第1幕
小鳥のさえずる微かな声で、私はすっと目を開いた。
2段ベッドの上段。同室のアメルが眠っているベッドの底が視界に入る。
もう一度だけ目を瞑ってから、私はうんっと伸びをして体を起こした。
私の生活の場。エーレスタ騎士団女子寮の狭い部屋の中は、まだ薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む淡い光だけが、もう朝だという事を控え目に告げていた。
まだ完全に日は登っていないと思う。上のベッドのアメルは多分まだ夢の中で、寮の起床時間もまだまだ先だ。
でも、だいたいこのくらいが、いつも私が目覚める時間だった。
私はベッドの上にペタンと座りながら、気を抜くと落ちてきそうになる瞼に必死に抵抗する。昨日は遅くまで残業してしまったので、まだ疲れが抜けていないみたいだ。
グリグリと目を擦り、はむっと小さく欠伸をかみ殺しながら、私は今日すべき仕事をぼんやりと頭の中で思い描く。
今日も、処理しなければならない事は沢山ある。
部隊の進発準備や補給の手配、装備品の管理など、仕事は山積みだ。特に今は、オルギスラ帝国が不審な動きを強めている。騎士団各隊の動きも活発化していて、その分仕事はどんどん増えて行く。
……頑張らなければ。
私はしんと冷えた早朝の空気をすっと吸い込み、ふうっと息を吐いた。そしてよしっと気合いを入れると、もぞもぞとベッドを抜け出した。
季節は巡る。既に春が終わろうとしている今日この頃だったが、ここは高原の街エーレスタ。早朝や夜はまだまだ肌寒い。
もう一月もすれば夏になる。そうすれば、心地よい気候になるのだけれど……。
私は水色の寝間着の上にカーディガンを羽織ると、襟から茶色の髪を引き出した。そしてタオルと洗面器、それに櫛とリボンを手にとると、そっと部屋を出た。
アメルを起こしてしまわない様にそっと扉を閉じ、私はパタパタとスリッパを鳴らして共同洗面所へと向かった。
早朝の廊下に人気はない。普段なら同僚の騎士たちで騒がしい寮内も、今はまだしんと静まり返っていた。夜の間に冷やされたこの澄んだ空気もこの静寂も、今は私が独り占めだ。
板張りの廊下を格子窓から射し込む黎明の光が淡く照らし出す。微かに響くのは、中庭から聞こえる小鳥たちの声と私の小さな足音だけだった。
窓の外に目を向けると、中庭を挟んだ向の棟が淡く朝日に照らし出されて輝いていた。
1日の始まり。
早起きは辛い時もあるけれど、こうして静かで穏やかで、どこか厳かな1日の始まりをじっと全身で感じられるこの瞬間が、私はなかなか気に入っていた。
1階に降りると、既に掃除を始めている寮務のおばさんに出くわした。
「おはようございます!」
私は元気よく挨拶する。
「おはよう、セナちゃん。今日も一番乗りだねぇ」
おばさんはくしゃっとした笑顔を浮かべて挨拶を返してくれた。
私は寮務さんに頭を下げながら、1階食堂脇の共同洗面所に入る。やはりここでも私が一番乗りで、まだ誰もいない。もう少しすると寝起きの女性騎士たちで溢れ返るこの場所も、まだ静かなものだった。
寮務さんが用意してくれている瓶から冷たい水を掬い、歯磨きと洗顔を済ませる。キンキンに冷えた水が心地いい。僅かに残っていた眠気を、簡単に吹き飛ばしてくれる。
タオルでゴシゴシ顔を拭いてから、私は少しヒビが入っている古い鏡を覗き込む。そして櫛を手に取り、髪を梳かし始めた。
鏡に写り込んでいるのは、明るいブラウンの髪を肩まで伸ばしている背の低い小柄な女の子だ。
