第46幕
楽団の奏でる華やかな音楽が、眩い光と着飾った人々が満ちるホールを軽やかに駆け抜けていた。
天井には巨大なシャンデリア。壁際には、香ばしい湯気を立てる沢山の料理。そして規則正しく並ぶ使用人たちと警備の騎士たちを尻目に、ホール中央ではドレスの女性と礼服や軍服姿の男性たちが、くるくると花の様に広がりながらダンスに興じていた。
グラスを傾けながら上品に言葉を交わす紳士や淑女たちが、大都会であるノスフィリスの夜を彩っている。
サン・ラブール連合軍の最高幹部会議の為に集まった各国の王侯貴族たち。
彼らは、昼間は会議の議題について、色々なメンバーと様々な場所で議論を行い、夜になると誰かが開いた夜会の場で根回しと交渉を行い、来るべき最高幹部会議の本会議に備えていた。
その本会議の開催も、とうとう明日に迫っていた。
ノスフィリスに到着して既に一週間。
毎夜私は、コンラート王子に誘われるまま、こうした夜会に参加させられていた。
もちろん、アーフィリルと融合した大人状態で、だ。
長かったなと思う。それに、疲れた。
部隊の騎士たちを説き伏せる為だけにアーフィリルに融合してもらうのも心苦しいが、この様な場に参加する為にアーフィリルの力を借りるのは、なお心が痛む。
これも必要な事なのだとコンラート王子は言っていた。顔を売っておけば、いざという時に役に立つのだと。
私も、貴族社会の事を知らない訳ではない。こうした社交の場が政治のある側面を担っているという事は、理解しているつもりだ。
しかし、今も帝国軍の脅威に晒されている人々や、この寒さの中を前線で戦い続けている騎士たちの事を思えば、呑気ともいえるこの空気に拒否感を抱かざるを得なかった。
大人状態の私は、今宵も開かれたそんな夜会の片隅で、腕組みをしながら壁にもたれ掛かっていた。
今夜の会場に集まった女性陣は、各々豪華なドレスに身を包んでいた。しかし私の装いは、そんな周囲とは少し違っていた。
私は、派手なパーティドレスなど身に着けていない。融合状態で常に身にまとっている白のドレスでもなく、エーレスタの騎士服に近いズボンの騎士服姿だった。
色はやはり白基調だ。
アメルの手によって髪もしっかり結い上げた私は、帯剣こそしていなかったが、夜会に参加する淑女というよりも会場警備の騎士、といった姿をしていた。
アーフィリルにお願いしてわざわざこんな服を用意してもらったのは、この様な社交の場に参加する為にノスフィリスに来たのではないという事を暗に示すためだ。
欠席という方法はコンラートに却下された。それは私も、私が預かる白花の騎士団や北部方面軍にとって良くない事だとは理解している。
ならば私に出来るささやかな抵抗として、服を男物の様にしてみたのだ。
この作戦は、今のところは良い効果を発揮している。
昨夜までのドレス姿なら、瞬時に若い貴族の男たちに取り囲まれてしまうところだったが、今日はまだ遠巻きに見られているだけだった。
今日は女性からの視線も多く感じるが、今のところ何も害はない。ならば、問題ないだろう。
「まったく、そんな格好をして……。君のドレス姿は素晴らしかったんだよ」
知り合いに挨拶に行っていたコンラートが、私のもとに戻って来た。
コンラートは、両手に持っていたグラスの片方を私に差し出す。私は炭酸の交じった果物ジュースを受け取りながら、ふっと息を吐いた。
別に私は、着飾る為にこの街に来たのではない。
それにこの格好にしても、夜会が始まる前、フェルトにどうだと意見を求めたら、悪くないと言っていたのだ。
まぁ、あのフェルトの事だ。女性の身だしなみについて当てになるかは、わからないのだが。
「失礼するぞ、コンラート」
苦笑を浮かべるコンラートとそれを横目で見やる私のもとに、低い声が響く。
声のした方に目を向けると、正装した老紳士とその奥方と思える年配の女性が並んで立っていた。
私は初めて見る顔だった。しかしコンラートは知り合いだったらしく、ぱっと顔を輝かせる。
「ルテナン王、王妃さま。来られていたのですか!」
「ああ、今宵くらいはな。私も竜騎士アーフィリルさまにはお礼を言わねばならぬ立場故」
コンラートの知り合いならばと別の方を向き、老夫婦から距離を取ろうとしていた私は、不意に出た自分の名前に、彼らの方へと視線を戻した。
コンラートが2人を紹介してくれる。
どうやらこの初老の上品な夫婦は、グリッジに隣接するルテナンという小王国の国王夫妻の様だった。
「竜騎士アーフィリルさま。貴方さまには感謝をしてもし足りない。我が国をお救いくださり、ありがとうございました」
私の前に歩みでたルテナン国王夫妻が、腰を折り、深々と私に頭を下げた。
「顔を上げて欲しい」
私は眉をひそめて、すかさずそう伝える。
国王という地位にある者が、公衆の面前でみだりに頭など下げるべきではない。ましてやここは、様々な政治的な思惑を持っている者たちが集まっている場なのだ。
私は事情説明を求めるために、コンラートを睨む様に見た。
コンラートは、私を見て楽しそうに笑いながら頷いた。
「我がグリッジも含めて、オルテンシア平原の北東部に位置する小王国群は、完全に帝国軍に飲み込まれつつあった。それを救い出してくれたのは、竜騎士アーフィリル殿。君だ」
