第4幕
イリアス帝歴392年、夏。紫木の月。
オルギスラ帝国はアーテニア王国に宣戦布告。アーテニア国内への武力侵攻を開始した。
ルールハウトの竜舎でアルハイムさまから聞かされたその情報は、エーレスタ騎士公国統帥本部からも公式に発表され、衝撃と共にエーレスタ全体へと広がっていった。
アーテニア王国は大陸北西部に位置する国で、サン・ラブール条約同盟に連なる国でもある。
この報を受け、エーレスタ騎士公国はアルハイムさまを含む2騎の竜騎士をアーテニアに派遣。同時に、オルギスラ帝国を警戒する為にオルテンシア平原に駐留させていたエーレスタ騎士団第1大隊のうち1万をアーテニアへと向かわせた。
サン・ラブール条約同盟各国も各々の軍をアーテニアに派遣する事を決め、総勢で2万に上る兵力が、オルギスラ帝国軍に対峙する事となった。
オルギスラ帝国は、アーテニア国内に潜伏する旧ガラード神聖王国の残党狩り並びにガラード残党を匿うアーテニア軍の排除を名目にして宣戦を布告した様だった。
もちろんそれが、オルギスラ帝国の言いがかりである事は誰の目にも明らかだった。
大陸中央戦争が終結して20年。
確かに、未だ世界各地においてガラード神聖王国の残党が様々な問題を起こしているのは事実だ。しかし、一国の正規軍が他国に宣戦布告してまで残党狩りをするというのは、明らかに異常な行動だった。
しかしサン・ラブール条約同盟各国は、この暴挙に対してアーテニア王国の支援は表明しても、条約同盟国全体としてオルギスラ帝国に対して宣戦布告する事はなかった。
私の管理課の老上司は、この各国の対応について、オルギスラ帝国の侵攻が一時的な示威行動だと見なされている為だろうと話してくれた。
3ヶ月程前。オルギスラ帝国が西部平原にある都市国家群の1つ、ラステンに武力侵攻するという事件が起こった。これは、ラステンに対立する都市国家を帝国が支援するという名目での行動だったらしいが、どうみても帝国軍主体の強引な侵攻であったのは明らかだったのだ。
しかしその際、オルギスラ帝国軍はラステン周辺の地域を一時占領はしたが、すぐさま撤退したらしい。
この事件を踏まえ、サン・ラブール条約同盟各国は、今回の侵攻も帝国軍の強圧的な外交政策を推し進める為の一時的な示威行動ではないかと見ている様だった。
本格的な侵攻ではないならば、サン・ラブール条約同盟全体で宣戦布告し、条約同盟国とオルギスラ帝国の全面戦争に至る様な事態は避けたいというのが、条約同盟国上層部の判断なのだろう。
オレットさんの代わりに私のトレーニングに付き合ってくれる様になったフェルトくんは、そんな各国の対応について弱腰だと断じていたけれど……。
しかし、その判断は私にも理解出来た。
もちろん私は、20年前の大戦争を知らない。でも過去の経験から、戦いの悲惨さというものを幾らかはわかっているつもりだ。
血と黒煙。悲鳴と剣戟の音。
あんな地獄が大陸中を席巻した20年前の戦争を経験した人ならば、再び世界を二分する様な大きな争いを避けたいと考えるのも当然だと思う。
大陸中央戦争後の現在の世界は、大陸東部に広大な領土を有するオルギスラ帝国と、西南部各国が集まるサン・ラブール条約同盟国という2つの勢力にわかれている。
この2つが正面からぶつかれば、間違いなく再び大陸全土を巻き込んだ大きな争いになってしまうだろう。
それは、とても恐ろしい事だ。
それに、こちらはまだ不確定な情報だったけれど、どうもアーテニア王国に侵攻した帝国軍は、都市や街道などの重要拠点ではなく、人のいない山岳地帯に向けて進軍しているらしい。
もしかしたら本当に帝国は、ガラードの残党を追っているのか。もしくは、他の目的があるのか……。
いずれにせよこの様な状況も、条約同盟国が慎重な判断をする根拠となっているのだと思う。
詳しい戦況は未だ伝わってこないが、帝国が侵攻して来たという現在の状況は、城勤めの騎士や一般兵のみなさん、それにエーレスタの街の住民たちに暗い影を落としていた。
