前編
君を思うと、幸せな気持ちになる。
君に見える刻を、待ち望む。
兎に角それは不思議な感覚だった。
違和感こそあるものの、暖かく気持ち良い。久しぶりの休みの日にする二度寝のような、今日はダラダラしていられるという安心感。揺りかごにゆられて微睡む昼寝のような。
幸せだ。
今までずっと忙しく働いてきた。息をつく暇もなかったように思う。だからこそ、この、何気ない余裕のある時間が、何よりも幸せなんだ。
夢うつつな面持ちで、愛情深い何かに守られてうとうとするこの時間が、これからもずっと続くと思っていた。
【16】
ここはどこだろう?
波に揺られながらたゆたっているような感じだ。目を開けて周りを見ようとするが、なんだかよくわからない。
手足を伸ばそうとしても思うほど伸ばせず、少し狭い場所だった。しかし、その狭さがまた心地よいのだ。
小さい子なんかは、狭い所が好きだと聞く。もちろん、嫌い、苦手という子もいるだろうが、姪っ子が小さい頃よく狭い所に埋もれていたことを思い出し、なんだか懐かしく微笑ましい気持ちになる。
暖かい気持ちとともに、ぼんやりとした夢を見ていた。
【18】
また同じ夢を見た。前とおなじような状況で、温かい場所で。
いつも同じ格好をしているのもなんだしと思い、軽くのびをしてみる。
っひゃあ!
ーー今のはなんだ?
なんだか、驚きとともに、うれしくも思う。なぜ伸びだけでそう思うのか、不思議ではあるが夢ならあり得るかとも思い、深く気にしないことにした。
ふと、何故だかなでられているような気がした。慈しむように、愛おしくて仕方ないというように。
うーん、夢にまで見るなんて、愛情に飢えているのだろうか。
まあ夢なのだし、こういうこともたまにはいいだろう。
【20】
ドクンドクンと、耳に心地よい音が響く。これは自分の心臓の音だろうか?ゴウンゴウン、ゴォゴォゴォゴォ、ギュルギュル、といった雑音に紛れ、その心音はやけにはっきりと耳に残ることに気がついた。
普段はちょっとの物音でも気にして眠れない程、神経質になるというのに、なんの音だかわからない雑音でさえも子守唄のようだ。ただ、今寝てしまうのはもったいない。…夢の中で寝るというのもおかしな話だが。
それにしても気持ち良い所だ。何度も似たような夢を見るというのはおかしなことだが、まあこういうこともあるだろうと気にしないことにした。夢だからか意識がはっきりしていないせいもあると思う。ただ最近は、物音がはっきりしてきたような気がする。
【24】
まるでぬるま湯に浸かったように暖かいここに、いつまでもいたい。いつまでも冷めない、常時適切な温度を保っているのだ。夢なら覚めないでほしい。いや、夢だと分かっているが、居心地良すぎるのでそう思ってしまうのだ。そんなまったりした時間をあざ笑うかのように、突然強烈な光が、容赦なく降り注がれる。
ま、眩しい。
抗議の意味も込めて、腕を突き出してみる。
っっっ!
びっくりした感情と、戸惑う気持ち。
強烈な光はまだ降り止まない。今までカーテン越しの夕日くらいの明暗だったのに、いきなりこれは辛いぞ。
眩しいぞ、眩しいぞ。
ほら、あんまりびっくりしたから動悸が激しい。腕だけじゃ足りず、足も繰り出した。
慌てたような気持ちの後に、やっと柔らかな光に戻った。
ふう。一息つき、やっと落ち着きをとりもどしたが、落ち着いているはずなのに慌てているという、妙な心持ちになった。
その後も何度か突然眩しくなることが続いたが、その度に実力行使に及んでいたら、そのうちなくなった。ただ時々少し明るくなったりしたが、気にならない程度だったので気にしないことにした。
【25】
人の話し声が聞こえる。それも、また変わった感じに聞こえるのだ。なんだかすごくくぐもったように聞こえる。そう、まるで水の中に居る時のような…
そんな、はっきりしない人声であるのでなにを言っているのかわからない。
ただ、初めて夢に自分以外の人が出てきたので感動した。
ずっと自分しか登場人物がいない夢をみてきたからだろうか、変な話し声でも嬉しかった。嬉しくてつい足踏みすると、びっくりした。
いや訳分からん。自分がびっくりした訳ではないのに、びっくりした?
