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第22幕

 ふと気が付くと、朝夕の空気はいつの間にかひんやりとしたものへと変わろうとしていた。

 高原の街であるエーレスタの夏は、足早に過ぎ去っていく。

 大きな戦いが幾つもあって、その後始末に奔走している間に、季節はそっと秋へと移り変わろうとしていた。

 竜騎士として与えられたエーレスタのお屋敷の台所で、私は1人朝のお茶の準備をしていた。

 少し肌寒い朝には、温かいお茶が恋しくなってしまう。

 まだ早朝といえる時間帯のせいか、人気のない台所はしんっと静まり返っていた。

 使用人さんたちはもう仕事を始めていたけれど、今は見当たらない。

 アーフィリル隊のみんなは、もう少しすれば起きてくるだろう。

 何だか今までの出来事が全部嘘に思えてしまう様な、今まで通りの、いつも通りの平和で静かな朝の風景が広がっている。

 お仕事に向けて早起きした私も、本当はまだ少し眠かった。

 ぐりぐりと片目を擦る私は、左手を伸ばしてんっと伸びをした。

 私は既に、アーフィリル特製の短いスカートの騎士服をきちんと身に付けていた。しかし服装はきちんと整えていたけれど、ライトブラウンの髪はまだ結っておらず、背中に流したままだった。

 ……まだ完全にお仕事態勢ではないのだ。

 ちなみに少し肌寒いので、スカートの下には黒のタイツを穿いている。

 しかしこれはアーフィリルの作ってくれたものではないので、今融合して大人状態になってしまえば、破れてしまうだけれど。

 魔素を利用した竈の上でカタカタと鳴り始めたケトルを見つめながら、私はアーフィリルに冬服をお願いしなくちゃなと思う。

 直接ケトルで煮出したお茶をカップに注ぎながら、ふうっと息を吐く。

 ハーブの爽やかな香りが、ふわりと台所中に広がった。

 心地よい朝の香を感じながらも、しかし私の胸の内がすっきりと晴れる事はなかった。

 もう一度私は、ふいっと深く息を吐いた。

 エーレスタ騎士団の本拠地であるファレス・ライト城がオルギスラ帝国軍の謎の鎧、アンリエッタに襲撃されてから既に2週間が経過していた。

 北のブランツ峠で帝国軍部隊と戦ったディンドルフ大隊長の部隊が公都に帰還してからも、もう1週間が経とうとしている。

 しかし今に至るも、エーレスタ、又はサン・ラブール条約同盟国とオルギスラ帝国を取り巻く状況を打開出来る様な光は、まだ見えてこなかった。

 ブランツ峠の麓での戦いも、結局両軍痛み分けという様な状況で終息したそうだ。

 私がアンリエッタを追って離脱した後、戦場で対峙したディンドルフ大隊長麾下のエーレスタ騎士団とオルギスラ帝国の増援部隊は、一進一退の戦闘を繰り広げる事になった様だ。

 2万を超える味方部隊に対し、敵増援は1万5千ほど。

 数の上ではエーレスタが有利ではあったけれど、対スキル兵器を十分に備え、士気の高い敵軍を前に、ディンドルフ大隊長たちは苦戦を強いられたみたいだ。

 帝国軍は魔素攪乱幕を乱発し、機獣の大軍を投入して来たそうだ。

 しかし黄岩竜ドラストと竜騎士サルートの活躍、それに今まで得た対魔素攪乱幕の戦闘経験を駆使し、ディンドルフ大隊長たちは帝国軍の再侵攻を防ぐ事に成功した。

 しかしながら、もちろんこちらから打って出るにしては決め手に欠け、結局戦線は、ブランツ峠から僅かに押し込まれた地点で拮抗する事になってしまった。

 そのまま両軍の睨み合いが続く事数日。

 オルギスラ帝国軍の増援部隊は、何があったのか不意にブランツ峠の北、エーレスタ領外へと撤退してしまったそうだ。

 ローデント大公捜索に奔走していた日の朝、補給隊の黒髪のお姉さん騎士が言っていたとおりになったのだ。

 そのまましばらくは国境付近の警備についていたディンドルフ隊だったが、帝国軍がカルザ王国方面まで撤退したのを確認すると、一部部隊を国境の警備に残して公都まで戻ってきた。