私はそんな自分の顔を見て、そっと短く溜め息を吐いた。
少し赤み掛かった茶色の瞳のくりくりとした大きな目とこの身長。鍛えている筈なのに細いままの腕と、申し訳程度の起伏しかない胸。それに加えて髪を下ろしたままの状態では、どう贔屓目に見ても子供にしか見えないのだ、私は。自分でそう評するのも、少し虚しいけれど……。
これでも私は、今年16歳になる。
諦めの大きな溜め息を吐きながら、私は手早く髪をまとめる。黒いリボンで結わえてぴょこんと短いポニーテールを仕上げると、むんと鏡を睨んでみた。
髪をまとめれば、少しはお姉さんに見えなくもない。私が憧れる偉大な先輩騎士のみなさんみたいには、無理だけれど。
特に、あの人みたいにはなれないが……。
……ううん。
私は頭を振って髪を確認すると、小さく頷いた。
よし。
先輩方には遠く及ばないとは思うけど、要は気合いが入れば良いのだ。今日も1日頑張れるための気合いが。
無い物ねだりをして嘆いていてもしょうがない。
私は、既に騎士なのだから。
そう。こんな身なりでも、私、セナ・カーライルは、この大陸最強の称号を冠するエーレスタ騎士団の一員なのだ。
私は、既に憧れの存在になるためのスタートラインに立っている。後は鍛錬を積んで、一人前を目指すだけなのだ。私の憧れるあの人みたいな、立派な騎士になるために。
タオルや櫛を片づけた私は、部屋には戻らずそのまま洗面所の通用口に向かうとそっと裏庭に出た。
ひんやりとした朝の空気がさっと吹き抜ける。その冷たい空気の中には、寮の中とは違い、朝露に濡れた濃い緑の匂いがたっぷりと含まれていた。
夜明けだ。
今、世界が動き出す。
白くなり始めた東の空と未だ夜を残す西の空。曙光に赤く染まった雲が点在する透き通った黎明の空。その下に広がるエーレスタの街並みが、徐々に朝日を受けて輝き始めていた。遠く街の外壁まで隙間なく連なる赤い屋根。その先に広がる広大な畑と川、街道に森、そして世界の壁の様に連なる山々が今、ゆっくりと目覚めようとしていた。
私は、胸一杯に朝の澄んだ空気を吸い込んだ。
ひとしきり深呼吸してから、私は結んだ髪とカーディガンの裾を翻してくるりと背後を向いた。
私の家であるこのエーレスタ騎士団女子寮とその他の建物や城壁が建ち並ぶその向こうに、一際大きく立派な尖塔が見える。
このエーレスタ騎士公国を治める騎士公ローデント大公の居城であるファレス・ライト城だ。
そのお城の方から、長く低く咆哮が轟く。
それは、目覚めたばかりの大地が唸っているかの様な低く重い声だった。
私は目を閉じてその声に耳を澄ませながら、そっと微笑んだ。
うん。
今日も元気そうだ。
この騎士公国に住まう人にとって、この声は恐れる様なものではない。むしろそれを聞いた誰もが、きっとその力強さに安堵し、微笑む筈だ。
朝焼けに輝く空に響くその声は、この国の、そして騎士団の象徴。
竜の声。
エーレスタ騎士団を大陸最強たらしめている力。現在は7騎しかいない竜騎士たちが駆る乗竜たちの咆哮なのだ。
……私もいつか、竜たちと一瞬に戦える竜騎士になりたい。憧れのあの方みたいに、凛々しく強い騎士に!
毎朝繰り返しているその誓いを、今日も私はしっかりと胸に刻む。
私はぱっと目を開くと、もう一度竜舎があるお城の方をじっと見つめた。そして、んっと精一杯体を伸ばした。
「……よし!」
私はさっと踵を返す。
良い騎士になるための第一歩。
今日も今日の仕事をきっちりこなさなければ!
