第40幕
長い長い定例作戦会議を終えた私は、グレイさんやサン・ラブール連合軍の幹部の方々と別れると、レンハイムのお城の中を自室へと向かって歩いていた。
1週間前。
入城した際には帝国軍の残した物資や戦いの影響で雑然としていたレンハイムのお城は、もうすっかり片付けられ、落ち着きを取り戻そうとしていた。
あちこちに警備の兵士の皆さんが立っている中、地元の街から雇用したメイドさんたちが忙しなく駆け回っている。
彼女たちの手によって汚れて崩れた内装は修復され、各部屋も隅々まで掃除されて使用可能な様に順次整えられつつあった。
今まで帝国軍に抑圧されていた地元民の方々の協力もあって、レンハイムにおける冬越えは問題なく行えそうだ。
ふと気が付くと、季節はいつの間にか1年の終わりに差し掛かりつつあった。
今日の作戦会議でも話題に上っていたけれど、どうやら私たち白花の騎士団とサン・ラブール連合軍北部方面軍は、このレンハイムの街で新しい年を迎える事になりそうだ。
新年を迎える為にも、そして帝国軍の再侵攻に備える為にも、城壁の整備や防衛体制の構築など、色々とこなさなければならないお仕事は沢山あった。
内装は整っても、まだまだ慌ただしい雰囲気は続く事になるだろう。
私は作戦会議の資料をぎゅっと抱きしめたまま、ほっと小さく息を吐いた。
白くなった私の息が、ふわりと舞い上がって消えていく。
レンハイム駐屯の準備に動き回る人たちの熱気に満ちているお城の中は、やっぱり季節がら冷え冷えとしていて、重ね着をしていてもとても寒かった。
早く暖かい暖炉のある部屋に戻って、柔らかなベッドに飛び込みたいなと思う。
……うむむ。
とぼとぼと歩いていた私は、魔晶石のランプが照らす廊下の途中で立ち止まる。そして、片手でぐりぐりと目を擦った。
ダメだ……。
ベッドの事を考えていると、本当に眠くなって来てしまった。
「うーん……」
私は大きく息を吸い込むと、珍しくアーフィリルが乗っていない頭をふるふると振って再び歩き始めた。
ポニーテールにまとめた白い髪が、背中でふわふわ揺れる。
先程まで続いていた長い会議を、私は何とか居眠りせずに乗り切った。その反動が今来ているに違いない。
お昼寝していたアーフィリルを起こさない様に1人で会議に出たのだけど、やはり話し相手がいた方が良かったみたいだ。
あのグリッジ王国を巡る戦いから、もう既に3週間が経過していた。
ハインケル城郊外の戦闘の後、アーフィリルとの融合の疲れが出た私は、10日間程ほぼ寝たきり状態だった。
しかしそれだけ休んでもまだ体調が思わしくないなんて、我ながら不甲斐ないなと思う。
私はふうっと大きくため息を吐いてから、顔を上げた。
そこでふと、前方から歩いて来た騎士さんと目が合った。
一瞬私を見て怪訝な顔をした騎士さんだったけど、私の胸当てに入った白花の騎士団の隊章を見ると、少し驚いた様な顔をしながらばっと敬礼した。
その機敏な動きにびくりとしながら、私も答礼する。
あの騎士さんは、白花の騎士団所属ではない。
1週間前に私たち白花の騎士団と一緒にこのレンハイムに入った、サン・ラブール連合軍北部方面軍の将校さんみたいだ。
グリッジ王国での戦いを終えた私たちは、援軍として駆けつけてくれた北部方面軍の師団やアルハイムさまたち竜騎士3人と合流すると、そのまま味方の勢力圏に戻る事なく東に向けて進軍する事になった。
ハインケル郊外の大規模な夜戦の後、私たちは何度かの小規模な戦いを経てこのレンハイムという街を攻略し、今はここに落ち着いている。
このレンハイムという街は、もともとサン・ラブール条約同盟の国々と東の都市国家群との交易で栄えた街だった。
つまり、サン・ラブール条約同盟の領域の東の端に位置している。
そのレンハイムを奪還したという事は、私たちはサン・ラブールの領域から帝国軍を押し戻したという事になるのだ。
これは、開戦からずっと押されっぱなしだった東部戦線においては、初の大勝利といえる戦果だった。
もっとも、帝国軍を押し返したのは東部戦線の北部の領域で、中部、南部では依然大規模な侵攻を受けているのだけれど……。
それでも、帝国軍撃退への大きな一歩である事は間違いない。
敵にも味方にも重要な拠点である筈のこの街レンハイムを、私たちはさしたる損害を出す事なく攻略する事が出来た。
レンハイム解放戦だけでなくグリッジでの戦いからずっと、私たちは大した損害を出すことなく進軍する事が出来た。
連戦で疲弊していた白花の騎士団は終始後方配置だったし、私に至っては天幕でずっと眠っていただけだったのにも関わらずだ。
そんな私たちの快進撃には、理由があった。
それは、この地域を占領していた敵の主力を、既に私たちが壊滅させていたからだ。
後になってアルハイムさまから聞いたお話だけれど、ハインケル城郊外で私たちが対決した敵部隊は、帝国軍の北部方面の主力部隊だったそうなのだ。
なるほど、それならばあの数と兵の練度も頷けるけというものだ。
繰り返し繰り返し押し寄せて来るあの大部隊を思い出すと、今でも胸がキュッとなる。
アルハイムさまによれば、白花の騎士団がグリッジ王国に向かうという情報を得た帝国軍が、グリッジの解放阻止と噂の白花の騎士団殲滅を目論み、主力部隊をこちらに差し向けて来たらしい。
アルハイムさまたち3騎もの竜騎士さんたちと2個師団もの味方が援軍に来てくれたのは、グレイさんが手配してくれたのではなく、その敵部隊の動きを察知したサン・ラブール連合軍が動いた為だったのだ。
サン・ラブール連合軍の司令部は、この機に私たち白花の騎士団と共に敵部隊を殲滅し、一気に戦線を押し返すつもりだったみたいだ。