 現在オルギスラ帝国軍がエーレスタへ侵攻して来る気配はないそうだが、ブランツ峠付近では防衛拠点の建造が急ピッチで進められてるみたいだ。

 オレットさん率いるアーフィリル隊も無事にその戦いを乗り切り、みんな揃ってエーレスタの街に帰って来てくれた。

 アーフィリル隊に落命した人はいなかったけれど、やはり無傷という訳にはいかなかった。サリアさんの部下の女性騎士さん3名が重傷を負い、今も療養中だ。

 この前お見舞いに行って来たが、みんな命に関わる傷ではないとの事だったのでほっと一安心ではあるのだけど……。

 私はきゅっと眉をひそめた。

 気持ちを切り替えるために一瞬だけ目を瞑った私は、たっぷりとお茶を注いだカップを両手でぎゅっと保持する。そして、そろそろと慎重に執務室を目指して歩き始めた。

 こぼさないように、こぼさないように……。

 そのままとろとろと2階に上がると、ちょうど外からがやがやと賑やかな声が聞こえて来た。

 そっと窓に寄って外を覗いてみると、既に鎧を着込み、武装したフェルトくんにアメル、それにマリアちゃんが、サリアさんに連れられてお屋敷を出るのが見えた。

 今日はサリアさんが指導員か。

 ブランツ峠の戦いから帰還したみんなには、通常警備任務をこなしながらも順次休暇を取ってもらえる様にお願いしてあった。

 しかしフェルトくんたち3人には、帰還以来ずっと早朝の特別強化訓練が命じられているのだ。

 もちろんそんな命令を出したのは、私ではなくアーフィリル隊の副官として隊を取り仕切るオレットさんだ。

 最初にアンリエッタと交戦した際、撤退命令を無視してアンリエッタへ向かって行った事への指導を行っているらしい。

 あの行動は私を援護しようとしてのものだったのだから、私としては許してあげて欲しいとオレットさんにお願いしたのだけれど……。

 早朝のお屋敷の前でぶーぶーと騒いでいるのはアメルだ。

 なんだかそんな光景が、ここしばらくの竜騎士アーフィリル邸の朝の日常となりつつあった。

 アメルは元気だなと思う。

 私は、思わずふっと微笑んでしまった。

 竜騎士のお仕事がなければ、私もみんなと一緒に訓練したいなと思うけど……。

 私は心の中でみんなにエールを送りながら、窓から離れた。そして温かいカップをぎゅっと握り締めながら、改めて執務室へと向かった。



 執務室に辿り着いた私は、慎重に扉を開いてそろそろと自分の執務机に向かう。私には不釣り合いに巨大な机にカップを置いて、そこでふうっと息を吐いて力を抜いた。

 淡い朝日が入り込む執務室は、しんっと静まり返っていた。

 使用人さんが開けておいてくれた窓から、ひんやりとした朝の空気がさらさらと流れ込んで来る。

 1日の始まりの匂いがする。

 やはり少し大きすぎる感じのする立派な椅子にぽすっと浅く腰掛けて、私はうんっと伸びをした。

 爽やかな空気を思いっきり吸い込んで深呼吸すると、やっと頭の中が仕事モードになる気がする。

 今日も1日頑張るぞと気合いを入れる私の足元で、白い塊がもぞもぞと動いた。

 顎に少し寝癖の付いた顔をもぞっと上げたアーフィリルが、私を見上げる。緑の瞳が、うるうると潤んでいた。

 子犬状態のアーフィリルが収まっているのは、私の執務机のすぐ脇に置かれた背の低い木箱だ。

 天板を外して中に小さなクッションなどを敷き詰めてあるその箱は、アーフィリル専用の休憩所として私が作ったものだった。

 執務中も私の頭の上にいたり机の上に寝そべっていては、なかなか気が休まらないだろうと思って作ってみたのだ。

 夜は相変わらずベッドで一緒に寝ていたけれど、私が仕事をしている間、アーフィリルはこの箱の中で大人しくしてくれていた。

 今朝も一緒にベッドを出た後、私が身支度を整えて朝食を済ませている間に先に執務室にやって来たアーフィリルは、しばらくこの箱の中で二度寝していたみたいだ。

 私の力作のベッド、気に入ってもらって何よりだ。

 アーフィリルは、しかしもぞもぞと箱から這い出ると、私の膝の上にぴょんっと飛び乗った。そして何食わぬ顔で丸くなる。

 うぬ……。

 少し邪魔だったけど、アーフィリルは動く気が無いようなので、仕方なくそのままにしておく事にする。

 膝の上のアーフィリルは、ぽかぽかと温かかった。

 私はアーフィリルを乗せたまま、執務机の中から取り出した書類に目を通した。

 それは、統帥部から出された今回のファレス・ライト城襲撃事件に関する公式の報告書だった。

 事件から2週間が経過しようとしている現在も、お城の襲撃犯であるオルギスラ帝国の機竜士アンリエッタ・クローチェの行方は判明していない。

 それはつまり、アンリエッタに拉致されたローデント大公さまの行方も判明していないという事だった。

 アンリエッタと戦ったあの夕方以来、私たちはエーレスタの街の中をしらみ潰しに探索した。門を閉ざし、人の流れを止めて、一般人の家から放置された廃屋まで徹底的に調べた筈だった。

 しかし現在に至るまで、アンリエッタの行方もローデント大公さまについての手掛かりも発見出来ていなかった。

 公都の大規模な封鎖は無用の混乱をきたすとして、ディンドルフ隊の帰還に合わせて厳戒態勢は一旦解除されている。

 私にも通常の待機に戻るようにとの要請があった。

 現在は、軍務卿さま子飼いの近衛部隊の一部が密かに大公さまの探索に当たっているみたいだ。

 しかし。

 私が手にしている報告書には、そんなこれまでの状況とは大きく異なる内容が記されていた。

 エーレスタの国内機関への通達や一般人の方々への広報はもちろんの事、サン・ラブール条約同盟の宗主国に対する報告の元になる筈のこの報告書には、襲撃があったあの日の夜に政務卿さまたちが急場凌ぎに出した情報が、そのまま事実として記載されてしまっているのだ。