「お疲れ様です!」
開け放たれた窓から眩い夏を思わせる眩い陽光が降り注ぐ中、ファレス・ライト城の無骨な石造りの廊下に私の声が響いた。
すれ違う同僚の騎士達や兵の皆さんに挨拶しながら、私は足早に執務室へと向かっていた。
時刻はもう直ぐ正午を迎える。
資料室で過去の書類をチェックしている内に、いつの間にかこんな時間になってしまったのだ。急がなければ、他の仕事がまた溜まっている筈だ。
カツカツと私の軍靴が石造りの床を叩く音が、軽やかに響く。コートの様に長い上衣の裾が、私の歩みに合わせてひらひらと揺れていた。ついでに、後頭部で束ねた髪も、ぴょこぴょこと揺れていた。
資料室で揃えた書類の束を抱えて歩く私は、今はエーレスタ騎士団の制服姿だった。
二の腕部分に槍を持つ竜騎士の姿があしらわれた紋章入りの制服は、基本的には白色で所々に青のラインが入っている。下は、女性騎士にはスカートもあるけれど、私はズボンを愛用していた。こちらも側面に青のラインが入った白基調のものだ。
その上に騎士身分を表す装飾の入った金属製の小さな胸当て、そして腰の剣帯に長剣を帯びれば、エーレスタ騎士の一般的な装いになる。
この服を着ると、自然と気持ちが引き締まる。
私は書類の束を握る手にギュッと力を込めながら、勢い良く歩みを速めた。
私が念願のエーレスタ騎士になってから、もう一年が経とうとしていた。
最初は鏡を見る度に照れてしまっていたこの格好も、今ではすっかり板に付いているという自負があった。
私も、すっかり騎士様なのだ。
あの時、私を、私の家族を助けてくれた、あの騎士様と同じ……。
自然と微笑んでしまう。
うむむ。
はっとする。
いけない、いけない。
私は小さく頭を振って表情を引き締めた。
気を抜いてはいけない。
騎士になれたとはいえ、私は未だ入団したての3尉騎士。まだまだ新米で、一般の兵卒を除けば階級は一番下なのだ。憧れの正騎士位、1尉騎士になるための昇任試験資格を得られるのも、まだまだ当分先の事。まして正騎士のさらに上に君臨する最高階級、竜騎士など、夢のまた夢なのだから……。
「カーライル」
不意に背後から呼び止められる。
「はい!」
私は反射的にぱっと振り返った。
「新たに搬入された武具の検品だが……」
背後から私を呼び止めたのは、私の部署の先輩騎士だった。ひょろりと高い背に眠たげな眼差しが特徴的なマーク先輩だ。
私は書類を胸に抱いて、パタパタとマーク先輩に駆け寄った。
「お疲れ様です、先輩!」
背の低い私からでは、背の高い先輩を見上げる形になってしまう。いや、先輩でなくても、大概の人に対してはそうなってしまうのだが……。
「ああ。それで検品だが……」
「それならば、すでにリストをまとめてあります。どうぞ」
私は抱えた書類の中から数枚を抜き出し、先輩に差し出した。
「出来てるのか。さすが仕事が早いな」
ふっ。
伊達に早起きしている訳ではない。
マーク先輩が私の書類を手にしながら歩き出す。大股の先輩に遅れない様に、私も早足でその後に続いた。
「それと、今度の食糧買い付けの件だが……」
「前回の出征時の支出から逆算して、見積を出してみました」
私はまた別の書類を取り出すと、さっと先輩に差し出した。
「おっ、おお……」
少し目を丸くしてこちらを見る先輩。
ふっ。
昨日残業した甲斐があったというものだ。
「カーライルがいてくれると助かるな」
マーク先輩がいつもの覇気のない笑顔を浮かべながら私を見た。
「管理課の仕事は裏方だからな。なり手がいなくていつも困っているんだが、いや、助かるよ」
先輩に褒めてもらって緩みそうになる頬を引き締め、私はまだまだですと神妙に答えておく事にした。
現在の私の所属は、エーレスタ騎士団第3大隊基幹中隊所属管理課付きという扱いになっていた。第3大隊に所属しながら、騎士団の運営事務を行う部署にも籍をおいているのだ。
エーレスタ騎士公国は、その名前が示す通り騎士によって構成された国だ。
