第16幕
微かに緑の匂いを孕んだ柔らかな風が開け放たれた馬車の窓から吹き込んで来ると、さらさらと私の髪を揺らした。
ごとごとと響く振動が心地よくて、馬車の座席に収まった私は先ほどから微睡みの淵を行ったり来たりしていた。
膝の上に乗せているアーフィリルが、ぽかぽかと温かい。
ふと目が覚めても、またいつの間にかくたっと全身の力が抜けてしまって、私はついつい隣に座るマリアちゃんにもたれ掛かってしまう。
「寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」
いつもより柔らかなマリアちゃんの声が、静かに響く。
「……うん、だいじょぶ」
私はぐりぐりと目を擦りながら、もぞりと体を戻した。
前の戦いで無理をしたせいで、まだ体全体が痛かった。3日ほどゆっくり休ませてもらったので、随分と回復はしたと思うのだけれど……。
体を包み込む疲労感とこの気持ちの良い陽気、さらにはディンドルフ大隊長が用意してくれた貴賓用高級馬車の乗り心地の良さも手伝って、先ほどから私は襲い来る眠気に抗えずにいた。
「……セナはこんなに小さいのに、一番頑張ってるんだから。移動中くらいは、ゆっくりと休みなさい」
どこか遠くで優しい声がする。
いつの間にか私は、また目を瞑ってしまっていた。
……私はもうエーレスタの騎士なのだから、子供扱いは止めて欲しい。
心の中でそう抗議してみるが、そのまま私はすうっと意識を失ってしまった。
深く心地いい眠りの底に落ちていく。
そうして、どれほど眠ってしまっていただろうか。
「……ナ」
ゆさゆさと体を揺さぶられる振動で、私はゆっくりと覚醒した。
「セナ、起きて」
マリアちゃんの声がする。
「ん……」
私は頭の下に感じる柔らかい感触に顔を埋める様に、うんっと小さく寝返りを打った。
まだ眠い。
何だか良い匂いがする……。
「セ、セナ、ちゃんと起きる!」
少し慌てた様なマリアちゃんの声が響いた。
うーんと唸りながらすっと目を開いて顔を上げると、マリアちゃんが半眼で私を見下ろしていた。
微かに頬を赤くして、少し恥ずかしそうにしているマリアちゃん。
……どうやら私は、いつの間にかマリアちゃんに膝枕してもらっていた様だ。
こちらもいつの間にか抱き締めていたアーフィリルを抱えたまま、私はもぞっと体を起こした。
『セナ、離して欲しいのだ。少し外の光景が見たいのだ』
珍しく興奮した様にアーフィリルが声を弾ませる。
私はふうっと長く息を吐いてから、アーフィリルを解放した。そして、思いっきり伸びをする。
「うんっ、くきゅ」
思わず声が零れてしまう。
『ふむ。これはなかなか』
「……凄いね」
馬車の窓に手を掛けたアーフィリルが、背伸びをして外を見つめていた。私を膝から下ろしたマリアちゃんも、反対側の窓に体を寄せて外を見つめていた。
2人の呟きが妙にかみ合っていて、まるで会話しているみたいだ。
私は、ふっと微笑んでしまう。
「どうしたの?」
窓の外に何かあるのだろうか。
私は目を擦りながら、アーフィリルの後ろから外を見た。
思わず、はっと息を呑む。
私やマリアちゃんが乗る馬車の直ぐ傍には、オレットさんやサリアさんたち私の護衛部隊のみんながいた。さらには、大きくカーブする街道に沿って延々と続くエーレスタ騎士団第2大隊主力部隊の隊列も見えた。
部隊旗や軍旗をひるがえし、万を超える騎士や兵の皆さんが行軍する姿は壮観だった。
しかしその光景よりも。
私の目は、街道の先に広がる巨大な城壁に釘付けになっていた。
メルズポートよりも遥かに大きく立派な城壁が、草原の向こうに見渡す限り広がっている。
私たちが今進んでいる街道も、その城壁の半ばにある巨大な城門の中へと続いていた。
その立派な城壁の内側には、幾つもの塔がそびえているのが見えた。さらには、街の奥の高台に向かって徐々に高くなっていく土地に合わせ、大小様々な家々がぎゅっと密集している光景も望む事が出来た。
その統一感のある赤屋根が、夏の日差しを浴びてキラキラと輝いている。
そして何といっても目を引くのが、その街の主として高台の上に広がる壮麗なお城の姿だった。
ファレス・ライト城。
私たちの国の中心。エーレスタ騎士公国の元首たるアベル・フォン・ローデント大公さまがいらっしゃるお城だ。
そして、私の憧れの竜騎士さまや竜たちの住まうお城でもある。
「……エーレスタだ」
窓の外に広がるそんな光景をじっと見つめながら、私はぽつりと呟いた。
……帰って来たんだ。
私たちの街に……!
