第33幕
「それでは、行ってきます!」
ひんやりと冷たい空気が漂う朝靄の中、うんしょと軍馬に跨った私は、馬上からグレイさんやカウフマン参謀たちに向かって挨拶した。
「お気をつけて」
「本隊の進発については、逐次伝令を出します。お早めの帰隊をお願い致します」
いつも通りのグレイさんと、少し渋い顔をしたカウフマン参謀が私を見上げる。
2人に向かってもう一度手を振った私は、隣のオレットさんと頷き合った。
「全隊、出発!」
朝靄に沈む特務遊撃隊の拠点代わりのお屋敷に、オレットさんの勇ましい掛け声が響き渡る。
私は軽くお腹を蹴って馬を進めた。他のみんなも、ゆっくりと動き始める。
今、ノルトハーフェンを発とうとしているのは、私とオレットさん以下23名の小規模部隊だった。
目的地はラドリア王国。
ラドリアの国王陛下から直々の依頼を受けて、彼の地に残存する帝国軍の制圧に向かうのだ。
目的地が山間の狭隘地という事と敵に黒の竜の鎧がいるかもしれないという事を踏まえて、今回は私を含めた少人数の隊で行動する事になっていた。
エーレスタからは、私とオレットさん、それにフェルトくん以下選抜された精鋭メンバー。ウェリスタからも、レティシアさんが選んだ少数精鋭部隊が出て来る筈だ。
ちなみに私の隊には、いつの間にかアメルとマリアちゃんも加わっている。
マリアちゃんはともかく戦闘が不得手のアメルには、グレイさん率いるエーレスタ本隊に残ってもらうつもりだったのだけれど、いつの間にかちゃっかりメンバーに加わっていたのだ。
……ダメだって言っても、聞き入れてくれないし。
部隊長である私が直々に出向く事については、カウフマンさんやレイランドさんが難色を示したが、敵勢力の中にあの鎧がいる可能性がある以上、こちらも相応の陣容で臨む必要があった。
……ましてや、黒鎧がアンリエッタの可能性がある以上は、私が待機している訳にはいかないのだ。
私たちはこの後、ウェリスタ隊、そして帰国するラドリア王国軍部隊と合流し、オルギスラ帝国軍が潜むとされているラドーナ山地の奥に向かう事になっていた。
私はまだ薄暗く、静かな朝のエーレスタの陣地を見つめながら、粛々と馬を進めた。
ふっふっと吐く私の息も馬たちの息も、既に真っ白だ。
直に風の当たる顔はキンキンに冷えていて、鼻先とか耳の先が少し痛い。
ノルトハーフェンがエーレスタよりも北に位置しているせいもあるだろうけど、朝夕はもうすっかり冬の様子だった。
季節はいつの間にか、秋の終わり、そして冬の入り口へと差し掛かろうとしているのだ。
こうなると、私の頭の上に乗っているアーフィリルの温かさが心地よかった。何だかポカポカと生暖かくて、ほっとする。
アーフィリルをコートの懐にいれておけば、もっと温かくなるかもしれない。
今度試してみよう。
私たち一行は、静かにエーレスタの陣地を抜ける。
最初のグレイさんたち以外、特に見送りはない。
私が出撃する事については、極秘という訳ではなかったけれど、なるべく伏せる事になっていた。
私は今、良くも悪くもノルトハーフェンに集まった色々な人たちから注目されてしまっている。
その私がわざわざ残存帝国軍討伐に出る事が広まれば、不要な憶測や混乱を招くかもしれない。一般の人たちを不安にさせてしまうかもしれない。
竜騎士が出向かなくてはならないほどの敵が、まだ残っているのか、と。
そこで今回の私の出陣は、エーレスタ、ウェリスタ上層部とラドリア国王陛下など一部が把握しているだけとなっていた。
私も出撃に際し、一応目立たない様に髪型を変えてみた。
いつもなら単純にポニーテールにしているところだけど、今日はアメルから借りたリボンで2つ結びにしてみた。
白のコートの上から羽織るマントも、いつもなら竜と花があしらわれたアーフィリル隊の白いものだったけど、今日は真っ黒の無地を選んでみた。
もちろん髪型とマントを変えただけなので、近くで見れば一瞬でわかってしまうかもしれないけど、遠目の印象は全然違う筈だ。
うむ、ばっちりだ。
合流地点に向かう私たちの周囲には、砂利を踏みしめる馬の足音と早朝の小鳥のさえずり以外何も聞こえなかった。
私は思わず息をひそめ、手綱をぎゅっと握り締めて前方を見つめる。
ノルトハーフェンの朝は曇りがちなのに加えて、濃い靄が掛かってしまう事が多い。朝日が射して完全に明るくなるには、まだもう少し時間が必要だった。
森の脇の小道をしばらく進むと、ノルトハーフェンから伸びる主要街道にぶつかる。
ぼんやりと周囲に満ちる朝靄の向こう、その地点に部隊が集結しているのが見えて来た。
複数の騎士に囲まれているのは、髭を生やしたおじさん騎士だった。