もともとエーレスタ騎士団は、サン・ラブール条約に基づき、大陸最強の力である竜騎士を国際的に管理するために作られた軍隊だった。
当時の諸王国が、強大な力をもつ竜騎士の力を独占しない様に、また、竜騎士どうしの凄惨な争いを防ぐために、条約加盟国の共同管理する軍隊としてエーレスタ騎士団を創設したのだ。
当初は竜騎士を中心に各国の軍隊を寄せ集めただけの組織だったエーレスタ騎士団だったが、その後サン・ラブール条約同盟国以外からの侵略者や大陸外の蛮族の侵攻撃退、国内の治安維持などでその力を示し、徐々にその権限を拡大させていく事になった。そして現在では、騎士団長に封じられた騎士公が元首を務める半独立国として扱われるまでになっていた。
小国並みの広さを誇る直轄領には肥沃な農地、街道の要衝たる街や好立地の港町までも擁し、現在ではその国力は、盟主たる条約同盟国内の小国など既に越えてしまっているのではと称されるまでになっていた。
「オルギスラが動いているらしいからな。俺たちも増々忙しくなる。頼むぞ、カーライル」
管理課の執務室に向かいながら、ぼそぼそとそう告げたマーク先輩が中庭の方へと視線を送った。
「頑張ります」
そう返事しながら、私は少しだけ眉をひそめた。
オルギスラ帝国がここエーレスタにまで侵攻して来るのではという噂は、最近よく耳にする。
マーク先輩を追いかけながら、私もそっと窓の外を見た。
陽光を浴びてキラキラと輝く木々の枝葉の下、いくつかの騎士小隊が隊列変更や剣術の訓練をしているのが見えた。彼らの制服の上衣が軽やかに翻り、キビキビとしたその動きに華を添えていた。威勢のいい掛け声や練習用の剣がぶつかる激しい音が、ここまで響いて来る。
戦闘訓練をしている彼らも、こうして書類を抱えて走り回っている私やマーク先輩みたいな事務担当者も、みな同じ騎士団の制服を身に着けていた。
軍人だけでなく、一般的な国でいうところの文官や様々な官吏、技術者といった本来は軍属ではない者たちも、ここエーレスタでは全て騎士たちが務めていた。
ローレント大公さまも騎士だし、大公さまを支える行政府の職員も皆騎士位を持つ者たちだ。
エーレスタ騎士公国は、文字通り騎士にたちによって成り立っている国なのだ。
私は早足で階段を上りながら、少しだけ顔を伏せて目を細めた。
事務や様々な雑務もこの国では騎士の仕事とはいえ、やはり騎士の本分は剣を手にして戦う事だと思う。
私も、もっと自分を鍛えて、より強くなりたいと思う。本当にオルギスラ帝国が攻めてくるなら、尚の事実戦に備えておかなくては……。
私の先を行くマーク先輩が、階段の上にある古めかしく大きな扉をがちゃりと開いた。
私は思考を中断し、慌てて先輩の後に続いた。いつの間にか管理課の執務室に到着してしまっていた様だ。
「只今戻りました」
「戻りました!」
執務室内に、マーク先輩の覇気のない声と私の大きな声が響く。
せかせかと動き回る同僚たちと積み上がった資料の向こうから、私とマーク先輩の上司がヒラヒラと手を振るのが見えた。
ここが隊務管理課の執務室。いまの私の職場だ。
奥行きのある細長い形をした執務室内には、所狭しと大きな事務机が並んでいた。さらに、壁を覆い尽くす無数の書庫と本、それに机の上に積み上がる書類たちが、異様な圧迫感を作り出していた。
私は積み上がった書類に引っ掛けてしまわない様に剣帯から長剣を外すと、体を横にしながら自分の机へと向かった。
机の脇に剣をそっと立てかけてポスっと椅子に腰掛けると、ふっと一息吐く。それから早速、私は書類の確認作業に入った。
インクと古い紙の匂いが微かに漂っている。誰かがペンを走らせる音や書類をめくる音が、忙しなく響いていた。
管理課のみんなが、黙々と仕事をこなしている。もちろん、私も。
管理課の業務は、騎士の仕事としては地味だ。実際、マーク先輩が言っていた様に、管理課勤務を志願する人は少ない。私もこちらの部署に推挙されるまでは、騎士にこんな仕事があるなんて知らなかった。