一気に目が覚めてしまった。
随分と離れていた故郷に帰って来れた様な気がして、胸の奥底から熱いものがじわじわと込み上げてくる。
実際私がエーレスタの街に住んでいるのはまだ一年程度の事だし、今回の任務でエーレスタを離れていたのだって一月程度なのだ。
それでも、色々な、本当に色々な事があったから……。
ぎゅむっと唇を引き結んで溢れる感情を抑えようとしても、私の視界は勝手にうるうると潤んでしまう。
……また、エーレスタに帰ってこれたんだ。
「……こんなに大きな街があるなんて」
じっと窓の外を見つめるマリアちゃんは、目を丸めながらずっと感嘆の声を上げていた。
いつもは大人びた美人さんのマリアちゃんも、今は年相応の子供みたいに顔を輝かせ、エーレスタの街に見入っていた。
徐々に迫ってくるエーレスタの街並みは、竜山連峰の麓の小さな村で暮らして来たマリアちゃんにとっては、きっと新鮮な光景なのだろう。
私はマリアちゃんにばれない様にそっと目元を拭うと、ふっと微笑んだ。
後で自由な時間が確保出来れば、マリアちゃんにエーレスタの街を案内してあげるのもいいかもしれない。勝手知ったるエーレスタの街であれば、私もマリアちゃんに対して、年上のお姉さんとして本領を発揮出来る筈だ。
そうだ。
アメルにも紹介してあげよう。
私はそこで、僅かに眉をひそめた。
……アメル、元気かな。
『人間は、またもこれほどの建造物を築くまでになったのだな』
私の胸の前で背伸びして窓枠に前足を掛けるアーフィリルが、エーレスタの街を見つめながらぽつりと呟いた。
いつもの通り重々しい声に、何かを懐かしむ様な響きがあった。
『この様なものを作り上げるのが人間ならば、破壊し、消し去るのもまた人間だ。まったく、人間というものはつくづく面白いものだ』
アーフィリルが反り返って私を一瞥すると、パタパタと長い尻尾を振った。
……消し去る。
その透き通った緑の瞳を見つめ、私は思わず顔を曇らせた。
昨日通過したばかりのエレハム砦の事を思い出してしまう。
バーデル隊長たちとエーレスタを発った際にも立ち寄ったエレハム砦は、いかにも堅牢で立派な砦だった。
しかし昨日私たちが目の当たりにしたその砦は、無惨にもオルギスラ帝国軍の大砲に打ち崩され、ほぼ壊滅状態となってしまっていた。
第2大隊主力が反攻作戦を行う前。メルズポートからエーレスタへ抜けたオルギスラ帝国の部隊は、まずこのエレハム砦を攻略目標にした様だ。
恐らく砲撃型の機獣や移動式の大砲を大量に投入したのだろう帝国の砲撃により、砦そのものは破壊されてしまったが、エレハム砦守備部隊はそれでも奮然したそうだ。
結果、砦は陥落してしまったが、その間に態勢を整えた公都在留の第2大隊所属部隊や第3大隊が反撃。また竜騎士3騎をも動員し、エーレスタ騎士団は公都を目前にして帝国軍を退ける事に成功したのだ。
エーレスタに入る前にもう一戦は覚悟していた私たちは、そのおかげでこうしてすんなりと公都に入る事が出来た。
……戦っていたのは、私たちだけじゃない。
そんな事はわかっている筈なのだけれど、破壊されたエレハム砦を目の当たりにすれば、改めてそう考えずにはいられなかった。
公都エーレスタの目前で撃退された帝国軍は、街道を北東方向へ離脱。そのまま国境を超えると思われたが、現在に至るも一応はエーレスタの領内に止まり続けているそうだ。
メルズポート北会戦で帝国軍部隊とその増援の艦隊が敗れたという情報は既に伝わっているだろうに、未だにその部隊が撤退しない理由がわからない。
エーレスタに帰れたのは嬉しいけど、攻めて来た帝国軍の動向については、未だ油断出来ない状況だった。
私も一刻も早く体調を元に戻してどんな事態にも対応出来るよう、頑張って休んでおかなければ。
……よし!
私はまだ外を見つめているアーフィリルをむんずと抱き上げると、再び深く座席に座り直した。
『うむ? セナ。我はもう少し外界を観察しておきたいのだ』
アーフィリルがじたばたと羽と手足を動かして、身を捩った。
「じっとして。後でお散歩に連れて行ってあげるから」
体内の魔素を整える癒し効果があるらしいアーフィリルをぎゅっと抱き締めて、私は目を瞑った。
エーレスタ到着まで、もう少し寝ておこうと思う。
『セナよ。我は犬ではない。散歩はよいのだ』
アーフィリルは私の腕の中でぶつぶつと呟いていたが、やがて諦めてくれたのか、しゅんっと鼻を鳴らして大人しくなった。
『……ふむ。まぁ、慌てずとも良いか。これから機会はいくらでもあるのだからな。セナと共に行く限りは、な』
エーレスタの街に入った第2大隊は、早速駐屯地の設営に取り掛かった。
エーレスタ市街地を取り囲む3重の城壁。その1番外側の壁と2番目の壁との間を簡易の駐屯地にして、当分の間は緊急事態に対応出来る態勢を維持する事になるらしい。
城壁の中にはもちろん第2大隊の宿舎や本部もあるのだが、この外延部の方がいざという時に動きが取り易いそうだ。