 つまり、あの日アンリエッタの襲撃はあったがローデント大公さまの拉致などはなく、大公さまは襲撃事件の折に負傷し、公の場に出られなくなった、と。

 私は書類を机の上に置いてふっと短く息を吐いた。

 ローデント大公さまのの拉致事件については、政務卿さまから私に対しても、口外しない様にとの直々の念押しがあった。

 ……本当の事を隠すというのは良くないというのは十分にわかっている。

 でもエーレスタ領から追い返したとはいえ、未だサン・ラブール条約同盟全体ではオルギスラ帝国軍に侵攻を受けている現状において、国のトップが誘拐されてしまったなんて事が広まれば、致命的な混乱が起きてしまうのではないかという懸念も理解出来た。

 その混乱は、きっとエーレスタだけでなく、サン・ラブール条約同盟国全体に広がってしまうだろうから……。

 みんなが力を合わせてオルギスラ帝国と戦わなければいけない今、政務卿さまたち統帥部の判断はやむを得ないものだというのも理解は出来る。

 うーん。

 うーん……。

 うーむむむ……。

 私は膝の上で丸まるアーフィリルの背中に手を起きながら、1人ぐぬぬと唸った。

 ついこの前まで一介の下級騎士に過ぎなかった私にとっては、問題が大きすぎると思うのだ。

 嘘は嫌だったけど、ならば何をどうすればいいのかがわからなかった。

 私は顔をしかめて俯いた。

 ……でも。

 1つだけ確かな事がある。

 それは、私がもっと上手く戦ってアンリエッタを取り押さえる事が出来ていれば、少なくともこんな事態にはならなかったという事だ。

 ローデント大公さまだって、さらわれずに済んだかもしれないのだ。

 私は眉をひそめて唇をぎゅむっと噛み締めた。

 しばらくじっとあれこれ考え込んでいた私だったけど、いくら悩んでも納得出来る様な結論は出てこなかった。

 ここは取りあえず気持ちを切り替えて、他の仕事に集中する事にする。

 統帥部や秘書官のレイランドさんからはもちろん、アーフィリル隊を管理するオレットさんからも色々と書類がやって来るので、私が確認しなければならない事は色々と多いのだ。

 竜騎士がこんなにもデスクワークが多い仕事だなんて、知らなかった。

 しばらくしてレイランドさんが執務室にやって来ると、朝の静かな時間は終わりを告げる。

 レイランドさんがキッと眼鏡を押し上げ、今日1日の予定について色々と説明してくれるところから、本格的なお仕事の時間が始まるのだ。

 私はぐいっとカップのお茶を飲み干し、膝の上のアーフィリルを机脇の箱に戻してから、気合いを入れて書類に取り組んだ。

 隊務管理課での経験が生きているのか、書類仕事は上手くこなせる自信があった。

 実際レイランドさんからはよく誉めてもらえる。

 それは誇らしくて嬉しかった。

 一方で、部隊指揮官として臨むアーフィリル隊の用兵訓練ではオレットさんに呆れられっぱなしなのだけれど……。

 そうして細かい文字が並ぶ書面を睨んでいる間に、あっという間に時間が過ぎていく。

 午前中はこうして竜騎士としてのデスクワークをこなし、午後は騎士としての鍛錬やいつの間にか就いてしまった部隊長職としての技術を研く。

 それがローデント大公さま拉致事件以降の、表向きは平穏を取り戻し始めた私の日常だった。

 書類から顔を上げてふうっと息を吐くと、時刻は既にお昼前だった。

 温かな日差しが窓からさんさんと降り注ぐ執務室内は少し暑くなって来ていて、私は席を立つと背後の窓を大きく開いた。

 爽やかな風が吹き込んでくる。濃い緑の匂いを含んだ風だ。

 季節が移り変わろうとしていても、まだまだ夏の残滓は色濃く残っていた。

 そっと深呼吸してから振り返ると、先ほどまで執務室内を探索していたアーフィリルが、机の上に登ってお座りをしていた。

 どうしたのと私がアーフィリルに話し掛けようとしたその時、執務室の扉をノックする音が響いた。

「どうぞ」

 返事をすると、レイランドさんとオレットさんが一緒に執務室に入って来た。

 ワイルド系なオレットさんと知的ハンサム系なレイランドさんが一緒にいると、何だか違和感を覚えてしまう。

 何だかまた、悪い予感が……。

 私は眉をひそめて首を傾げた。

 そんな私を見て、オレットさんが「そこで出会ってな」と肩をすくめた。

「オレット副士長にも聞いていただいた方が良いでしょう」

 一歩進み出たレイランドさんが、私とオレットさんを順番に見た。

「先ほど統帥部より通知が参りました。まだ内定の段階ですが、セナさまの領地がほぼ決定した様です」

 レイランドさんが厳かに告げる。

 執務室の中を一瞬沈黙が支配した。

 ん……。

 ……領地?