結果的にその狙いは成功し、殲滅といまではいかなかったけれど戦力をズタズタにされた帝国軍部隊は後退。私たちは難なくこのレンハイムまでやってこれたという訳だ。
……でも。
アルハイムさまたちが駆けつけてくれたとはいえ、今思い返せば、よくグリッジの人たちを無事に守り通す事が出来たなと思う。
その成功も、そして北部地域の解放という大戦果も、グリッジの王さまをはじめ、多くの騎士や兵士の皆さんの犠牲の上に成り立っているという事を忘れてはいけないのだ。
私はしゅんと肩を落として、小さくため息を吐いた。
……後悔ばかりしていてはいけないという事は、わかっているのだけれど。
私は少しだけ目を伏せ、また顔を上げて廊下の先を見た。
サン・ラブール連合軍北部方面軍は、今日の作戦会議でも説明があったけど、当面レンハイムの防衛拠点化を推し進めつつ帝国軍の再侵攻や来るべき大反撃作戦に対する準備を進めていくらしい。
私たち白花の騎士団にも、北部方面軍と足並みを揃えて欲しいとの要請があった。
白花の騎士団は、騎士団として独立行動する権限があるので、必ずしもその要請に応じる必要はない。
でも私は、グレイさんやオレットさんたちとも相談して、当分の間はレンハイムに留まるつもりをしていた。
街の防衛に協力するのはもちろんだけど、騎士団のみんなにもこの機に十分に休養を取ってもらいたいと考えたのだ。
ここなら十分な物資も集まって来るだろうし、野宿しなくていいし、何より沢山の味方と一緒にいられるという安心感が得られると思うから。
北部方面軍の司令官さんにお願いして、騎士団のみんなの宿舎も用意してもらった。後はグレイさんと相談しながらお休みのローテーションを決めるだけなのだ。
でも……うーむ。
みんなのお休みについて考えていた私は、はむんっと欠伸を噛み殺した。
お仕事を再開する前に、やはり少し眠りたい……。
私が目をしょぼしょぼさせながら歩いていると、再び前方から北部方面軍の騎士さんがやって来た。今度は2人だ。
やはり片方の騎士さんが敬礼してくれる。
今度は私も備えていたから、余裕を持って答礼する事が出来た。
「なんだ、知り合いか?」
敬礼をしていない方の騎士さんが、同僚にそんな事を尋ねる。
「ば、馬鹿野郎っ! あの方は、白花の騎士団の方だぞ!」
敬礼をしている方の騎士さんが、声をひそめてそんな事を告げる。
ふむ。この人は、私が竜騎士アーフィリルだと知っている人なのか。
作戦会議とか公式の場以外はもとのこの姿でいる事も多いので、このレンハイムのお城には、小さなこの私が白花の竜騎士だと知っている人もそこそこいるのだ。
「白花の騎士団の竜騎士さまといえば、白い竜を何匹も従えて、万を超える敵部隊を1人で殲滅した人だぞ。帝国軍の北部主力部隊を1人で薙ぎ倒したって」
「あ、ああ、それは俺も知ってるが……」
敬礼しながら通り過ぎた私の背後から、ぼそぼそとそんな会話が聞こえて来る。
うーん、何だか話が大きくなってる気がするな……。
「あの子は、そんな竜騎士さまの名代として良く会議に出てるんだ。秘書官か何かだろう。あんな小さくても、白花の竜騎士さまの側近だぞ。お前もきちんと接しておけ」
「あんな子がな……。おっ、何かこっちを見てるぞ、じっと」
私は思わず騎士さんたちを見てしまうが、はっとして足早にその場を後にした。
……秘書官違う。
むむむ……。
私の正体の話は別にどうでもいいのだけれど、別にいいのだけれど……気になるのは、白花の竜騎士の活躍が大きくなり過ぎている事だ。
帝国軍主力を撃退出来たのは、もちろんみんなの力を合わせたからこそだ。
でも何故か、レンハイムにはそれを私1人が成し遂げたかの様な噂が流れていた。さらには、北部方面軍、サン・ラブール連合軍司令部が、その話を喧伝して回っているという噂も聞いたりする。
今回の一連の勝利を広めたいというのもわかるし褒めてもらえるのは嬉しいのだけれど、何だか一緒に戦った皆んなが蔑ろにされている気がして、手放しで喜べる話ではない。
オレットさんやグレイさんは、戦時の軍部とはそんなものさと笑っていた。誰か注目を浴びる英雄を作り出して、みんなの旗頭にしたいのだ、と……。
そんなものなのかなとも思うけど、やっぱり何だかいろいろ釈然としない。でも、だからといってどう行動して良いのかもわからなかった。
白花の竜騎士の活躍でサン・ラブールの士気が上がるなら、それはそれで良い事だし……。
私はほうっと大きく息を吐いてからまた目をぐりぐり擦り、うんっと軽く伸びをした。
石壁に足音を反響させながら廊下を曲がり短い階段を上がると、左手の窓の向こうに灰色の空を背景にした塔が見えて来る。
昔このお城のお姫さまが使っていたというその塔が、私と白花の騎士団幹部の居住スペースに当てられていた。
広過ぎず豪華過ぎずなかなか快適な場所なのだけれど、会議室などがある本館から少し遠いのが玉に瑕だった。
塔の入り口には、白花の騎士団のメンバーが警備に就いていた。もちろんみんな顔見知りの人たちばかりだ。
私はそちらへ駆け寄ろうとして、しかし途中ではたりと立ち止まった。
左手の大きなガラス戸の向こうに、塔の下に作られた小ぢんまりとした中庭が広がっていた。そちらに、ちらりと空色の巨体が見えたのだ。
あれは……。
私はとととっと廊下を走ると、中庭へと続くガラス戸を開けて外へ出た。
凍える様な外の冷たい風が、吹き付けて来る。私は、ぎゅっと片目を瞑ってそれに耐えた。
果たして、中庭にはアルハイムさまの乗竜である空色の竜が佇んでいた。
「ルールハウト!」
私は思わず声を上げると、ルールハウトに向かって駆け寄った。
トクトクと胸が鳴る。先程までの眠気は、一瞬で吹き飛んでしまった。
やっぱりルールハウトは大きい!