もちろんエーレスタの街に自宅がある者には、交代で帰宅が認められる予定だと参謀さんは言っていたけど……。
せっかくエーレスタに帰りついても、まだまだ気は抜けない。状況はそれだけ良くないという事だ。
私もオーズさんたちの天幕の設営を手伝いながら、今後の事について色々と考えてみた。
私はもとの隊務管理課に戻るべきなのだろうか。それとも、このまま第2大隊と共に行くべきか……。
帝国軍をこのままにして、エーレスタに籠っているなんて、出来る筈がないけれど。
……それに、少しでもいいから一度女子寮にも戻りたいなと思う。
しかし、街に戻る許可も誰にもらっていいのか良くわからなかった。
そもそも私は、今も一応は第3大隊所属なのだ。
現在の直接の上司と思われるレーナ副隊長は、メルズポートで療養中だけど……。
私は物資集積所からもらって来た寝具類を敷布の上に並べてから、ふっと息を吐いて額の汗を拭った。
いくら高原で涼しいエーレスタといえども、動き回っていれば汗をかいてしまう。
「お嬢、ここはいいですから」
「はは、お嬢は座っていて下さいよ」
作業中のオーズさんたち兵士のみなさんが、私を見て笑った。
「大丈夫です。手伝います」
私はアーフィリルを頭に乗せたまま、ひらひらとスカートを揺らして次の荷物を取りに向かった。
新しいシーツをうんしょと抱えようとしていると、マントをはためかせながらオレットさんが足早に近付いて来た。
「セナ、何をしている。準備しろ。大隊長と一緒に城へ上がるぞ。騎士公さまがお待ちだ」
シーツを目いっぱい抱きかかえる私の前に、オレットさんが立った。
「私が騎士公さまに……?」
一瞬きょとんとしてしまう。
しかし次の瞬間、あっと思う。
正式には認められていないが、今の私は一応竜騎士という身分になっている。
竜騎士ならば、階級的には大隊長より上。大隊内では、大隊長と並んで最も偉い人という扱いになってしまう。
ならば、大隊長と一緒にローデント大公さまにご報告に向かうのも当たり前なのだけど……。
竜騎士ラルツさまは、国境の監視に向かってここにはいない。つまりは、私が竜騎士としてディンドルフ大隊長に1人で同行しなければならないのだ。
私はシーツをぎゅっと抱き締めて、顔を強ばらせた。
私が騎士公さまに謁見するなんて……。
騎士公さまの姿を直接目にしたのなんて、随分前に何かの式典で遥か遠くからお見かけした事ぐらいしか思い出せない。いくら普段お城務めしていても、ローデント大公さまは遥か雲の上の遠い存在なのだ。
それが、いきなり直接面会するなんて……。
思わず、胸の奥がきゅっとなってしまう。
「セナ?」
オレットさんが訝しげな顔をする。
「だ、大丈夫です。このまま行きます……」
私は口早にそう告げると、オレットさんに並んだ。
緊張で今から心臓がバクバクしているのがわかった。体全体が、ガチガチに強張ってしまう。
うむむむ……。
「……セナ」
オレットさんの低い声が響く。
「あ、はいっ!」
私は思わず大きな声を上げて、オレットさんを見上げた。
「そのシーツは置いて行きなさい」
はっ。
荷物を持ったままだった!
私はちょこちょこと物資が山積みになっている場所に駆け戻ると、シーツを下ろして再びオレットさんの隣に戻った。
ぬう……。
アーフィリルを頭の上に乗せた私とオレットさんは、金髪女性騎士のサリアさんを伴って、ディンドルフ大隊長や参謀さんたち第2大隊の高級将校さまたちと合流した。
ディンドルフ大隊長と私、それに参謀長さんが同じ高級馬車に乗り込むと、そのまま私たちはファレス・ライトお城へと向かった。
オレットさんやサリアさん、それに大隊長の部下の騎士の方々が、私たちの馬車の周りに付き従う。
馬車内では、参謀長さんが冗談を交えて色々と話をしてくれた。どうやら、緊張している私に気を使ってくれているみたいだ。
ディンドルフ大隊長も言葉数は少なかったけど、笑顔で私の戦い振りを褒めてくれた。さらには、高そうなお菓子までいただいてしまった。
バターの味が良く効いた焼き菓子は、まるで口の中で溶けてしまう様でおいしかったけど……。
お菓子の味にも懐かしいエーレスタの街並みにも、そして久々に戻って来たお城の風景にも、何だか私は素直に喜ぶ事が出来なかった。
これからローデント大公さまに直接謁見するという重圧に、どうしても眉間にシワが寄ってしまう。
お城に到着した私たちは、正門前大広場で馬車を降りるとディンドルフ大隊長を先頭にファレス・ライト城に入った。
依然オルギスラ帝国軍の脅威が消えていない状況下のため、お城の外側にも内側にも普段より遥かに沢山の警備の騎士さまたちが立っていた。
第3大隊の部隊章を付けた警備の騎士さまたちは、心なしかみんな厳しい表情をしていた。
そんな中を、私たちは鎧の音と軍靴の音を響かせながら進む。
すれ違う警備の騎士さまたちが、さっと私たちに道を譲って敬礼してくれた。
ディンドルフ大隊長や参謀長さんは手慣れた様子で答礼しながらどんどん進んでいくけど、私はきょろきょろと左右を向きながら何とか敬礼を返すので精一杯だった。