……あのアルハイムさまを含む竜騎士たちが派遣されているのだ。オルギスラ帝国にどんな思惑があり、そしてどんな大軍勢で来ようとも、帝国軍など直ぐに撃退されてしまうに違いないと私は信じているけど。
エーレスタ騎士団は、国外派遣を専務とする第1大隊に加え、第4、第5大隊についても各条約同盟国に派遣する決定を下していた。これは、アーテニア方面以外のオルギスラ帝国軍を警戒しての派兵だった。
帝国の行動が、今回のアーテニア侵攻だけでは終わらないかもしれないと上層部は考えているのだろう。
もちろんその不安は、私も含めてエーレスタの皆が抱いているものでもあった。
オルギスラ帝国が西部国境に兵を集めているという情報は、私のもとにもちらほらと聞こえて来ていたから……。
部隊派遣の諸々の準備に追われながらも、私はエーレスタ全体を包み込む先の見通せない重たい空気を感じて小さく溜め息を吐いていた。
今の私に出来るのは、管理課のお仕事に全力を尽くし、オレットさんの示してくれたトレーニングを確実にこなしていく事しかない。
……それは良くわかっているけど。
どうも胸の奥に溜まったもどかしさみたいなものが消えてくれなくて、落ち着かなかった。
私も、もっと何か役に立ちたい……。
私は条約同盟国への補給申請書を作成しながら、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
夜の練兵場に、カンカンと訓練用の剣が打ち合う音が響き渡る。
所々雲が掛かっていたけれど、お月さまが綺麗な夏の夜空の下。私はまとめた髪を揺らして汗を飛ばしながら、必死に剣を振るっていた。
「やあああっ!」
フェイントを混ぜながら、上下からの4連撃。
相手の胴に狙いを定め、隙を誘い、そしてその隙を狙って剣を振るう。
鍛錬の相手をしてくれているフェルトくんが、その私の剣を軽く打ち払う。
鋭い眼光でこちらを睨み付けながら、まるで次の私の動きが見えているかの様にフェルトくんは的確に剣を振るっていた。
フェルトくんが防御の為に剣を掲げた瞬間、私は姿勢を低くし、そのがら空きの胴に向かって突きを放つ。
渾身の一撃。
これ以上ないタイミングだ!
しかし次の瞬間、目の前に迫ったフェルトくんの体がさっと横に流れた。
私は慌ててその動きに追随しようとするが、次の瞬間には私の眼前にフェルトくんの剣が突きつけられていた。
はぁ、はぁ、はぁ……。
そこでやっと気が付く。
先ほどの突きは、タイミングが良かったのではない。わざと誘い込まれたのだと。
……くっ。
「もう一度、お願いします!」
汗で張り付いた髪もそのままに、私は再びフェルトくんと間合いを取りながら、訓練用の剣を構えた。
フェルトくんはふんっと短く溜め息を吐き、無言で剣を構えてくれた。
実際剣を交わしてみて思ったのは、フェルトくんはやはり強いという事だ。
その無駄の無い動きと鋭い剣捌きは、オレットさんを思わせる。もしかしたらフェルトくんとオレットさんは、剣の師弟関係にあるのかもしれない。
それに、男の子だけあって力も強い。オレットさんに比べて技術面はさすがに劣るみたいだが、そこは高い身体能力でカバーしている様だ。とてもではないが、力も速さも私では対応することが出来なかった。
それと、フェルトくんはなかなか面倒見が良いということもわかった。
ルールハウトの竜舎ではあれだけ嫌がっていたにも関わらず、こうしてトレーニングにはきっちりと付き合ってくれるし、的確なアドバイスもしてくれるのだ。
「そら、牽制にそんなに力を込めてどうする」
私が縦に横に振るう剣を軽々といなしながら、フェルトくんがぶっきらぼうに指摘してくれる。
「握りはあくまでも軽く、敵を打ち伏せる瞬間にこそ力を乗せろ」
「はい!」
はぁ、はぁ、はぁ……!
軽く、軽快に。
剣に振り回されるな……!