それに、かっこいい!
「ルールハウト……!」
こんな凄い竜と一瞬に戦えたなんて、今思い返しても信じられなくて少し胸が震えてしまう。
威風堂々と佇んでいたルールハウトだったが、駆け寄る私の姿を捉えた瞬間、その金の目が僅かに見開かれた。
ルールハウトが僅かに身をのけ反らせる。そして突然高く伸ばしていた首をすっと垂らして顎を地面に付け、伏せの姿勢をとると、上目遣いに窺う様に私を見た。
実際は伏せをしても、巨大なルールハウトの目線は立っている私と同じくらいだ。厳密には上目遣いではないのだけれど、こちらを窺うルールハウトにはそんな雰囲気があった。
まるで、叱られて尻尾を丸めている犬みたいだ。
ルールハウトの前に立った私が、そぉっとその鼻先に手を当ててみる。
ルールハウトは、ぐるぐると低い声で小さく唸った。
そこには、最強の存在たる竜の威厳はなかった。
私と目を合わそうともしない。
……うーん。
何だか複雑な心境だ。
あの憧れの格好いいルールハウトとこうして気軽に接する事が出来るのは、私にとって夢の様なのだけれど、何だかこう違う感じがするのだ。
私は、僅かに眉をひそめる。
それだけで、ルールハウトが僅かに身を固くした。
エーレスタの竜舎でオレットさんに引き合わせてもらった時のルールハウトは、近寄りがたい超然とした雰囲気があった。まさに最強の生き物にふさわしい威厳が漂っていた。ハインケルの郊外で再会した時も、最初はそうだった。
でも、ルールハウトが私の分け与えた魔素で白くなった後からか、急にその雰囲気が変わった気がするのだ。
ルールハウトの鱗の色は、あの戦いが終わると同時に元に戻っていたけれど……。
私を前にしたルールハウトは、飼い主さんに叱られる犬の様に従順で大人しくなってしまった。
アーフィリルが子犬なら、ゴツゴツした鱗に覆われた厳つい姿のルールハウトは、まるで大型犬みたいだった。
そして、様子がおかしいのはルールハウトだけではないのだ。
ルールハウトがここにいるという事は、近くにその主人も来ている筈で……。
ルールハウトの鼻筋に手を当てたまま、私が周囲を探ろうとした時。
突然ルールハウトが、むくりと首を上げた。
「セナ、あんまりふらふらしていると風邪を……ひっ」
そこに、短い悲鳴が上がる。
声がした方向、中庭の入り口の方に目を向けると、赤髪を三つ編みにしたマリアちゃんが顔を青くして立ち尽くしていた。
私を呼びに来てくれたマリアちゃんは、ルールハウトを見つめたまま固まってしまっていた。
やっぱりふわふわもこもこのアーフィリルと違って、竜然としたルールハウトの威圧感はなかなかのものだ。
「ルールハウト、マリアちゃんをあまり怖がらせたらダメだよ」
私はペシペシとルールハウトの前足を叩く。
するとルールハウトは、ぐるぐると低く唸ってもとの伏せの体勢へと戻った。
「凄い……」
今度は私に向かって驚きの顔を向けるマリアちゃん。
私はルールハウトの鼻先を撫でてから、マリアちゃんのところへ駆け戻った。
「どうしたの、マリアちゃん?」
私はマリアちゃんを見上げながら、んっと首を傾げた。
「……アーフィリルだけじゃなくあんな竜まで従えるなんて、やっぱり凄い」
私を見つめながらぶつぶつと呟くマリアちゃんだったが、直ぐにはっとした様に小さく首を振った。
「その、窓からセナが中庭で遊んでいるのが見えたから、オレットさまが早く連れて来いって」
む。
別に遊んでいたのではない。ただ、ちょっとルールハウトに挨拶していただけだ。
私はポニーテールにまとめた髪を振って、振り返る。
首を上げようとしていたルールハウトが、慌てて伏せの体勢に戻る。
私はそんなルールハウトに手を振りながら、マリアちゃんを伴ってレンハイムのお城の中に戻った。
何故かじっとこちらを見つめて来るマリアちゃんのプレッシャーに耐えながら、私たちは塔の一番上の部屋へと辿り着く。
扉に手を掛けようとした瞬間、私を弾く様な凄い勢いでマリアちゃんが前に出て来ると、代わりに扉を開けてくれた。
かしこまった様子でどうぞと私を通してくれるマリアちゃん。
「あ、ありがとう」
とりあえずマリアちゃんにお礼を言いながら、私が部屋の中へと目を向けた瞬間。
「わわっ!」
私は、思わず声を上げてしまった。
「どうしたの、セナ……ひゃ!」
隣に並んだマリアちゃんも、同じく悲鳴の様な声を上げた。
「ア、アーフィリル!」