「基本的にセナさまの希望が通りました。しかし今回は、それ以上にかなり広範囲な土地の領有が認められる事になりそうです」

 レイランドさんが執務机の上に書類と地図を置いた。

 アーフィリルが真っ先にその書類を覗き込む。遅れて私も、そのアーフィリルを抱き上げながらレイランドさんの書類を見た。

 確かにそこには、アーフィリル領の内定通知と記されていた。統帥部発行の正式書類だ。大公さまのサインはないけれど……。

 もう一枚はエーレスタ領内の地図だった。

 私の……といっても全く実感はないが、竜騎士アーフィリルの領地となるのは、竜山連峰の一部を含む南部地域の広範な土地だった。

 その中には、マリアちゃんの出身の村や帝国軍に襲われた村々が含まれていた。

 以前竜騎士として与えられる領地についてどこか希望はあるかと聞かれた際に、アーフィリルの本当の家がある竜山連峰のあの山や、マリアちゃんの故郷であるその麓の地域を挙げてみたのだ。

 でも、まさかそのまま認められてしまうとは……。

「広い……」

 アーフィリルを抱きしめて私の領地だという印がなされた地図を見つめながら、私はぽつりと呟いた。

 しかしその範囲は、私が希望を出したものよりも遥かに広い。

「これまでのセナさまの活躍が考慮された結果でしょう」

 当然の事だという風に、レイランドさんが大きく頷いた。

「領地運営の詳細についてはこれから詰めるべき点が沢山ありますが」

 そこでレイランドさんが私の前ですっと姿勢を正した。

「まずはご領地の拝領、おめでとうございます」

 そして華麗な所作で頭をさげるレイランドさん。

「あ、ありがとうございます……」

 私も慌てて頭を下げた。

「これでセナも領地持ちの貴族さまだな。いや、大したもんだ」

 それを見ていたオレットさんが、腕組みをしながらニヤニヤとしながら私を見ていた。

 うぬ。

 ……あれは、私が困っているのを楽しんでいる顔だ。

 領地とか貴族とかいわれても、全く実感など出来ない。何をどうすればいいのか、正直全然わからない。

 領主さまといえば故郷のハロルドおじいちゃんを思い浮かべるが、伯爵でありながら自ら菜園を世話している姿しか思い浮かばなかった。

 アーフィリルを抱き締めた私が恐る恐る統帥部の書類を見つめる中、レイランドさんが今度はオレットさんを見た。

「丁度良いところにいらっしゃったので、合わせてご連絡致します」

 レイランドさんは目を細めてオレットさんを見た。

「オレット副士長にも、騎士長への昇任の辞令が出ております。おめでとうございます、オレット騎士長さま」

 レイランドさんが丁寧に頭をさげた。

 私は、はっとして顔を上げる。そしてオレットさんと視線を合わせると、お互いぽかんとしてしまった。

 時間を掛けてレイランドさんの言葉をじわじわと理解した私は、徐々に目を丸くて、そして最終的にぱっと微笑んだ。

「おめでとうございます、オレットさん!」

 凄い!

 騎士長だなんて、さすがオレットさんだ!

 おー、凄い凄い、流石だぁと繰り返す私を他所に、しかしオレットさんは仏頂面のまま、わしわしと頭を掻くだけだった。

「……口止め料だな、こりゃ」

 ぽつりと呟くオレットさん。

 私は意味がわからず、感嘆の声を上げるのを止めると首を傾げた。

 レイランドさんを見るが、こちらも肯定はしないが否定もしないといった微妙な表情だった。

「大公の件だ。セナの領地の決定も含めて、俺たちに恩を着せて余計な事を言わせない様にっていう腹づもりなんだろう、統帥部は」

 オレットさんはそこで、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

 私は息を呑んで押し黙る。

 ……口止め料。

 ローデント大公が拉致された事については、政務卿さまの許可を得てオレットさんだけには説明してあった。レイランドさんは私が伝える前に、既にその事を知っていた。

 つまり、ここにいるみんなはローデント大公さま拉致については承知している訳だけど……。

 オレットさんの昇任を喜んでいた私は、一転して眉をひそめた。

「セナさまに余計な事を吹き込むのはやめて頂きたい」

 レイランドさんが、オレットさんをギロリと睨み付けた。

 公式発表では負傷の療養中扱いの大公さまだけど、やはりその情報を完全に遮断するのは難しいと思う。国家の元首がいつまでも不在なんて状態が、続けられる筈がないし……。

 はたして私たちの口を塞ぐためだけに、ここまで便宜を図る意味はあるのだろうか……?

 私には、政務卿さまや統帥部が何を考えているのか良くわからなかった。

 腕の中のアーフィリルを、私はぎゅうっと抱き締める。

「まぁ何にせよ、だ。注意して行動しろ、セナ」

 オレットさんが鋭い目で真っ直ぐに私を見つめる。

「この状況下では、様々な勢力が様々な思惑で動き回っている。セナも意識して構えていないと、思わぬ事態に巻き込まれてしまうかもしれないんだからな」

 厳しい表情だったが、ゆっくりと言い含める様な口調で私に言葉を向けるオレットさん。

 ……様々な勢力。

 私はぎゅむっと唇を噛み締めた。

 現状の対応に苦慮しているだろうエーレスタ首脳部や、大公さまをさらったオルギスラ帝国以外に、何かしらの別の思惑を抱く勢力があるのだろうか……。

「戦で獅子奮迅の活躍を示し、大公の後継者として最有力のウィルヘムを多数の眼前で見事に助けて見せたお前は、新人竜騎士であったとしても、既に少なくない影響力を持っているんだ。その辺りの事、よく考えておくんだ」