私は習った事を口の中で繰り返しながら、懸命に剣を振るった。
その私の足元に、不意にすっとフェルトくんの足が差し込まれた。
「あわっ!」
その足につまずいて、私は大きくよろけてしまう。そしてそのまま、その場にペタンと尻餅を突いてしまった。
「剣にばかり気を取られすぎだ」
フェルトくんが私に剣先を突きつけた。
……うぐぐ。
倒れた私を見てフェルトくんが目を細めた。フェルトくんは、オレットさんみたいに手を差し伸べてはくれない。それどころか唇を噛み締める私に向かって、わざとらしく大きな溜め息を吐いて見せたりする。
「セナ・カーライル。やっぱりお前に剣の才能はないな」
鋭い目を細めて、私を睥睨するフェルトくん。
私はそれに答えずすくっと立ち上がり、ぱんぱんとお尻を払ってから再び剣を構えた。
溜め息1つ吐いて、フェルトくんはしかしちゃんとまた付き合ってくれるのだ。
「型通りの打ち込みを続けるな」
「……はい!」
「もっと踏み込め!」
「は、はいっ!」
嫌そうな顔をしながらも、フェルトくんはこうして私にきちんと指導してくれる。
やはりオレットさんが言っていた様に、フェルトくんも竜騎士を目指す1人の騎士なのだ。人相や態度は悪くても、優しくて良い人なのだと思う。
だから私も、全力でぶつからないとフェルトくんに失礼になってしまう。
オレットさんやフェルトくんの指導を生かす為にも、私は頑張らねば。
……もっとも、今の私にはこれぐらいしか出来る事がないのだけれど。
オルギスラ帝国の動向を聞く度に日々溜まっていく不安やもやもやしたものを吹き飛ばす様に、私は懸命に剣を振るった。
そしてその日のトレーニングを終える頃には、私はふらふらしながらぜいぜいと肩で息をするのがやっとの状態になってしまっていた。
「あ、ありがとう、ございましたっ」
私はフェルトくんに向かってぺこりと頭を下げてから、よろよろと近くの花壇に歩み寄り、崩れる様にその縁に腰掛けた。
はぁ、はっ、はっ……。
「……はぁ、ふ、ふうっ」
息を整えながら、用意しておいたタオルで汗を拭う。
お日様の匂いがするふかふかタオルに顔を埋めながら、今日のトレーニングを省みる。
……むーん、ダメ、だなぁ。
まだまだだ。
そっと小さく溜め息を吐いてから顔を上げた私は、そこでフェルトくんと目が合ってしまった。
息も乱れていないフェルトくんは、その鋭い眼光でじっと私を睨み付けていた。
目を逸らすと何だか負ける様な気がして、私は正面からフェルトくんを見返す。
しばらくの間私たちは、じっと凍り付いた様にそのまま視線を交わしていた。
「……あの」
その沈黙に耐えられなくなった私は、おずおずと声をあげた。
「……おっさんは学べって言ってたが」
ぶつぶつと呟きながら訓練用の剣でとんとんと肩を叩くフェルトくん。その目は、じっと私を睨んだままだ。
「……えっと」
「管理課ってのは、こんな状況だと忙しいんだろ」
不意に低い声でフェルトくんが尋ねてきた。
私は訝しみながらもこくりと頷いた。
フェルトくんには既に数回トレーニングを見てもらっているが、フェルトくんの方から私に質問して来たのは初めての事だった。
「仕事だってあるのに、あんたは何でこんなに一生懸命なんだ? そんなにちっさいのに」
……ちっさいの、関係ない。
私は一瞬むうっと眉をひそめてフェルトくんを睨み上げた。しかし、こちらを見据えるフェルトくんの表情には、別段私を馬鹿にしているといった感じはなかった。
私は短く息を吐く。
「こんな時だからこそ、少しでも鍛えて強くなりたいんです。そう、強くなりたい……!」
竜騎士ではないにしても、エーレスタの騎士として誰かを守り、笑顔に出来る様に……。
「……ふっ」
私の答えを聞いたフェルトくんが微笑んだ。
また馬鹿にされたのかと思ったが、その笑みは決して嘲笑などではなかった。いつものしかめっ面からは想像出来ない、柔らかで無邪気な少年の様な笑顔だった。
意外、だな。
愛想のない無表情な人だと思っていたけど、こんな顔も出来るんだ。
少しフェルトくんとの距離が近付いた気がして、私も思わず微笑んでしまう。
「まぁ、強くなりたいって気持ちは良くわかるな」
フェルト君がぐっと拳を握り締める。
「強くなる。俺もな。まだまだこんなもんじゃない」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべるフェルトくん。
私は立ち上がり、ぎゅっと握った手を胸に当て、力を込めて頷いた。
同じものを目指すフェルトくんの強い思いが、何だか頼もしかった。
「うん。頑張りましょう! 強くなって、竜騎士になって、オルギスラ帝国なんて追い返して、みんなを笑顔に出来る様に!」
私は理想とするアルハイム様の姿を思い浮かべながら、フェルトくんににっこりと微笑み掛けた。
しかし。
私の決意表明を聞いたフェルトくんは、今度は微笑む事なく元の不機嫌そうな顔に戻ってしまった。
……あれ。
私、何か変な事を言ってしまったんだろうか?