私は目を丸くしながら、部屋の中からこちらを見つめるアーフィリルの緑の瞳を見上げた。
私が借りている部屋は、居間と書斎と寝室の3部屋からなる。どの部屋も生活する分には十分の広さなのだけれど、その居間を白い羽毛の塊が埋め尽くしていた。
アーフィリルが、何故か部屋の中で大きな竜の姿になっていたのだ。
ここがもし大広間だったとしても、白い大きな翼と長い尾を持つ巨大なアーフィリルには手狭だっただろう。ましてや常識的な広さの部屋に大きなアーフィリルがいるのは、明らかに無理があった。
『戻ったか、セナよ。我を置いてどこへ行っていたのだ』
私を見下ろしながら嬉しそうに尻尾を振るアーフィリル。
長い白の尾がバシンバシンと床を叩く度に、塔自体が軋んでいる様な気がする。
ダメだ、部屋が壊れてしまう……!
「アーフィリル、また! 何でおっきいの? ちょっと、じっとするか小さく……」
私は何とか注意しようとするが、今度はアーフィリルが体を伸ばして、大きな頭をドンっと私に擦り付けて来た。
小さな状態でもアーフィリルがよくする仕草だったけど、大きな姿では威力が違う。
巨漢の戦士の体当たりを受けたかの様な衝撃に、私は思わずよろめいてしまった。
アーフィリルがいつの間にか大きな姿になっているという現象は、実は最近よく起こっている事だった。
たぶんグリッジでの出来事の後からだったと思うけど、アーフィリルが大きな姿になりたがる事が度々あった。それまでは、そんな事一度もなかったのに……。
「ア、アーフィリル、さっきまで小さかったのよ。私と一緒に中庭のセナを見ていたんだから」
マリアちゃんが青ざめた顔で私を見た。
そうか。この部屋の窓からは、ルールハウトがいる中庭が良く見えるのか。
そういえばアーフィリルが大きな姿になりたがるのは、決まって私がアルハイムさまとルールハウト会った後の事だった。
もしかして、強そうでかっこいいルールハウトに張り合おうとしているのだろうか。
アーフィリルは祖竜という古い竜だから、ルールハウトたち竜騎士の竜の先輩に当たる。先輩として、後輩に威厳を示そうとしているのだろうか。
「わかった、わかったから! 書類がぐちゃぐちゃになっちゃうから!」
アーフィリルがじゃれかかって来る。
巨大な体で……。
離れようとすると暴れ出すので逆に近付いてみると、やっと少し大人しくなってくれた。
アーフィリルが少し動いただけで椅子やソファーは吹き飛び机はひっくり返り、既に居間は悲惨な状況に陥っていた。
尾と足で私を抱き込む様に坐り直すアーフィリル。ふんっと満足そうに鼻をならしている。
私は、ふうっとため息を吐いた。
もう……。
立ち尽くしていてもしょうがないので、私はアーフィリルのお腹にもたれ掛かる様にして、白い羽毛の上にぽすっと腰掛けた。
「もう暴れちゃダメだからね」
ポカポカと温かいアーフィリルの体温に身を預けながら、私はむうっと眉をひそめた。
『うむ』
短く答えたアーフィリルが、私の体にその巨大な頭をぐりぐり押し付けてくる。
アーフィリルは、相変わらずいい匂いがした。
普通の大型動物みたいな獣の臭いがしない。その代わり、良く天日干ししたお布団の匂いがするのだ。
温かくて柔らかいこんな感触に包まれていると、先程ルールハウトと出会って吹き飛んだ筈の眠気が、またもくもくと湧き上がって来てしまう。
「セナ、大丈夫なの?」
マリアちゃんの心配そうな声がした。
私はアーフィリルの羽毛に包まれながら手を上げると、ひらひらと振った。
「大丈夫だよ。ちょっとアーフィリルの相手してるから、オレットさんには待っててって言っておいて」
「本当に大丈夫……?」
マリアちゃんが心配そうに呟きながら、隣の書斎に向かう音が聞こえた。
私はアーフィリルの大きな頭をぽんぽん撫でながら、ふうっと深く息を吐いた。
「……アーフィリルは、大丈夫? よくお昼寝してたみたいなだけど、体調は悪くない?」
私はそう尋ねながら、とろんと落ちて来ようとする瞼を必死に押し留める。
……やっぱりこの温かさと柔らかさは反則だ。
あっという間に眠気が全身を支配してしまう。
うーん……むむむむ。
『セナこそ疲労が抜けていない様だな。このところ我の魔素の行使が連続していたからな。今少し休息を取るのが良いだろう』
アーフィリルの優しい声が胸に響く。
私は、ハインケルでの戦い以来十分に休ませてもらった。それに私は騎士なのだから、例え疲れていてもみんなの為に戦うのは当然なのだ。