 オレットさんの言葉に私は眉をひそめながら、はいっと小さく頷いた。そしてむうっと顔をしかめながら、抱き締めたアーフィリルの頭の羽毛に顎を埋めた。

 竜騎士というのは、戦闘だけでなく色々と難しい事があるのだ……。

「……オレット副士長。セナさまのところに来られたのは、何か用事があったのではありませんか?」

 再びレイランドさんが、オレットさんをぎろりと見た。

 オレットさんは、おどけたようにひょいっと肩をすくめた。

「そうだった。午後の訓練だが、今日は俺が担当する。しかし明日以降はフェルトが来るから、そのつもりでな」

「あ、はい。了解です」

 私は顔を上げてこくりと頷いた。

 難しい話ではなくて剣の稽古の話なら、私もほっとして素直に聞ける。

 そうして気を抜いた瞬間。

 くうっとお腹が小さく鳴ってしまった。

 ……そういえば、もうお昼なのだ。

 少し恥ずかしくて顔が熱くなるが、幸い誰にも聞かれていなかったみたいだ。

『うむ。もう昼食の時刻なのだな』

 私の腕の中のアーフィリルがもぞっと動いて私を見上げた。

 ……むっ!

『……うむ? いささか締め付けが強いぞ、セナ』

 アーフィリルがもぞもぞと暴れ始めるが、私はそれを無視してオレットさんとレイランドさんをお昼に誘った。



 目の前で剣を構えるフェルトくん。

 その黒髪の下から、刃の様に鋭い目が私を捉えていた。

「行きます!」

 剣を構えた私は、芝生が茂る地面を蹴り、スカートの裾をひるがえしてフェルトくんに向かって突撃する。

 体を振ってフェイントを掛けつつ、大上段から剣を振り下ろす。

 金属と金属がぶつかる甲高い音が響き渡った。

 気がつくと、手の中から剣が消えていた。

 あっ。

 消えた剣に気を取られている間に、いつの間にかフェルトくんが真っ直ぐに私に剣を突き付けていた。

 ……うぐ。

 きょろきょろと周囲を見回すと、背後の芝生に私の剣が突き刺さっていた。

「突撃にフェイントを掛けても、打ち込みが単調だと意味がないぞ。常に全力で斬り込むんじゃなく、牽制を含めて相手を揺さぶるんだ」

「はい!」

 大きな声で指導してくれるフェルトくんに精一杯返事をしながら、私は小走りに剣を取りに行くと再び気合を入れて構えた。

 午後のキラキラした陽気が降り注ぐお屋敷の庭に、私とフェルトくんの剣がぶつかり合う音が響き渡る。ざっと吹き抜けていく風が、お屋敷を囲む木々をざわざわと揺らし、芝生の上に落ちた木漏れ日を揺らした。

 日課となっている私の午後の剣の鍛錬に付き合ってくれるのは、昨日オレットさんが言っていた様に今日はフェルトくんだった。

 ブランツ峠の戦いから帰還して以来、フェルトくんに指導してもらうのは初めてだったけど……。

「単調に動くな! 攻め込む隙がないなら、作り出せ! 誘い出して仕掛けるタイミングを見計らうんだ」

 そう叫んだフェルトくんの姿が、不意に私の視界から消えた。

 どこに……?

 剣をぎゅっと握り締めて周囲をきょろきょろと見回す私の頬のすぐ傍に、唐突にすっと白刃が突き出された。

 その風圧で、ポニーテイルにまとめた私の髪が微かに揺れる。

「敵を見失ったら終わりだ。視界は広く保て!」

「はい!」

 返事だけは元気よくしながら、私は身をひるがえして再びフェルトくんと対峙した。

 今日のフェルトくんは、何だか以前よりもずっと熱心に指導してくれていると思う。

 前は私の相手をするのが凄く面倒そうで、いつも大人状態の私になって欲しいと言うばかりだった。

 確かに今日も、一通り私の鍛錬が終わったら、大人状態の私と戦わせて欲しいとは言われていたけど……。

 何だか熱の入り様が違う気がするのだ。

 でも、真剣に教えてくれるのはありがたい事だ。

 ならば私も、フェルトくんの熱意に応えるためにも全力でぶつかるだけだ。

 私は額の汗をさっと拭うと、剣を構えた。

「もう一度お願いします!」

 お屋敷の庭に、私たちの剣戟の音が、気合いの声が響き渡る。

 最初は、そんな私たちを見ているのはアーフィリルだけだった。しかし時間が経つにつれ、通り掛かったアメルが歓声を上げて見ていたり、マリアちゃんに無理しないようにと声を掛けられたり、隊の女性騎士の皆さんや使用人さんたちや色んな人たちに立ち替り入れ替わり見守られたり応援されながら、私は一心不乱に鍛錬を続けた。

 そうしてどれくらい時間がたっただろう。

 照り付ける日差しが斜めになり、少し柔らかくなった頃、一旦休憩しようという事になった。

 さすがのフェルトくんも、額に汗を浮かべていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 私はその場で、芝生の上にペタリ座り込んだ。