「セナ」
「うん?」
私を見つめるフェルトくんの目が、だんだんと鋭くなっていく。同時に、その顔からすっと表情が消えた様な気がした。
「オレットのおっさんから頼まれたからアドバイスしてやるが」
フェルトくんが冷たい目で私を見下ろす。
私は眉をひそめながらフェルトくんを見上げた。
「守るだとか笑顔だとか、騎士の誇りみたいなそんな余計な物は、みんな捨てろ。でなければ強くはなれない」
まるで無慈悲に振り下ろされる断罪の刃の様に、冷たく言い放つフェルトくん。
思わず背筋に冷たいものが走り抜けた。
「力ってのは、有無を言わさず相手をねじ伏せるためのものだ。弱ければ他人に虐げられる。強ければ他人に打ち勝てる。それだけの話だ。そこに余計なものはいらない。面倒なだけだ」
私は眉をひそめるしかない。珍しく饒舌なフェルトくんの言葉が、理解出来ない。
「……俺は、誰にも負けないくらい強くなってやる」
フェルトくんが手をぐっと握り締め、私を睨んだ。
私はその視線の力に気圧され、一歩後退ってしまった。
「俺は、強くなるために騎士になった。俺を負かす程強かったからオレットのおっさんに従っている。強くなるためなら、竜騎士にでもなってやる。セナ・カーライル。お前も強くなりたいなら……」
そこで不意に、フェルトくんははっとした様に口を閉じた。そして少し気まずそうに私から顔を逸らした。
私は、直ぐに反応出来なかった。
フェルトくんの思いが、考えが理解出来なくて、しばらく呆然としてしまう。
……他人を負かす為の力?
相手をねじ伏せる為に強くなって、そのために竜騎士を目指す?
徐々にフェルトくんの言葉が染み込んで来る。
しかしそれと同時に、私の体の奥底から、抑えられない怒りが吹き出して来た。
全身がカッと熱くなり、小刻みに震え出す。
私はギリっと歯を噛み締めた。
……おかしい。
フェルトくんの言っている事、おかしい!
そんなのは、間違ってる……!
私は大きく一歩踏み出し、フェルトくんにぐいっと詰め寄った。そしてキッとその目を真正面から見据えた。
「……フェルトくん。それは違います」
低い声でそう告げた私の声は、少し震えてしまっていた。
「騎士さまの剣は、そんな事の為に振るってはダメなんです!」
私は両手をぎゅっと握り締めた。
爪が食い込み、痛いほどに。
「私たちの力は、剣は、色んな人を守るためにあるんです! みんなに安心してもらって、笑顔になってもらうために! そんな、ねじ伏せるとか虐げるとか、違うと思う!」
フェルトくんに詰め寄りながら、私はぶんぶんと拳を振る。
私もフェルトくんも騎士なのだ。ならば、騎士として強くあらなくてはならない。強くならなければならないと思う!
私たちは、自分たちこそが騎士なのだという矜持を持たなくてはダメなのだ。
最初は私の勢いに驚いた様に目を丸くしていたフェルトくんだったが、直ぐに顔をしかめて私を睨み付けた。
「それが余計なんだよ。守るとか笑顔とか、そんなのはただの理想だ。いや、おめでたい妄想だ」
フェルトくんはカツンっと訓練用の剣を地面に突き立てた。
「剣を抜いて向き合えば、そこから始まるのはただの殺し合いだ。やるか、やられるかだ。騎士も野盗も関係ない。強くなければ死ぬだけだ。余計なものを持ち込む余裕なんて無いんだ」
「そんなことわかってます! でも、それでも、騎士になったからには、みんなを守るために戦わないと!」
「強くなるんだろ? ならば、戦うことだけ考えろ」
フェルトくんがつまらなさそうに顔をしかめた。
「オレットのおっさんの紹介だから付き合ったが、所詮はおめでたいだけのガキか」
「またガキって言った! フェルトくんだって同い年なのに!」
私は眉間にシワを寄せて抗議する。こういう時、小さい背丈が恨めしい。
私はむぐぐと唇を噛み締めた。
しかしそこで、私は一歩後ろに下がった。そして、意識してゆっくりと息を吐いた。
反論したい事は山ほどある。胸の奥の怒りも収まらない。でも、ここでさらにムキなったら、それこそ子供だ。
「……今は、エーレスタもアーテニアもいろんな場所で大勢の人たちが大変な時なんです。フェルトくんも騎士なら、誰かを、何かを守るために戦って下さい。だってフェルトくんは、そんなに強いんだから」
……少なくとも、私よりは。
その力があれば、昔の私みたいな恐怖に震える子供もきっと救える筈だ。私には難しくても、きっとフェルトくんなら出来る筈なのだ。
……悔しい。とっても、悔しいけど。
しかしフェルトくんは、直ぐに返事をしてくれなかった。
しばらくの沈黙の後。
「……俺なんてまだまだ弱い」
フェルトくんは私から顔を逸らし、低い声でぼそりと呟いた。しかし直ぐに、またぎろりと横目で私を睨むフェルトくん。
「俺が戦うのは、俺の為だけだ。俺は、俺が強くなる為に戦う。今までも、これからもな」
きっぱりとそう言い放ったフェルトくんに、再び苛立ちとも怒りともつかない激しい感情が込み上げて来る。
「フェルトくん……!」
「セナ・カーライル」
しかしフェルトくんが静かだが、力の籠った強い言葉で私のセリフを遮った。
「守る云々なんて事は、お前が一人前になってから言え。今のお前じゃ、何も守れないんだからな」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の間に、冷たい刃を突き立てられた様な気がした。
頭から氷水を掛けられたかの様に全身からさっと血の気が引き、足元がぐらぐら揺れ始めた。
……くっ
歯を食いしばる。
唇が震える。
「……ってるもん」
自分にも良く聞こえない程の掠れた小さな声がこぼれた。
心臓がバクバクしている。
胸の中が、抑えきれない程の悔しさで一杯になってしまう。
……そんな事、わかってるもん!