でも、アーフィリルは違う。
アーフィリルは、私たち人間の戦いに力を貸す義務はない。その戦いの為に傷付いたり無理をする義理はないのだ。だから……。
私は脱力する体をアーフィリルの頭に預けながら、同時にその大きくてふわふわの頭部をぎゅっと抱き締めた。
『優しい娘。優しき我が契約者よ。眠れ。他の竜ではなく、我が腕の中でな。そして、目覚めたなら、汝が歩む様を再び我に見せて欲しい。我と共に歩みながら、な』
ふうっと遠くなっていく私の意識に、優しく力強い声が響いて来る。
アーフィリル、うん、問題ないならいいんだけれど……。
「じゃあ、また後でお散歩、行こう、ね……」
何とか返事をしなければと思った私は、そんな事を口にしていた。
眠気で自分でも何を言っているのか良くわからないまま、私は大した抵抗も出来ず、すうっと眠りの淵へと落ちてしまった。
「……っぱり、まだ本調子じゃないみたいだな」
「はい。セナ、今日も眠そうにしてたから」
「でも、うとうとしてるセナって、なんだかぎゅうっとしてあげたくなるよね!」
「……うるさいぞ、アメル」
「なによ、フェルトだってそう思ってるくせに!」
「なっ! ばっ……!」
「はいはい、うるさいわよ、そこ。まぁ、セナちゃん本人は、尋ねても大丈夫だって言ってるけどね」
「オレット。お前たちがついていながら、何とも不甲斐ない事だな」
「……まぁ実際俺たちみんな、あいつに頼りきりなのは事実だからな。そこで、だ」
ガヤガヤと賑やかな声が響いて来る。
温かくていい匂いのするアーフィリルの羽毛に包まっている私は、その良く聞き知った声に導かれる様にゆっくりと覚醒する。
うー。
んっと伸びをする。
……いつの間にかうとうとしてしまったみたいだ。
最近はずっと、寝ても寝ても寝足りない感じが体から消えてくれない。
しょぼしょぼする目を開ける。
ぼんやりとした私の視界に、私と大きなアーフィリルから少し離れた場所に再設置されたソファーやテーブルと、そこに集まったみんなの姿が映る。
赤毛を三つ編みにしたマリアちゃんが、何事か神妙な顔で頷いていた。その隣には、何がそんなに嬉しいのか満面の笑みを浮かべるアメルがいた。
2人の後ろには、少し離れて壁際に立つフェルトくんの姿があった。
マリアちゃんたちの前の椅子には、オレットさんが足を組んで座っている。相変わらずの無精髭なのに、だらしなく見えないのが不思議だ。手練れの戦士という雰囲気は十分にあるけれど、やはり凛々しい騎士さまという感じはしない。
オレットさんの隣、私に背を向けて座っているのは、艶やかなストロベリーブロンドの女性、レティシアさんだ。レティシアさんも、オレットさんの話にふむふむと頷いている。
あと、みんなから少し離れた壁際には、サリアさんとレイランドさんが立っていた。サリアさんは苦笑いを浮かべているが、レイランドさんは相変わらず無表情のままだった。
私が借りている部屋の居間に集まっているのは、共に戦い、旅をして来たいつもの仲間たちだ。
しかし。
その中に1人、見慣れない人物が混ざっていた。
ううん、正確には私にとっては見間違う筈もない、よくよく知っている人だ。
ただ、その人が私たちの場所に、ここにいるという事が信じられない。
「アルハイムさま……」
そう呟いた私の声は、少しかすれてしまっていた。
オレットさんと向かい合う様にソファーに腰かけた女性。艶やかな黒髪をさらりと背中に流し、引き締まった長い足を組んで微笑んでいるその人は、間違いなくエーレスタの竜騎士、シエラ・アルハイムさまだった。
私の憧れの人がすぐ目の前にいる……。
そう認識した瞬間、カッと顔が熱くなった。
グリッジ以来何度も直に顔を合わせているのに、未だアルハイムさまとお会いすると緊張とドキドキで動けなくなってしまう。
私にとってアルハイムさまは、それほど大きな存在なのだ。
ルールハウトを見つけた時と同じ様に、一瞬にして眠気が吹き飛んでしまう。
アルハイムさまがいるのに、呑気に寝てる場合じゃない……!
アーフィリルのお腹にもたれ掛かる様に眠っていた私は、掛布団の様に覆いかぶされていた白の翼から抜け出すと、慌てて立ち上がった。
「あ、セナが起きた」
アメルが目ざとくそんな私を発見する。
みんなの目が、一気に私へと集まる。
その時。
私の寝起きの足が、何もない床で躓いた。
「あ、セナが転んだ」
アメルのそんな声が無慈悲に響く。
ぐらりと傾く視界。
わわっ!