 俯いて息を整えようとしていると、頬を伝って流れた汗が、ぽとりと芝生の上に落ちた。

 体中が熱くて、体中が痛い……。

 左右に足を投げ出して座っているのを見られれば、はしたないとマリアちゃんに怒られてしまうだろうけど……。

 そんな私のもとに、タオルを咥えたアーフィリルが来てくれた。

「ありがとう、アーフィリル」

『うむ』

 私はタオルを受け取り、汗を拭いながら大きく深呼吸する。

 出来ればこのままゴロンと寝転がってしまいたい気分だったけど、私は何とかのろのろと体を動かして立ち上がった。

 次はフェルトくんの訓練に付き合う番だ。熱意の籠った指導をしてもらった分、今度は私がしっかりと付き合ってあげなくては。

 今日はタイツを穿いていないので、このままアーフィリルと融合しても問題ないのだ。

 ……でも。

 剣を地面に刺し、アーフィリルを抱き上げながら、私はちらりとフェルトくんを見た。

「……フェルトくん、何かあったんですか?」

 鍛錬を再開する前に、少し気になった事を聞いてみる事にする。

「……何がだ?」

 タオルで汗を拭っていたフェルトくんが、訝しげな顔をした。

「えっと、今日は凄い真剣に教えてくれるなって思って……」

 何だか失礼な事を言っているなと思いつつ、私はごにょごにょと言葉を濁しながら目だけでフェルトくんを見上げた。

 フェルトくんは沈黙したまま私から視線を逸らす。

 ……う。

 答えてくれる気は無いみたいだ。

 フェルトくんの態度は、部隊長であり、竜騎士である私に対して不敬すぎるという意見もあったけど、主にアメルとマリアちゃんからの意見だが、私は別に気にしていなかった。

 何だかんだと言ってもフェルトくんは私の訓練に付き合ってくれるし、それにアーフィリルと融合した姿になると、凄く丁寧な態度で接してくれるのだ。

「……もっと強くならなければって思ったんだよ。あの黒い竜みたいな奴を見てな」

 不意にフェルトくんがぼそりと呟いた。

 黒い竜というのは、アンリエッタの事か……。

「あの黒い竜と戦う竜騎士セナを見て、少し思い出した。何で俺は、強くなりたかったのかな」

 フェルトくんはそう言うと、僅かに目を細めて木々の向こうの空を見上げた。今この場の事ではない、どこか遠い場所を見るような、何かを思い出しているかの様な目だった。

 私は抱き抱えたアーフィリルを、ぎゅっとする。

「今なら少しわかる気がするな。オレットのおっさんが、何でお前に剣を教えろって言ったのかがな。戦う目的みたいなものも、まぁ、強くなる上では大事だって事だよな」

 そこでフェルトくんは、少し照れた様に笑った。

 私は目を丸くした。

 ……その通りだ。

 いくら強大な力があったとしも、目的もなくただ単にその力そのものを振りかざせば、それは他者を悲しませるだけの理不尽な暴力になり果ててしまう。それでは、本当に強くなる事なんて出来ないと思うのだ。

 自分の中にこの身を捧げてもいいと思える様な正しさを見つけて、それに向かって一心に努力するからこそ、人はさらなる高みを目指せるのだと思う。強くなれるんだと思う。

 フェルトくんは強い。

 その力を沢山の人たちを守る為に高めていけば、きっともっともっと強くなれる筈だと思うのだ。

 理不尽な暴力から人々を守る為に、騎士として私と一緒に頑張って欲しいと思う。

 私は何だか嬉しくなって、今までの疲れもどこへやら、ぱっと笑顔を浮かべてフェルトくんに微笑み掛けた。

「みんなが悲しまない様に、頑張って行きましょう!」

 私はむんっと力を込めてフェルトくんを見上げる。

 しかしフェルトくんは、何故か少し怪訝そうな顔をしていた。

「あ? ああ、まぁな……」

 それでもやっぱり一応頷いてくれる。

 私は微笑みながら高揚する気持ちに合わせる様に、高らかにアーフィリルを掲げた。

「お願い、アーフィリル!」

 周囲が純白の光に包まれる。

 体が熱くなり、アーフィリルの力が全身を満たして行くのがわかった。

 感覚が研ぎ澄まされていく。

 思考がクリアになっていく。

 そして一瞬の後、白の光が収まると、私は白いドレスをひるがえし、魔素に輝く純白の髪を背中に流した大人状態で、芝生の上に立っていた。

 私はそっと目を伏せ、 髪をかき上げる。

 先ほどとは違い、フェルトが望むものと私が望むものの形は違うのだろうという事が、今の私には察する事が出来た。しかしそれでも、フェルトが己の剣を掛けるべきものを思い出そうとしている事は、素直に喜ばしいと思えた。

 私はフェルトを見据える。

 そして目を細め、ふっと微笑む。

「さぁ、フェルト。掛かってくるといい」

 私は刃の潰された訓練用の剣を手に取ると、すっと持ち上げた。

 対してフェルトは、先ほどまでの決意に満ちた顔もどこへやら、一転してぽうっと腑抜けた顔をして私を見つめていた。

「フェルト?」

 私が僅かに首を傾げると、フェルトははっとした様に表情を引き締めた。

「……俺は強くなる。あなたを援護して助けられる程にな。今度こそ、俺の目の前であんな事は……。もう俺は、負けないんだ」

 そう宣言したフェルトの言葉には、強い力が込められていた。この場のただ気合だけではなく、もっと深いところから滲み出てくる様な強い力が。

 フェルトは、それ程あのアンリエッタとの戦いを気にしているのだろうか?