周囲の騎士と特に違う格好をしている訳ではなかったけれど、既に顔を知っている私には、その人がラドリア王国の国王陛下なのだという事がわかる。
「やあ、おはようございます、エーレスタの皆さま」
こちらの姿を確認すると、国王陛下が笑みを浮かべて挨拶してくださった。
「おはようございます!」
挨拶を返しながら、私たちは馬を止めて下馬しようとする。
気の弱そうなただのおじさんに見えても、相手は一国の王さまなのだ。相応の礼は尽くさなければならない。
しかし国王陛下は、馬を降りようとする私たちを慌てて引き止めた。
「ああ、どうかお気になさらぬ様に! 今回皆さまの力をお借りするのは、我が国なのです。礼を尽くすのはこちらの方だ」
はははっと困った様に笑う国王陛下。
本当に王様といった感じのしない人だ。
私は、オレットさんと顔を見合わせた。
「それでは馬上から失礼致します、陛下」
表情を引き締めたオレットさんが、手綱を握ったまま頭を下げた。
「私は、エーレスタ騎士公国特務遊撃隊所属、オレット・ウォルナード騎士長と申します。よろしくお願い致します」
低い声で挨拶するオレットさんには、いつものへらへらとした様子はなかった。
相変わらず無精髭は生やしていたけれど、こういう顔をしていれば、オレットさんも格好いい歴戦の騎士さまに見えるのに……。
「こちらこそ、音に聞くエーレスタ騎士団の方々には、期待させていただきます」
腰低く笑う国王陛下。
「ふむ。しかし、まだ竜騎士さまの姿が見えない様ですが……」
む。
国王陛下が、私たち一行を見回す。
私は、思わず姿勢を正す。
しかし陛下の視線は、すっと私を通過して行った。
……ラドリアの国王陛下とは、大人状態でしかお会いした事がない。どうやら、気が付いてはもらえなかったみたいだ。
もしかしたら髪型変更の変装も、思いの外効果を発揮しているのかもしれない。
ニヤニヤしながらこちらを見るオレットさんと目が合った。
うむむ……。
あれは悪いことを考えている時の顔だ。
「ふむ。なるほど! 竜騎士さまは後から来られるのですね! 空を飛ぶ事が出来れば、我が国などノルトハーフェンの目と鼻の先ですからね!」
オレットさんたちが沈黙したのをまずいと思ったのか、国王陛下が早口でそうまくし立てた。
「はっ。その様なところです」
オレットさんがふっと笑って答える。
う?
このタイミングで紹介してもらえると思っていた私は、疑問符を浮かべて首を傾げた。
ラドリア国王陛下は竜騎士アーフィリルの同道を承知されているのだ。いまさら私の事を隠す必要はない筈なのだけど……。
ほっと息を吐いた国王陛下が、不意に私を見た。
思わず私は、びくりと体を強張らせた。
頼りなくても王様だ。真っ直ぐに見られれば、やはり緊張してしまう。
やっぱり気が付いてもらえた……のかな?
「ところでそこの子供さんは、どういった方なのですか?」
……子供。
私はすっと自分の表情が消えてしまうのがわかった。
「はは、彼女は我々の隊のマスコットの様なものです。お気になさらず」
……マスコット。
オレットさんが陽気に笑う。
国王陛下も重要事項だと思わなかったのだろう。それ以上私の事について尋ねて来なかった。
しかしマスコットとは……。
きっと、アーフィリルの事に違いない。
オレットさんが私を一瞥する。
私はむーんとオレットさんを睨み返した。
しかし。
直ぐに私は、眉をひそめて視線を伏せた。
……以前なら、オレットさんの冗談にも素直に反応出来たと思う。でも今は、オレットさんが今まで経験して来た事やその背負っているものを少しだけ知って、飄々としたオレットさんの態度をそのまま受け入れる事が出来なくなってしまったのだ。
私は軽く息を吐いて、小さく首を振った。
……私が落ち込んでいてもしょうがないのだけど。
それにオレットさんでも、他国の国王陛下に向かって冗談まがいの適当な事を言うなんて、許される事ではない。
竜騎士の私は、きちんとこうしてラドリア国王陛下の部隊に加わっている。誤解を生む様な言動は、一言注意しなければ。
そう思って私が馬を進めたその時。
街道の脇に待機していたラドリア王国軍が、にわかにざわつき始めた。
「どうした!」
「き、機械の馬か近付いて来ます!」
「あ、ありゃ帝国軍だ!」
「げ、迎撃しなければ! 戦闘隊形を……!」
ガチャガチャと鎧を鳴らして混乱状態に陥るラドリア軍。
確かに眼を凝らすと、ノルトハーフェンの方角から2、30人の騎兵の集団が近付いて来るのが見えた。そしてその先頭には、真っ赤な馬型の機獣の姿があった。
あれは敵じゃない。
レティシアさんだ!