想像していた騎士生活とは違うけど、最初から華々しく活躍出来るとは思っていない。まずは、目の前の仕事をコツコツこなすのが大事なのだ。
……日々の鍛錬が重要だと、故郷の領主さまもおっしゃていた。
私に読み書きを教えてくれた上にエーレスタ騎士団に入れるよう推薦してくれた領主さまや、笑顔で送り出してくれたお父さんお母さんの為にも頑張らなくてはならない。
私は大きく息を吸い込むと、密かにむんっと気合いを入れた。
「セナちゃん。これのチェックをお願い」
上司の老騎士が書類の束を持ってやって来る。私はさっと立ち上がると表情を引き締め、コクリと頷いた。
「カーライル。食堂の納品の立ち会い、頼めるか」
今度は別の方から声が掛かる。
「行きます!」
私は束ねた髪を振ってそちらを向くと、声を上げた。
「セナちゃんは働き者だ。若いのに感心だね」
好々爺然とした老騎士の上司が、柔らかい笑みを浮かべながらそっと私に小さな紙包みを差し出して来た。
「飴玉だよ。甘いものでも食べて頑張りなさい」
紙包みを受け取る。
飴……お菓子。
私は少し目を大きくする。
甘いのは好きだ。
甘いものを食べると、どんなに疲れていてもほうっと幸せな気分になる。実家にいるときは、飴玉なんてめったに食べられなかったし……。
……何味かな。
私は手の中の包をしげしげと見つめる。
「ふっ。良い笑顔だね」
……はっ。
顔を上げると、老騎士の上司がはははと笑いながら自席に戻って行くところだった。
うむむ、しまった……。
思わず気を抜いて微笑んでしまったみたいだ……。
飴玉をもらって喜んでいるなんて、何だか子供みたいで気恥ずかしくなる。羞恥心で頬が赤くなるのを感じるが、私は無理やり表情を引き締めた。
ダメだ、ダメだ。
立派な騎士様はいつも凛としていなければならないのだ。にへらと笑ってなんていられない。
……よし!
「カーライル! 立ち会い!」
マーク先輩が書類の山の向こうから声を上げる。
「はい、今行きます!」
私は取り敢えず飴玉をポケットにしまうと、さっと必要書類をまとめて席を立った。
空が徐々に茜に染まる。
お日様がゆっくりと山の向こうに沈み、また夜がやって来ると、魔晶石の作り出す柔らかで淡い魔素の明かりが、エーレスタの街並みを照らし始める。
田舎では未だに夜明けと共に目覚めて日没と共に家に帰るのが当たり前だが、魔晶石による街灯が整備されたエーレスタの夜は、昼間とはまた違う活気が満ちる時間だった。
ファレス・ライト城内も、夕刻になると俄かに賑やかになり始める。
丁度この時間が、エーレスタの街と城の警備を担う部隊が日勤と夜番を交代するタイミングなのだ。
日勤を終えた部隊がぞろぞろと城へ帰還し、指揮官クラスの引き継ぎが行われた後、夜番の隊が出て行く。主にこの警備を主に担うのが、私の元隊である第3大隊なのだ。
私は書類の束を胸に抱く様にして抱えながら、隊務管理課の執務室の窓から1日の仕事を終えて帰還して来る隊のみんなを見ていた。
ふうっと深くため息を吐く。
この交代の光景を見ると、また1日が終わったなという気がしてくる。
マーク先輩に命じられた納品立ち会い、その結果報告書作成と書類整理。飴の上司から命じられた書類チェックに、その他突発的な案件を色々と処理している間に、あっという間に今日が過ぎ去ってしまった。
飴、おいしかったな……。
エーレスタに来てからもう一年。
こんな事務仕事ばかりしていて、本当に私は立派な騎士さまになれるのだろうか……。
そんな不安がチクリと胸を刺す。
いつもは頑張ろう頑張ろうと自分に言い聞かせているが、日の光がゆっくりと薄れて夜に変わってしまうこんな時間は、どうも少し弱気になってしまう様だった。
目の焦点をずらすと、窓ガラスに映った小柄な女の子が不安そうにこちらを見ていた。
こうしていると、あんなに似合っていると思っていた騎士団の制服も何だか分不相応なものに見えて来るから不思議だ。