 ふむ。

 私にはフェルトが、私ではなく別の何かを思い浮かべている様な気がした。

 もちろんそれは、私の勝手な邪推にすぎないのだが。

 フェルトが一旦下がり間合いを空けると、剣を構えた。

「……行くぞ!」

 フェルトの裂帛の気合いが弾ける。

「全力で打ち込んで来い!」

 私は微笑みながら、それを迎え打つ。

 どんな思いがあるにせよ、フェルトは私の剣の師であり、隊の仲間だ。彼が望む事に対し、全力で応援する事に躊躇いはない。

 私はフェイントを掛けて側面に回り込もうとしているフェルトの襟首を無造作に掴み、地面に引き倒した。

 こうして立場を反転させて、私たちの訓練が再開した。



 背後にエーレスタの騎士の正装を身に着けたオレットさんとサリアさんを引き連れた私は、カツカツとブーツの音を響かせ、アーフィリル隊の隊章が刺繍されたマントをひるがえし、ファレス・ライト城の廊下を歩いていた。

 薄曇りのお天気のせいでお城の中は少し薄暗い。時刻はお昼休みが終わったばかりなのに、既に魔晶石の灯りが灯されていた。

 何だかアンリエッタの襲撃があったあの日を思い出してしまって、私は少し気分が沈んでしまっているのを自覚してた。

 気が重いのは、しかしそれだけが理由ではない。

 今日私がお城に来ているのは、この後会議に参加しなければならないからだ。

 ディンドルフ大隊長たち実働部隊員だけが参加する会議だったらこんなに気負いはないのだけれど、今日の会議は政務卿さまや軍務卿さま、それに大公妃殿下やウィルヘムさまも参加される、現在のエーレスタの最高幹部会議だった。

 アンリエッタ襲撃事件に関わっているとはいえ、私なんかがそんな場に出るなんて……。

 私はむむむっと顔を強張らせながら、廊下を進んで行く。

「セナさま。会議開始までにまだ時間がございますが、いかがされますか?」

 背後からサリアさんが声を掛けてくれる。

 ……そうだった。

 緊張のあまり、早めにお屋敷を出て来てしまったのだ。

 早く行きすぎても、会場で1人待つというのは耐えられそうにない。

 どうしようかと思い悩んでいると、私は周囲が良く見知った場所である事に気が付いた。

 いつの間にか通い慣れた隊務管理課の近くまで来ていたみたいだ。

「あの、少し寄り道してもいいですか?」

 私は純白のマントをひるがえして、くるりと振り返ってオレットさんたちを見た。

 オレットさんとサリアさんの許可を得て、私は前の所属部署である隊務管理課の事務室に立ち寄る事にした。

 そういえば色々な事があって、今まで管理課の部屋には挨拶に行けていなかった。マーク先輩や上司のおじいちゃん騎士には、挨拶は済ませてあったけれど。

 サリアさんとオレットさんには待っていてもらって、私は管理課の部屋の扉をノックした。

 山積みになった書類に溢れた隊務管理課の事務室は、私がバーデル隊に参加して任務に出た時と全く変わっていなかった。

 何だかじんわりと胸が熱くなってしまう。

「失礼します」

 私は入り口近くに座っていた顔馴染みの同僚騎士さんにそっと挨拶した。

「はい……セナ! りゅ、竜騎士セナさま!」

 騎士さまが私を見ると目を見開き、弾かれた様に立ち上がった。

 事務室内がざわりとする。

 仕事中だったみんなが一斉に立ち上がり私を見た。そして、ざっと敬礼する。

 その光景に私は、ううっと気圧されてしまう。

 同時に、何だか少し悲しくなってしまう。

 私が竜騎士になってしまったのがいけないのだけれど、畏まった元同僚のみんなの態度に、何だか見知らぬ場所に来てしまった様な気がしてしまったのだ。

 仕事の邪魔になってもいけないので、直ぐに立ち去ろう。取り敢えず課長に挨拶だけして……。

「セナちゃん! 久しぶりだねー」

 みんなが敬礼する中をすごすごと進む私に、不意に声が掛けられた。

 書類の山の間から元直属の上司のおじいちゃん騎士と背の高いマーク先輩が私を見て手を上げていた。

 私は、思わずぱっと顔を輝かせ、頭を下げた。

 隊務管理課の課長に挨拶を済ませた私は、応援セットでお茶を出してもらいながら、おじいちゃん騎士やマーク先輩とあれこれお話をした。

 そうしていると、それまで遠巻きに私を見ていた隊務管理課のみんなも、ぽつぽつと私に話し掛けてくれる様になった。

 みんなと話していると、何だか昔に戻った様な気がする。同僚のみんなも同じだったみたいで、話しているうちに私に接する態度が昔と同じ様になっていった。

「しかし大出世だな、セナは」

「まさかこんな事になるなんてなぁ」

「まったくだ」

「すげーよなぁ」

 応接用のお茶が満たされたカップを手に取りながら、私はへへへと笑ってみんなを見上げた。

 私の状況は色々と変わってしまったしエーレスタを取り巻く状況も厳しいけれど、この部屋のみんなは変わらないなと思う。

 周囲の先輩たちは、立ち替り入れ替わり私の相手をしてくれた。みんな忙しいので、ずっと話し込んでいるわけにはいかないのだ。

「最近大規模部隊の出撃が多いからな。物資のやり繰りが大変だよ」

 各部隊の補給物資を取りまとめる担当をしている先輩騎士が、苦笑いを浮かべながら頭を掻いていた。

「そうですよね……」

 私も眉をひそめて苦笑を浮かべる。

 何千何万という軍勢が動くのだ。ただの警備出動だけでも食料を始めとしてかなりの補給物資が必要となるのだが、ここしばらくは大きな戦いが連続している。実戦ともなれば装備品の損耗や医薬品なと、部隊が必要とするものはさらに多岐に渡る。