「国王陛下! あれはウェリスタからの部隊です。でも、レティシアさんが来るなんて聞いてないですけど……」
思わず声を上げた私を、国王陛下が驚いた様に見た。
「レティシア・フォン・エーレルト閣下か! なんと、ウェリスタの宮廷魔術士殿が直々に……!」
ラドリア国王陛下が、目を見開いて驚いている。
今回の作戦の話を持ち掛けて来たのはもともとレティシアさんだったけど、出陣に際してはレティシアさん自身はノルトハーフェンに残るのだと聞いていた。
ウェリスタの指揮官として、色々とお仕事があるみたいなのだ。
しかし赤の魔術士の装備を身にまとったレティシアさんは、私たちと同行するのが当然だという風に、堂々と私の前を通り過ぎた。
すれ違い様に、「素敵な髪型ね、セナちゃん」と囁き、私にウインクするレティシアさん。
赤の機獣に横座りしたレティシアさんの前に、素早く下馬したラドリア国王陛下と側近の騎士さまたちが並んだ。
次々に今回の作戦について挨拶と感謝を述べるラドリア王国の人たち。
レティシアさんは優雅に微笑んで、力を合わせて帝国軍を倒しましょうと告げている。
何だかまるで、お姫さまとその騎士たちみたいだ。やっぱりどう見ても、レティシアさんの方が立場が上に見えてしまう。
「よし、皆! 我が国に帰るぞ! 凱旋だ! 気合いを入れろ!」
レティシアさんの登場ですっかり興奮してしまった様子のラドリア国王陛下が、大声を張り上げた。
先ほどまでレティシアさんの機獣に混乱していたラドリア軍も、国王陛下に合わせて気合いの声を上げる。
私は、こんなにガヤガヤしていては、他国の部隊に不審に思われるのではと思ってしまった。
「全軍、祖国へ向けて出発!」
国王陛下の号令の下、部隊が動き始める。
ラドリア王国の面々に挨拶を終えたレティシアさんが、私たちの方へとやって来た。
「レティシアさん。今回はノルトハーフェンに残るんじゃなかったんですか?」
私もゆっくりとした歩調で馬を進めながら、隣に並んだ機獣上のレティシアさんを見た。
レティシアさんがニヤリと笑う。
それはラドリアの国王陛下の前で見せていた様な上品な笑顔ではなく、ギラギラと目を輝かせ欲望を剥き出しにした笑みだった。
「ふふんっ! 帝国軍討伐にかこつけて、祖竜の伝説が残る地を思う存分調査出来るのよ。これを逃してなるものですか!」
ぐふふふっと不気味な声で笑うレティシアさん。
しかし不意にレティシアさんは笑みを消すと、私を真っ直ぐに見た。
「……それにね。もしかしたら帝国軍の秘密を押さえられるかもしれないわよ。上手くいけば、だけどね」
私は、レティシアさんの冷ややかな声にドキリとしてしまう。
……帝国軍の秘密。
オルギスラ帝国軍の行動については、まだまだ謎が多い。何かしらの情報が得られるのであれば、それはもちろん帝国との今後の戦いに役立つと思う。
そして、目撃されたという黒い鎧。
私は、斜め前方を行くオレットさんの背中を見た。
……それがもし、カルザ王国の王都フォルクスから逃亡したアンリエッタであったなら。
私は、今度こそアンリエッタを捕らえなければならないと思う。
オレットさんの為にも!
事情を聞いてしまった今、私は出来る限りオレットさんに協力しようと思っていた。
サン・ラブールとオルギスラ帝国。エーレスタやウェリスタ王国など様々な国の思惑。
そして、オレットさんとアンリエッタ……。
色々な目的や思惑が入り混じって大変だけど、でもそれでも頑張って、私たちは1つ1つの目標をクリアにしていかなくてはいけないのだと思う。
私はぐっと手綱を握る手に力を込めて、部隊が進む街道の先、薄い朝靄の中に微かに見えるラドーナ山地を見つめた。
ノルトハーフェン解放戦勝会が行われたあの夜。
大人状態の私は、オレットさんに対して何の脈絡もなく、単刀直入にアンリエッタとの関係を尋ねてしまった。
元の状態に戻ってから思い返してみると、なんとデリカシーに欠けた行動だったのかと思ってしまう。大人状態の私は、少し大胆になってしまうみたいなのだ。
しかし私のその問いに、オレットさんは案外素直に答えてくれた。
オレットさんは、もともとエーレスタやサン・ラブール条約同盟国の人間ではないそうだ。
ずっと東の小さな町で、領主の貴族に仕える騎士の家に生まれたのだと教えてくれた。
オレットさんが生まれたのは、ちょうど大陸中央戦争の末期の頃、大陸の東のとある国だった。
もちろん年齢的にオレットさんが大陸中央戦争に参加する事はなかったけれど、当時大陸の東側の小王国群は長く激しい戦いの為に悲惨な状況で、幼いオレットさんも主一家と共に領地を追われる事になってしまった様だ。
その後オレットさんやその主が身を寄せたのが、ラーナストラという町だった。
ラーナストラは、オレットさんの主一家の親戚筋が治める町だった。
その町で新たに主の家に生まれたのが、アンリエッタと名付けられた少女だった。
アンリエッタは、ラーナストラ領主のクローチェ家の養女として育てられる事になり、オレットさんも将来はアンリエッタに仕える事になっていたとう。