少し遅れてしまい、慌てて大隊長の隣に駆け戻る。
……もしかして、この警備の中にアメルがいないかなと思ってしまったけど。
残念ながら、アメルに出会う事は出来なかった。
「カーライル!」
「セナちゃんじゃないか」
アメルの代わりに、私は不意に知っている声に呼び止められた。
ローデント大公さまのいらっしゃる公城中心に向かう大廊下を進んでいる途中で、私たち一行に道を譲る様に廊下端で控えていた軽装鎧の騎士さんたちが声を上げたのだ。
私もそちらに気が付いて、目を丸くした。
「マーク先輩! それにみなさん!」
そこにいたのは、私の所属する部署、隊務管理課のみんなだった。
私の同僚たちだ。
私はディンドルフ大隊長に頭を下げて、ぱっとそちらに駆け寄った。背後から、オレットさんとサリアさんも私に付いて来た。
「みなさん、お久しぶりです!」
私は、ぱっと笑顔を浮かべながら敬礼した。
「無事だったのか」
いつも気だるげなマーク先輩が、驚いた様な顔をしている。その視線は、私の頭の上のアーフィリルに注がれていた。
「いやぁ、セナちゃん、良かった、良かった!」
上司のおじいちゃん騎士は、微かに涙ぐみながら私の肩をポンポンと叩いた。
「……はい!」
私もそれに釣られて、思わず涙が滲んでしまう。
色々話したい事が沢山あった。聞きたい事も一杯あった。
私は……。
「セナさま」
そこに、サリアさんがすっと近付いて来た。
「ディンドルフ閣下をお待たせしては……」
短く揃えた金髪を揺らし鋭い眼光を湛える目を細めたサリアさんが、膝を折って私に囁き掛ける。
……そうだった。
私は、すっと目元を拭った。
「あの、みなさん! また後ほど伺いますので!」
私は、勢いよくぺこりと頭を下げた。頭の上のアーフィリルが、一瞬飛び上がって上手く退避する。
「カーライル、それは……」
「セナちゃん、いったいどうしたんだい? あれは、聖騎士正の方か?」
マーク先輩とおじいちゃん上司が訝しげな表情を浮かべるが、私はもう一度軽く頭を下げてから踵を返し、ディンドルフ大隊長さまたちのもとへ戻った。
「失礼しました」
私は、待たせてしまったディンドルフ大隊長以下皆さんに向かって頭を下げた。
「隊の仲間か?」
再び歩き出しながら、ディンドルフ大隊長さまが私を見た。
「はい。あの、すみませんでした」
私は体の大きな大隊長を見上げて、もう一度謝った。
「よい。同じ隊の仲間は大事にしなさい」
ディンドルフ大隊長の低い声が、重々しく響いた。
「……はい!」
私はむんっと表情を引き締めて、力を込めて頷いた。
夏の日差しが射し込む城内を、私たちは奥へ奥へと向かって進む。
キラキラと輝く磨き上げられた廊下。様々な調度品や、壁や窓の精緻な装飾が作り上げる陰影。曇り1つ無い窓ガラスの向こうに広がる整えられた庭木の鮮やかな緑。
遠くから訓練をしている部隊の声が聞こえない事を除けば、お城の中には、こんな戦争が始まる前と何ら変わらない光景が広がっていた。
少し眠くなってしまいそうな、静かで穏やかな空気が満ちている。
今まであった事が、全て夢だったのではないかと思えてしまうような……。
……でも、違う。
私は、そっと息を吐いて小さく頭を振った。
頭上に感じるアーフィリルの重みは、確かにそこにあるのだ。
ファレス・ライト城の行政区画を抜けた私たちは、謁見の間を通り過ぎてしまう。そして、そのままローデント大公さまの公務区画に入った。
謁見の間に入るものだと思っていた私は、すこしびっくりしてしまう。
大公さまがいらっしゃる公務区画はさらに警備が厳重で、歩哨に立つのは第3大隊の騎士ではなく近衛隊の騎士さまだった。
もちろん私がこの区画に入るのは初めてだ。
ディンドルフ大隊長は迷う事なく内装が豪華になった廊下を進み、入り口に近衛騎士さまが2人立っている大きな扉の前で立ち止まった。
近衛騎士さまが敬礼し、扉を開けてくれる。
ローデント大公さまが、この中にいらっしゃるのだろうか……。
私は、大きく息を吸い込んでぎゅっと手を握りしめた。
その部屋は、奥の一面が大きな窓になっていた。柔らかな絨毯が敷き詰められた広い室内に、カーテンが開け放たれたその窓から、夏の午後の日差しが眩く降り注いでいた。
部屋の中心には、飴色のどっしりとした大きな机が置かれ、それを囲む様にソファーセットが配置されていた。
そちらに座る3人の騎士さま。いずれも立派な身なりから、偉い人なのだと思う。
壁際には分厚い本がびっしりと並ぶ本棚が配置されていたが、その前には直立不動の姿勢をとる騎士さまたちが並んでいた。こちらは、近衛騎士のみなさんみたいだ。
そして、部屋の奥。
陽光の降り注ぐ窓を背にする様に、大きな執務机が置かれていた。
「やあ、良く来たね」
黒い立派な机の向こうで、金色の髪を短く切り揃え、綺麗に髭を整えた壮年の男の人が、すっと立ち上がった。
にこやかな笑顔を浮かべるその顔には見覚えがあった。
ローデント大公さまだ……。
このエーレスタ騎士公国で一番偉い人だ!