真っ直ぐに私を見るコンラートと、顔を上げ、微笑みながら大きく頷くルテナン国王夫妻。
「コンラート王子の申す通りです。オルテンシア平原に国を預かる者として、貴方に感謝していないものなどいない」
穏やかな表情でそう告げるルテナン王。
私は、むっと固まる。
もちろん感謝される事に悪い気はしない。しかしながら、ハインケルでの戦いでは、私はグリッジの国王を守る事は出来なかった。
帝国軍の主力を破り、占領地域を奪還することは出来たが、ルテナン王国の為に何かをした訳ではない。それに、帝国軍の北部方面軍を押し返したのも私の力だけによるものではない。
アルハイムやオレットたち、そして白花の騎士団や北部方面軍の援護など、皆の力を合わせたからこその結果なのだ。
私は、ふっと小さくため息を吐く。そして正面からルテナン夫妻を見据えた。
「私は騎士として、私か為すべきと考える務めに準じただけの事だ」
私は、さっとコンラートを一瞥する。
「私だけでなく、多くの将兵が故郷や大切な人を守る為に戦っている。その気持ちを汲んでいただけるなら、あなた達には一刻も早く平和な世を、昔のままの故郷を取り戻すべく力を尽くして欲しい」
本当に大変なのは敵を、帝国軍を追い払う事ではない。一度蹂躙されてしまった国を、生活を、立て直す事なのだ。
離散した人々を再び呼び戻す事。治安の維持や生活インフラの復興。統治機構の整備。そして、一度蹂躙されてしまった皆の心を立ち直らせる為の時間。
政に詳しくない私でさえ、それらが一朝一夕で解決出来る問題でない事は容易にわかる。
私の言葉を聞いたルテナン国王夫妻が顔を見合わせる。さらにコンラートとも視線を交わした後、改めてルテナン王は、私を見てふっと微笑んだ。
「我が地を守る北部方面軍の司令官に、竜騎士アーフィリルさま。貴方の様な方が任命された事を我々は嬉しく思います」
ルテナン国王は、低く穏やかな声音でゆっくりとそう告げると私に握手を求めて来た。王妃も同様に微笑みながら、深く頷いていた。
私はどう対処していいのかわからず、とりあえず国王の手を握り返してから、むうっとコンラートを見た。
しかしコンラートも、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見ているだけだった。
「北部方面軍司令としての任は、きちんと果たして見せる。そこは、安心してもらおう」
私は、少しぶっきらぼうな口調で、そう言う事しか出来なかった。
正式に北部方面軍の司令官となるための審査というものは、もう既にほとんど終わっていた。
ノスフィリスに到着した後。
私は、サン・ラブール条約同盟各国から選ばれたメンバーと連合軍の最高幹部たちの前でこれまでの経歴や戦果の確認を行う、認定審議会なるものに出席させられた。
そういえばその認定審議会には、現在のエーレスタ騎士公国の大公、幼少のウィルヘムの後見人にして、実質的なエーレスタの代表となっているハルスフォード侯爵も参加していた。
これまで書簡などでは何度もやり取りしているが、直に会うのはエーレスタを出て以来だったハルスフォード侯爵は、再会するなり私が小さいもとの姿ではない事を大変残念がっていた。どうもあの小さい子が好きだという嗜好は、健在であるらしい。
そのハルスフォード侯爵を含め、各国の重鎮からこれまでの戦いに対する称賛と今後も励む様にとの激励を受けて、私はサン・ラブール連合軍北部方面軍の司令官に任命される事になった。
正式な任命は、連合軍最高幹部会議の開催最終日に大々的に行われるそうだ。合わせて新任司令官のお披露目の為に、小規模ながらパレードも催されるらしい。
パレードなど、私にとっては、頭痛の種がまた増えてしまったという事だ。
しかしこうもあっさりと司令官任命が進んでしまうと、果たしてわざわざノルフィリスに来る意味があったのだろうかと思ってしまう。
この結果も、グレイやコンラートの根回しの成果ではあろうが、その審議会に出席していた時間よりもこうして社交場に出ている時間の方が多くなってくると、本当にため息の1つでも吐きたくなってくるものだ。
「本当に、今のこういう時代に、あなたの様な竜騎士さまがいてくれる事は、天の、いいえ、エーレスタの竜のお恵みね」
ルテナン王妃が上品に微笑む。
「その通りですね。アーフィリル殿がいれば、我々が帝国なんかに負ける事はありません!」
コンラートが、私の隣で自信満々に胸を張った。
「グリッジ王は残念だったわね。戦争なんて、早く終われば良いのですけれど……」
「はい、奥さま。私もそう思います」
ルテナン王妃とコンラートが、話を続けている。
私は再び胸の下で腕組みをしながら、何度目かの溜息を吐いた。そして、片足に体重を乗せながら僅かに目を伏せた。
帝国軍を撃退するだけならば、コンラートの言う通り私たちが負ける事は無いだろう。このまま順調に戦況が推移していけば、直ぐにとはいかないまでも、戦争の終わりもそう遠くない先に見えてくる。
しかし。
コンラートから聞いた事前情報の通り、ここでオルギスラ帝国領に攻め込むとなれば、また話は違ってくる。
戦場がサン・ラブールの領域から帝国軍の国土に移り変わる事はあっても、戦争はさらにこの先も続く事になる。軍民と問わず、戦争の犠牲者はこの先も増えていく事になる。