大陸中央戦争終結時の動乱を何とか乗り越えたオレットさんたちだったけれど、平穏な時間は長くは続かなかったそうだ。
ある時。ラーナストラの町が、不意に正体不明の軍隊に襲われてしまったのだ。
ちょうど時期的には、大陸中央戦争の戦勝国となったオルギスラ帝国が、旧ガラード神聖王国の領地の割譲を求めて強引な侵攻や占領を始めた頃だった。
私もハロルドおじいちゃんに習った事がある。
オルギスラ帝国の侵攻や旧ガラード神聖王国の残党の暗躍など、サン・ラブール条約同盟国やオルギスラ帝国という大国以外の地では、大陸中央戦争の後の混乱が長く続く事となった。
オレットさんやラーナストラのクローチェ家も、その混沌に巻き込まれてしまったのだ。
まだ幼かったオレットさんには、何故そんな事態になってしまったのか、わからなかったという。
焼け落ちる町や領主のお屋敷。悲鳴や泣き声が響く中、オレットさんの目の前で主一家や同僚の騎士たちが惨殺されていく。
オレットさんも、剣を取って戦ったそうだ。
涙を流しながら声を張り上げ、必死に剣を振り回したそうだ。
しかしまだ子供だったオレットさんには、鎧に身を固めて押し寄せてくる敵の軍隊に抗うだけの力はなかった。
その戦火の中で、オレットさんは主一家や自身の家族、仲間たちとも離れ離れになってしまった。
オレットさんは焼け落ちる町の片隅で、同じ主に仕える騎士の1人に助けられ、何とかラーナストラを脱出したそうだ。
オレットさんとその仲間の騎士さんは、敵軍が去った後ラーナストラに戻り、主一家や仲間たちを探し回った。
しかし必死に調べ回った結果得られたのは、クローチェ家の関係者は皆殺しにされたという事。そして、その子供たちが、襲撃者に連れ去られたのではないかという不確かな情報だけだった。
それからオレットさんは、その情報を信じて主一家の生き残りを探す為に旅に出たのだという。
剣の腕を磨き、傭兵をしながら実戦経験を積み、世界各地を旅して回ったそうだ。
「それでまぁ、色々あって、エーレスタに仕官する事になったんだ」
ノルトハーフェン解放戦勝会の夜。オレットさんはいつもと同じ飄々とした態度でそんな話をしてくれた。
物怖じしない大人状態の私は、それを聞いてどうして昔の主一家、アンリエッタ・クローチェにそんなにこだわるのかと尋ねてしまった。
別に、オレットさんの忠義を否定したい訳ではなかった。
ただ、生きているかどうかもわからない主の娘を探すよりも、もっと別の生き方があったのではないかと思ってしまったのだ。
オレットさんなら、今とは違う別の道を選んでもきっとやっていけたのではないかと思えたのだ。
私の問いに、オレットさんはニヤリと笑った。
「俺にとってご当主たち、そしてみんなを受け入れてくれたクローチェ一家は、家族みたいなもんなんだ。それに、アンリエッタは生まれた時から知っている妹みたいなもんだった。バラバラになったその家族を探したいと思うのは、当然だろう?」
当たり前の事を聞くなといった風に、オレットさんはあっけらかんとそう答えた。
確かに、その通りだと思った。
私も小さい時、ガラード神聖王国軍の残党に町を襲われた事があったから、オレットさんの経験した苦しみの幾らかはわかるつもりだった。
でも私たちには、あの時竜騎士アルハイムさまの助けが来た。さらにはハロルドおじいちゃんを始め、お父さんやお母さんも、私に近しい人は幸い全員無事だった。
だから私は、純粋に騎士さまに憧れて、騎士さまを目指す事が出来たのだ。
……もしあの時、家族が失われていたなら。
そう思うだけで、今でも胸が締め付けられる。
あの時家族を失っていたら、私は今ここにはいなかったと思う。復讐に駆り立てられていたのか、悲しみに動けなくなっていたのかはわからないけれど……。
オレットさんもきっと、私の想像もつかない様な悲しみや苦しみを経験して来たに違いない。
そんな折。
不意に目の前に、アンリエッタ・クローチェという名前の人物が現れたのだ。
例えあんな全身鎧に覆われた姿だったとしても、ただの同姓同名という可能性が高かったとしても、長年アンリエッタを探し続けて来たオレットさんにすれば、期待するなというのが無理な話だ。
もしあの竜の鎧がオレットさんの探すアンリエッタだとして、どうしてオルギスラ帝国軍にいるのか、そしてあの力は何なのかはオレットさんにもわからないそうだ。
でも。
オレットさんからアンリエッタに関する情報は得られなかったけど、その代わり私は、新たな決意を抱く事が出来た。
私たちが今向かっているラドーナ山地で待ち受けているのがアンリエッタなら、いや、例え今回が空振りだったとしても、私はあの機竜士アンリエッタがオレットさんの探す人物なのかどうかを確かめるのに、協力しようと決めたのだ。
そう、決めた。
オレットさんにはいつもお世話になっているし。
それに、離れ離れになってしまった家族や悲惨な目にあってしまった人々を助けるのも、立派な騎士さまの務めなのだから!