ドキリと胸が鳴って、私は思わずその場で固まってしまった。
「良く戻られた、ディンドルフ殿」
「この度の戦、お疲れ様でした」
大公さまの前の立派なソファーセットから、3人のおじさん騎士たちが立ち上がった。
階級は、聖騎士と聖騎士正が2人。
エーレスタ騎士団の中でも竜騎士に次ぐ地位の方々ばかりだ。間違いなくエーレスタ最高幹部のみなさんだ。
「こちらも大変だった様だな。軍令卿、近衛騎士団長。それに政務卿も」
ディンドルフ大隊長はソファーのおじさん達に頷き掛けながら、ローデント大公の机の前に立った。
カツっと踵を合わせ、不動の姿勢を取る大隊長。
付き添いの第2大隊参謀長やオレットさんたちは、部屋の入り口の壁際に控えていた。
私は、大公さまの執務室に足を踏み入れた状態で固まったままだった。
どう動いていいのかわからない……。
一瞬、部屋の中がしんと静まり返った。
「……セナ。こちらに来なさい」
ディンドルフ大隊長が振り返り、私を見た。
ローデント大公さまやエーレスタの偉い方々も私を見た。
「わ、私も……!」
思わず声を上げてしまう。
ディンドルフ大隊長が、ゆっくりと頷いた。
緊張と恥ずかしさで、一瞬頭の中が真っ白になってしまう。
ううう……。
「セナ」
「は、はい!」
ディンドルフ大隊長にもう一度呼ばれて、私はスカートを揺らしながら慌ててローデント大公さまの執務机の前に向かった。
帰還の挨拶を終えた後、ディンドルフ大隊長はローデント大公さまに私の事を紹介してくれる。
8人目の竜騎士。
メルズポート北会戦の勝利の立役者。
そんな風に言われると、今度は先ほどとは違う意味で顔が真っ赤になってしまう。
ぎゅむっと唇を引き結んだ私は、ちらちらとローデント大公さまを窺いながらも、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
ローデント大公さまは、少したれ目の優しそうなおじさんといった容貌だった。身に着けている衣装や軽装の鎧はキラキラとした装飾の入った豪華なものだったが、偉い人独特の威圧感の様なものはなかった。
私が竜騎士だと聞いたローデント大公さまは、ほうっと少し目を丸くした。その視線が、私とアーフィリルを交互に捉えている。
一通り挨拶が終わると、私とディンドルフ大隊長はローデント大公さまに座る様に促され、他の偉い方々と一緒にソファーに座った。
大きな革張りのソファーはふかふか過ぎて、お尻が沈んでしまいそうになる。
私は慌ててバランスを取りながら、何とか膝を揃え、背筋を伸ばして姿勢を正した。頭の上のアーフィリルが、ぽすっと私の膝の上へと移動する。
それからしばらくは、第2大隊からの報告が行われた。
ディンドルフ大隊長の後ろに立った参謀長さんが、流れる様な口調で今回の一連の戦いの結果報告を行う。
淡々と読み上げられる味方の死者負傷者の数を聞くと、キュッと胸が苦しくなってしまう。
……それにこの犠牲者の数は、あくまでも第2大隊が把握している数でしかないのだ。
帝国軍に一時占領されていた地域の民間人の方々の被害や、エーレスタ領外で行われた防衛戦での被害把握は、まだ完全ではないらしい。
……アーフィリルの力を借りて守れた人もいると思うけど、守れなかった人も沢山いるんだ。
みんなが言ってくれる様に私が本当に竜騎士であるならば、もっともっとこの犠牲を減らせた筈だと思う。
もし、アルハイムさまみたいな竜騎士さまがいてくれたら……。
……頑張らなければと思う。
第2大隊の参謀長さんの次は、軍令卿さまの部下の騎士さまが公都側で起こった出来事について報告してくれた。
そのお話の内容は、あらかじめ聞いていた戦況報告とあまり変わりはなかった。
公都にいる3人の竜騎士さまたちのうち2名は、現在北部国境にいる帝国軍の警戒に出ているそうだ。
その報告が終わると、ローデント大公さまが再びディンドルフ大隊長に労いの言葉を掛けた。そして、私に向けてにこりと微笑み掛けてくれた。
「しかし、新たな竜騎士とはね。野の竜と契約したというのは本当かね?」
「は、はい!」
私はびくりと身をすくませながら、大きな声で返事した。
……声が、少し上擦ってしまった。
「アルナスの試練を経ずに竜騎士が生まれたのは、ここ100年ではなかった事だ。このエーレスタの地においても、野生の竜を見つけるのは困難だからね。オルギスラ帝国侵攻の折に、その野の竜と契約した竜騎士が生まれた事は、偶然ではないかもしれないね」
ローデント大公さまは微笑を湛えたまま目を細め、私を真っ直ぐに見つめる。
それは、エーレスタ騎士団の頂点に立つ方とは思えない様な、柔らかな笑みだった。
……物腰も柔らかだし、大公さま、怖そうな方ではないみたいだ。
一部では弱腰外交なんて評判も聞く事があるローデント大公さまだったけど、優しそうな方で良かったと私は心の中でほっと安堵していた。
「しかし、先ほどから膝に乗せているそれがまさか竜か? その様な小さな竜でこれほどの戦果。にわかには信じがたいな」
軍令卿さまが、腕組みをしながら不満そうに声を上げた。
「いや、軍令卿。その様な姿は、仮初めのものなのだ」
眉をひそめる軍令卿さまに、ディンドルフ大隊長が苦笑を返した。