どうしていいかもわからず、ただ身構える。
床に激突する。
そう思った次の瞬間。
私は、ぼふっと柔らかなものに受け止められた。
うぐぐ……。
何かつい最近、同じ様な事があった気が……。
顔面から床にぶつかるところだった私を間一髪のところで受け止めてくれたのは、アーフィリルの大きな頭だった。
『大丈夫か、セナよ』
アーフィリルが僅かに首をもたげる。その頭の上に乗っかった私の体も、軽々と持ち上がる。
そんな私を、みんながじっと見上げていた。
アルハイムさまも……。
私はアーフィリルの頭の上に寝そべったまま、きょとんとみんなを見下ろした。
そして、だんだんと自分の状況を理解する。
……あれ。
突然の出来事に呆然としている私の顔が、カッと火を噴く様に熱くなるのと、アメルがわははと笑い出したのは同時の事だった。
「はははっ、ふふふっ、セナ、セナ、いつもと逆だっ! いつもアーフィリル乗せてるのに、今はセナがアーフィリルの頭に乗ってっ、あははははっ!」
ううっ!
わわわわ!
ぬ、ぬぬぬぬ……!
「ア、アメル……!」
私は大きく息を吸い込みながら、何とか平静を保とうと試みる。
「くっ、くくくっ」
オレットさんもにやにやと笑いながら私を見上げていた。
マリアちゃんは耐え切れなくなったという風に顔を背けると、肩を震わせ始めていた。さらに、あのフェルトくんですら、口元に笑みを浮かべて私を見ていた。
レティシアさんもサリアさんも、なんだか生暖かい目で私を見上げている。
う、うぐぐぐ……。
どうしていいのかわからずふるふる震えている私に、アルハイムさまがつかつかと近付いて来た。そして、すっと手を差し伸べてくれた。
やっと事で、アーフィリルが頭を下げてくれる。
私はもぞもぞともがくと、顔を強張らせながらアルハイムさまの手を取り、何とか床の上に降り立った。
「お疲れの様ですね。大丈夫ですか?」
アルハイムさまが艶やかな黒髪を揺らしながら、凛とした光が宿る目で私を見下ろした。その顔には、柔らかで優しい微笑が浮かんでいた。
「あっ、はい、あ、ありがとうございます……」
私はとんでもないところを見られてしまった恥ずかしさに少し震えながら、おずおずとアルハイムさまを見上げた。
「セナ、おはよー。体調はどう?」
アルハイムさまの後ろから散々笑ったアメルが気楽な声を上げるが、私はむうっとそちらを睨んでおく。
『セナ。もう眠らないのか?』
アーフィリルが大きな頭の大きな顎を、そっと私の頭に乗せて来る。
「大丈夫だから、アーフィリルは小さくなってて。ここ!」
私はアーフィリルの頭を押し返しながら、自分の頭の上、小さなアーフィリルの定位置をぽんぽんと叩いた。
心配してくれているアーフィリルには申し訳ないけれど、照れ隠しの為に口調が命令調になってしまう。
白い光を放ち、アーフィリルが私の言ったとおり小さな姿になる。そして、素直にぽすっと私の頭に収まった。
私は両手を上げてアーフィリルの位置を調整すると、改めてアルハイムさまとみんなに向き直った。
……先程の出来事はなかった事にしよう。忘れよう。
私は、こほんと咳払いして表情を引き締めた。
アルハイムさまは、アーフィリルの変化に僅かに驚いた様に目を丸くしていた。
ハインケルでの戦い以来アルハイムさまとは何度かお会いする機会があったけれど、アーフィリルの姿が変わるところを見せるのは今が初めてだった。
あの戦いの後、大人状態からもとの姿に戻った私の姿を目の当たりにした時も、アルハイムさまは同じ様な表情をしていたけれど……。
でも、さすがはアルハイムさま。
私やアーフィリルの変化をあっさり受け入れたアルハイムさまは、笑みを浮かべたまま小さく頷いた。
「さすがは竜の王たる祖竜アーフィリルさまですね。人知を超えたその技、感服致しました」
真っ直ぐに私の目を見るアルハイムさま。
私はうぐぐっと居心地の悪さを感じながら、「は、はい……」と答える事しか出来なかった。
私にとってアルハイムさまは憧れの対象であり、目指すべき大きな存在だ。
どう頑張っても、私なんかが手の届かない人だとはわかっていた。でも、いつかはあんな竜騎士さまになれたらいいなって思っていた。
そんな人が今、私に対して頭を下げ、かしこまった態度を取っている。そんな現状を、私は未だに受け止める事が出来ていなかった。
「我が白花の竜の姫よ。どうか、無理はされませんように。微力ながら、我らもご助力致します故に」
膝を折り、私に視線を合わせるアルハイムさま。
竜の姫という呼び方に、私はドキリとしてしまう。
ハインケルの戦場でアルハイムさまとルールハウトに魔素を分け与えた際、白い全身鎧の騎士となったアルハイムさまは、私の事を竜の王と呼んだ。
あの時はその場の事だけだと思っていたけれど、戦闘が終わってルールハウトがもとの色に戻り、白騎士化が解除された後も、アルハイムさまの状態はそのままだった。
あの戦いの後。
アーフィリルとの融合を解除してふひぃと息を吐いていた私に対して、アルハイムさまはいきなり片膝を着くと、「ご助力感謝致します、竜の王」と告げて来た。
その瞬間の私は、どう反応していいかわからず、ただ固まっていただけだったと思う。ががんとした驚愕の表情を浮かべたまま、かなりの間凍り付いてしまっていたと後になってアーフィリルが教えてくれた。