ラドリア王国軍と一緒にラドーナ山地を目指しながら、私はそんな新たな決意を胸に秘めていた。
前を行くオレットさんの背中をじっと見つめ、気合を入れ直した私は、はふっと息を吐き、周囲の景色へと視線を移した。
私たちの前後には、ゆったりとしたペースで行軍するラドリア王国軍の隊列が続いていた。
ラドリアに続く街道は、ノルトハーフェンを発って1日で、既に登り坂ばかりになっていた。
周囲の風景も、低地とは随分と様子が変わって来た。
葉を落とした枯れ木の森は、いつの間にかツンツン枝の針葉樹ばかりの森になっていた。枯草に覆われていた草原は、ごつごつとした岩が目立つようになり、心なしか気温も少し低くなっている様な気がした。
空気も、ノルトハーフェン付近よりも何だか澄んでいるみたいだ。
街道は、深い谷川に沿って山を登って行く。
やがて針葉樹の山々の向こうに、山頂部に雪化粧を頂いた一際高い山の連なりが見えて来た。
「綺麗……」
私は手綱を握ったままぽかんと口を開けて、目の前に広がる雄大な光景に目を奪われていた。
『ふむ。豊かな土地だな。心地よい魔素に満ちている』
同じく頭の上で目の前のラドーナ山地を見上げていたアーフィリルが、機嫌の良さそうな声を上げた。
「何だかアーフィリルのお家があった山と雰囲気が似てるね」
何となくだが、私にはそんな風に感じられた。空気というか雰囲気というか、目の前に広がる山々の絶景は、あの竜山連峰を彷彿とさせる。
アーフィリルが私の頭の上から身を乗り出し、ふんふんと空気を嗅ぐ様に鼻を動かした。私はアーフィリルが落ちない様に慌てて手を上げて、その体を支えてあげる。
『……ここからは同胞の存在を感じ取る事は出来ぬ。良い魔素だが、管理制御されている様な印象はない。もしかしたら、現在はこの地を管理する竜は存在しないのかもしれない』
竜、もういないのか……。
では、帝国軍の目標は祖竜ではないという事だろうか。
「全隊、小休止! その場で止まれ!」
私がむむんと考え込んでいると、ラドリア国王陛下のいる隊列の前方から、休憩を告げる伝令が飛んで来た。
私たちの周囲でも、騎士や兵の皆さんが足を止める。
特に何かがある様な場所でもなかったけれど、景色の良い所で休憩をという国王陛下の配慮だったのだろう。
私やオレットさんたちも、一旦下馬して休憩する事にした。
私は馬を降りると、谷川へ下る斜面のギリギリのところまで駆け寄る。そして、針葉樹の向こう側に広がる冬山の雄大な景色を見回した。
本当に綺麗な場所だなと思う。
この先に待ち受ける帝国軍との戦いがなければ、純粋にこの風景を楽しむ事が出来たのに……。
私は頭の上に手を伸ばしてアーフィリルを下ろすと、ぎゅむっと胸に抱き締めた。
アーフィリルも、興味深げにキョロキョロと周囲を見回していた。
「おい、お嬢ちゃん。あんまり道の端に行くと危ねーぞ」
近くにいたラドリア兵のおじさんが、声を掛けてくれる。
「あ、はい。ありがとうございます」
私はこくりと頷いて、アーフィリルを抱き締めたまま2歩後退った。
「ははは。お嬢ちゃん、まだ小さいのに偉いな。軍隊のお手伝いか。立派な身なりだから貴族さまか」
粗末な革鎧を着込み、使い込んだ感のある槍を担いだおじさん兵士は、顔をくしゃりとして笑った。
お手伝い……。
まぁ、私が比較的幼く見られてしまうのはよくある事なので、もう慣れっこだけど。
私はアーフィリルの頭に顎を埋めて、むうっと唸った。
「はははっ、もしかしたら立派な騎士さまなのかな。偉いなー」
おじさん兵士はさらに豪快に笑う。
ぬぬぬ……。
「ほれ、頑張ってるお嬢ちゃんに良いものをあげよう」
そう言うとおじさんは、腰の袋から乾燥してヘニョヘニョになった橙色の塊を取り出した。
「ラドリア名物の干しプラーモだ。甘いぞ」
満面の笑みを浮かべるおじさん。
うーん、少し見た目は悪いけれど……。
アーフィリルを頭上に戻すと、私はその食べ物を受け取った。さぁさぁと勧めて来る兵士のおじさんに負けて思い切ってパクリと食べてみると、意外と美味しかった。
おお……。
「セナ」
もぐもぐと干しプラーモを食べていると、背後から私の名前を呼ぶ声がした。振り返ると、オレットさんとレティシアさんが並んでこちらを見ていた。
私はおじさん兵士にお礼を言って頭を下げると、残っていた干しプラーモを食べてしまう。そして、ぱたぱたとオレットさんたちの元に駆け戻った。
「セナ、あまりうろうろするなよ。それと知らない人には付いていくなよ」
オレットさんがニヤリと悪戯っぽく微笑むと、腰に手を当てて私を見下ろした。
またそんな子供扱いを……。
私はむむむっと眉をひそめてオレットさんを見上げた。しかし、すぐにしゅんと肩を落として目を逸らした。
オレットさんの態度はいつも通り飄々としたものだったけれど、私はそれ以上怒れなかった。
そのいつも通りのオレットさんの態度が、何だか無理をしている様で痛々しく思えてしまったのだ。あのオレットさんの身の上を聞いた今では……。
私が黙っていると、突然オレットさんが私の頭をがしっと両手で掴んだ。そしてアーフィリルごとグラグラと揺らし始める。
「わわわわっ!」
『むむむむ……』