そうして広がる戦火を、私たちは止める事が出来るのだろうか。
もしかしたら、サン・ラブール条約同盟とオルギスラ帝国間だけの争いではなく、都市国家群や東方の小王国群をも巻き込んで、さらなる規模の戦争になってしまうかもしれない。
もちろんそれは、最悪のケースを想定した場合だ。しかし、無いとは言い切れない。
戦争が広がり、長引けば、理不尽な暴力に苦しむ人たちがさらに増える事になる。
騎士として、それは決して容認出来ない。
そこで私は、ふと視線を感じて顔を上げた。
私の目の前には、コンラートと王妃の話には参加せず、鋭い目でこちらを見ているルテナン国王がいた。
「アーフィリル殿。今回の最高幹部会議で取り扱われる議題については、聞いているだろうか」
声をひそめるルテナン王。
深いしわの刻まれたその顔を見て、私はこくりと頷いた。
「サン・ラブールの評議会は、帝国への逆侵攻を目論んでいる。しかし我々は、それよりもまず、疲弊した条約同盟領域内の復興活動が優先されるべきだと考えている」
ルテナン国王は、コンラートを一瞥した。
なるほど。ルテナン王やコンラートは、侵攻作戦の反対派という事か。
国土を焼かれた者ならば、そう考えるのも当然だ。戦争が拡大すれば、増大する戦費が復興支援より優先されてしまうのは、火を見るよりも明らかだ。
「明日から始まる最高幹部会議。我らは、帝国への侵攻に対し、反対の声を上げるつもりだ。ついては、北部方面軍の竜騎士アーフィリルさまにも、我らを支持して欲しいのだ。英雄たる貴方の言葉であれば、皆に与える影響も大きい」
ルテナン国王は、強い光の宿った目で私を見据える。それは、戦場に赴く戦士と同じ、決死の気配を漂わせる目つきだった。
この国王や各国の代表にとっては、このサン・ラブールの行く末を決める連合軍最高幹部会議こそが戦いの場なのだ。
「了解した。王の言う事は理解出来る。私も侵攻作戦については懐疑的だ。議論にどれほどの影響を与えられるかはわからないが、私は私の言葉で考えを述べよう」
私はふっと微笑みながら、ルテナン国王を見返した。
方軍司令官になったとはいえ、一介の騎士にサン・ラブール全体の意思決定に影響を与えるだけの力があるとは思えない。しかし、戦火が広がろうとしているのを座して待つだけというのも間違っていると思う。
私と同様に軽く笑った国王が頷く。そして、さらに何かを言おうとしたその時。
「ほう、今宵は男装ですか! なるほど、なるほど! やはり美人は、何を着ても似合うものだ!」
夜会の会場に流れる音楽を押しのける様に、大きな声が響いた。
声の主である茶色の髪を綺麗に撫でつけた若い貴族が、私とルテナン国王の間に割って入る様に近づいてきた。
確かこの男は、毎夜夜会の会場で遭遇する、どこぞの国の有力貴族の子息らしい。何度か名乗られたが、名前は憶えていない。
「最初は驚いたが、なるほど騎士ならばこれもアリ、ですね! どうですか、この後は。今宵こそ、2人で食事など! 貴方のその星の様に輝く戦果、私に教えていただけませんか?」」
隣でコンラートとルテナン王妃が不快そうな顔をしている。
私は、僅かに首を傾げた。
「昨日も言ったが、食事ならわざわざ他の場に行かなくても、ここで済ませれば良いだろう」
今夜の会場にも、十分な量の食事が用意されている。わざわざ場を改める必要はないと思うのだが。
私のその返答に、コンラートがははと乾いた声を上げて笑った。ルテナン王妃は、あらあらと楽しそうに笑っていた。
その貴族の声が呼び水になったのか、それまで遠巻きに私を見ていた者たちが、一斉に私のもとに押し寄せて来た。
「竜騎士アーフィリルさま。そのお姿、とても凛々しくて素敵です!」
「本当に! とても良いわ! まるで物語の聖騎士さまみたい!」
「素敵な髪ですね。羨ましい」
「帝国軍と戦った時の話、聞かせていただけませんか?」
「ええ、是非! やはり戦場というのは、恐ろしいものなのでしょう?」
「アーフィリルさま、握手してくださいませ!」
ルテナン夫妻やコンラート、そして先ほどの貴族の子息をも押しのけて、華やかなドレスを身にまとった女性たちが私を取り囲む。昨夜私がドレスを身に着けていた時は、これが男性だったのだが、どういう訳か今日はほとんどが女性だった。
全ての者たちの話を聞いている訳にも行かず、私はじりじりと後退し始めた。やはり数の力は凄い。1人1人はただの貴族令嬢だが、数が集まればその圧力は凄まじかった。
まるで、アメルの軍団に包囲されている様だ。
コンラートの援護は期待出来ず、会場の警備として外で控えているフェルトに助けを求める事も出来ない。ましてや、ルテナン国王たちと最高幹部会議の話をするのは、もはや無理の様だった。
女性たちの煌びやかなドレスや装飾品、香水の濃い匂いに包まれながら、私はむーんと顔をしかめた。
やはり私には、この様な場は相応しくない様だ。
『セナ、セナ。あの宝飾品は何で出来ているのだ? やはり人間の生み出す貴金属の輝きというものは、自然の中で生み出されるものとは違うな。いつの世も、感嘆を禁じ得ない。セナ、あれは……』
どうやらアーフィリルは、この状況を随分と楽しんでいる様だけれど。