例えオルギスラ帝国が侵攻して来ても、私に出来る事なんてない。
それでも、頑張ればきっと誰かの助けになれると信じて。あの時の小さな私みたいに絶望に沈んだ誰かを、きっと笑顔に出来るんだと信じてここまで来たんだ……!
……わかってる。
じわりと視界が滲む。
涙がこぼれ落ちそうになる。
……でも、ここで泣いたらまた子供だと見なされてしまう。
私は必死に涙をこらえながら、フェルトくんにばっと頭を下げた。
「……稽古、ありがとうございました」
一瞬だけ、フェルトくんと目が合った。
「お、おい、セナ……?」
私の顔を見て狼狽えるフェルトくん。
しかし今の私は、そんなフェルトくんに構っている余裕はなかった。
自分への不甲斐なさと悔しさと腹立たしさと、そして大きな無力感がない交ぜになった感情が溢れてこぼれてしまいそうで、私はそれを抑えるのに精一杯だったのだ。
制服の裾をばっと翻して、私はフェルトくんに背を向けた。そしてそのまま、さっと訓練用の剣やタオルを拾い上げ、女子寮方面へ走り始めた。
とうとう耐えられなくなって、ぽろりと大粒の涙がこぼれてしまった。
だから私は、その場ではそれ以上フェルトくんの方を振り返る事が出来なかった。
次の朝。
私は寮の自室の二段ベッドの下で、アメルに抱き締められながら目を覚ました。
いつもなら速やかにアメルの腕を振りほどいて脱出するところだが、今朝の私はなかなか動く事が出来なかった。
目覚めた瞬間から気分が悪い。胸の真ん中にどしんと何かが居座っている様な感覚に、体を動かそうという気が起きなかった。
アメルの良い匂いと柔らかな感触に包まれながら、私はゆっくりと小さくため息を吐いた。
この不調の原因は、もちろん昨日の夜のフェルトくんとのやり取りだと思おう。
「……はぁ」
今思い返しても、胸の中がもやもやする。
ここ最近はなかったけど、故郷のハロルド領が襲撃されたあの時の事を夢に見た後と同じくらい寝覚めが悪い。
……恥ずかしい。
今の私の胸の中に渦巻いているのは、ほとんどが羞恥心だった。
一晩明けてみると、フェルトくんに対して感情的になってしまった昨夜の事がとても恥ずかしかった。
冷静になってみれば、戦う理由もエーレスタに来た理由もそれぞれ違うのは当たり前だ。それを私は、フェルトくんに自分の意見を押し付けてしまったのだ。
それで、最後には悔し涙まで流して……。
……恥ずかしい。
私はアメルの腕と毛布に顔を埋めながら、うーと唸った。
オルギスラ帝国が侵攻して来ているというこの状況下で、無力な自分に苛立っていた。その鬱憤をフェルトくんにぶつけてしまった様な気がする。
八つ当たりだ。子供みたいな。
うー。
しかしだからといって、フェルトくんの言っていた事を全て認める事は出来ない。私が間違った事を言ったとも思っていない。そこに迷いはなかったけれど……。
フェルトくんに言われた事。
今の私では何も守れない。
それは、オレットさんにも言われた事だ。
……悔しいが、泣きたくなるが、それが真実でもある。
私はぎゅっと目を瞑り、唇を噛み締めた。
その朝の私は、いつもの早起きを諦めて、アメルと一緒に身支度を整えてから仕事に出掛けた。
考えても悩んでも答えの出ない事ばかりで、じっとしていると落ち込みそうになってしまう。しかしこういう時に、アメルの天真爛漫な明るさが本当に助けになった。
今度から、アメルにはもっと優しくしてみようと思う。一緒に寝るのも、お風呂で一方的に洗われるのも受け入れよう。
しかし仕事が始まると、やはり昨日の事を色々と考えてしまった。そのせいであまり集中出来ず、私は書類をめくりながらずっと、小さな溜め息を繰り返していた。
「アーテニア方面は順調らしいな」
「そりゃあ竜騎士が2騎も動員されてるんだ。豆鉄砲頼りのオルギスラに勝ち目はないさ」
先輩たちのそんな話が聞こえてくる。
このままアーテニアからオルギスラを追い出して武力衝突を収束させられたら……。
そんな良い知らせを聞いても、私の気持ちは沈んだままだった。
ここしばらくは、管理課の仕事が終わると練兵場でフェルトくんと落ち合い、トレーニングを見てもらうのが日課になっていた。しかし今日は、剣を手に管理課執務室を出て、練兵場に向かって歩き出したところで、私は立ち止まってしまった。
長い逡巡の後、私は踵を返して女子寮に向かって歩き出した。
……フェルトくんに会うのを躊躇ってしまった。
どんな顔をしてどんな話をすれば良いのか、わからなくなってしまったから。
しかし、トレーニングからも逃げ出した事で、私の罪悪感はさらに膨れ上がってしまった。
久し振りにアメルと一緒になった夕食の間も、アメルにわしゃわしゃ頭を洗ってもらってる間も、私は眉をひそめてチクチクする胸の痛みに悩み続けた。
お風呂上がり。パジャマに着替えた私たちは、アメルが入れてくれたハーブティーを飲みながら寮の部屋でしばらくおしゃべりした。仕事と関係ない話をしたのは、しばらくぶりだったかもしれない。
ひとしきり話した後、ベッドに横になった私は、ふっと息を吐いた。
アメルのお茶はおいしかった。
おかげで、何だか落ち着く事が出来た。
明日、フェルトくんに謝ろう。
その瞬間、私はそう決めた。
私がフェルトくんに向けた言葉は間違っていない。でも、私が信じているものがあるみたいに、フェルトくんにもきちんとした考えがあるのだ。
……うん。
とりあえず、明日謝ろう。
私は上の段のベッドの底を見上げながら、密かに拳に力を込めた。
騎士ならば、潔く、正々堂々と自らの過ちを認める事も大事なのだ。
翌朝。
いつもよりも更に早く目覚めた私は、寮の食堂を借りてフェルトくんに対する謝罪の準備を始めた。誠意を込めて謝るのに、手ぶらという訳にはいかない。しっかりとお詫びの品を用意しなければ。
私は寮務さんから借りたバスケットに、お手製のサンドイッチを詰めていく。水筒には、昨日アメルと一緒に飲んだハーブティーを注いでみた。
昨晩は、このお茶のおかげで落ち着く事が出来た気がする。フェルトくんともう一度話す時も、このハーブティーを飲んで落ち着けばきっと大丈夫だ。きちんと謝れる筈だ。
……フェルトくん、怒ってるかな。
私は少しだけドキドキしながらも、バスケットと水筒を持っていつも通り管理課の執務室に向かった。
余計な事は考えず、午前の仕事を無心でこなす。
そして、普段なら中庭でのトレーニングに向かう昼休み。
私は謝罪用の装備を手にとって、意を決して自席を立った。
……よし。
立派な騎士ならば、困難から逃げたりはしない!