散々揺さぶられた後、私は何とかオレットさんの拘束から抜け出した。その勢いで、思わずふらふらとよろめいてしまった。
「オレットさん……!」
「セナ、お前が気にする事じゃないだろ?」
さすがに抗議しようとした私に、オレットさんはふっと微笑み掛けた。
それは、いつもの意地悪な笑い顔でも軽薄そうな微笑みでもなかった。
「反省は必要だ。しかし前へ進む足枷になるなら、後悔はいらない。俺はそう思って生きて来た」
私は、アーフィリルを頭に乗せたままじっとオレットさんを見つめる。
「戦いの場に身を置いているならば、セナも後悔を抱く事は多いだろう。だが、セナには前へ進んで欲しいと思っているんだ。お前がいたからこそ、俺はアンリエッタに再会するチャンスを得られたんだから」
オレットさんは、私を見つめながら小さく頷いた。
優しい笑みを浮かべて。
「セナには、俺やフェルトや誰かの道を切り開く強さがあると思う。助けてもらっておいて今さらだが、俺や仲間たちもセナの背中を押してやるつもりだ。だから、そんな悲しい顔はするな。ましてや、俺の事なんかでな」
穏やかなオレットさんの言葉に、私はぎゅむっと唇を噛み締めた。
……そう言われても、やっぱり私なんかよりもオレットさんの方が強いと思う。
いくら昔の事だったとしても、大切な人たちを、家族を理不尽に失った事よりも前に目を向けるなんて、私には出来そうにない。ましてやその人が今は敵側にいるかもしれない、他人を傷付ける非道を行っているかもしれないと思うと、私ならばオレットさんみたいに落ち着いてはいられないだろう。
苦しくて悲しくて、ただ立ち止まって泣いている事しか出来ないかもしれない。
だから、ふざけた態度は取っていても、フェルトくんや私や部隊のみんなを気に掛けてくれているオレットさんは、本当に凄いと思う。
私がむうっと目を伏せていると、オレットさんはふっと息を吐いてガリガリと頭を掻いた。
「ああ、要するにな。子供はケラケラ笑ってろって事だ。そら、甘いものをやろう。ラドリアの騎士からもらったんだ」
オレットさんはそう言うと、腰の袋から紙包みを取り出した。
あ、干しプラーモだ。
やっぱり子供扱いされるのは心外だったけど……。
私は上目遣いでじっとオレットさんを見つめた。
オレットさんも目を細めて私を見下ろす。
しばらくじっと視線を交わした後。
私はむんずと干しプラーモを2つ受け取ると、頭上のアーフィリルに1つあげる。そしてふうっと深く長く息を吐いてから、私はもぐもぐともう1つの干しプラーモを食べた。
……甘い。
「おっ、抵抗なく行ったな。見た目は悪いんだがな、これ。やはり強いな、セナは」
はははっと陽気に笑って、ぽんぽんと私の肩を叩くオレットさん。
「やっぱり人間は面倒臭いわね。感情なんてものがあるからかしら」
胸の下で腕組みをしながら私とオレットさんのやり取りを静かに見ていたレティシアさんが、そこでぽつりと呟いた。
「その感情があるから、人間さまは発展して来たんだろ?」
オレットさんが横目でレティシアさんを見る。
「まぁ、その通りよね。種々の感情と欲望は、不可分にして人間を動かす重要なファクターだわ。私自身も然り、ね。それで、そんな私にセナちゃんとアーフィリルちゃんから教えて欲しいのだけれど」
台詞の最後の方はいつもの怪しい猫撫で声になったレティシアさんが、赤のローブをひるがえしてずいっと歩み寄って来ると、膝を折って私の顔を覗き込んだ。
……む、何だろう。
「アーフィリルちゃんならわかると思うのだけど、あのラドーナの山々に祖竜の気配はあるのかしら?」
ニコリと微笑むレティシアさん。
ふわりと甘くて良い匂いが漂って来る。
『わからぬな。先程もセナに告げた通り、少なくともここからは感じられない』
アーフィリルの台詞に合わせて、私はふるふると首を振った。2つしばりにした髪がひらひらと揺れる。
「わからないみたいです。でも、いないかもしれないってアーフィリルは言ってたけど……」
私の答えを聞いて身を起こしたレティシアさんが、ラドーナ山地の雪を頂いた山々を見つめた。
「……やはりいない、か」
ぽつりとそう呟いたレティシアさんの目が、赤の尖り帽子の下でギラリと輝いた様な気がした。
「前方警戒!」
先方を務めていたレティシアさんの部下であるウェリスタの騎士さんが、鋭い声を上げた。
ウェリスタの部隊が一瞬にして、レティシアさんを中心に戦闘隊形をとる。
見事な動きだ。
オレットさんやフェルトくんたちエーレスタ部隊も抜剣して、山道の左右に対する防御陣を展開した。
こちらだって練度や実戦経験では負けていない。
「ひっ、敵?」
「ど、どこだぁ?」
「に、逃げないと!」
ラドリアの国王陛下から道案内役にと貸し与えられたラドリアの騎士や兵士さんが、狼狽えながらバラバラに武器を構えた。
「ラドリア隊は後方へ!」
オレットさんが叫ぶ。
その瞬間、響き渡る発砲音。
同時に鋭い警告が飛ぶ。
「発砲煙確認!」
「牽制よ。この距離では当たらないわ! 前衛、障壁防御!」
レティシアさんが指揮杖代わりに機械仕掛けの杖を振り上げた。
私たちの周囲の土や草木が爆ぜる。
歩兵銃の射撃だ。
オルギスラ帝国軍の襲撃だ!