私は周囲の女性たちの問い掛けに短く簡潔に答えながら、先ほどのルテナン国王の言葉と、明日から始まる最高幹部会議の本会議について考えておく事にした。
ノスフィリス滞在中の拠点としてハルスフォード侯爵が私に用意してくれたお屋敷は、街の中心からやや離れた高級住宅街にあった。
私のお屋敷の周囲にも、同様の立派なお屋敷が沢山建ち並んでいた。
林や公園を挟んで点在するそれらのお屋敷には、私同様今回の最高幹部会議に出席するために集まった各国の重鎮や軍の幹部の方たちが滞在していた。そのため周囲の警備も厳しく、エーレスタの精鋭第1大隊を主力にしたかなり大規模な部隊が展開していた。
ルテナン国王さまとお会いした夜会の翌日。
サン・ラブール連合軍最高幹部会議の本会議が開かれる当日の朝。
私は、そのお屋敷の中の広い寝室で、誰に起こされる事もなく目を覚ました。
ベッドの上でむくりと起き上がり、ペタンと足を開いて座り込みながらしょぼしょぼする目をぐりぐり擦る。
「うーん……」
小さく唸りながら、隣で寝ているアーフィリルを確認すると、そっとその背中を撫でた。
ノスフィリスに来てからはアーフィリルと融合した大人状態でいる事が多かったけれど、さすがに自室で眠る時くらいは融合を解除してもとの姿に戻っていた。
部屋の中はまだ暗かった。
耳を澄ませても、アーフィリルのすぴーという寝息以外は聞こえて来ない。
まだお屋敷全体が眠っているのだ。周囲が林に囲まれた閑静な住宅街なので、外の音も聞こえてこない。
多分まだ、起床予定の時間よりも随分と早い筈。
……でも、もう一度眠れる気がしない。
今日はいよいよ最高幹部会議が開かれる。
寝起きだというのに、既に胸がバクバクとしている。それに寝ている間だって、広い議場の中で右往左往する悪夢を見てしまった。今眠れば、まず間違いなく幹部会議に遅刻する夢を見る自信がある。
私は小さく息を吐いて髪をかき上げると、アーフィリルを起こさない様にゆっくりとベッドから降りた。
ふらふらと揺れながらそっと洗面所に向かい、身支度を整える。
顔を洗い、すっかり白くなってしまった髪を梳く。お気に入りのリボンで手早く髪をポニーテールにまとめると、私は昨夜のうちに用意しておいた騎士服に袖を通した。
いつもの騎士服に袖を通すと、何だか気持ちが引き締まる気がする。
胸とお腹の間が冷え冷えする様な緊張感は、消えてくれないけれど……。
私はアーフィリルを起こさない様に足音をひそめ、窓際に設えられた机に向かう。そこでぽすっと椅子に腰かけると、コンラートさまが用意してくれた最高幹部会議の議事予定表や参加人員のリストなどを確認しておく事にした。
会場で挨拶されても、誰が誰なのかわからないと多分かなり慌ててしまうだろうから。会議に参加するのは偉い人ばかりなので、失礼があってはいけないのだ。
私は書類を見つめながら、むっと眉をひそめた。
偉い人といえば、昨日お会いしたルテナン王国の国王さまとも私は平気でお話をしてしまった。さらには今日の会議の場で、帝国軍への逆侵攻作戦に対して自分の考えを述べるとまで宣言してしまった。
……うぬ、うぬぬぬぬ。
私は、机の上で項垂れながら頭を抱える。
どうしてあんな事を言ってしまったのだろう……。
もちろん、帝国への侵攻作戦には色々と思うところがある。言いたいこともある。騎士として、ルテナン国王さまや他の方に頼りにされるのであれば、それに応えなければとも思う。
帝国への逆侵攻が既に決定されている既定路線であったとしても、それで苦しむ人がいるのならば、それは違うと声を上げなければならない。
私に何か出来る事があるならば、それは果たしたいとは思うのだけれど……。
……やっぱり、やっぱり恥ずかしい。
ううう……。
前々からわかっていた事ではあるけれど、どうも私は、アーフィリルと融合すると気が大きくなってしまうみたいだ。その場では何とも思わなくても、元の姿に戻ってから一気に羞恥心が押し寄せてくるという様な事が多々あった。
またアーフィリルと融合すれば、気にならなくなるのかもしれないけれど……。
うぐぐぐぐ……。
司令官就任パレードという大きな心労の種が待ち受けているのに、さらに困難な状況に陥るとは、きっと長い時間を生きる祖竜アーフィリルでも想像していなかったに違いない。
しかしどんなに悩んでいても落ち込んでいても、時間というものは常に等しく無慈悲に過ぎ去っていくものだ。
机に向かったまま結局うとうととしてしまっていた私は、いつの間にかカーテンの隙間から射し込む眩い朝日に気が付いて、はっと顔を上げた。
そこへ、不意にノックの音が響く。
私は思わず、びくりと体をすくませた。
「おはよう、セナ。なんだ、もう起きていたの」
寝室に入って来たのは、赤髪の弓使いのマリアちゃんだった。既にきちんとエーレスタの軍装を着込んでいるマリアちゃんは、お世話係として私を起こしに来てくれたのだ。
「少し早いけど、準備しておきましょう。コンラートさまも迎えに来てくれるみたいだから」
「あ、うん。了解……」
いつもと変わらないクールな調子のマリアちゃん。
私は大きく息を吸い込んで深呼吸してから、椅子から立ち上がる。そしてマリアちゃんのもとに駆け寄ろうとした。
その時。
「わわっ!」
足がもつれる。
転ぶ!