 補給担当の先輩の状況は、察するに余りあった。

 騎士団を的確に運用する為に発展して来たエーレスタにとっては、そうした補給に関するノウハウも蓄積されているのだけれど、だからといって事務仕事が無くなる訳ではないのだ。

 きっとこの補給部隊担当の先輩やこの隊務管理課のみんなも、何日も徹夜しているに違いない。

 実動部隊に人が取られれば、補給部隊に人や警備を確保するのも大変だろうし……。

 何だか愚痴が止まらなくなってきた補給担当の先輩に相槌を打ちながら、私は苦笑を浮かべた。

 隊務管理課にいるときから、みんな何故か私に愚痴をこぼしていく事が多かったのだ。まぁ、そのついでにお菓子を貰えたりするのだけれど。

 先輩の恨み節を聞きながら、ふとそこでふと私は確認してみたい事を思いついた。

「先輩、すみません。あの、お城が襲撃された日の次の日に補給に出た部隊なんですけど……」

 あの日出会った第3大隊所属だという黒髪の女性騎士さまの事が何だか気になっていて、私は思わすそんな事を尋ねてしまっていた。

「ん? ああ、あの日な。大変だったよな。城内も大混乱だったよな。あの日の翌日の補給部隊な。少し待ってろ」

 先輩は大きな身体を揺すると、自席の書類の山を漁りだした。

 程なくして先輩騎士が、一冊のファイルを私に差し出してくれた。

「竜騎士さまの勅命だもんな。迅速に果たさなきゃあなあ」

 がはははと豪快に笑う先輩に笑顔を返しながらファイルを受け取った私は、パラパラとページをめくった。

 襲撃の翌日朝一番で出発した補給部隊を確認するが……。

 ……ん?

 該当がない。

 ファレス・ライト城襲撃の混乱を受け、襲撃の日以降しばらくの間、補給部隊の進発は全てキャンセルになっていた。

 おかしい……。

 命令の行き違いか記録のミスか。

 はたまた、隊務管理課を通さない形での部隊運用があったのか。

 そうなるとそれは、正規の補給ではないという事になる。

 ……まさか。

 ちらりと嫌な想像が頭を過ぎった。考え得る中でも、最も良くない可能性が自然と思い浮かんでしまう。

 ……でもあの部隊が持っていた命令書が正規のものだったし、あの場にアンリエッタの反応がなかった事はアーフィリルが確認していた。

 うーん……。

 眉をひそめた私がさらに資料を確認しようとした時。

「セナさま。そろそろお時間です」

 管理課の事務室の入り口から儀礼用の鎧を身に付けたサリアさんが姿を現した。

 いけない、いけない。

 行かなくては……。

 気になる事はあったけど、取りあえず私は席を立つしかなかった。

 お邪魔してしまった隊務管理課のみんなに挨拶し、待たせてしまったオレットさんとサリアさんにお礼を言ってから、私は再び会議室を目指した。

 その間も胸の内に沸いた疑問が、むくむくと大きくなってしまう。

 最初とは違う意味で顔をくもらせた私は、そのまま指定されたお城3階の大会議室に到着した。

 ディンドルフ大隊長や政務卿さまなど知り合いの方々に挨拶し、逆にあまり知らない偉い方々からも沢山挨拶されながら、私は指定された席にぽすっと腰掛けた。

 アーフィリルを頭に乗せた私は、椅子に浅く腰掛け、腕組みをしながらむーんと小さく唸り、考え込む。

 そうしている内に、現エーレスタの最高幹部たちが集まった会議が始まった。

「皆さまにお伝えする事がある」

 皆の前に政務卿さまが立って声を上げる。

「先のオルギスラ帝国の暴挙によりローデント大公さまが傷つき、倒れられたのは周知の事と思う。このエーレスタ危急のおりに、騎士公位が不在である事は、なるべく避けねばならないというのは、皆さまにも同意いただけるだろう。そこで我々統帥部は、騎士公位をウィルヘムさまに継いでいただきたいと考えている。この件に関して、皆さまのご意見を伺いたいと思う!」

 それまで補給部隊の件について思い悩んでいた私は、ぽかんとして政務卿さまを見つめる事しか出来なかった。

 議場内がざわつく。

 しかし困惑の声を上げるのは、いずれも各大隊の騎士、実働部隊の幹部たちだけだった。

 統帥部をはじめとした高級幹部たちの間からは、政務卿さまの意見に否を唱える者は誰も現れない。

 私は息を呑み、膝の上に置いた手を握り締める。

 ローデント大公さま不在のまま、エーレスタが今、新たな方向へと動き出そうとしている。

 私はふと、そんな感想を抱いた。

 程なくしてこの会議においてエーレスタ騎士公国は、弱冠5歳のウィルヘム・ローデントを騎士公位に戴く事に決したのだった。

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