「エーレスタ隊、突撃する! フェルトは左から回り込め!」
オレットさんが剣を片手に叫ぶ。即座に5騎引き連れたフェルトくんが、勢い良く飛び出して行った。
手綱を打つ瞬間、フェルトくんは私を見て小さく頷くのが見えた。
うむ、どうやらやる気まんまんみたいだ。
エーレスタ隊の士気は高い。
「セナはまだ待機だ。竜の鎧がどこから出て来るかわからないからな」
オレットさんが鋭い目で私を見た。
私はアーフィリルを胸に抱いたまま、力を込めてこくりと頷いた。
まだ魔素撹乱幕は展開されていない。これならば、オレットさんやフェルトくんが遅れを取る事はないだろう。
私の周囲にアメルやマリアちゃんなど少数を残し、オレットさんたちも突撃する。
エーレスタ隊のみんなは狭い山道を器用に馬を操って進むと、山頂へ向かって緩やかに登っている左手の斜面を駆け登って行った。
標高が随分と上がって来た為か、枯れ葉が積もる周囲の地面には、雪が積もっていた。
草木も疎らになって来た針葉樹林の林の向こうで、さらなる発砲煙が吹き上がるのが見えた。
雪景色となった山間に、盛大に銃声が反響する。
こちらから直接姿は見えなかったけれど、私たちを狙撃して来た帝国軍部隊とフェルトくんたちが激突したみたいだ。銃声に加えて、喊声や剣戟の音など激しい戦闘音が聞こえて来た。
目的地である竜が住まうという聖域を目前にして、私たちはとうとうオルギスラ帝国軍と遭遇した。
ノルトハーフェンを発って4日目。ラドリア王国の王都で一旦国王陛下と別れた私たちが、改めて帝国軍が目撃されたという場所を目指してラドーナ山地に分け入ってから2日目の事だった。
ラドリアの人々によって竜が住まう地だと神聖視されているのは、ラドーナ山地の奥にある世界樹と呼ばれる大木の周辺地域らしい。
普段なら竜が守る聖域として、一般の者が近寄る事はない。
しかしたまたま聖域近くで家畜の放牧をしていたが人が聖域に出入りする集団を目撃し、その通報を受けたラドリア王国軍が確認に向かったところ、帝国軍に襲われてしまったのだ。
帝国軍はそれほどの数ではなかった様だが、ラドリア王国軍は壊滅。
ラドリア王国の人たちはノルトハーフェンに向かった国王陛下に緊急の連絡を行うのと同時に、聖域の世界樹周辺に監視の兵を配置し、私たちの到着を待っていたそうだ。
幸い地の利はラドリア側にある。
帝国軍に見つかる事なく偵察していた兵の報告によると、ラドリア軍との激突の後も帝国軍は世界樹周辺に留まり、何かの作業を行っているらしい。そしてその部隊は、今に至るも全く撤退する様子はないそうだ。
……こんな所で何を行っているのか。
それを突き止めれば、帝国軍に関する重要な情報を得られるかもしれない。
しかしラドリア軍の部隊を壊滅させる程の戦力と、黒の竜の鎧の存在が確認されている以上、私たちも慎重に動かざるをえない。
「右、別働隊確認!」
「総員抜剣! 迎撃する!」
銃部隊がいるのとは反対の斜面から、黒い鎧の一団が騎兵突撃を仕掛けて来る。
あの軍装は、やはり間違いなくオルギスラ帝国軍だ。
銃撃は陽動で、こちらが本命という訳だ。
レティシアさんの周囲に数騎を残し、今度はウェリスタ軍が突撃を仕掛けた。
「まったく、面倒なんだから」
ぼそりと呟いたレティシアさんが、おもむろに機械の杖を帝国軍騎兵隊に向けた。
「大地を割く鋭利なるもの、結びて刺し穿て! 氷牙!」
山間の狭い道に、レティシアさんの凛とした声が響き渡る。
その瞬間、帝国軍騎馬の足元から鋭い氷の柱が飛び出した。
太い氷柱に刺し貫かれ、転倒する帝国騎兵。味方の転倒に巻き込まれ、さらに落馬する帝国騎士たち。
悲鳴や絶叫、馬の嘶きが激しく響き渡る。
そこへ、気合の雄たけびを上げたウェリスタ軍が突っ込んだ。
金属と金属がぶつかる激しい音が響き渡る。
これで大勢は決したのかな……。
私がアーフィリルをぎゅっと抱き締めて周囲をキョロキョロと見渡した瞬間。
今度は山道の正面から、黒い巨大な塊が突進して来るのが見えた。
「機獣!」
私は、はっと息を呑む。
坂道の正面から巨大な金属の獣が突進して来る。そしてその周囲には、さらに10名程度の帝国騎士や兵士が随伴していた。
魔素撹乱幕は、やはり展開されていないみたいだけど……。
よし、今度こそ私の出番だ!
私がむんっとアーフィリルを掲げようとした瞬間。
「うおおおおっ!」
力強い気合いの声が響き渡る。
同時に、左の斜面からさっと人影が飛び出して来る。
翻るアーフィリル隊の白いマント。
その手に握られた剣の刃が、青い光を放っていた。
「フェルトくん!」
斜面を蹴って大きく跳躍したのは、フェルトくんだった。
フェルトくんは、真上から機獣に襲い掛かった。
うっすらとフェルトくんの体そのものが輝いているのは、戦技スキルで跳躍力を高めているからだろう。
「おおおおっ、行っけっぇぇ!」
フェルトくんが魔刃剣を機獣に突き立てる。
まるで悶え苦しむ様に、背中のフェルトくんを振り落とそうとする様に機獣が暴れ始めた。
金属が軋む耳障りな音が周囲に響き渡った。
フェルトくんが片手でもう一振りの剣を抜き放ち、刃を振るった。
機獣の乗り手にとどめを刺したのだろう。
……フェルトくん、やっぱり強い!