大勢の騎士や兵士のみなさんの前であの竜騎士アルハイムさまに竜の王さまなんて呼び方をされた私は、気恥ずかしさで意味もなく右往左往する事しか出来なかった。
何とか王さまという呼び方だけはやめて欲しいとお願いしたのだけれど、するとアルハイムさまは王の代わりに姫と呼んで来たのだ。
もちろんそれでも十分に恥ずかしい。でも、結局なんだかんだでそんな呼び方に定着してしまって今に至るのだ。
アルハイムさまに直にお会い出来るのは嬉しかったけど、こうして王さまとかお姫さま扱いされるのはどうも苦手で、グリッジの戦い以来私は何だか複雑な心境だった。
「竜の姫。これまでのご活躍は聞き及んでおります。ここはどうか、一度ごゆっくり休暇を取られてはいかがでしょうか」
優しい声で、ゆっくりと私に語りかけてくれるアルハイムさま。
休暇、お休みか……。
私はすっと大きくと息を吸い込んで少し間を取った後、苦笑いを浮かべた。
「ありがとうございます、アルハイムさま。でも、なかなかそうも言っていられない状況なんです。お仕事がいっぱいあって……」
私は白花の騎士団の団長なのだ。戦闘だけでなく、様々な事務のお仕事や他の偉い人との会合など、お仕事は山ほどある。
「戦況が落ち着いているとはいえ、私だけお休みする訳にはいきません!」
私はむんっと両手を握り締めて胸の前に掲げると、アルハイムさまを見上げた。
それでなくても私は、ハインケルでの戦いの後、しばらく寝っぱなしだったのだ。またもや休むのは、他の頑張っているみんなに申し訳ない。
「な、言っただろう。セナは、そういう奴だってな」
アルハイムさまの後ろから、オレットさんが得意げな声を上げた。
さっと振り返ったアルハイムさまが、そのオレットさんをキッと睨み付けた。
「お前がいながら竜の姫に無理を強いるなど、落ち度だな、オレット」
私に対する声とは対象的に、ぞっとする様な冷ややかな声を放つアルハイムさま。
こちらに向けられた言葉ではないのに、思わず私はびくりと身をすくませてしまう。
アルハイムさまは、直ぐに再び私の方へと向き直った。
「これまであの男と一緒に旅をして来られたのでしたら、さぞ苦労された事でしょう。あれは女性の扱いなどわかっていない男です。昔は私も苦労致しました」
そう言うと、ふっと艶やかな笑みを浮かべるアルハイムさま。
さすがアルハイムさま。余裕を漂わせた大人の女の人の表情だ。
それはそうと、アルハイムさまとオレットさんは昔からの知り合いだったのか。
私は僅かに首を傾げる。
そういえば、初めてフェルトくんと会った時、ルールハウトの見学許可を取ってくれたのもオレットさんだった。その時も、何だかアルハイムさまを知っている様な口ぶりだった様な気がする。
「ふーん、こんな美人の騎士と随分深い仲だったのね、オレット」
レティシアさんが、オレットさんに微笑み掛けた。穏やかな調子なのにドキリとする鋭さを持ったその声が、やけに大きく響き渡った。
「いい事を教えてあげるわ、ウェリスタの魔女! このオレットさんはね、エーレスタの女子の間では、なかなかの人気があるのよ! 同期のサラも告白したって言っていたし!」
ふんっと何故か勝ち誇った様に宣言するアメル。
えっ。
サラ、オレットさんに告白したのか……!
すかさずマリアちゃんが、「ちょっと……」とアメルを止めに入る。
「ふーん」
アメルの言葉を聞いたレティシアさんが、冷ややかな声を上げた。
「ふむ、節操のない事だな。確かに私と共に過ごしていた頃からお前は……」
アルハイムさまが顎に手をやりながら昔の事を話し始めると、レティシアさんの態度がますます冷ややかになり始めた。
「いや、人気はつらいな。なぁ、セナ」
オレットさんが笑いながら私を見たが、レティシアさんやアメルたちもオレットさんに注目したままだった。
部屋の中が、しんっと静まり返った。
あれ。
あれれ……。
「えっと……」
私は小さく呟きながらキョロキョロと周囲を見回した。
な、なんだろう、この空気は……。
ふと目が合ったフェルトくんが、小さく頷き掛けてくる。そして、ひょいっと肩をすくめた。
どういう意味か分からなかったけど、とりあえず私はうんっと頷き返しておく事にした。
「あー、そうだな。取り敢えず、アメル。後で話があるから、顔を貸せ」
オレットさんがごほんっと咳払いをした。
「それで、だ、セナ。お前の休暇は北部方面軍司令部にも内諾は取ってある。戦況的には、休むなら今しかないと思うんだが、どうだ?」
表情を引き締めたオレットさんがそんな事を尋ねてくるが、もちろん答えは先程と同じだ。
私は小さなアーフィリルを頭に乗せたまま、首を横に振った。
今の私には、きちんと夜はベッドで眠らせてもらって、たまにお昼寝などさせてもらえれば、それで十分なのだ。
『休養は重要だぞ、セナよ』
頭の上のアーフィリルが前のめりになって、私のおでこを前足で叩いた。
私は手を上げてもぞっとアーフィリルを掴むと、もとの位置に戻す。
「オレットさんのお話というのは、お休みの件だったんですか?」
私はマリアちゃんを見てからオレットさんの方を向いて、小さく首を傾げた。先程マリアちゃんが言っていた件は、この事だったのだろうか。