……そういえば、第2大隊の司令部でも似た様なやりとりがあったっけ。
軍令卿さまは、大きな体と太い眉のいかにも武人といった趣の方だった。
その鋭い視線に睨まれ、私はむむっと体を強ばらせる。
……こちらの方は、少し怖い。
アーフィリルは自分の事が話題になっているからか、緑の瞳をくりくりさせながらキョロキョロと周囲を見回していた。
「セナ。お前の身に起こった事を報告しなさい」
「はいっ!」
ディンドルフ大隊長に促され、私はさっと席を立った。ポニーテールにまとめた髪が、背後でぴょこんと跳ねた。
私の膝から落ちてしまったアーフィリルが、ぴょんと跳ねてソファーの上に戻った。
私はバーデル隊長と任務に出たところから報告を始める。
噛んだり詰まったりおろおろしながら、バーデル隊に起こった出来事と私とアーフィリルの出会いについて報告する。
合わせて南部の村々の状況が酷いものであると何とか訴えてみるが、最後の方は緊張のせいで、自分でも何を言っているのか良くわからなくなってしまった……。
「わかった。座って良いよ」
ローデント大公さまはそう言うと、座席の背もたれに体を預け、額に手を当てた。
私はふらふらになりながら、ぽすっとソファーに腰掛けた。
ううう……。
上手く報告出来ただろうか。
……いや、ダメダメだった。
私はしゅんと肩を落とす。
疲れた……。
その私の膝に、待ちかねたかの様にもぞもぞと乗っかるアーフィリル。ちょこんとお座りしながら、しゅんっと小さく鼻を鳴らす。
「セナ君が竜騎士になれたのは喜ばしい限りだけど、バーデル卿が戦死か。これはよろしくないね、政務卿」
ローデント大公さまの言葉に、政務卿さまが大きく頷いた。
「はい。確実にウェリスタ王国のバーデル本家が何か言ってくるでしょうね。可能な限り、備えておきます」
政務卿さまも、厳しい表情だった。
政務卿さまも、聖騎士正の階級章を付けた制服を身に付けていた。しかし剣を持つ騎士さまというよりは、やはり隊務管理課にいる様な事務方の騎士さまといった雰囲気の方だった。
細面に鋭い眼光を放つ細い目が、どこか蛇を思わせる。
……大変失礼な感想かもしれないけど。
「また頭の痛い問題が増えたね」
ローデント大公さまは大きく溜め息を吐いた。
「この状況下でウェリスタとの関係が拗れるのは不味い」
「はっ」
政務卿さまがさっと頭を下げた。
「トラバースに対応させるか。あれは一応、バーデルの上司でもあるからね」
「はい。トラバース第3大隊長であれば、ウェリスタともパイプはございますでしょう」
政務卿さまは、ニヤリと笑みを浮かべながら頷いた。
ローデント大公さまは、ぱっと表情を切り替えると体を起こした。
「まぁ何はともあれ、セナ君。ご苦労だったね。君の正式な竜騎士叙任の式典は、オルギスラ帝国を完全に追い払ってからになるが、盛大に催そうと思う。何せエーレスタを守った英雄だ。国内外にも大々的に発表しよう。申し訳ないが、それまでしばらく待っていてくれ」
微笑みながら私を見る騎士公さま。
「えっと、は、はい、わかりました……」
私は思わず返事をしてしまうが……。
式典?
「……大公さま。この者の力、見定める必要があるのではないでしょうか?」
そこに、今まで沈黙を保っていた軍令卿さまの低い声が響いた。
ちらりとそちらを窺うと、こちらを睨む軍令卿さまと目があった。
私は、びくりと身をすくませる。
「この様な小さな子供が竜騎士などと……。エーレスタの国威が損なわれかねません」
軍令卿さまの言葉に、私は眉をひそめた。
私が子供に見られるのも軽んじられるのも別に構わない。でも、エーレスタの竜騎士の名に傷が付くのは嫌だ。
「何、心配ないさ。ディンドルフが確認しているなら、間違いなく彼女は竜騎士さ。そうだろう?」
重苦しい空気になってしまった私と軍令卿さまとは対象的に、変わらない明るい調子でローデント大公さまが笑った。
話を向けられたディンドルフ大隊長が、大きく頷いた。
「間違いなく。セナの力はまさに竜騎士の名に相応しい。白い花の竜騎士だと、兵も称えております」
大公さまをはじめ、全員が私を見る。
私はドキドキと胸を震わせながら顔を赤くして固まる事しか出来なかった。
その中で軍令卿さまだけが、微かに眉をひそめていた。
「それよりも政務卿。離宮の屋敷は準備出来ているね?」
ローデント大公さまは、今度は政務卿さまを横目で見た。
「はい。領地の選定については現在進めておりますが、屋敷と秘書官の手配は済んでおります」
「そうか。護衛隊は?」
「はっ。近衛からよりすぐりの騎士を選定致しました。今すぐに……」
近衛騎士団長さまが鎧を鳴らして起立した。
「いや、護衛隊はあそこに控えている我が隊のオレット副士長に任せようと思います。かの者は、セナとは旧知の間柄。その上、腕も立つ。現在もセナの護衛を任せてある。そのまま続投させたいと思います」
ディンドルフ大隊長の言葉に、政務卿さまが目を細めた。
「ふむ、そうか」
ローデント大公さまは笑顔のまま頷き、私を見た。
「それで良いかな?」
「……は、はい?」
私は一応返事をするが、何が良いのかはわからなかった。
……えっと、今までの話は私の事について、だったのだろうか。
領地に……秘書官?