私は城の屋根の向こう、茜よりも群青が濃くなり始めた空をそっと見上げた。
「邪魔するぞ」
こちらも退庁時間が迫り賑やかになり始めた管理課の執務室内に、不意に良く通る低い声が響いた。
ついつい物思いに耽っていた私は、その声の方へと目を向けた。
「よう、セナ・カーライル。今日も小さいな」
執務室にずかずかと入って来た男性騎士は、私と目が合うとにっと爽やかな笑みを浮かべて声を掛けてきた。
「お疲れ様です、オレット副士長」
私はオレットさんの失礼な言葉をさらりと受け流し、軽く一礼した。
オレットさんは人好きのする笑みを湛えたまま、他の課員たちに挨拶しながら真っ直ぐに私の方へとやって来た。
彼はエーレスタ騎士団第2大隊第2中隊の副隊長。副騎士長の階級にあるエーレスタ騎士団の幹部騎士だ。
しかし幹部といっても歳はまだ30前だったと思う。いつも不敵な笑みを浮かべ飄々としていて、私たちみたいな下っ端騎士にも気軽に話し掛けてくれる人だ。そのためか、あまり偉い人というイメージがない。
少し長めの黒い髪と整った顔立ち、それにスマートだがきちんと鍛えられた体型をしていて、いかにも手練れの者のといった雰囲気を漂わせているオレットさんだが、不精髭と常に安物の紙煙草を手にしているその姿は、騎士というよりもまるで在野の傭兵の様だった。
女子寮のみんなからは、そこがワイルドで良いなんて言われていたりするのだけど……。
「相変わらずのしかめっ面だな、お前は。ほら、笑っていた方が可愛いぞ」
ぽんぽんと私の頭に手を置くオレットさん。
ぐむむ……。
私はオレットさんを睨み上げながらその手をどける。
「はは、顎の下を撫でてやろう。ゴロゴロしろ」
……私は猫ではない。
「副士長。ご用事は何でしょう」
伸びてくる太い腕をひらりとかわし、私はオレットさんの冗談をぴしゃりと切り捨てた。ついでに冷たい目で睨んでみる。
オレットさんの冗談に付き合っていると、際限なく話が脱線していくのだ。
「ん、ああ、セナに一言礼を言いたくてな。傷薬やらなんやらの消耗品の補充、助かったよ。うちの隊は荒くれが多いからな。直ぐに在庫が無くなるんだ」
オレットさんはおもむろに近くの机へと腰掛けた。そして、ずいっと身を乗り出すと私を見てニヤリと笑う。
「早い、良い仕事だ。頑張ったな」
う、うむっ……。
私は思わずオレットさんから視線を逸らした。
「……あ、ありがとうございます」
不意に褒められ、不覚にもドキリとしてしまった。
うむむ、誉め殺しになど負けないもん……。
しかし、評価された事は素直に嬉しい。気を抜くと思わず頬が緩んでしまいそうになるが、私はぐっと意識して澄まし顔を維持した。
ヘラヘラニコニコ笑っていては、子供みたいで騎士に相応しくないと思うのだ。私の憧れの騎士様は、綺麗で凛としていて……。
私はそっと小さく溜め息をを吐く。
そうだ。
憧れの騎士様に近付くためにも……。
「……副士長」
「何だ?」
僅かな逡巡の後、私は書類をぎゅっと握り締め、ニヤニヤしながらこちらを見るオレットさんを見上げる様に窺った。
「えっと、その、先日からお願いしている件なんですが……」
「何だったかな」
ポケットから取り出した煙草を玩ぶオレットさん。
「剣の稽古をお願いしていた件です!」
オレットさんのとぼける様な態度に、私は頬を膨らませて抗議する。
私は以前から、オレットさんに剣の稽古をつけてもらえないかとお願いしていた。
隊も階級も違うオレットさんにお願いしているのは、オレットさんが気さくな人柄で話し掛けやすかったからではない。
純粋に、オレットさんの剣技に憧れているのだ。
傭兵上がりにありがちな力攻めの剣ではない。貴族や他国の騎士団出身者にありがちな技巧に偏った剣でもない。
オレットさんはあくまでも自然体で、流れる様に剣を操る。その姿は、美しいとすら思えたのだ。
私もあんな風に剣を扱えたら……。
そう思って、私は思い切ってオレットさんに声を掛けた。