そう思った瞬間。
私は、ぼふんとマリアちゃんの胸に受け止められた。
柔らかくて温かなマリアちゃんに抱き締められる形になる。
私はマリアちゃんの腕の中からその顔を見上げると、ばつの悪さを誤魔化す様にへへへっと笑った。
「ご、ごめんね、マリアちゃん……」
マリアちゃんが、うっと少し恥ずかしそうに頬を赤くする。そしてついっと私から視線を逸らしてしまった。
「だ、大丈夫なの、セナ。気を付けないと危ないんだから」
クールな口調でそう言いながらも、マリアちゃんはそっと私を抱き締めてくれた。
年上として私の方がお姉さんとして振舞わなければならないのだけれど、これではまるで逆だ。
普段なら少し落ち込んでしまうところだけれど、今の私はそれどころではなかった。
私はのそりとマリアちゃんから離れると、もう一度お礼を言ってから、のろのろとした動きで最高幹部会議出席のために出かける準備を開始した。
朝ごはんを食べる。味は良くわからなかったけれど……。
コンラートが迎えに来てくれると、アーフィリルと融合する。
今回はズボンスタイルではなく、いつもの通り白のドレスを身にまとう。そしてその上から、白花の騎士団の隊章が刺繍されたコートを羽織った。
コートの中から白く輝く髪を引き出してさっと払った私は、脇に控えるマリアにすっと目線を送った。
「マリア。後の事は頼むぞ。私がいない間は十分に警戒しておけ」
レティシアとフェルトは、私と共に最高幹部会議の会場に向かう事になる。他の白花の騎士団から連れて来た者たちは、この屋敷に待機することになっていた。
「あ、はい。了解……です」
マリアが、さっと背筋を伸ばすのがわかった。
この事はもちろん他の騎士にも話しておくが、私の身近な者の中では、階級的に上のアメルよりもマリアの方が頼りになるのだ。
マリアは、しかし返事をした後もしばらく、私の事をぽかんと見つめていた。
「どうした、マリア」
私はアメルに最後の身だしなみチェックをしてもらいながら、マリアに声を掛ける。
「……いえ。さっきは私の腕の中で震えていたセナが、こうも堂々と凛々しい感じに変わってしまう事に何だか少し違和感が……。今更の事なんだけど……。」
マリアは小さな声で何かをぶつぶつ言っていたが、近くでああでもないこうでもないと騒いでいるアメルの声がうるさくて良く聞き取れなかった。
「準備はどうだい、アーフィリル殿」
こちらも王族に相応しい豪奢な衣装を身にまとったコンラートがやって来る。短くまとめた髪を油か何かで後ろに撫でつけている為、いつものコンラートよりも少し大人っぽく見えた。
「会議開始は午後からだけど、少し早く行って挨拶周りをしよう。新任の司令官と亡国の王子なんて、多分今日の会議では一番立場が弱い部類だからね」
コンラートは私を見ると、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
私は「了解した」と答えながら、コートをひるがえして正面玄関で待っている迎えの馬車へと向かった。
やはり私の胸中には、小さな私の時に感じていた緊張感や焦りの様なものはすっかり無くなってしまっていた。
それよりも、今後のサン・ラブールの行く末に対する不透明感と、どうすれば帝国への逆侵攻ではなく、戦争終結への道を模索する議論が出来るのだろうかという思考が、目まぐるしく駆け巡っていた。
剣を用いない私に何が出来るのかはわからないが、私に何か出来る事があるならば、躊躇なく全力を持って斬り込むだけだ。
私はふっと息を吐く。そして開け放たれた正面玄関の向こう、冬の陽光に煌めく木々を見据えながら、すっと目を細めた。
果たして、どうなる事やら。
最高幹部会議の本会議が開かれる会場は、踝まで沈み込むのではないかと思われる絨毯が敷き詰められていた。
広い議場の中央には、サン・ラブール条約同盟国の中から選ばれた7カ国で構成される最高評議会の面々の為の円卓が設えられていた。そしてそれを中心にして、他の国の代表や軍の関係者が並ぶ机と椅子が並べられていた。
評議会の円卓はもちろん、他の長机や椅子にしても、一見して見事な細工が施された一級品である事がわかる。本来ならば実用品ではなく、美術品の範疇にあたるものなのだろう。
議場内の調度品は全て同様に、精緻な加工が施され、磨き上げられた高級品ばかりだった。
壁際には、サン・ラブール条約同盟加盟国の国旗がずらりと並んでいる。さらには、連合軍の旗や各種部隊の隊章が織り込まれたタペストリーが無数に掲げられていた。
驚いたのは、その中には創設されて間もない白花の騎士団の隊章もあった事だ。
もと隊務管理課にいた私としては、サン・ラブール連合軍の全部隊の把握など、どのように行っているのだろうと考えてしまう。