「ああ、そうだったが……」
オレットさんは、さっと周囲のアメルたちやレティシアさんたちと視線を交わした。
「休暇を取らないなら、セナに1つ任務を頼みたい。重要な任務だ」
任務という言葉に、私は反射的に背筋を伸ばす。
オレットさんが机の上にさっと地図を広げた。
私は小走りに机に駆け寄り、その地図を覗き込んだ。
オレットさんが、鋭い目で私を見る。
「ここが今俺たちがいるレンハイムだ。ここから北に2日ほど行った場所に、小さな町がある。ダーナという町だそうだが、この付近に帝国軍が残っていないか確認するため、現在部隊が出ている」
私は地図を見つめながら、ふむふむと頷いた。
レンハイム付近の帝国軍は撤退したとはいえ、残存する敵勢力の確認は重要だ。
ダーナという町は、地図上の表示だと随分山間にあるみたいだ。もしかしたら、また竜晶石を狙う帝国軍がいるかもしれない。
でも、このダーナの町と合わせて表示されているユラユラとしたマークは何だろう。まるで湯気みたいな……。
「セナには、この部隊の支援と状況確認をお願いしたい。随伴部隊には、レティシア、フェルト、マリア、アメル他、サリアの隊から数人つける。良いか?」
「はい、了解です!」
私はオレットさんに向かって力を込めてコクリと頷いた。
現状レンハイムから大戦力を動かすのは良くない。レンハイムは今、対帝国軍の反撃に備えている最中なのだ。ならば、少数で対応しなければいけないという事だ。
レティシアさんも一緒に行くとなると、予想される敵兵力はなかなか大きいのかもしれない。
私はぐっと手を握り締め、力を込めた。
レンハイムだけでなく、このサン・ラブール東部地域全体の平定は今の私たちにとって急務なのだ。
「私、温泉って初めてなんだー」
「アメル、私たちが主役じゃないんだからね。あくまでも……」
アメルが呑気な声を上げ、それを注意したマリアちゃんがちらりと私を見た。
「私たちだってずっと戦い続けて来たのよ。まぁ、セナちゃんのついでに楽しませて貰えばいいじゃない」
レティシアさんが私やマリアちゃんたちを見てにこりと微笑んだ。
その声にも、やはり緊張感はなかった。
……むう。
戦闘を楽しむとか、レティシアさんはこんなに好戦的だっただろうか。もともと魔素研究一筋で、他の事にはあまり関心を示さない人だったけれど。
「では、セナさま。今回の休暇の間に、私はエーレスタ領に向けて発ちます。グリッジの民の事は、お任せください」
それまで沈黙していたレイランドさんが、すっと前に出て来た。
「あ、よろしくお願いします!」
私はばっと机から離れて背筋を伸ばすと、レイランドさんに向かって頷いた。
レイランドさんには、故郷の地から退避するグリッジの民の皆さんの事をお願いしてあった。
ハインケルの戦いの後、そのまま東進する事になった私たち白花の騎士団は、グリッジの人たちも伴っていた。
いくらサン・ラブール東部地域が奪還出来ても、残念ながらまだ完全に安全になった訳ではない。敵の残党が潜んでいる可能性もあったし、再び帝国軍が押し寄せて来る事も考えられた。そのため、彼らをもとの土地に返してあげる事が出来なかったのだ。
それに、王子のコンラートさまがいるとはいえ、グリッジ王国は事実上壊滅している。彼らの故郷を統治する力を持った者が、現状はいない。
そこでグリッジの人たちには、レイランドさんの発案により、エーレスタにある私の竜騎士としての領地に入植してもらう事を提案してみたのだ。
もちろん希望者だけであり、強制はしていない。このレンハイムに残る人には、できる限り便宜を図るようにもしている。
その結果、少なくない数の人たちがエーレスタ行きを承諾してくれた。
オーズさんや、マリアちゃんの村の人たちは元気かな。
グリッジの人たちが、あの場所で上手くやって行ければ良いのだけれど……。
ん。
……あれ。
しかしレイランドさん、今休暇って……。
「よし、ではセナの事は頼んだぞ、レティシア。取り敢えずセナを温泉に投げ込んで来い。こちらの事は、俺とアルハイムに任せておけ」
オレットさんがレティシアを見た。
投げ込む!
温泉!
「了解よ。でも、竜騎士さんと一緒にね。ふーん。私がいない間に、旧交を温めるんだ」
そこで再び、レティシアさんが冷ややかな声を上げた。
オレットさんが乾いた笑い声をあげる。少し慌てた様にいろいろ言い訳をしている様だが、レティシアさんは冷たい表情のままだった。
それを、アメルとマリアちゃんが興味津々といった様子で窺っていた。
休暇とか任務とか投げ込みとか温泉とか、何だか釈然としないものを感じながら、私は眉をひそめて首を傾げた。
「……何だか色々と謀られた気がするけど、ん、でも任務である以上、とりあえず今は目の前の目標に集中しなければね!」
私は頭の上のアーフィリルをぽんぽんと撫でてから、むんっと力を込めた。
「こちらの事はお任せ下さい、姫」
すぐ隣から、不意に声がする。
びくりとしてそちらを見上げると、アルハイムさまがにこにこと柔らか笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
やっぱり何だか居心地の悪さを感じて、私はじりじり後退りながら小さく頷いた。