私は小さく頷いて気合いを入れると、第2大隊の隊舎へ向かって駆けだした。
第2大隊の人たちが集まっている隊舎は、管理課のあるファレス・ライト城の本棟から2つの城門をくぐり抜け、城下町に向かって坂を下りた先にあった。丁度お城のある高台の中腹辺りになる場所だ。
バスケットを両手に持ち、私は小走りに石畳の坂を駆け下りて行く。低地から吹き上げて来るカラリとした夏の風が、リボンでまとめた私の髪と裾の長い制服の上衣をひらひらと揺らした。
私の目の前には、城壁の向こう、夏の日差しを浴びてきらきらと輝くエーレスタの街並みが広がっていた。
城へ上がる第2大隊の騎士さんたちとすれ違い、城下に向かう兵士さんたちの隊列を追い越していく。
目的の隊舎が、ざざっと揺れる木立の向こう、左手前方に見えてきた。
エーレスタ騎士団第2大隊は、エーレスタ領内の治安維持や国境警備などを主な任務にしている。その役割の性質上、大隊や中隊規模で運用される事よりも、少人数で機動性のある編成が成される事が多い隊だった。そのため一度出撃が掛かるともぬけの空になる他の隊の隊舎と違い、第2大隊の隊舎はいつも入れ替わり立ち替わり誰かが残っていて、常に賑やかだという印象があった。
しかし今日は、いつもにましてザワザワしている。
隊舎の敷地内には、全身鎧で完全武装の騎士や私と同じ制服の騎士たちが入り混じりながら忙しなく行き来していた。隊舎脇の広場には、沢山の一般兵のみなさんが集結しているのも見えた。
何だろう。
もしかしてこれから任務に出る隊があるのかもしれない。もしくは帰還した隊があるのだろうか。
私はきょろきょろと周囲を見回しながら、とにかくフェルトくんを探す事にした。
第2大隊の隊舎には、オレットさんを訪ねて何度か来た事があった。
私はとりあえず、隊舎一階奥にある騎士の待機所に向かった。
1階廊下の突き当たり、開け放たれた大扉の向こうが待機所になっている筈。
私はとととっとその部屋に駆け寄り、中を窺った。
広い部屋の中には沢山の人がいた。
別の隊の騎士さんや兵士のみなさんが沢山いる中にズカズカと立ち入るのも気が引けたので、とりあえず私は大扉に身を寄せながらフェルトくんを探した。
長椅子や長テーブルが雑然と置かれた待機所の中では、大勢の騎士さんたちが集まって何か話し合っている様だった。部屋の中央に置かれた巨大な机を取り囲み、何やら難しい顔をしている人たちもいる。それに、制服でなく鎧姿の人が目立つだろうか。
私はうーんと爪先立ちになってそちらの様子を窺ってみる。
みなさんが見ているのは地図……エーレスタの領内図の様だった。
「お嬢ちゃん」
不意に背後から声を掛けられる。
私は思わずびくりと身をすくませた。
振り返ると、額の広い胡麻塩頭のおじさん騎士が私を見ていた。
「こんな所でどうしたね」
「あ、あの、お邪魔してます」
私は体の前でバスケットを両手で持つと、ぺこりと頭を下げた。
おじさん騎士の視線が、一瞬私の胸当てに向いた。
「ん、ああ、第3のお嬢さまじゃないか。うちの隊に何か用か」
「……あの、こちらにフェルト・ロビックくんいらっしゃるでしょうか」
おじさん騎士の気さくな様子に、私は思い切ってそう尋ねてみた。
その途端、おじさんの顔にニヤリと笑みが広がった。なるほど理解したという様に、おじさん騎士は大きく頷いた。
良かった……。
私は内心ほっと息を吐いた。これでまずフェルトくんに会うという第一段階はクリアという訳だ。