弾んだ、明るい声がする。声の主が笑っているんだと思った。
ずっと笑っていたらいいのに。
【26】
最近、誰かの鼻歌みたいな旋律が聞こえることがある。
鼓動の音に邪魔されて何の歌なのかは分からないが、心安らかにハミングしているのが分かった。
鼻歌が聞こえているときはいつも、歌い手が明るい気持ちになっているのが何故か察せれた。甘く、優しい。
幸せだ。
こんな気持ちで歌って貰っている相手は、さぞや幸せだろう。
歌い手が優しい気持ちだと嬉しい。そして、前から夢で聞く声の主だと気付いた。間違いない。柔らかい声質は女性のものだろう。
しかし、たまにイライラしたり、悲しんだりしているときもある。そういうときは辛い。ただ、長くは続かないのが救いか。慰めるように腕を突っ張ってみたり、足踏みしてみると、少ししたら落ち着くみたいだ。なぜ自分が動いたらそうなるのかはわからないが、その後には必ず、なでられている気分になるのだ。
幸せだ。
【27-1】
ドウンッ
痛っ
な、なんだ?
寝ているところを、いきなり痛みと共に起こされた。
女性の叫び声。それと共に感じる、激しい焦燥、不安、深い悲しみ。我を忘れて叫び続ける彼女の声と、ごちゃ混ぜになる感情は、夢の中なのに妙にリアルだ。
嫌がりながら必死に何かを守ろうとする、切羽詰まった彼女の声に、まだ続く鈍い痛みも忘れ、なんとか出来ないものだろうかと思う。彼女には悲しんでほしくない。彼女が辛かったら自分も辛いのだ。
だが自分には何ができるのだろう。この夢、思った程自分の思い通りにはならないのだ。夢なら夢らしく、思い通りになってもいいもんだが。なんだか視界もはっきりしないし。目を開けても、薄暗いオレンジ色の世界には何もない。確かに彼女の存在を感じるのに、彼女がどこにいるのか分からないのだ。
どうしたものか。
【27-2】
あの後夢が続かず、また夢を見たときには彼女は大分憔悴しているようだった。なんだか夢を続けて見るのもおかしな話だが、彼女が心配だったのでそんな疑問もすぐ消えた。
何故憔悴?
今思うと、彼女は誰かに襲われたようだった。憔悴しているということは、最悪襲われてそのまま拉致られた?未だに感じる不安と悲しみ、強くなる焦燥、それに加えて恐れといった感情から推測するに、安全な場所にはいないのだろう。自分で逃げられないほど怪我を負ったか、監禁されているか。彼女一人なのか、他にも拉致被害者がいるのか。彼女の声の他は、自分の鼓動と洗濯機を回しているような音しか聞こえないから、周りのことが一切分からない。
幸いなことに、痛みは感じてない。とにかく今の自分に出来ることをしよう。
トントン。
足踏み。ただの足踏みと侮るなかれ。これはれっきとした彼女との交信手段なのだ。腕を突っ張って伸びでもいい。頭突きもだ。ただ、頭突きはびっくりする。
ほら、彼女から安心感とちょっとの喜びが伝わり、悲しみは感じられなくなった。緊張感は続いているものの、ちゃんとこちらの慰めは通用したようだ。
トントン。独りじゃないから元気出せ。
それからも、夢が覚めるまで彼女を慰めた。
【27-3】前
困った。
未だに焦燥や恐れといった感情がなくならないのだ。それはつまり、彼女がまだ監禁されているということ。それだけじゃない。彼女、弱ってきてないか?時々なでられている感じがするものの、弱々しい。
誰か助けに来てやれよ。ケーサツはどうした、ケーサツは。
他人頼みになり、彼女を慰めるしか出来ない自分がもどかしい。
こう、夢ならパッと彼女を抱えて脱出する位出来そうなものだが。力が欲しい。何でも出来る力。彼女を抱えて逃げることの出来る身体。魔法みたいな能力。
現実逃避しそうな頭を打ち払い、もっと現実的に何か出来ないかと、ツラツラと考えていると、バン、という音と同時に、彼女の緊張が伝わってきた。
何が起きた?
彼女の焦りと不安感から、拉致してきた犯人が部屋に入って来たのだろうか?
彼女の叫び声。視界が揺れる。痛くはないが、上下左右、滅茶苦茶に揺らされている。
ヤバくないか、これ。
鼓動が早くなる。身体が強張り、周りの柔らかいものに締め付けられる。ぎゅうぎゅうとした締め付けに、彼女がひどく恐怖し緊張しているのが何故かわかった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。助けて。
彼女の焦り、不安、悲しみ、苦しみ。そういった負の感情が強く流れてくる。
この子だけは、どうか。
その、負の感情よりも切実な想いに、彼女だけは、どうか助けてあげたいと、激しく願った。
そして、野太い男の苛立った声が聞こえて、自分の中の何かがブチ切れた。