半日の間、優位に戦闘を展開していた。
私たちもトラヌス文書で敵陣の配置は把握していたけれど、なかなか突破口を見出す事が出来なかった。
さらに帝国軍は、拠点にこもって砲撃しているだけではなかった。
サン・ラブール側が状況不利と撤退を始めると、今度は部隊を出して追撃を仕掛けて来たのだ。
敵の中枢に攻め入るどころか、私は味方が無事に撤退出来る様に、その帝国の追撃部隊の迎撃に回るのでやっとという状況が続いていた。
いかにアーフィリルの力が強大でも、私の身は1つしかない。広範囲で展開される戦場では、各所の味方を援護して回るだけで手一杯となっていたのだ。
こちらの3つの部隊が上手く連携出来ていないため、効果的に敵陣地を攻略することが出来ず、時間と損耗だけが増えていく。
これまでの帝国侵攻作戦の状況と同様に、中央方面軍が突出し過ぎだ。
それに対して北部と南部の部隊が付いていけていない。中央軍に引きずられる様にずるずると戦線が伸び、結果各個に帝国軍の反撃を受ける事になってしまっていた。
くっ。
私は顔をしかめる。
これは、良くない状況だ。
低い山と森に覆われたバルクスの周辺からは無数の黒煙が吹き上がり、空を黒く染めていた。まだ昼間だというのに周囲は薄暗い。砲声と喊声が幾重にも重なり、まるで世界そのものが唸り声を上げている様だった。
敵味方の騎士の亡骸が無数に倒れ伏し、機獣や大砲の残骸があちらこちらに散らばっていいる。そしてその上で、必死の形相を浮かべた敵味方が激しく戦い、攻めては退くを繰り返していた。
味方の援護に敵中に飛び込んだ私は、敵の騎士隊を屠ると再度空中に上がる。そして息つく暇もなく、また別の味方部隊の後ろに飛び込む。
追撃して来る敵の騎兵の足を潰し、砲撃を加えてくる陣地に白の光弾を放って吹き飛ばす。
「レティシア、次はっ!」
『北方向から、敵の機獣集団が接近中よ! 歩兵大隊の側面が危ないわ。一時後退の命令は出ているけど、迎撃をお願いっ!』
レティシアの言葉と同時に、私の背後で爆発が起こる。魔素の反応からして、レティシアの魔術スキルの攻撃だ。
本陣に詰めている筈のレティシアですら、防衛戦闘を行っているのだ。
私は地を蹴って、次の戦域に向かう。
「アーフィリルさま!」
途中、負傷した兵たちを率いる騎士とすれ違う。
「一旦撤退だ! このまままっすぐ行けば、味方の陣がある! もう少しだ!」
「は、はいっ!」
護衛してやりたいが、他の隊も危険な状況だ。私が足を止める訳にはいかない。
前方に迫る山を飛び越える為、私は大きく跳躍して高度を取る。途端、付近の山の頂から、私に向って砲撃が開始された。
帝国軍の砲では、私の防御障壁は抜けない。味方部隊への砲撃を逸らせるためにも、私が積極的に囮になりつつ、潰せるものは潰しておかなければならない。
私は空中でくるりと体を捻ると、敵の砲撃陣地に向かって手を差し出した。
その手の中に、白の弓が現れる。
同時に、もう片方の手に握っていた剣が、白の矢へと変化した。
「吹き飛べ」
私はぼそりと小さく呟くと、跳躍の勢いで体が流れている状態から連続して白の矢を放った。
横殴りの風に、ふわりと白い髪が舞い上がる。
白の閃光と化した矢が、敵陣地に突き刺さる。
岩山の山頂で、白の爆光が瞬いた。
砲撃陣地が吹き飛んだのを横目で確認し、私は下方に展開する歩兵部隊を視界に捉えると、そのまま降下を開始した。
歩兵隊は、先ほどまで自分たちを砲撃していた敵陣が吹き飛んだ事に喝采を上げていた。中には、私の姿を目ざとく見つけていち早く声を上げている者もいた。