そんな最高幹部会議の会場は、今、紫煙に満たされていた。評議会の者たちや各国代表、それに軍の重鎮たちが、深く椅子に腰かけながら葉巻を吸っているのだ。
会議が始まってからずっと、アーフィリルが不快そうに唸っていた。私を通して外界を感じているアーフィリルは、葉巻の臭いが苦手らしい。もっともそれは、私も同じなのだが。
連合軍の幹部席、その前から3列目の左から3人目の場所に腰かけた私は、葉巻の臭いに耐えながら最高幹部会議の推移をじっと見守っていた。
会議は最初、現在のサン・ラブールを取り巻く戦況報告から始まった。そして2か月前に開催された前回の会議からの戦果と損害報告が永遠と続けられる。
前回に比べ大幅に躍進した味方部隊の状況に、会場から称賛の声と拍手が巻き起こった。
続いて、新たに決まった作戦や人事の関係など、細々とした事が矢継ぎ早に読み上げられていく。その中には、私の北部方面軍司令官就任の件もあった。
竜騎士アーフィリルの名が告げられると、私はさっと立ち上がり、会場の列席者に向かって一礼を行った。
そこで再び、議場内がざわめく。
司令官就任の審議会や連日の夜会で随分沢山の人々に会って来たつもりではあったけれど、まだ私の事を見た事ない人は沢山いる様だった。あの様な少女が、とか、若すぎるのではないかという声があちこちからちらほら上がる。同時に、あれが白花の竜騎士かなどと、私の二つ名は知っている様な声も聞こえて来た。
これらの報告が終わると、ようやく次は、評議会と臨席の各国代表の決議が必要となる重要課題の提案がなされる番だった。
その1つ目として統合作戦部からの発表されたのが、オルギスラ帝国への侵攻作戦だった。
「中央方面に浸透した敵をそのままに、南部と北部から侵攻を仕掛ける。都市国家群を一気に抜いて、帝国軍本土へ踏み込む、か。良いのではないか?」
評議会員の1人が、通常の作戦を評する程度の軽い調子で感想を述べる。
「しかし、我らが領域に入り込んだ敵をそのままにしておくのはどうかね」
「敵国土への侵攻は、我が領域に入り込んだ部隊への陽動にもなる。本土侵攻を受けて動揺した敵部隊を撃滅してやればいいのだ!」
威勢よく声を張り上げるのは、ウェリスタ王国の代表として参加している貴族だった。
私は目を細め、ライオンの様に金色の髭と髪を逆立たせたその貴族を見つめる。
その男の名は、バーデル伯爵。
この厳つい風貌の伯爵は、エーレスタで一時私の上司であったバーデル副士長の実家筋にあたる家柄らしい。
北部方面軍司令官の審議会では見かけなかったので、私と顔を合わせるのはこの場が初めてとなる。
今回の戦争の初戦で犠牲になったバーデル副士長の身内と再会するのが帝国への侵攻作戦を話し合う会議とは、数奇な巡り合わせだと思わずにはいられなかった。
「侵攻作戦には反対ではないが、今すぐというタイミングは議論の余地があるのではないか。兵站の確立や奪還地域の統制の確立など、現在は内政面で不安が残る状態だ。先ほどの中央戦線の件も含め、やはり帝国領への進発は夏以降、状況を見て、という方が良いと思うのだが」
白髪の年配の評議員が、穏やかな口調で理論整然と意見を述べる。その意見に、評議員以外の各国代表者からも賛同の声が上がった。
「それは、しかしどうでしょうな」
周囲の声が治まるのを待って声を上げたのは、評議員の一角に席を占めているハルスフォード侯爵だった。侯爵はウェリスタの貴族としてではなく、エーレスタの代表者としてこの場に出席している様だ。
「敗色濃厚な戦況から一気に反転攻勢を仕掛けている今だからこそ、帝国への本土侵攻意味があるのだと思う。我々に手を出せは、即座に手酷い反撃を受ける。その事を、全世界に知らしめておく必要があるのだ。兵たちの士気や民の反応を考えても、こちらから侵攻を仕掛けるには今しかないと考えるがな、俺は」
「そうだ! ハルスフォード卿の言う通りだ! 臆している場合ではないぞ!」
ハルスフォード侯爵の言葉に、バーデル伯爵が追い打ちを掛ける。
どうやらこの2人が、帝国侵攻作戦の明確な賛成派の様だ。
ハルスフォード侯爵らの主張に、先ほど反対意見を述べた評議員は「ならば仕方ありません」と簡単に引き下がってしまった。
やはり侵攻作戦が決定されるのは、あらかじめ評議会や軍上層部で決定した既定の路線という訳だ。
「侵攻にはスピードと打撃力が要求される。エーレスタからも、竜騎士の派遣を約束しよう」
ハルスフォード侯爵の宣言に、会場内が僅かにざわついた。
「軍部には、具体的な作戦計画を提示してもらおうか。今日のところはそれを持ち帰り、日程の最終日に決を取る。これでどうかね」
「ああ。構わない」
「異議無し」
「ふん、この場で決を採っても何も問題ないと思うがな」
皆の最後に傲然とそう言い放ったのは、バーデル伯爵だった。
「待ってほしい! 申し上げたい事がある! 発言を許可していただきたい!」