もうあれも、随分前の事に思えるが……。
「失っ礼しまーす!」
そんな私の回想は、執務室内に響いた大きな声に遮られてしまった。
ああ、この声は……。
「セナっ! 帰るよ! 帰ろうよ! さあっ、一緒に帰るよ!」
雑然とした執務室に高い少女の声が響き渡る。
みんなの視線が一斉に集まる中、スラリとした長身に綺麗な金髪をなびかせた少女が勢い良くこちらに駆け寄って来た。
「アメル……」
皆と同じエーレスタ騎士団の制服を身に付けたその少女は、私と同じ部屋で暮らしている同僚の騎士アメル・ファルツだった。
ファルツ子爵家の息女であるアメルは、黙っていれば絵に描いた様な美人のお嬢さまだが、幾分元気が良すぎるというか、勢いが良すぎるところがあるのだ。
「もう、セナっ。今朝も起きたらもういなかったし、私、寂しかったんだよ!」
大袈裟に声を上げたアメルが、勢い良く私に抱き付いてくる。
ふわりと彼女の甘い香りが漂う。
……彼女は、何故かこうして私にくっ付いて来るのだ。私が唖然とする様な勢いで、いつもいつも……。
「アメル、鎧がいたい……」
背が高いアメルに抱き締められると、背の低い私は必然的に彼女の装備した胸当てにむぎゅむぎゅと顔を押し当てる形になってしまう。
アメルは、身長だけでなく筋力も私より強い。少々私が抵抗したところで、その抱擁から脱出する事が出来ないのは、これまでの経験から理解していた。
「ああ、やっぱり可愛いね、セナは!」
「離して、アメル……」
「柔らかくて小さくて可愛い!」
「みんなみてるから……」
満足そうにギュッと私を抱きしめるアメル。それとは対照的に、私は既に諦めモードで、アメルになされるがままだった。
一応助けを求める様にアメルの腕の隙間から周囲を窺うと、執務室内の他の先輩方や上司のみんなは、微笑ましそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。オレットさんも、ニヤニヤ笑いながらこちらを見ている。
……いつもの事ながら、援軍はない。
「アメル、私はまだ仕事があるから……」
「えー! 昨日も残業してたのに!」
私の言葉に、アメルが頬を膨らませた。
「カーライル。今日はもう帰っていいぞ。色々頑張っていたからな。お疲れ様。また明日よろしく頼む」
そのタイミングで、マーク先輩がそんな台詞を投げ掛けて来た。
えっと……。
「よし、帰ろ、一緒に!」
一瞬にしてぱっと顔を輝かせたアメルが、一旦私を解放する。しかし次の瞬間には、がしっと私の腕をとり、ずいずいと引っ張り始めた。
「あ、えっと……」
私はなす術もなくアメルに引っ張られる。
……自分の非力が恨めしい。
「今晩はセナと一緒にご飯だ!」
「アメル、私はオレットさんと剣の稽古を……」
引っ張られながら私はオレットさんに視線を送った。
「また今度な、セナ・カーライル。お疲れ」
軽薄そうにひらひらと手を振るオレットさん。
結局私は、そのまま退庁する事になってしまった。
こんな風にアメルが私を迎えに来る事は少なくなく、管理課の同僚たちもすっかり慣れっこになってしまっているみたいだ。もちろん本当に忙しい日は帰してくれないので、今日は本当にタイミングが良かったのだろう。
何はともあれ、こうしてエーレスタ騎士団での私の日々が、また一日終わりを告げる。
帝国の動きやそれに伴う部隊の展開など不穏な空気は漂っているけれど、だいたいこれが、いつもと変わらない私の日常だった。
食事とお風呂を終えて寮の自室に戻った私とアメルは、パジャマに着替えて就寝の準備に入った。その間も永遠とお喋りを続けるアメルの話を聞き流しながら、私はそっと窓の外に目をやった。
明日もきっと、仕事と書類とアメルに追われるいつもの日常が待っている。
でも憧れの竜騎士を目指して、私たちを助けてくれたあの立派な騎士さんを目指して、私はまた頑張るのだ。
そのために私は、今この場所にいるのだから。