「フェルトに続け! 制圧する!」
フェルトくんの後から、オレットさんたちエーレスタ部隊も姿を現した。
「さすがエーレスタね。仕事が早いわ」
レティシアさんが杖を小脇に抱えながら、ふふんと笑った。
オレットさんたちは、この短時間で左側面に展開していた銃歩兵部隊を殲滅したみたいだ。
さすがだと思う。
もっとも魔素撹乱幕がなければ、銃なんてエーレスタの騎士の敵ではない。
戦技スキルを使える者が殆どいないらしいラドリア軍であれば、最初の銃撃で蹴散らされていたかもしれないけど……。
「き、貴様ら、ラドリアではないのかっ! まさか、エーレスタかっ!」
下馬したオレットさんと一対一で向かいあっている帝国騎士が、低い声で叫んだ。どうやらあれが指揮官みたいだ。
「くそぉ、エーレスタめっ!」
敵指揮官が雄叫びを上げて突撃して来る。
しかしそれは、私の目にも明らかに冷静さを欠いた直線的な攻撃に見えた。
案の定、敵をギリギリまで引きつけたオレットさんが、ぶんっと空を斬る敵騎士の一撃をひらりと身軽に回避する。そしてさっと敵の背面に回り込むと、その敵騎士に向かって剣を振り下ろした。
青く輝く魔刃剣の刃ではなく、その柄頭を。
鈍い音が響き渡り、敵の指揮官が雪と土で斑らになった地面へと沈んだ。
ぶんっと剣を振ったオレットさんが、手早く敵の武装解除を始めた。
そうか、情報収集の為に捕らえるのだ。
さすが周りが見えているな、オレットさんは。
私は素直に感心して小さく頷いた。
「終わりね。大した相手ではなかったわね」
機獣の上のレティシアさんが、つまらなさそうに呟いた。
終わってみれば、最初は帝国軍の奇襲攻撃を受けた私たちだったけど、ウェリスタ軍やラドリア軍を含めてもこちらの損害は皆無だった。
擦り傷を負った者は数名いたけれど。
それに対して、敵は機獣1体を含めて全滅だ。
私はほっと息を吐いてから、そっとアーフィリルを頭の上に戻した。
うむむ。
結局私の出番はなかった……。
手早く戦いの後始末が行われ、行軍を再開すべく準備が進められる。
てきぱきと動くエーレスタ・ウェリスタ軍に対して、ラドリア軍の皆さんは戦闘終結が未だ実感出来ていないのか、唖然として固まっているだけだった。
私もオレットさんたちからじっとしておく様にと言われてしまったので、ぐらぐらと体を揺らしてみんなの作業を見守っていた。
「セナさま、オレット騎士長! こちらへ!」
そこに、坂道の先に偵察に出ていたエーレスタの騎士さんの声が響いた。
む、私の出番か。
私は馬のお腹を蹴って騎士さんが待ち受けている坂の上へと向かった。
黒のマントが、冷たい風を受けてばさりとひるがえる。
途中でオレットさんとも合流する。背後からはレティシアさんも付いて来ていた。
機獣の残骸を通り抜ける際、剣を収めて腕組みをするフェルトくんと目が合った。
労いの意味を込めて微笑み掛けると、フェルトくんは少し恥ずかそうに仏頂面を浮かべて顔を背けてしまった。
……あれ。
直ぐに私たちは、騎士さんが待つ坂の上に辿り着いた。
「どうした、何かあったか」
オレットさんが尋ねると、騎士さんがさっと坂の先を指差した。
「恐らくあれが目的地かと」
騎士さんが示してくれたその方向を見た瞬間、私は目を見開いて固まってしまった。
「あれは……」
山道は、そこから下りになっていた。
道の先は谷に続いていて、ここからは深い谷とその先に広がる山間の平地が一望出来た。
周囲をぐるりと切り立った岩山に囲まれたその場所には、鮮やかな緑が広がっていた。
その盆地以外は、私が今いるところと同じ雪と針葉樹林と岩山ばかりの寒々とした風景が広がっているというのに、そこだけは緑が広がっている。それも明らかに異質な程鮮やかな緑が。
そして……。
「なるほどな。世界樹とはよく言ったもんだ」
眼前に広がる光景を見つめたまま、オレットさんがぼそりと呟いた。
「大きな樹ね。なんの樹かしら」
レティシアさんもじっと谷の先を見つめている。
その異様に濃い緑の土地の中央には、巨大な樹が立っていた。
周囲の山々と比較すると、それが一本の樹としては明らかに大き過ぎるのがわかる。そしてその樹も、雪山の景色には似合わない鮮やかな緑の枝葉を茂らせていた。
吹き抜ける冷たい風が、その大きな樹の枝をざわざわと揺らす。
まるでそこだけ、緑が萌える春が広がっている様だった。
そんな風景に目を奪われている私の頭の上で、もぞりとアーフィリルが身を起こすのがわかった。
『あれは……』
アーフィリルの声が、静かに私の胸の中に響いた。