そこに、評議員後方の各国代表席から1人の青年ががたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……ふむ。許可しよう。国名と名前を名乗り、申されよ」
議論が一旦まとまり掛けた所に水を差された形になり、一瞬押し黙ってしまった評議員たちだったが、白髪の年配の評議員が手を上げた青年に発言の許可を出した。
最高幹部会議が評議会や軍上層部だけではなく、広くサン・ラブール条約同盟の代表者を募って開催されるのは、ここで決定された事がサン・ラブールの総意であるという事を内外に強く示すためだ。
帝国の様な単一の君主を抱く国ならばこの様な回りくどい事をする必要はないのだけれど、複数の国家の集まりであるサン・ラブールには、その様なポーズをとる必要があった。
内に向けても外に向けても、それは必要な事なのだ。
そのため各国代表から発言の要望があっあ場合、原則それは認められる事になっていた。評議員や軍部だけで話を進めてしまえば、一部の者たちのごり押しで議案が決まったという印象を生んでしまうからだ。
発言を申し出た青年は、事前に覚えて来た資料によれば、ベルデ公国という東部中央に位置する小国の王族だった筈だ。
その国もグリッジやルテナンと同様に、帝国軍の初期の侵攻でまるまる国土を失ってしまった様だ。中央戦線が停滞している今、未だ領地を奪還する事が出来てない国の1つでもある。
ベルデ公国の王族は、自分を奮い立たせる様に大きく息を吸い込むと少し顔を紅潮させながら口を開いた。
「我がベルデは、帝国への侵攻作戦に反対致します。現在もなお国や家を失い、逃げるしかない民がいる中、他国へ攻め入る余裕は我らサン・ラブールにはない筈です。侵攻作戦を唱える前に、サン・ラブールの領域の完全なる奪還と、戦災を受けた国への支援をこそまずはお願いしたい!」
ベルデの青年の言葉に、周囲から疎らな拍手が巻き起こる。その中には、ルテナン王やコンラートの姿もあった。
拍手はしなくとも、ベルデの王族の青年の言葉に理解の表情を受けべている者は何人も見受けられた。
帝国軍侵攻の直接的な被害を受けた東側の国々だけでなく、他の多くの国も侵攻作戦には諸手を上げて賛成という訳ではないのだ。
議場全体が、徐々にざわつき始める。
これまで黙って会議の推移を見守っていた各国の代表者が、近くの者たちと意見を交わし始めたのだ。
私の周囲の軍関係者も、顔を見合わせて小声で相談を始めている。
私は背後に控えているレティシアを一瞥するが、彼女はこの話題に関心がないのか、赤いローブを羽織った肩をひょいっとすくめるだけだった。
「ぬるい! 何をぬるい事を言っているのかっ!」
会場に、唐突に豪声が響き渡る。そして、どしんと机を叩く音が鳴り渡った。
皆の注目が、一斉にそちらへと集まる。
机を叩き割らんばかりに強打し、大声を上げたのは、ウェリスタのバーデル伯爵だった。
「帝国の侵攻目的は、明らかに領土的野心だ。このままこちらが下手にでていれば、今は押し返せたとしても、また必ず攻め入って来るに違いない! その時矢面に立つのは、またあなた方東の諸国なのだぞ!」
会場が、しんっと静まり返った。
「今回の作戦を、こちらから侵攻を仕掛けるものだとは取らないでいただきたい。これは言わば、積極的な防衛政策とでもいうべきものなのだ。今後のオルギスラ帝国との関係を考慮しても、ここで反撃を行う意味は大きい」
朗々と響く低い声で、バーデル伯爵の後を引き継いだハルスフォード侯爵が説明を続ける。
先ほどと同様に会場内がざわつき始めるが、今度は作戦に対する反対の声だけでなく理解を示す様な声もちらほら聞こえて来た。
「ここに集まった者たちにも、一族を、家族を帝国軍に殺された者がいるだろう。私も、優秀な騎士であった甥を失った! この様な悲劇を生み出した帝国軍を、そのままにしておけるものか!」
議論が高まる議場の中で、バーデル伯爵が拳を振り、同時に大音声を張り上げた。
甥とは、やはりバーデル副士長の事なのだろう。
あちこちから、バーデル伯爵に賛同する声が上がる。
大切な家族を奪われた怒り。憎しみ。
それは、十分に理解出来る。そんな感情を抱くしかなかった悲惨な目にあった人たちを、私はこれまで何人も見て来た。
しかし、その気持ちだけで剣を握っていけない。
私はそう思う。
そう考えた次の瞬間、私は自然とすっと手を上げていた。
「……竜騎士アーフィリル。何か意見があるのか?」
ハルスフォード侯爵が私の方を向くと、発言を許可してくれた。
私は立ち上がると胸を張り、こちらを窺う議場の全員をゆっくりと見回した。
「私は、竜騎士セナ・アーフィリル。私からも、意見を述べさせてもらう」
私が静かにそう告げると、会場内が徐々に鎮まり始めた。
周囲の軍関係者が、驚いた様に私を見上げている。