私はただぽかんとしながら、小さく首を傾げた。
「セナ君はエーレスタ住まいかな」
そんな私などお構いなしに、ローデント大公さまが変わらずにこやかに問い掛けてくる。
「えっ、はい。騎士団の女子寮です」
私がそう返すと、大公さま満足そうに大きく頷いた。
「ならば、早急に居を移すといい。寮では万が一がないとも言えないからね。多大な働きをしてくれた君に今はこれぐらいしかして上げられないが、不満があれば遠慮なく言いなさい」
柔らかに微笑みながら私を見据えるローデント大公さま。
……引っ越し?
私が?
偉い人たちの話に付いていけず、私は眉をひそめるしかなかった。
「詳しい説明は秘書官からさせよう。レイランドを呼べ」
政務卿さまが、部屋の入り口に控える警備の騎士さんに向かって声を掛けた。
「竜騎士アーフィリル殿。今はこんな時世だが、大公さまのお言葉通り、何か必要なものがあれば気兼ねなく言って欲しい。可能な限り手配しよう」
政務卿さまが私に向かってにこりと微笑んだ。笑顔なのだけど、目だけが笑っていない独特な笑みだった。
私は背筋を伸ばして、はいっと返事する事しか出来なかった。
直ぐに先ほどの近衛騎士さんが、1人の男性を連れて戻って来た。
「失礼致します」
良く通る低い声が響く。
黒のフロックコートをきちりと着こなし、眼鏡を掛けた男の人が、きびきびとした動作で私たちに向かって一礼した。
すらりと背が高い。丁寧に撫で付けた黒髪と白いシャツ、そして眼鏡の奥の鋭い目線が印象的な人だった。
年はオレットさんと同じくらいだろうか。
きちりと整えられた身なりや隙のない動作から、何だか厳しそうな人だなと思ってしまう。表情もあまり読み取れなくて、気さくなオレットさんとは正反対の雰囲気の人だった。
その涼やかな視線が、私を捉える。
思わず私は、ドキリとしてしまう。
「レイランド。こちらが竜騎士セナ・アーフィリルさまだ。竜騎士というご身分について、良くお教えして差し上げろ」
「はっ」
政務卿さまの命令に、レイランドさんはもう一度敬礼した。
そして私の方に向き直ると、レイランドさんは改めて私の方へと頭を下げた。
「統帥部所属のレイランド副士長です。竜騎士アーフィリルさまの秘書官を務めさせていただきます。よろしくお願い致します」
私の秘書官……。
私は、ばっと立ち上がった。
「こ、こちらこそよろしくお願い致します……!」
状況が良くわからないまま、とりあえず私は勢い良く頭を下げる。
「セナ君。良ければ、今夜は晩餐に招待しよう。それまでは、新たな屋敷を確認しておくといいだろう」
私は、慌ててローデント大公さまに向き直った。
大公さまは、執務机に肘を着きながら微笑を浮かべて私を見ていた。
「会えて良かった。退室して良いよ、セナ・アーフィリル。今度会う時は、君の本当の姿というものを見せて欲しいな」
すっと目を細めるローデント大公さま。
「は、はい!」
私はカクカクと頷いてから、大公さまに向かってバッと敬礼した。
隣をチラリと見ると、ディンドルフ大隊長が軽く頷いてくれた。
私は軍令卿さまや政務卿さまにも一礼すると、むんずとアーフィリルを抱き上げた。
白くてふわふわのアーフィリルをそっと頭の上に乗せると、私は回れ右をする。そして躓かない様に気をつけながら、大きな扉に向かった。
背中に視線を感じる。皆さんが私に注目しているのがわかった。
しんと静まる室内に、私の胸のドキドキが聞こえてしまうのではないかと思ってしまう。
近衛騎士さまが扉を開いてくれる。
私に続いて、オレットさんにサリアさんも大公さまの執務室を出た。最後に、レイランドさんも私に続いた。
振り返り、ローデント大公さまに敬礼する私の前で、重い軋みを上げて扉がしまった。
その瞬間。
「……はぁ」
深い溜め息と共に、私はふらふらとよろけてしまった。
「大丈夫ですかっ!」
サリアさんが慌てて私を支えてくれる。
「だ、だいじょぶ、です……」
私はもう一度深く息を吐いてから、ふにゃっと微笑んでサリアさんを見上げた。
一瞬はっとした様なサリアさんだったが、直ぐに困った様に笑いながら私の頭の側頭部をそっと優しく撫でてくれた。
「……もう、しょうがないですね」
「まったく、万の敵に突っ込んで行く奴が、お偉いさんには弱いのか?」
サリアさんの隣で、オレットさんがニヤニヤと笑っていた。その手には既にタバコが挟まれていた。きっと今まで我慢していたのだろう。
私はむうっと眉をひそめてオレットさんを睨んでやった。
「あの、よろしいでしょうか、アーフィリルさま」
そこに背後から、低い声が響いた。
サリアさんにお礼を言ってから振り向くと、レイランドさんが眼鏡を押上ながら私を見ていた。