しかし次の瞬間。
「おい、フェルト! 可愛い彼女が来てるぞ!」
なっ!
愕然とする。
えっ?
お、おじさん、今……。
おじさん騎士の大声のせいで、大部屋の中にいる皆さんが一斉にこちらを向いた。
ドキリとする。
一瞬にして顔が真っ赤になってしまう。
想定外の事態に私がおろおろしていると、騎士たちの集団の中から黒髪と目の下の傷が特徴的なフェルトくんが飛び出して来るのが見えた。
良かった……。
私は思わずほっと安堵する。しかしフェルトくんの方は、苦々しげに顔をしかめながら慌てた様子でこちらに駆け寄って来た。
その背後で、冷やかしの声が上がっていた。男前のフェルトくんを羨む声と同時に、ありゃ犯罪だぞという声も上がっていた。
そちらをぎろりと睨んだフェルトくんは、私の腕を引いて廊下に出た。
やはり力が強い。握られた二の腕が少し痛かった。
「……セナ。こんなところに何しに来た」
私の前に仁王立ちになり、迷惑そうにフェルトくんが言い放つ。
むむ……。
ここで怯んでいては、わざわざ第2大隊の隊舎まで来た意味がない。
まず、謝らなくては……。
「フェルトくん! あの、その……この前の夜は! そ、その、ご、ごめんなしゃい!」
私はばっと頭を下げた。
……あぐ。
かんで、しまった……。
「この前?」
私の言葉に首を傾げるフェルトくん。
「その、私ムキになって言い過ぎて、すみませんでした。フェルトくんに色々教えでもらってる立場なのに……」
人に面と向かって謝罪するというのは、気恥ずかしいものだ。
私は顔を赤くして俯く。肝心の謝罪の言葉も、最後の方は声も小さくなって尻すぼみになってしまった。
「これ、お詫びの品です! 食べて下さい!」
私は顔を上げると、早起きして作ったサンドイッチが詰まったバスケットを、ぐっとフェルトくんに押し付けた。
「……いや、別にそんなのは」
ここで初めてフェルトくんが表情を崩し、困ったような、少し恥ずかしそうな顔をした。
「あー、セナ。悪いが……」
「おい、フェルト」
そこへ、少し離れた場所から私たちを見ていた先ほどの胡麻塩頭の騎士さんが声を上げた。
「ったく、彼女を困らせんじゃないぞ」
「グランツのおっさん、こいつは別に……!」
フェルトくんがおじさん騎士を睨む。
「間も無く作戦指示が始まる。ほどほどにしておけよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、グランツさんというらしいおじさん騎士は待機所の中に入っていった。ひらひら手を振って去って行く様が、オレットさんに似ている。第2大隊には、こういう人が多いのだろうか。
私は、きょとんとしながらフェルトくんを見上げた。
「作戦指示って、任務でもあるの?」
「……ああ。まだ知らないのか、セナ・カーライル」
フェルトくんがバスケットを受け取ってくれる。
……良かった。
「でも、フェルトくんはオレットさんに謹慎命令をもらってる筈じゃ……」
何を仕出かしたのかは知らないが、そのためにフェルトくんは今、第2大隊の任務ではなく私の鍛錬に付き合ってくれている筈なのだが……。
私を見下ろすフェルトくんがすっと目を細めた。そして、薄く微笑んだ。その表情は、決して猛々しくはなかったが、獲物を見つけ出した肉食獣の様な静かな凄みがあった。
……何だ。
「第2大隊全隊に非常召集が掛かった。俺達はこれから、メルズポートの街まで移動する」
第2大隊全隊が?