背後では、くくくっとレティシアが声をひそめて、しかし楽しそうに笑っていた。
「今回の帝国領への侵攻に、私は反対する。帝国軍には、魔素攪乱幕や機獣だけではなく強力な竜の鎧も存在する。不用意にこちらが踏み入れば、手痛い反撃を食らう可能性が高い。その前に、まずは我らが領域から帝国軍を駆逐し、然る後に適正な講和条約を結ぶ方が建設的ではないかと思う」
私の声が、すっと会場内にしみ込んで行く。
ベルデ王国の青年や、ルテナン国王が、真剣な表情で深く頷いているのがわかった。
「それでは生ぬるいと言っている! 帝国軍には、相応の報いを受けさせるべきだ!」
バーデル伯爵が、きっと私を睨みつけて来た。
「竜騎士アーフィリル。貴様は、我が甥が命を散らした戦いで生き残り、竜騎士の力を得たというではないか! その力で、無き我が甥たちに報いようとは思わぬのか!」
バーデル伯爵はカッと目を見開き、怒声を張り上げた。
私は目を伏せ、バーデル隊長と共に赴いた、アーフィリルと出会った竜山連峰での戦いを思い出す。
思い返せば、あれが私の初陣だった。そして、この戦争での私の戦いの始まりだった。
あの時散ったバーデル隊長の命が、バーデル伯爵を怒りと憎しみでもって染め上げる原因となっている。
アーフィリル流に言えば、憎しみや復讐心が新たな戦いを呼び起こすのは人の世の常という事になるのだろうか。しかしそれでは、あまりにも不毛過ぎる。
私はすっと顔を上げ、バーデル伯爵を見据えた。
「怒りや憎しみで剣を手に取る事は、騎士として誤りだ。面子や国の威信の為に剣を取るのも、同様だ。私たちが今真に目指すべきなのは、この戦争を終わらせる事だろう」
静かに噛み締める様に、私をこちらを見上げる人々の上に言葉を投げかける。
「ここに集まっている皆の肩には、自らだけでなく多くの民の命運がかかっている。彼らが理不尽な暴力に晒され、故郷や家を追われない様に私たち騎士は戦う。私たちは全力で敵と戦おう。だから皆には、どうか、民が安心して暮らせる様にサン・ラブールを導いてほしい」
私は一度言葉を切り、一瞬だけ目を瞑る。しかし直ぐに、議場の中心の席からこちらを見つめる評議員たちをキッと見据えた。
「皆が安心して眠れる世界。誰もが理不尽な暴力に怯えなくても良い世界。それを成す為に必要なのは、報復でも示威行動でもない。戦火を広げるための行動ではなく、まずはこの戦いを終わりを模索する事だと思う。帝国軍に相応の報いを受けさせるのは当然だ。しかしそれは、さらなる流血であってはならない。これが私の考えだ」
私は一通り言いたい事を伝えると、ふっと軽く息を吐き、さっさと元の席に腰掛けた。
拍手が起こる。
最初はルテナン国王とコンラートだけがパチパチと拍手をしていた。
しかしやがてそれは周囲にも広がり、議場全体が大きな拍手の渦に包まれた。
ハルスフォード侯爵も、苦笑を浮かべながら手を叩いていた。しかしバーデル伯爵だけは顔をしかめながら、怒り心頭の様子で私を睨みつけていた。
「竜騎士アーフィリルは、今回の戦争で一番の戦果を挙げて来た功労者だ。彼女の意見を聞き入れるのも重要だろう。どうだろうか、皆。会議の日程もまだある。ここは明日以降も慎重に議論を繰り返し、結論を出すというのは」
拍手が収まるのを待って、ハルスフォード侯爵が静かそう告げた。
周囲から賛同の声が上がり、バーデル伯爵は私からすっと視線をそらした。
私は、すっと目を細める。
ハルスフォード侯爵は、私の意見を取り入れてという様な調子で提案しているが、議決を行うのが最終日だという事は、当初の予定通りなのだ。侯爵の提案は、侵攻容認派にはいささか状況が良くないので、日を改めて議論を進めると言っている様にも取れる。
何せハルスフォード侯爵は、侵攻に賛成している側なのだから。
ハルスフォード侯爵が私を一瞥する。
まるで私の事を誇るかの様な微笑が浮かんだその顔には、しかし剣の様に鋭い眼光が宿っていた。
その光は、真っ直ぐに私を射貫いている。
果たして私は、既に既定路線と言われている帝国侵攻作戦に一石を投じる事が出来るのだろうか。
アーフィリルと融合した状態の私でさえ、それには一抹の不安を抱かずにはいられなかった。
事態が唐突に動き出したのは、その2日後の事だった。
しかしそれは、幹部会議の議場で起こったのではなかった。別の場所から、不意にやって来たのだ。
その日は、新たに方面軍司令官に就任した私のお披露目パレードが予定されている日だった。
例にもれず緊張してガチガチになっている私が、アメルやマリアちゃんに手伝ってもらいながら身支度を進めていたその時。
何となくお屋敷の窓に目を向けた私は、その場で固まってしまう。
窓の外、お屋敷を取り囲む林の向こうに、静かな朝には似つかわしくない不穏な黒煙が立ち昇っていたのだ。