「早速ですが、アーフィリルさまのお屋敷にご案内致します。こちらへ」
言葉は丁寧だが、有無を言わせない堅い口調でそう告げたレイランドさんは、カツリと踵を鳴らして歩き出した。
私はオレットさんとサリアさんを見る。
2人が頷くのを見てから、私はスカートを揺らしてレイランドさんの後を追いかけた。
「あの、先ほど政務卿さまもおっしゃってましたが、秘書官とか領地というのは……」
足が長くて歩幅の広いレイランドさんを頑張って追い掛けながら、私はそんな疑問を投げ掛けてみた。
レイランドさんが目を細め、ギロリと私を見下ろした。
私は、思わずうっと気圧されてしまう。
「竜騎士は、エーレスタの中で唯一独自に領地を保有する事が認められているんだ。それに合わせて、少数だが自分の部隊を保有する事も認められている。竜がいない場合の身辺警護とか、その領地の治安維持なんかのためにな」
レイランドさんよりも先に、オレットさんが答えてくれた。
……ふむ、なるほど。
それが先ほど話題になっていた護衛隊という事か。
「殆どの竜騎士の方々は、秘書官に領地の運営を任され、ここ公都のお屋敷で生活されています。アーフィリルさまもご方針が決まれば、お申し付け下さい。ご領地の運営については、私が抜かりなく手配致しますので」
レイランドさんは静かにそう告げると、軽く私に頭を下げた。
領地を貰えるとかいわれても、私には全く実感がわかなかった。
領主……。
ハロルドおじいちゃんみたいな?
……うーん。
しかし、竜騎士さまにそんな権限があるなんて知らなかった。
隊務管理課で、一般騎士の身分や待遇についてのあれこれは色々勉強したつもりだったけど、竜騎士さまの身分がどんなものかというのは、あまり良く知らなかったなと思う。
まさか自分がその立場に立って知る事になるとは、夢にも思わなかったけど……。
いや、もともと竜騎士になるのが目標だったのだから、これでよかったのだろうか。
レイランドさんは、ローデント大公さまの執務区画をさっさと抜けるとお城の中庭に入った。そしてそのまま緑の匂いが濃く漂う中庭を通り過ぎ、お城の外へと出てしまう。
私はレイランドさんの背中を見つめながら、眉をひそめて考え込む。
……そもそも私は、このまま竜騎士さまになっても良いのだろうか。
アーフィリルがいるとはいえ、私自身が竜騎士さまに相応しいかといえば、どうしても疑問が残ってしまう。
私は唇を尖らせながら、ふっと息を吐いた。
レイランドさんが向かったのは、ファレス・ライト城の中でもさらに厳重に内壁が張り巡らされた区画だった。
この場所は、以前オレットさんにも連れて来てもらった事がある。竜騎士さまを統括する竜騎士隊の司令部や、竜たちが休む竜舎がある区画だ。
警備の近衛騎士さまが、私たちに向かってさっと敬礼した。
以前は正面の門から入ってそのまま真っ直ぐ竜舎に向かったけど、今回はその石畳の道から直ぐに脇の細い道に入った。
両側に緑の芝生が迫る狭い小道を進んでいく。道幅は、ちょど馬車が一台通れるくらいだろうか。
きちんと手入れが行き届いていて、何だか可愛らしい小道だった。
「……でも、まだ正式に竜騎士さまに任命された訳じゃないのに、こんな場所にお屋敷だなんて、いいんでしょうか?」
私は小道の左右を彩る花壇に目をやりながら、ぽつりと呟いた。
花の匂いを感じるのか、アーフィリルもキョロキョロと周囲を見回しているのがわかった。
エーレスタに戻れば、またアメルと寮の部屋で過ごすものだと思っていたけど……。
「もちろんです。政務卿さまは、エーレスタ防衛の功労者であるアーフィリルさまには、出来る限り便宜を図りたいとお考えなのです」
レイランドさんが、私を見てふっと薄く微笑んだ。
背後で、オレットさんがふんっと鼻を鳴らした。
私は目を伏せる。
……一緒じゃなくなるってわかったら、アメル、きっと怒るだろうな。
「さぁ、着きましたよ」
レイランドさんの声に、私は顔を上げた。
小道を抜けた先には、二階建ての古そうなお屋敷が建っていた。
少し弱くなった午後の日差しの中。
苔むした石造りの壁に並ぶ木枠の窓が可愛らしいお屋敷が、濃い緑に囲まれて佇んでいた。
心地よい風がさっと吹き抜ける。
お屋敷を取り囲む木々が、ざあっと葉を鳴らした。
正面の車寄せも石畳も、屋根の上の煙突も古びて見えるけど、きちんと手入れがされているみたいだった。
お屋敷の周りの芝生も綺麗に刈られ、花壇には色とりどりの花が咲いていた。
「さぁ、こちらが今日から、竜騎士セナ・アーフィリルさまのお住まいとなるのです」
フロックコートの裾を揺らしながらそのお屋敷を背にしたレイランドさんが、私に向かってさっと一礼した。