どうやら敵の機獣部隊はまだ到着していない様だ。これなら、守り切る事が出来るだろう。
降下しながら、私がふっと息を吐いた。
その刹那。
耳に装着した遠話装置に、ざざっとノイズが走る。
『……セナちゃん!』
続いて、レティシアの切羽詰まった声が聞こえて来た。
どうしたと私が答えるより早く、レティシアがさらにまくし立てて来る。
『今情報が入ったわ! バルクス正面に向かっていた中央方面軍が撤退を始めたそうよ! 敵が出て来るわ! 本陣も含めて総員に撤退の準備をする様にってグレイさんが言っている!』
中央が崩れたか。
突出して敵の本陣たるバルクスの街に向かっていた中央方面軍が、とうとう耐え切れなくなったのだろう。傍目から見ても無謀な突撃だった。早晩こうなる事は明らかだった。
しかしこの状況では、勢いに乗って攻勢に転じるであろう帝国軍を押し返す事は難しい。ここはグレイの言う通り、一旦退いて態勢を立て直すしかないだろう。
北部方面軍と白花の騎士団の撤退を支援したのち、アルハイムやハイネと合流して、私たち竜騎士が全軍の殿を努めるべきか。
それが、味方の騎士や兵たちを救うのに最も確実な方法だ。
私は歩兵大隊の隊長と思しき騎士の脇にすっと着地した。取り合えずは、まずこの部隊を無事に逃がさなければならない。
隊長の騎士長と話をしようとしたその時。
再び、レティシアの困惑した声が聞こえて来た。
『えっ、後方から機獣部隊? 味方? 中央方面軍の? 私はしらないわよ』
私はすっと目を細める。
嫌な予感がする。
歩兵部隊に対して敵集団がまだ近づいていないのを確認してから、私はすっと飛翔した。
状況を確認しなければ。
『セナちゃん! 中央軍からバルクス付近からの退避勧告が出たわ! 全軍街から離れろって! 何? 砲撃?』
レティシアからの遠話は要領を得ない。
どうやら本陣も相当混乱している様だ。
高度を取り、空中で停止した私は、幾重にも重なる森の向こう、炎に照らし出されるバルクスの街を睨みつける様に見据えた。
何だろう。
何が起ころうとしているのか。
ふと、周囲の風が止まり、戦場に一瞬静寂が訪れた気がした。
その時。
中央方面軍が展開していると思われる場所から、新たな白煙が吹き上がった。
距離が開いているから何とも言えないが、それは帝国軍と同様の大砲の発砲煙の様に見えた。
数が多い。
少なくとも10門以上の砲が斉射された様だ。
私はすっと目を細める。
その次の瞬間。
バルクスの城壁で、ぱっと閃光が広がった。
青い光が球状に広がり、バルクスの城壁を呑み込む。
「あれはっ!」
『む、これはっ!』
私とアーフィリルの呟きが重なる。
離れた場所にいる私にすら眩く感じる青の閃光が、次々と広がる。
続いて、猛烈な破壊音が響いてくる。
バルクスの街が崩れる音だ。
そして、猛烈な衝撃波が押し寄せて来た。
「なんだ、あれは」
私の呟きも、巻き起こる爆音と衝撃波に飲み込まれる。
私は片目を瞑って衝撃波に耐えながら、目の前で展開される光景を睨みつける。
青の光の塊は、次々とバルクスの壁面に炸裂した。
その光に呑む込まれた城壁が、その内部の街ごと吹き飛ばされる。強固な城塞都市が、積み木の様に呆気なく、あっという間に吹き飛ばされていく。
石造りの壁も建物も関係ない。
そして恐らくは、そこにいる人間すら関係なく、青の光は全て吹き飛ばしていく。
何が起こっているのか理解出来ない。
一体、何が起こっているのだ。
押し寄せる衝撃波に激しく髪をなぶられながら、私は目を見開き、ただ茫然とその光景を見つめる事しか出来なかった。