私は眉をひそめる。
「さっき情報が入った。オルギスラ帝国の大規模な部隊が、都市国家群を超えてローデン街道に入ったらしい」
ガチャリと剣の柄に手を置いたフェルトくんが獰猛に笑った。
「奴らが来るぞ」
オルギスラ帝国軍が、こちらにも……?
その言葉に私は愕然とする。ただ目を丸くして、フェルトくんの顔をじっと見つめる事しか出来なかった。
ローデン街道は、大陸の東と西を結ぶ主要な大街道の1つだ。
かつて大陸を統一したイリアス帝が整備した街道で、その後も各国政府や商人ギルドなどによって整備維持され続け、現在でも活用されている。
オルギスラ帝国領からイエナ峠を経て西部平原を抜けるローデン街道は、都市国家群を通過して一旦南下。セレナ内海の港町をいくつか経由した後にサン・ラブール条約同盟国の領内に入る。
ギルの大森林の南をかすめた街道は、ギルーナ大河を渡った後に2方向に分岐する。北西に向かう街道は、そのままサン・ラブール条約同盟において最大の勢力を誇る大国、ウェリスタ王国へ。そして南西に向かう街道は、メルズポートの港町を経由してここエーレスタに至る。
もちろん途中には砦や街もいくつかあるが、真っ直ぐ馬を飛ばせば、ギルーナ大河の分岐からエーレスタまで一週間程度の距離しかない。
北部でアーテニアに侵攻を続けるオルギスラ帝国が、今度はこの南方に軍を進めている。
それがただの行軍訓練でない事は、現状の世界情勢をみる限り明白だ。
帝国の目的は、ウェリスタ王国なのか、ここエーレスタ騎士公国なのか、又は何か別の狙いがあるのか……。
いずれにせよ、アーテニアと別方面での軍事行動という恐れていた事態が、今まさに起ころうとしているのだ。
当初サン・ラブール条約同盟側が企図していた様な、オルギスラ帝国の侵攻をアーテニア方面だけで収束させたいという目論見は、儚くも崩れ去ろうとしている様だった。
そんな情報を聞いた私は、サンドイッチのバスケットをフェルトくんに押し付け、隊務管理課へと全速力で駆け戻った。
上層部がどう動くにしても、エーレスタ領内での大規模な部隊展開は避けられないだろう。そうなれば、管理課としてもまた忙しくなる。
しかし慌てて執務室に戻った私を待ち受けていたのは、その管理課のお仕事ではなかった。
書類の山の向こうから顔を出したマーク先輩が、相変わらず眠そうな目で、私が席を外していた間に第3大隊付きの伝令が来ていた事を教えてくれた。
その伝令が持って来たのは、私に対する出頭命令だ。
セナ・カーライルは、速やかに第3大隊の隊舎に参じよ、という内容の命令だった。
……何だろう。
私は眉をひそめながら、再び管理課の執務室を飛び出した。
アルハイムさまが出撃し、オレットさんやフェルトくんにも動員が掛かった。そして私にも……。
胸の奥がざわざわする。
オルギスラの動きや突然の出頭命令など、もうわからない事だらけだ。
でも。
確かに何か不穏なものが動き始めているという予感だけは、じりじりと肌を焦がす様に感じる事が出来た。
私は、ぎゅっと唇を噛み締めながら廊下を走る。